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2009年10月19日

スティーブン・ピンカー「人間の本性を考える(中)-心は「空白の石版か」-」

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「人間の本性を考える」の(中)を読みました。

書いたのに、消えた。。。

最初の方では人間は「空白の石版」であるならば、差別はなくなるどころか肯定する方向に動く。人間に本性があるのならば、差異を認めた上でそれを埋める、あるいは不公正を是正するための公共政策が必要であるという議論が生まれるとピンカーは言います。

しかし、中身をちゃんと覚えていないな。。。読書メモをちゃんと書かないと。反省。

目次(抜粋)
III 四つの恐怖を克服する―不平等・不道徳・無責任・ニヒリズム
第8章 もし生まれついての差異があるならば...
第9章 もし努力しても無駄ならば...
第10章 もしすべてがあらかじめ決定されているのならば...
第11章 もし人生に意味がないのならば...
IV 汝自身を知れ―心の設計仕様書
第12章 人は世界とふれあう―相対主義の誤謬
第13章 直感とその限界
第14章 苦しみの根源はどこにあるのか
第15章 殊勝ぶった動物―道徳感覚の危うさについて

2009年10月07日

森 絵都「カラフル」

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結構前に読みました。九月中。しかし、月を越えてレビューってのはよくない。うっかりしてました。

生前の罪により輪廻のサイクルからはずされてしまった「ぼく」が、神さまの気まぐれな抽選によって、「チャンス」が与えられる。だれかの身体に乗り移って、ある一定期間を過ごし、その間の振る舞いのいかんによっては輪廻のサイクルに戻れると、使いの天使に言われるのだ。

かなり冒頭で、こういう話がでてくるのだが、僕がここを読んで思ったのは、「『抽選』ってのは嘘で、実はみんなこう言われて生まれ変わってくるんじゃないだろうか」ってこと。実際には、「そういう話なら子どもっぽくなくておもしろいな」と思った。

つまり、次のライフでは、人は前世よりいい人間になって、必死に輪廻転生のチャンスを得ようとするから、世の中のよくなっていくんじゃないかって。神さまが仕組んだ、世界改善計画の一端がそれなんじゃないかってね。

この小説は、実際にはそこまでぶっ飛んだ話じゃないんだけど、なかなか面白く読めました。やっぱり話が中学生の話なだけに、中学生の子に一番受けるんじゃないかなって思う。

天使が冒頭に「やがて君は生前の罪を思い出す」って言われて、実際、小説のクライマックスで「ぼく」がそれを思い出すんだけど、まぁその罪が何なのかは途中で読めちゃいました。

比較的短くて読みやすい小説なので、もし時間が空いちゃったとか、たまたま近くの図書館なんかで見つけたって言うなら、読んで損はない本だと思います。

ちなみに僕はいつか見たこの本の広告がずっと気になってて、珍しく買って読みましたけどね。

2009年09月09日

スティーブン・ピンカー「人間の本性を考える(上)-心は「空白の石版か」-」

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前作、「心の仕組み」に続いて、またピンカーの本を読みました。こうして時間を置いて、定期的に彼の作品を読むことは、考えることのいいトレーニングになるなと思います。

前作では、どのようにして心というものが出来て、どのように動いているかという点を、進化心理学の観点から解き明かしていましたが、今作では最近の脳研究の知見を用いて、「人間の本性」に迫ろうというものです。

ピンカーいわく、人間の本性について語ることは、道徳的観点からタブーとされてきたと言うのです。つまり、例えば「人間は人を殺すものだ」という"人間の本性"みたいなものがあるとして、そういう"科学的"メッセージが「人間が人を殺すことはしょうがない」というメッセージになってしまうことを恐れてきたと言うのです。

しかし、ピンカーは言います。道徳は科学とは独立であり、科学がどういった"発見"をしようとも、「命は尊く、人は殺してはいけない」ということは変わらないのだと。道徳によって科学が歪められてはいけないし、科学が道徳を歪めることもあってはならないのだといいます。

それを言った上で、「人間の本性」について語ることは道徳に悪影響をあたえることはないともピンカーは言います。

前作でも、「氏か育ちか」という問題について進化心理学的観点から論じていましたが、今作でも同様の問題を進化心理学の観点に加え、脳科学の知見を用いて論じていきます。

ピンカーいわく、「育ち」から影響を受けるため、つまり環境から何かを学ぶためには「氏」あるいは遺伝子によって、規定されたもの、つまりは大部分においては脳を、作り出さなければならないのです。

