2012年04月11日
川島 直子, 福田 素子「「世界基準の授業」をつくれ―奇跡を生んだ創価大学経済学部IP」
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大学教員必読です!英語をとことん勉強したいと思っている人にも、その意欲を与えてくれる一書です。時事通信出版局刊。
東京都八王子市にある、あまり知られていない私立大学。それが本書の舞台です。名前は創価大学。この本はその大学の経済学部が、いかに低迷期を乗り越え、世界基準の授業作りを目指し、それを実現していったかを描いた本なのです。
バブル崩壊後、多くの大学が入学希望者を失う中、その傾向が特に強かったのが経済学部だそうです。本書の舞台である創価大学も例外ではなかったようです。さらには系列の高校の生徒からも、面接の際に志望理由を聞けば「行きたい学部に入れなかったので」「やりたいことがわからなかったので」と答えられる始末。「なんとなくダサくて、簡単に入れる学部」というレッテルを貼られた創価大学経済学部。そこの教員が考えた変革の道。それは「英語で経済学を教えよう」というものでした。
そこから並々ならぬ苦労と努力があり、多くの学部長の手を経て、他の教員の反対に合い、他の学部からは白い目で見られ、それでも経済学部は変革を断行していったのです。普通、大学の学部長といえば、特に文系では「当たってしまった」「任期が終わるまでおとなしくしよう」と考える人が多いのではないでしょうか。その理由は、事務仕事や会議は異常に増えるし、その癖、給料は大して増えない。もちろん研究をする時間はなくなるといったところでしょうか。
しかし、この大学の学部長は「なんとしても魅力ある学部に」「学生のために」「経済学部が大学全体を引っ張るんだ」「創立者にお答えしたい」との思いにあふれています。
本書の中心的人物として、経済学を英語で教えるプログラム「インターナショナル・プログラム(IP)」のために博士号を取り立てで採用されたホンマ先生という人が登場します。博士号を取り立ての上、学生時代は出産育児をしながらなんとか学位をとたれたのがホンマ先生です。そのため、研究実績は決して華やかなものではなかったそうです。
大学教員の採用基準というのはその人の研究実績と研究遂行能力によって決定されます。ホンマ先生はその基準に見合う人とはいえなかったようです。しかしながら学生時代から創価大学で教鞭をとっていたホンマ先生の教育力が買われ「IPには絶対ホンマ先生が必要だ」「研究ではなく、教育専門の先生がいてもいいじゃないか」ということでIPの立ち上げ段階からホンマ先生が常勤の教員として迎え入れられるのです。
教育専門の教員を常勤として採用するというのは異例中の異例のことです。おそらくそのような採用基準を公式に設けている大学は他にはないでしょう。これの意味するところは、ホンマ先生には次の就職先はないということです。実際、IPでは大量の宿題が課されるようで、学生の大変さもさることながらそれを採点するホンマ先生の大変さは一般の大学教員からは想像もできないものではないかと思います。したがって研究をする時間は実際に全く無いでしょう。ちなみに付け加えておくならば研究を当たり前に求められる大学教員ですら、その多くは教育に時間を取られ自分の研究を遂行する時間は勤務時間中はほとんどありません。つまりホンマ先生と一般の大学教員の違いは、勤務時間外に研究する時間があるか、です。一般の大学教員は勤務時間外に研究をせざるをなく、ホンマ先生は勤務時間外も教育に時間をかけざるをえないわけです。
一般の大学の採用基準はその人の研究能力と言いました。つまり研究をする時間が全くないホンマ先生は他の大学から採用してもらうための自分のキャリア形成をする時間がないのです。したがって、教育専門の教員を常勤で採用するということは、大学とホンマ先生の両者にある覚悟が求められるわけです。つまり、大学にはホンマ先生を教員として一生面倒見る(採用し続ける)覚悟。そしてホンマ先生には一教育者として創価大学でその職歴を全うするという覚悟です。
これは創価大学という特殊な環境だから実現できることなのかもしれません。また「世界基準の大学」を作るにはこれほどの覚悟が求められるということなのかもしれません。
このIPを受けた学生は実際に3年時に英語圏の大学に留学し、その大学の正課の授業でAをとる学生が続出しているそうです。また、英語でビジネスを遂行する能力を図るTOEICの試験(990点満点)では、700点では恥ずかしい、800点では威張れない、900点台を出してようやく、といった雰囲気を学部に作り出しているというからすごい。場所が場所なら700点台は明らかに胸を張っていい点数です。
もちろん優秀な学生を作るだけでなく、そのIPからこぼれ落ちた学生たちを落ちこぼれさせない努力も他の教員たちによって成されているようです。大学内で自分の限界に挑戦し、たとえ挫折したとしてもその大学に残りながら新たな挑戦をまた開始できる環境というのは、教育上、また学生の人生にとってとても重要なものではないかと思います。「一度失敗したら終わり」という雰囲気の漂う日本に「そうじゃないんだ!なんどでも挑戦できるし必ず最後には勝利できるんだ!」という最も重要な教育を与えてくれる環境なのではないかと思います。
