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林家こん平さん死去、77歳...「笑点」40年近く出演「チャラ〜ン」のギャグで人気

[ 2020年12月22日 05:30 ]

林家こん平さん死去

故郷新潟で20周年公演する林家こん平さん(1982年撮影)
Photo By スポニチ

演芸番組「笑点」のメンバーを長年務め、「チャラ〜ン」のギャグで人気を博した落語家の林家こん平(はやしや・こんぺい、本名笠井光男=かさい・みつお)さんが17日午後2時2分、誤嚥(ごえん)性肺炎のため東京都豊島区の自宅で死去した。77歳。新潟県出身。19日に家族葬が営まれた。喪主は長男笠井雄作(かさい・ゆうさく)氏。後日お別れの会を開く予定。こん平さんの訃報に、落語界は悲しみに包まれた。

2005年7月に難病の「多発性硬化症」であることを公表したこん平さん。一線から退いた後も懸命のリハビリに励んでいたが、再び高座に上がる願いはかなわなかった。

新潟県の農家で育ち、中学時代に「落語家として身を立てたい」と思い立った。すでにテレビ、ラジオで人気者になっていた爆笑王こと、初代林家三平さんに憧れ卒業と同時に上京、1958年に入門した。

前座時代に師匠から「良く気が付き、先が楽しみ」と評価されると、師匠譲りの型破りな高座で頭角を現し、二つ目ながら66年に始まった日本テレビ「笑点」で大喜利メンバーに。40年近くレギュラー出演し、笑顔がトレードマークといわれるほどの明るいキャラクターで親しまれた。

72年に真打ち昇進。郷里・新潟の話題や、時事問題を盛り込んで展開する落語は勢いがあり、「こん平でーす」「1、2、3、チャラ〜ン」などのギャグで客席を沸かせた。

落語協会理事も務めるなど、落語家として順調にキャリアを積み上げてきたが、2004年に難病に襲われた。春頃から声を出しづらいなどの症状に悩まされ始め、同年8月に意識が薄れる中で「笑点」に臨み、都内の病院に搬送された。笑点は降板した。

さまざまな症状が出ることなどから診断は遅れ「多発性硬化症」と判明したのは05年。病名も公表した。糖尿病も患っていた。自らの闘病経験を踏まえ命の大切さを訴える活動を続け、笑いの力を生かした自殺防止対策にも取り込んでいた。

卓球好きで知られ、世界ベテラン卓球選手権にたびたび出場したほどの腕前。リハビリの一方、87年に落語家仲間と結成した「らくご卓球クラブ」の練習に積極的に参加、メディアの前で変わらぬ笑顔を見せていた。

19年6月には東京パラリンピックの応援大使に就任。また、五輪開催で世界から注目を集める東京の伝統文化を発信しようと、都電に着目した「都電落語会」を所属事務所主催で開催。昨年8月の5周年記念感謝祭では車いすから立ち上がり、卓球のラリーを披露。パラリンピックに引っかけ「1、2、3、パラ〜ン」と叫んだ。

パラ本番に落語家として参加できるよう強い思いを抱いていたというこん平さん。コロナ禍で延期され、晴れ舞台を踏むことはできなかった。

▽多発性硬化症 中枢神経系の病気。視力障害、感覚障害、運動障害などさまざまな神経症状が発生する。比較的多い症状としては、ものが二重に見えたり、しびれ、歩行障害、排尿障害、発声や発語が困難になるなど。日本より欧米に多い病気で、20〜30代の若年層での発症、男性より女性に多い傾向がある。原因は不明だが、自己免疫疾患と考えられている。治療は薬物療法が主で、寛解と再発を繰り返す。

▼林家 こん平(はやしや・こんぺい)本名・笠井光男(かさい・みつお)。1943年(昭18)3月12日生まれ、新潟県出身。62年二つ目昇進、72年真打ち昇進。代表的な演目は「幇間(たいこ)腹」「品川心中」。新作落語「クイズ」「農村の花嫁」。02年に「世界ベテラン卓球選手権」にベスト16入り。日本卓球協会から4段の認定を受けた。

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