その辺の話が(下)ではさらに詳しく語られていくのだと思います。今作ではとにかく、どれほど「人間の本性」についての科学が道徳によっていかに歪められ、まちがった知識を生み出し、正しい知識が生まれることを邪魔してきたかが論じられています。

ピンカーの本は、そこに書かれている膨大なレビューによる知識もさることながら、ピンカー自身が紡ぎだす論理や考え方を学べる点が、最も刺激的だなと思います。

目次(抜粋)
I 三つの公式理論―ブランク・スレート、高貴な野蛮人、機械の中の幽霊
第1章 心は「空白の石版」か
第2章 ブランク・スレート、アカデミズムを乗っ取る
第3章 ゆらぐ公式理論
第4章 文化と科学を結びつける
第5章 ブランク・スレートの最後の抵抗
II 知の欺瞞―科学から顔をそむける知識人たち
第6章 不当な政治的攻撃
第7章 すべては詭弁だった―「三位一体」信仰を検討する

2009年08月01日

村上春樹「やがて哀しき外国語」

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なんとなく、文章が成熟してないなー、という言葉で片付けようかと思っていたのだけれど、そういう気分でもなくなってしまった。つまり、結局最後まで読み通して、僕はどこかで、村上春樹のアメリカ生活に共感してしまったのだ。

これは、村上春樹がプリンストンに滞在していた二年の間に書かれたエッセイのようなものです。中に書かれていることは、おもに村上さんがアメリカ滞在中に思ったアメリカのことについてです。1991年ごろからの二年間で、どういう時期かというと、パワーブック(当時の村上さんの愛用PC)が世の中には出ているんだけど、値段が2千ドルくらいして、日本で買うとその倍の値段がしところだそうです。とんでもなく高い。それでも一時に比べると「だいぶ安くなった」そうです。

なぜ、成熟していないと思ったかというと、同じエッセイなら、僕は「走ることについて語るときに僕の語ること」の方が圧倒的に好きだし、感じ入るものがたくさんあるなと思うからです。それに、この本の中で村上さんは、「どっちがいいとは言いたくない病」に強くおかされているのです。つまり、「AとBがあって、僕はAが好きなんだけど、それはどっちがよくてどっちが悪いというものではない」あるいは「AとBのどちらもがきっと正しい」なんてことをなんどもなんども、テーマを変えて言っているのです。「今の村上さんはその病気から立ち直ったのか」と聞かれると、僕には分からないし、「それは本当に病気なのか」と聞かれると、やはり僕には分からないです。けど、なんとなくすっきりしないなーと思うし、村上春樹らしい文体ではないなと思うのです。

しかし、「スプートニクの恋人」の稿でも似たようなことを僕は言ったけど、村上さんはこのことに関して割と明確に答えています。つまり、文体や言葉遣いなんてしょっちゅう変わる、と。その一方で「自分なりの『折り合った』日本語の文章のスタイル」を身に着けたなんていっているから、なんだ卑怯じゃないか、なんて思うわけだけど、他人がずっと同じ状態でいることに期待すること自体がおかしなことだし、こっちの勝手な思いであり卑怯なことなのかもしれないと思ったのです。まして、他人が自分が期待しているある一面しか、一時に持っていないと思うことも間違っていることなんだなと思ったのです。人にはいろんな面があって一人の人として出来上がっていて、その一面だけを知っていて、それと違う面を見たとたんに、「なんだつまらない人だ」と思うのはちょっとひどい話です。

作者と読者の関係においては、自分が好きな作者の面で書かれた作品だけを読んでいればいいのですが、ちょっと村上さんとはそういうわけには行かなくなってくるんですよね、こんなに何冊も読んでいると。まして、僕は高校一年生から村上さんの本に触れてきたわけだから(あの頃は若者が一度は通る道、程度にしか村上さんは評価されていなかったように思う)、今さら「なんだこんな面もあるのか、つまらない」といって無視したり、絶交するわけにはいかないのです。

つまり、そういう人間関係が生まれつつあり、そういう人間関係を求めてもいるのです。それは、村上さんだけに限った話じゃなくて、もっと広く一般的な人間関係においてもそうだなと思い、なんとなく、「未成熟なエッセイ集」とは切り捨てられなくなったと言うことです。