とにかく、大学教員ならぜひ読んでいただきたい。また、これから英語を本気で学びたいと思っている人には、何が「本気」なのか、その意欲を教えてくれて、やり機を与えてくれる本ではないかと思います。
大学教員必読です!英語をとことん勉強したいと思っている人にも、その意欲を与えてくれる一書です。時事通信出版局刊。
東京都八王子市にある、あまり知られていない私立大学。それが本書の舞台です。名前は創価大学。この本はその大学の経済学部が、いかに低迷期を乗り越え、世界基準の授業作りを目指し、それを実現していったかを描いた本なのです。
バブル崩壊後、多くの大学が入学希望者を失う中、その傾向が特に強かったのが経済学部だそうです。本書の舞台である創価大学も例外ではなかったようです。さらには系列の高校の生徒からも、面接の際に志望理由を聞けば「行きたい学部に入れなかったので」「やりたいことがわからなかったので」と答えられる始末。「なんとなくダサくて、簡単に入れる学部」というレッテルを貼られた創価大学経済学部。そこの教員が考えた変革の道。それは「英語で経済学を教えよう」というものでした。
そこから並々ならぬ苦労と努力があり、多くの学部長の手を経て、他の教員の反対に合い、他の学部からは白い目で見られ、それでも経済学部は変革を断行していったのです。普通、大学の学部長といえば、特に文系では「当たってしまった」「任期が終わるまでおとなしくしよう」と考える人が多いのではないでしょうか。その理由は、事務仕事や会議は異常に増えるし、その癖、給料は大して増えない。もちろん研究をする時間はなくなるといったところでしょうか。
しかし、この大学の学部長は「なんとしても魅力ある学部に」「学生のために」「経済学部が大学全体を引っ張るんだ」「創立者にお答えしたい」との思いにあふれています。
本書の中心的人物として、経済学を英語で教えるプログラム「インターナショナル・プログラム(IP)」のために博士号を取り立てで採用されたホンマ先生という人が登場します。博士号を取り立ての上、学生時代は出産育児をしながらなんとか学位をとたれたのがホンマ先生です。そのため、研究実績は決して華やかなものではなかったそうです。
大学教員の採用基準というのはその人の研究実績と研究遂行能力によって決定されます。ホンマ先生はその基準に見合う人とはいえなかったようです。しかしながら学生時代から創価大学で教鞭をとっていたホンマ先生の教育力が買われ「IPには絶対ホンマ先生が必要だ」「研究ではなく、教育専門の先生がいてもいいじゃないか」ということでIPの立ち上げ段階からホンマ先生が常勤の教員として迎え入れられるのです。
教育専門の教員を常勤として採用するというのは異例中の異例のことです。おそらくそのような採用基準を公式に設けている大学は他にはないでしょう。これの意味するところは、ホンマ先生には次の就職先はないということです。実際、IPでは大量の宿題が課されるようで、学生の大変さもさることながらそれを採点するホンマ先生の大変さは一般の大学教員からは想像もできないものではないかと思います。したがって研究をする時間は実際に全く無いでしょう。ちなみに付け加えておくならば研究を当たり前に求められる大学教員ですら、その多くは教育に時間を取られ自分の研究を遂行する時間は勤務時間中はほとんどありません。つまりホンマ先生と一般の大学教員の違いは、勤務時間外に研究する時間があるか、です。一般の大学教員は勤務時間外に研究をせざるをなく、ホンマ先生は勤務時間外も教育に時間をかけざるをえないわけです。
一般の大学の採用基準はその人の研究能力と言いました。つまり研究をする時間が全くないホンマ先生は他の大学から採用してもらうための自分のキャリア形成をする時間がないのです。したがって、教育専門の教員を常勤で採用するということは、大学とホンマ先生の両者にある覚悟が求められるわけです。つまり、大学にはホンマ先生を教員として一生面倒見る(採用し続ける)覚悟。そしてホンマ先生には一教育者として創価大学でその職歴を全うするという覚悟です。
これは創価大学という特殊な環境だから実現できることなのかもしれません。また「世界基準の大学」を作るにはこれほどの覚悟が求められるということなのかもしれません。
このIPを受けた学生は実際に3年時に英語圏の大学に留学し、その大学の正課の授業でAをとる学生が続出しているそうです。また、英語でビジネスを遂行する能力を図るTOEICの試験(990点満点)では、700点では恥ずかしい、800点では威張れない、900点台を出してようやく、といった雰囲気を学部に作り出しているというからすごい。場所が場所なら700点台は明らかに胸を張っていい点数です。
もちろん優秀な学生を作るだけでなく、そのIPからこぼれ落ちた学生たちを落ちこぼれさせない努力も他の教員たちによって成されているようです。大学内で自分の限界に挑戦し、たとえ挫折したとしてもその大学に残りながら新たな挑戦をまた開始できる環境というのは、教育上、また学生の人生にとってとても重要なものではないかと思います。「一度失敗したら終わり」という雰囲気の漂う日本に「そうじゃないんだ!なんどでも挑戦できるし必ず最後には勝利できるんだ!」という最も重要な教育を与えてくれる環境なのではないかと思います。