そうそう、僕はこの本のタイトルはずっと前から知っていて、「外国語が日本にやってきて、外来語として日本に定着するんだけど、変な使われ方や間違った使われ方をしていて、何となく哀しい」みたいな話をしている本だと勝手に思っていましたが、そういう本ではありませんでした。

じゃー、「やがて哀しき外国語」というタイトルの意味は何だと聞かれれば、それは読んでみてください、としか僕はいえません。

僕の解釈とあなたの解釈は違うかもしれませんから。けどどっちがいいとか悪いとか、どっちが正解でどっちが間違いというものではないと思うのです。ただ、僕はこう思うし、あなたはあなたで自分で読んでみるべきだと思うのです。

こういう表現がとにかくたくさん出てきますので、読むときは、注意してくださいね。

外国語で自分の気持ちを正確に伝えるコツというものが書かれていたので引用します。
(1)自分が何を言いたいのかということをまず自分がはっきりと把握すること。そしてそのポイントを、なるべく早い機会にまず短い言葉で明確にすること。
(2)自分がきちんと理解しているシンプルな言葉で語ること。難しい言葉、カッコいい言葉、思わせぶりな言葉は不要である。
(3)大事な部分はできるだけパラフレーズする(言い換える)こと。ゆっくりと喋ること。できれば簡単な比喩を入れる。(p179)


村上さん曰く、これは<文章の書き方>にも当てはまるということですが、まったくそうだなあと思います。

綿矢りさ「蹴りたい背中」

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1984年、京都生まれ。僕と同い年の彼女が、史上最年少という19歳で芥川賞をとった作品をようやく読みました。

主人公が、16歳、高校一年生なわけですが、なんとなく懐かしい感じがしましたね。

作品の冒頭で、
「今日は実験だから、適当に座って五人で一班を作れ。先生が何の気なしに言った一言のせいで、理科室にはただならぬ緊張が走った。」


というシーンが出てくるのですが、すごく良く分かります。中学高校の頃というのは、どうしてもこういう緊張にあり溢れているものです。筆者が言うとおり、「適当なところに座れといわれて、適当なところに座る子なんて、一人もいない」わけですし、そこには「一瞬のうちに働く緻密な計算」があるわけです。

そういった、グループ分けとか、男女混合の仲良しグループとか、あるいは「男友達(あるいは女友達)」という言葉の響きに対する単純な憧れとか、そういうものがなんとも懐かしいなと思わせるわけです。

そういう中にあって、主人公は、いわゆる「輪に入れない子」。けど、自分を「輪に入らない子」として描き出そうとしているのです。解説の人が、「そういう状況を「シカト」や「イジメ」というわかりやすい言葉で説明したくない」と解説しているのですが、僕はそれを読んでぞっとします。

ちょっと待ってくれ。あれは「シカト」でも「イジメ」でもないだろうと。筆者もそんなつもりで、「その状況」を描いたわけではないと信じたい。むしろ、そういう孤立を生んでしまっているのは、自分自身(つまり主人公)の心なんです。いじめられる人が悪い、とか言っているわけじゃない。だって、いじめなんてないんですから。

「仲良しごっこ」的な雰囲気や、「沈黙を埋めるだけの会話」に主人公は心底疲れてきっているのです。しかし、主人公だって孤独は嫌だし、友達は欲しい。いやしかし、友達がいないということは表層的な問題であって、本当の問題は「本当の友達を作ろう」とする人、あるいは雰囲気が教室にはないことが問題なのです。そういう虚無感と、本物の孤独感が、主人公が背負っているものなのではないでしょうか。

勝手に、自分と同い年の筆者を同じグループとみなし、その言葉を代弁させてもらうなら、僕らは、そういう上っ面の、建前だけの世界を生きてきた世代なのです。KYだとか、最近になって言われているけど、それは今になって「空気を読まない人」が出てきたわけじゃない。「空気を読まない人」が多すぎて、その人が市民権を得てきた。あるいは、そういう人たちを十把一からげに呼ぶ必要が出てきたということなのです。

すこし話題がそれましたが、もし、筆者が描き出したものが、上手にグループに入れない人を「シカト」したり「イジメ」たりする、学校という場なのであるなら、僕はそこには共感できないのです。

そうではなくて、上っ面の付き合いがしんどくて、そこから自らドロップアウトしているんだけど、そんなこといったって、自分だって友達は欲しいし、男友達だって欲しい。そういう微妙な、15〜16歳の気持ちを「背中を蹴る」という愛情表現なのか、孤独のサインなのか、他人に分かってもらうどころか、自分にだって分からない方法によって、象徴していることが、この作品の核なんじゃないかなと僕は思います。

ちなみに、高校のグループに上手く溶け込みながらも、主人公のハツとついたり離れたりしながらうまくやっている、中学からの友達の「絹代」の存在がとっても救いです。

そして、ハツと仲良くしてる絹代がいじめられていないことが(ハツと仲良くしていることを理由によって、という意味ですが)、やはり、ハツがいじめられていないという証拠になるんじゃないかなと思います。

2009年07月31日

松尾スズキ「クワイエットルームにようこそ」

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通常と異常、普通と特別。一見すると、村上春樹のテーマのように見えるけど、そうではありません。初めて松尾スズキさんの作品を読みました。映画化もされている「クワイエットルームにようこそ」です。

主人公の女性が、薬の大量投与で病院に運ばれてしまう。しかも、精神病院の閉鎖病棟。そこには色んな精神患者がいて、まともだったり異常だったり、普通に見える人が実は特別だったり。

最初に「村上春樹のようなテーマ」といいましたが、もちろんその文体はまったく違います。笑わせるし、どことなくおげれつだし。汚いとまでは言わないにしても、直喩的なんですよね。感情をあらわにするし。抑圧的でないのです。

とても、短い本なのですが、まるで、言葉が無駄遣いされているようなほど詰め込まれています。けど、そんな印象も受けません。ところどころで、笑わされながら、最後まで読めてしまいます。

最後のシーンは、なんか想像がついたけど、鳥肌が立ちました。つまり、通常と異常、普通と特別、それがどの人に当てはまる言葉なのか、また同じ人に同じ言葉が違う場所でも当てはまるのか、そういうことを考えさせるクライマックスになっています。

解説の方が「17歳のカルテより上出来な映画」と本作の映画を評しています。17歳のカルテも好きな作品ですが、この作品の映画も見てみたくなりました。

つか、映画のキャスト、めっちゃ豪華ね。
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2009年07月30日

村上春樹 (文), 稲越功一(写真)「使い道のない風景」

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とっても短い本です。こんな短い文章で、一冊の文庫になってしまうなんて、なんてこったっていう感じです。58点のカラー写真と、村上春樹の文章が綴られています。

アメリカの郊外で書かれた旅行と移り住むことの違いに関する考察。それとフランクフルト、ギリシャ、ドイツの田舎町の描写。「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」のきっかけとなった風景について。

ギリシャで過ごした日々の思い出と、その日々で書かれた「ノルウェイの森」について、少し。

そして、最後にいつか旅行好きの猫を飼うというの夢について書かれています。

この本が発刊されたのが1998年で、当ブログの前稿の「スプートニクの恋人」が発刊されたのが1999年なのですが、ギリシャでの「描写がスプートニクの恋人」のなかにも散見されます。こうして、小説を書く筋肉を養っていくのかなあという印象を受けました。

村上春樹「スプートニクの恋人」

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大学2年生か大学3年生のときに、僕はアメリカの大学に通っていて、なぜかこの本が大学の図書館にありました。そのとき一度は手にとって読み始めたのですが、なぜか「おもしろくない」と思って読まなかったのです。あれから、4〜5年がたってついに、読みました。

書き始めは、どう考えても村上らしくないんですよね。彼らしい文章の流れが無い。当時もそうだったのかもしれないですが、今回読んでいて、なんどか、「本当に村上春樹だよな」と著者の名前を確認したほどです。

しかし、半分を過ぎた頃からはなんとなく村上らしくなってきます。その物語の中には、村上の作品にいつも登場する井戸が「ない」と明示されるし、猫は記憶や新聞の中にはいても、やはり今は「いない」と明示されます。村上の作品にいつもあるのに、今作品には「ない」ことが明示されるのです。唯一あるのは、いつもの電話機、もっと限定的に言うなら受話器です。

語られるテーマはいつも通りの「こちら側」と「あちら側」。しかし、村上が今回、明示的に挑戦しているのは、「存在」ではなく、「不在」が持つ意味でしょう。主人公が愛する「すみれ」が「あちら側」に行ってしまうのですが、主人公はこの物語では「あちら側」には行きません。不在に強い、意味が付与されるのです。