とにかく、大学教員ならぜひ読んでいただきたい。また、これから英語を本気で学びたいと思っている人には、何が「本気」なのか、その意欲を教えてくれて、やり機を与えてくれる本ではないかと思います。
2012年04月10日
石黒 浩「どうすれば「人」を創れるか アンドロイドになった私」
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本人もプロローグのなかで、「口の悪い連中は私を"マッドサイエンティスト"などと呼ぶこともある」と書いていますが、僕としては辛うじてマッドサイエンティストにとどまっているというのが、僕の印象です。
というのも、著者は人間そっくりのアンドロイド「ジェミノイド(ふたご座を意味するGeminiともどきを意味するoidを合わせた造語)」を作ったことが有名になったのですが、その中の一つ、「ジェミノイドF」があまりにも美人すぎるのです。どうしてそこまで美人である必要があるのか。本人も研究上の理由を本の中で述べているのですが、「本人の願望じゃないのか」と思ってしまうのです。どうやら医療関係の方で、ロシア人のクウォーターらしいのです。そういうあまりにもリアルで美人なロボットを作ってしまうあたりを見ていると、「この人、変態じゃないよな」と心配になってしまうのです。
そんな著者がマッドサイエンティストでとどまっている、と思う理由は美人のジェミノイドFだけでなく、著者本人にそっくりのジェミノイドも作っているのです。僕にとっての「マッドサイエンティスト」の定義は、「研究の手法がぶっ飛んでいて、他の人には理解されない」といったものです。自分にそっくりのロボットを作ってしまうなんて。そしてその目的が「自分とは何か」という問いを明らかにすることなんですから。ぶっ飛んでいると言わざるを得ない、いや、ぶっ飛んでいるといってもらえるだけ、まだ科学者な分、いいじゃないですか、と言いたくなってしまうのです。
ただ、本文を読んでいると「やっぱり変態なのか」と思う箇所も出てきてしまう。例えばジェミノイドFのモデルにこんな質問をしています。
ほかにも、著者の研究室にいる他の研究者のO君は「うまくいえないんですが、ジェミノイドFと一緒にいると、すごく愉しかったです」なんて言って、「顔を真っ赤に」していたらしいのです(p.130)。うーん、、この研究室、やっぱり変態の集まりなのか、と心配になってしまいます。
もちろん、こういった記述は「自分とは何か」という問いに対して、アンドロイドとの関わりの中で浮かんできた答えや新たな問いの一部なわけです。それをわざわざ抜き書きしてきて「ひょっとしてこの人変態なのか?」なんて思うあたり、僕のほうがよっぽど変態なのかもしれません。そういう意味では著書の意図した「自分とは何か」について読者に考えさせる試みは成功しているのかもしれません。。
その他の記述としては、アンドロイド製作過程で、アンドロイドが自分に一番似ていると思うのは髪型も服も着ていない時だといい、「自分」の認知はそういったしょっちゅう変わるものを削ぎ落とした形なのではないかとの洞察があります(p.77)。また、自分そっくりのアンドロイドを製作してから5年が経った時に、さすがに自分との差が目立ってきたので、自分を美容整形したなんてあたりは、やはりこの人、マッドサイエンティストだなと思わせる箇所もあります。
変態とマッドサイエンティストの違いはある意味、紙一重かもしれませ。けどその差は同時にとても大きなものであると思います。変態はある一点で満足し、そこにとどまる。マッドサイエンティストは行動力があり、他の人が思いつかないようなことをどんどん実行し、そこから新たな疑問を手にし、さらに次の行動を起こしていく。また変態は他者への説明に力点を置きませんが、(マッド)サイエンティストは説明こそが重要な仕事です。そして誰にもわからないことをやっていながらより多くの人に理解してもらうバランス力と、実際に理解してもらい得る目的感を持っていることもサイエンティストとしての重要な要件でしょう。
本書は全体としては著者がこれまで取り組んできた研究と現在取り組んでいる研究に触れながら、これから面白くなるかもしれない研究テーマ、これから明らかにされるべき疑問などを挙げています。
ちなみにこの著者は2007年にCNNの「世界を変える8人の天才」の一人に選ばれており、映画、サロゲートのオープニングでは最先端のロボット研究者として自身のアンドロイドと共演しており、大阪大学の教授でもあり、研究者としての評価は内外を問わず文句なしに一流です。「自分とは何か」という問いに興味のある方、ロボット工学の分野やロボット-ヒューマンインタフェースの分野に進みたいと思っている方、そして変態と言われかねない領域でちゃんと一人前の研究者と呼ばれるにはどうすればいいのか悩んでいる方にはおすすめの一冊です。
目次
第1章 日常活動型からアンドロイドへ
究極の姿形は人間である
第2章 遠隔操作型アンドロイドを創る
再び「女性」を創る
第3章 サロゲートの世界
本当の自分
第4章 アンドロイドになる
異性に惹かれるのは顔か、服や髪型か
第5章 ジェミノイドに適応する
美人と役者は操作がうまい
第6章 ジェミノイドに恋をする
ジェミノイドFを躊躇なく触れるか?
第7章 実体化するもう一人の自分
人よりも人間らしい?
第8章 人を超えるアンドロイド
自分よりも「私」をうまく操作する他人
第9章 人間がアンドロイドに近づく
一体、どちらを修理すべきか? かなり似ている美容整形とアンドロイド製作
第10章 人間のミニマルデザイン「テレノイド」
人間に見えるが、一切不要なものを持たない 本当の美人とは人の想像にゆだねられる
本人もプロローグのなかで、「口の悪い連中は私を"マッドサイエンティスト"などと呼ぶこともある」と書いていますが、僕としては辛うじてマッドサイエンティストにとどまっているというのが、僕の印象です。
というのも、著者は人間そっくりのアンドロイド「ジェミノイド(ふたご座を意味するGeminiともどきを意味するoidを合わせた造語)」を作ったことが有名になったのですが、その中の一つ、「ジェミノイドF」があまりにも美人すぎるのです。どうしてそこまで美人である必要があるのか。本人も研究上の理由を本の中で述べているのですが、「本人の願望じゃないのか」と思ってしまうのです。どうやら医療関係の方で、ロシア人のクウォーターらしいのです。そういうあまりにもリアルで美人なロボットを作ってしまうあたりを見ていると、「この人、変態じゃないよな」と心配になってしまうのです。
そんな著者がマッドサイエンティストでとどまっている、と思う理由は美人のジェミノイドFだけでなく、著者本人にそっくりのジェミノイドも作っているのです。僕にとっての「マッドサイエンティスト」の定義は、「研究の手法がぶっ飛んでいて、他の人には理解されない」といったものです。自分にそっくりのロボットを作ってしまうなんて。そしてその目的が「自分とは何か」という問いを明らかにすることなんですから。ぶっ飛んでいると言わざるを得ない、いや、ぶっ飛んでいるといってもらえるだけ、まだ科学者な分、いいじゃないですか、と言いたくなってしまうのです。
ただ、本文を読んでいると「やっぱり変態なのか」と思う箇所も出てきてしまう。例えばジェミノイドFのモデルにこんな質問をしています。
さらにFのモデルに聞いてみた。自分の裸体写真とこのMRIの画像のどちらが恥ずかしいかと。(中略)(Fのモデルは)裸体写真は人には見せられないが、MRIの画像は人に見せても平気だそうだ。(p.62)
自分のMRI画像は、無論、自分の裸体写真と比べれば、ほとんど恥ずかしくないのであるが、下半身など場所によっては、多少恥ずかしく思う部分がある。(p.75)
ほかにも、著者の研究室にいる他の研究者のO君は「うまくいえないんですが、ジェミノイドFと一緒にいると、すごく愉しかったです」なんて言って、「顔を真っ赤に」していたらしいのです(p.130)。うーん、、この研究室、やっぱり変態の集まりなのか、と心配になってしまいます。
もちろん、こういった記述は「自分とは何か」という問いに対して、アンドロイドとの関わりの中で浮かんできた答えや新たな問いの一部なわけです。それをわざわざ抜き書きしてきて「ひょっとしてこの人変態なのか?」なんて思うあたり、僕のほうがよっぽど変態なのかもしれません。そういう意味では著書の意図した「自分とは何か」について読者に考えさせる試みは成功しているのかもしれません。。
その他の記述としては、アンドロイド製作過程で、アンドロイドが自分に一番似ていると思うのは髪型も服も着ていない時だといい、「自分」の認知はそういったしょっちゅう変わるものを削ぎ落とした形なのではないかとの洞察があります(p.77)。また、自分そっくりのアンドロイドを製作してから5年が経った時に、さすがに自分との差が目立ってきたので、自分を美容整形したなんてあたりは、やはりこの人、マッドサイエンティストだなと思わせる箇所もあります。
変態とマッドサイエンティストの違いはある意味、紙一重かもしれませ。けどその差は同時にとても大きなものであると思います。変態はある一点で満足し、そこにとどまる。マッドサイエンティストは行動力があり、他の人が思いつかないようなことをどんどん実行し、そこから新たな疑問を手にし、さらに次の行動を起こしていく。また変態は他者への説明に力点を置きませんが、(マッド)サイエンティストは説明こそが重要な仕事です。そして誰にもわからないことをやっていながらより多くの人に理解してもらうバランス力と、実際に理解してもらい得る目的感を持っていることもサイエンティストとしての重要な要件でしょう。
本書は全体としては著者がこれまで取り組んできた研究と現在取り組んでいる研究に触れながら、これから面白くなるかもしれない研究テーマ、これから明らかにされるべき疑問などを挙げています。
ちなみにこの著者は2007年にCNNの「世界を変える8人の天才」の一人に選ばれており、映画、サロゲートのオープニングでは最先端のロボット研究者として自身のアンドロイドと共演しており、大阪大学の教授でもあり、研究者としての評価は内外を問わず文句なしに一流です。「自分とは何か」という問いに興味のある方、ロボット工学の分野やロボット-ヒューマンインタフェースの分野に進みたいと思っている方、そして変態と言われかねない領域でちゃんと一人前の研究者と呼ばれるにはどうすればいいのか悩んでいる方にはおすすめの一冊です。
目次
第1章 日常活動型からアンドロイドへ
究極の姿形は人間である
第2章 遠隔操作型アンドロイドを創る
再び「女性」を創る
第3章 サロゲートの世界
本当の自分
第4章 アンドロイドになる
異性に惹かれるのは顔か、服や髪型か
第5章 ジェミノイドに適応する
美人と役者は操作がうまい
第6章 ジェミノイドに恋をする
ジェミノイドFを躊躇なく触れるか?