そのような村上らしさと村上の挑戦が見える後半ではなく、あえて前半から今回は引用したいと思います。

「こういうのもたぶんそれ(運転)と同じようなものじゃないかしら。うまいとか下手とか、器用だとか器用じゃないとか、そんなのはたいして重要じゃないのよ。わたしはそう思うわ。注意深くなる―それがいちばん大事なことよ。心を落ちつけて、いろんなものごとに注意深く耳を澄ませること」(p.60)


そうそう、この小説を読み終える頃に驚きが一つありました。僕が初めてこの小説を読みかけたのが、20歳か21歳の頃。その時には、ただ「らしくない」と思って読むのをやめたのですが、この主人公の年齢が小説の終わりに明かされてはっとしました。物語は主人公が24歳の夏。そして、その年の12月に主人公は25歳になると言うのです。僕は今年の夏に25歳になりました。僕は偶然にも(あるいは無意識に)主人公と同い年になるの待って、この本を読んだのです。

小説には読む上での賞味期限があると言いますが、それと同じように「読みごろ」というのがあるのだなと思いました。

村山由佳「おいしいコーヒーのいれ方 Second Season I 蜂蜜色の瞳」

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恒例のナツイチシリーズである、「おいコー」を読みました。もう10年くらいになるのでしょうか。僕は村山さんのこのシリーズがナツイツとして最初の一冊が出たときから読んでいるので長い付き合いです。

読み始めたときは、主人公の勝利は高校2年生で、ぼくはまだ中学生科だったと思うのですが、いま勝利は大学2年生でぼくが、大学を卒業して大学院2年生になってしまいました。

以下、amazonより転載
内容紹介
かれんと勝利の物語、新章突入!夏、鴨川でついにかれんと勝利が初めて結ばれてから3か月。二人に「2回目」はまだ来ない。久しぶりに東京に出てきたかれんが勝利の下宿に泊まることに...。

内容(「BOOK」データベースより)
何の保証もないとわかっていても、彼女から強い約束を引き出したい。僕だけだ、と。一生、僕以外は愛さない、と。遠距離恋愛で、思うように会えない勝利とかれん。久々に週末を一緒に過ごすが、ちょっとした誤解から、なんとなくギクシャクしてしまう。愛おしすぎて、相手を思いやる気持ちが空回りする。それでも少しずつふたりの歩みはすすんでいく...。人気シリーズ待望のSecond Seasonへ。


相変わらず、主人公の勝利は優柔不断で、なんとなくはっきりしなくて、どことなく独善的というかわがままというか。読み始めたときは僕はまだ何の経験も無くて、けっこう心から感情移入とかしてたのですが、今じゃすっかり、勝利の行動にいらいらさせられたり、「こうなってはいけないよな」なんて思っています。けど、それって結局、感情移入してるし、勝利を通して、自己反省しているんですよね。

夏が来て、書店にナツイチが並び始めると買わずにはいられない、読まずにはいられない一冊です。

2009年07月15日

福岡伸一「動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか」

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福岡さんの本を連発してしまいました。「生物とー」が科学情熱本であり、知識を得ようとする研究者の姿をドラマにしあげる本であるとすれば、本書は知識そのものが面白いという感じです。

ちょっと雑学的なところもあって、コラーゲンなんて摂っても意味がないとか、太らない食べ方とか、遺伝子組み換え食品は安全か(筆者は「壮大な人体実験である」と危惧しています)、などの問を立ててそれに対して生物学的、なかんずく「動的平衡」的こたえを与えようとする試みです。

また、「生物とー」で打ち出された「生命とは何か」という問に対して生み出された「動的平衡」という答を使った、オムニバスストーリーにもなっています。全体的に面白さは失われていませんが、「生物とー」がどきどきのドラマであったのに対し、本書は「へーー」という知識を得れる本となっています。

福岡氏が訳して近日発売予定(今年末?)の「エレファントム」も読みたいなと思いました。

目次(抜粋)
プロローグ 生命現象とは何か
第1章 脳にかけられた「バイアス」−人はなぜ「錯誤」するか
第2章 汝とは「汝の食べた物」である−「消化」とは情報の解体
第3章 ダイエットの科学−分子生物学が示す「太らない食べ方」
第4章 その食品を食べますか?−部分しか見ない物たちの危険
第5章 生命は時計仕掛けか?−ES細胞の不思議
第6章 ヒトと病原体の戦い−イタチごっこは終わらない
第7章 ミトコンドリア・ミステリー−母系だけで継承されるエネルギー産出の源
第8章 生命は分子の「淀み」−シューンハイマーは何を示唆したか
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