第7章 実体化するもう一人の自分
人よりも人間らしい?
第8章 人を超えるアンドロイド
自分よりも「私」をうまく操作する他人
第9章 人間がアンドロイドに近づく
一体、どちらを修理すべきか? かなり似ている美容整形とアンドロイド製作
第10章 人間のミニマルデザイン「テレノイド」
人間に見えるが、一切不要なものを持たない 本当の美人とは人の想像にゆだねられる
2011年12月14日
シーナ・アイエンガー「選択の科学」
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選択の科学を読みました。
彼女の本質にはもちろん関係ないのですが、著者のアイエンガーは全盲なんですね。凄いなあと思います。
日常的に誰しもが行っている「選択」という行為が我々にどのような影響を与えているのかを彼女自身の研究を交えて様々な観点から論じた研究です。
アメリカでは選択肢が多いことは良いことだ、もっと言えば選択することは善だ、という考えが当然のように受け入れられていますが、アジアの人々にとってはむしろ重要他者によって選択をしてもらった方がしばしばいい結果を生むこと。
また、自分の子どもが未熟児として誕生し、生存が危ぶまれ、例え一命を取り留めたとしても生涯にわたって寝たきりであると伝えられたとき。アメリカでは子どもの家族に決定権のすべてが委ねられ、フランスでは医者がどちらかの選択肢を促す。このときアジアの人だけではなく、フランスの人々もまた、医者が選択を示してくれることにある種の安堵を感じ、アメリカ人は生涯にわたって罪悪感を感じるという調査報告。
さらには彼女を有名にしたジャムの研究では、24種類の中から好きなジャムを選ぶより、6種類の中から選んだ方が人は決断を下し、購入をするという実験結果。
それでも人は選択肢があることを望むことをまた、彼女の研究は示しています。
訳者あとがきが非常に簡潔にうまいこと彼女の本を要約しており、訳者も述べていますが、よくあるようなひとつの結論を多角的に述べるのではなく、「選択することそのものが人生」であるという彼女の考えどおり、選択にまつわるさまざまな結果がこの本で紹介されています。選択がないことは人を不満にし、選択があることは人を幸せにする。しかし多すぎる選択は人を惑わし、どちらの選択も不幸な結果を招くとき、人は選択を放棄することで安心をえる。また彼女の人生そのものが選択の連続でもあったのでしょう。
最終講の最後の行にこうあります。「選択の全貌を明らかにすることはできないが、だからこそ選択には力が、神秘が、そして並外れた美しさが備わっているのだ」この彼女の謙虚さと「選択」という研究テーマを選択したことに対する確信が、この本をよくある一般向けの科学本の域を超え、さらにはすぐに使える便利なビジネス書の枠も超え、哲学、また芸術の議論を我々に見させるのだと感じた一書です。
目次(一部抜粋)
オリエンテーション 私が「選択」を研究テーマにした理由
第1講 選択は本能である
なぜ満ち足りた環境にもかかわらず、動物園の動物の平均寿命は短いのか。なぜ、高ストレスのはずの社長の平均寿命は長いのか
第2講 集団のためか、個人のためか
親族と宗教によって決められた結婚は不幸か。宗教、国家、体制の違いで人々の選択のしかたはどう変わるか
第3講 「強制」された選択
第4講 選択を左右するもの
第5講 選択は創られる
ファッション業界は、色予測の専門家と契約をしている。
第6講 豊富な選択肢は必ずしも利益にならない
ジャムの種類が多いほど売り上げは増えると人々は考えたのだが
第7講 選択の代償
わが子の延命措置を施すか否か。その選択を自分でした場合と医者に委ねた場合との比較調査から考える
最終講 選択と偶然と運命の三元連立方程式
岩を山頂に運び上げたとたんに転げ落ちるシジフォス。神の罰とされるその寓話で、しかしシジフォスの行為に本当に意味はないのだろうか。
選択の科学を読みました。
彼女の本質にはもちろん関係ないのですが、著者のアイエンガーは全盲なんですね。凄いなあと思います。
日常的に誰しもが行っている「選択」という行為が我々にどのような影響を与えているのかを彼女自身の研究を交えて様々な観点から論じた研究です。
アメリカでは選択肢が多いことは良いことだ、もっと言えば選択することは善だ、という考えが当然のように受け入れられていますが、アジアの人々にとってはむしろ重要他者によって選択をしてもらった方がしばしばいい結果を生むこと。
また、自分の子どもが未熟児として誕生し、生存が危ぶまれ、例え一命を取り留めたとしても生涯にわたって寝たきりであると伝えられたとき。アメリカでは子どもの家族に決定権のすべてが委ねられ、フランスでは医者がどちらかの選択肢を促す。このときアジアの人だけではなく、フランスの人々もまた、医者が選択を示してくれることにある種の安堵を感じ、アメリカ人は生涯にわたって罪悪感を感じるという調査報告。
さらには彼女を有名にしたジャムの研究では、24種類の中から好きなジャムを選ぶより、6種類の中から選んだ方が人は決断を下し、購入をするという実験結果。
それでも人は選択肢があることを望むことをまた、彼女の研究は示しています。
訳者あとがきが非常に簡潔にうまいこと彼女の本を要約しており、訳者も述べていますが、よくあるようなひとつの結論を多角的に述べるのではなく、「選択することそのものが人生」であるという彼女の考えどおり、選択にまつわるさまざまな結果がこの本で紹介されています。選択がないことは人を不満にし、選択があることは人を幸せにする。しかし多すぎる選択は人を惑わし、どちらの選択も不幸な結果を招くとき、人は選択を放棄することで安心をえる。また彼女の人生そのものが選択の連続でもあったのでしょう。
最終講の最後の行にこうあります。「選択の全貌を明らかにすることはできないが、だからこそ選択には力が、神秘が、そして並外れた美しさが備わっているのだ」この彼女の謙虚さと「選択」という研究テーマを選択したことに対する確信が、この本をよくある一般向けの科学本の域を超え、さらにはすぐに使える便利なビジネス書の枠も超え、哲学、また芸術の議論を我々に見させるのだと感じた一書です。
目次(一部抜粋)
オリエンテーション 私が「選択」を研究テーマにした理由
第1講 選択は本能である
なぜ満ち足りた環境にもかかわらず、動物園の動物の平均寿命は短いのか。なぜ、高ストレスのはずの社長の平均寿命は長いのか
第2講 集団のためか、個人のためか
親族と宗教によって決められた結婚は不幸か。宗教、国家、体制の違いで人々の選択のしかたはどう変わるか
第3講 「強制」された選択
第4講 選択を左右するもの
第5講 選択は創られる
ファッション業界は、色予測の専門家と契約をしている。
第6講 豊富な選択肢は必ずしも利益にならない
ジャムの種類が多いほど売り上げは増えると人々は考えたのだが
第7講 選択の代償
わが子の延命措置を施すか否か。その選択を自分でした場合と医者に委ねた場合との比較調査から考える
最終講 選択と偶然と運命の三元連立方程式
岩を山頂に運び上げたとたんに転げ落ちるシジフォス。神の罰とされるその寓話で、しかしシジフォスの行為に本当に意味はないのだろうか。
2011年12月13日
八代尚宏「新自由主義の復権 日本経済はなぜ停滞しているのか」
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本の帯には「最も嫌われる経済思想の逆襲」とある。また裏には「誤解をとき、ビジョンを示す」とある。
著者は「今日本で最も嫌われている経済思想」である新自由主義とはなにかを説き、これから日本がすすむべき道を示しています。
著者いわく、新自由主義とは一般に誤解されるような「市場原理主義」や「自由放任主義」ではなく、競争によって経済を活性化させ、新陳代謝を促しつつ、その競争が誰かの犠牲に基づかないように適切な保障を政府が提供していくという思想だそうです。
本書の中で著者は小泉政権を支持する立場をとっています。小泉政権は市場を重視し競争を活性化させた意味で、格差を拡大した政権と批判されることがよくあるそうですが、その点の誤解についても解いていきます。例えば派遣法の改正によって非正規雇用者が増えたといわれていますが、非正規雇用が増えるトレンドは小泉政権前からあったものだし、派遣法の改正後も派遣社員が増えたということはほとんどないそうです。そもそも現在も非正規雇用者のなかで派遣社員が占める割合は1割程度らしく、「派遣社員によって格差が拡大した」、「雇用の安定が奪われた」という批判ははなはだ見当違いであると著者は述べています。
その上で、小泉政権による「中途半端さ」を著者は批判し、小泉後の自民党内閣や民主党内閣のまずさを突いていきます。とくに民主党内閣によって規制が強化された派遣法は「自由な働き方を規制するもの」「派遣社員として働くくらいなら無職のほうがいい」と主張するようなものであるとの批判は痛烈です。さらにはこの政策は「すでに正規雇用にある立場の人を守る」ものであると著者は主張し、多くのほかの政策もまた既得権を守るために中途半端であったりむしろ弱者に厳しい政策になっているという主張が本書のあちらこちらに見られます。また多くの政策が生産者保護の観点であり消費者保護の観点は話題になることが少ない、というのも著者の視点であります。
また著者は田中角栄政権も批判しておりその政権による「地域の均衡ある発展」政策によって、採算の取れない道路が大量に作られ、「「大都市を住みやすくすれば、ますます人口が集中する」という懸念から、混雑する道路や鉄道は今日に至るまで十分に整備されていない」という著者の主張は目からうろこでした。またそれに対して都市をさらに住みやすくして地方から都市へ人口をさらに流入させ、環境の保護、消費電力の削減という「コンパクトシティー」の発想は初めて聞いた発想でした。
ほかにも「市場の行き過ぎによる環境破壊」といった「市場の失敗」に対し、「市場規制、あるいは市場保護の行き過ぎによる経済停滞」という「政府の失敗」についても新自由主義の観点から著者は述べています。象徴的な例としては、日本の自動車下位メーカーがアメリカのGMやフォードに買収されるのを防ぐために、日本の通産省がホンダやマツダといった当時の下位メーカーをトヨタと日産グループに統合してしまおうとしたものです。しかしホンダやマツダはふざけるなと、通産省の意向をつっぱね、日本の自動車産業界では長らく10社が競争を繰り広げていたそうです。結果は皆さんもご存じのとおり、競争が維持されたことで日本の自動車産業に世界に誇れるものとなり、長らく寡占体制だったアメリカの自動車産業は衰退の一途をたどっています。
この事情を知らないアメリカの国際政治学者が"Because of MITI's industrial policies, Japanese automobile industry has developed"(通産省の産業政策ゆえに、日本の自動車産業は発展した)と言っているのに対して、小宮隆太郎が"Despite of MITI, Japanse automobile industry has developed"(通産省の存在にもかかわらず、日本の自動車産業は発展した)と応答したという話は痛快そのものの例でしょう。
本の途中で、市場主義は平家の頃からの日本の伝統であるから、市場主義にすれば日本はうまくいくというような著者の主張は、読者を意味のない論理で説得しようとしているという意味でただあざとく、もったいない点であるなとは思います。
そういった点を差し置いても、多くの観点でデータを見せつつ、市場主義の有用性を訴えていく論理は説得されるものがあります。
とくに「おわりに」で著者が「政治の混乱を招いている大きな要因のひとつは、民主党の首相が、自らの政策実現のために、小泉政権時代に重視された諸制度を、その代わりになる仕組みもないまま、あえて活用しないことにある」と述べているのは大いにうなずく点です。特に最後の「その代わりになる仕組みもないまま、あえて活用しないことにある」という点です。
この本を読んですぐに「そうだ新自由主義でいこう」とまでは思いませんが、少なくとも今までよく知らなかった経済思想について知ることには大きな価値があります。まして思想を持たずに政策を実行したり、政策を評価することは困難であるだけでなく、危険ですらあるでしょう。巻末にはTPP参加賛成の立場と震災復興における経済政策についても論じています。今読んでおいて損のない一冊でしょう。
目次(一部抜粋)
第1章 新自由主義の思想とは何か
1 基本的な考え方
2 市場と政府の役割分担
談合は必要悪か 環境問題にも市場を活用
第2章 資本主義の終焉?
1 サブプライム・ローン問題の本質
「100年の一度」は大げさ
2 効率的な金融市場規制とは
第3章 市場主義は日本の伝統
1 平清盛から「天下の台所」まで
2 1940年体制と1970年体制
3 分裂国家日本
貿易自由化は「アメリカの圧力」?
国際主義と国内開発主義との対立
第4章 小泉改革で格差は拡大したか
1 所得格差拡大の真相
2 規制緩和への誤解
派遣法の規制緩和への誤解
タクシー参入規制は保護貿易
司法試験改革の理想と現実
第5章 小泉改革は「行きすぎ」だったか
1 郵政民営化の明暗
2 進まなかった地方分権化
3 構造改革特区
4 財政再建はなぜ成功しなかったのか
第6章 社会保障改革
1 年金制度は何のためにあるか
税方式にすれば大幅な増税が必要?
2 質の高い医療
第7章 労働市場改革
1 雇用格差を縮小する方法
2 新卒一括採用、定年制という悪習
人材ビジネスを成長産業に
3 女性が活きるために
ワーク・ライフ・バランスはなぜ実現できないか
第8章 新産業の可能性
1 コメを輸出産業に
コメの可能性 農業の活性化のために
2 医療・介護・保育をサービス産業に
3 都市の再開発とコンパクト・シティー
シャッター商店街は「商売放棄地」 混雑料金
終章 震災復興とTPP
本の帯には「最も嫌われる経済思想の逆襲」とある。また裏には「誤解をとき、ビジョンを示す」とある。
著者は「今日本で最も嫌われている経済思想」である新自由主義とはなにかを説き、これから日本がすすむべき道を示しています。
著者いわく、新自由主義とは一般に誤解されるような「市場原理主義」や「自由放任主義」ではなく、競争によって経済を活性化させ、新陳代謝を促しつつ、その競争が誰かの犠牲に基づかないように適切な保障を政府が提供していくという思想だそうです。
本書の中で著者は小泉政権を支持する立場をとっています。小泉政権は市場を重視し競争を活性化させた意味で、格差を拡大した政権と批判されることがよくあるそうですが、その点の誤解についても解いていきます。例えば派遣法の改正によって非正規雇用者が増えたといわれていますが、非正規雇用が増えるトレンドは小泉政権前からあったものだし、派遣法の改正後も派遣社員が増えたということはほとんどないそうです。そもそも現在も非正規雇用者のなかで派遣社員が占める割合は1割程度らしく、「派遣社員によって格差が拡大した」、「雇用の安定が奪われた」という批判ははなはだ見当違いであると著者は述べています。
その上で、小泉政権による「中途半端さ」を著者は批判し、小泉後の自民党内閣や民主党内閣のまずさを突いていきます。とくに民主党内閣によって規制が強化された派遣法は「自由な働き方を規制するもの」「派遣社員として働くくらいなら無職のほうがいい」と主張するようなものであるとの批判は痛烈です。さらにはこの政策は「すでに正規雇用にある立場の人を守る」ものであると著者は主張し、多くのほかの政策もまた既得権を守るために中途半端であったりむしろ弱者に厳しい政策になっているという主張が本書のあちらこちらに見られます。また多くの政策が生産者保護の観点であり消費者保護の観点は話題になることが少ない、というのも著者の視点であります。
また著者は田中角栄政権も批判しておりその政権による「地域の均衡ある発展」政策によって、採算の取れない道路が大量に作られ、「「大都市を住みやすくすれば、ますます人口が集中する」という懸念から、混雑する道路や鉄道は今日に至るまで十分に整備されていない」という著者の主張は目からうろこでした。またそれに対して都市をさらに住みやすくして地方から都市へ人口をさらに流入させ、環境の保護、消費電力の削減という「コンパクトシティー」の発想は初めて聞いた発想でした。
ほかにも「市場の行き過ぎによる環境破壊」といった「市場の失敗」に対し、「市場規制、あるいは市場保護の行き過ぎによる経済停滞」という「政府の失敗」についても新自由主義の観点から著者は述べています。象徴的な例としては、日本の自動車下位メーカーがアメリカのGMやフォードに買収されるのを防ぐために、日本の通産省がホンダやマツダといった当時の下位メーカーをトヨタと日産グループに統合してしまおうとしたものです。しかしホンダやマツダはふざけるなと、通産省の意向をつっぱね、日本の自動車産業界では長らく10社が競争を繰り広げていたそうです。結果は皆さんもご存じのとおり、競争が維持されたことで日本の自動車産業に世界に誇れるものとなり、長らく寡占体制だったアメリカの自動車産業は衰退の一途をたどっています。
この事情を知らないアメリカの国際政治学者が"Because of MITI's industrial policies, Japanese automobile industry has developed"(通産省の産業政策ゆえに、日本の自動車産業は発展した)と言っているのに対して、小宮隆太郎が"Despite of MITI, Japanse automobile industry has developed"(通産省の存在にもかかわらず、日本の自動車産業は発展した)と応答したという話は痛快そのものの例でしょう。
本の途中で、市場主義は平家の頃からの日本の伝統であるから、市場主義にすれば日本はうまくいくというような著者の主張は、読者を意味のない論理で説得しようとしているという意味でただあざとく、もったいない点であるなとは思います。
そういった点を差し置いても、多くの観点でデータを見せつつ、市場主義の有用性を訴えていく論理は説得されるものがあります。
とくに「おわりに」で著者が「政治の混乱を招いている大きな要因のひとつは、民主党の首相が、自らの政策実現のために、小泉政権時代に重視された諸制度を、その代わりになる仕組みもないまま、あえて活用しないことにある」と述べているのは大いにうなずく点です。特に最後の「その代わりになる仕組みもないまま、あえて活用しないことにある」という点です。
この本を読んですぐに「そうだ新自由主義でいこう」とまでは思いませんが、少なくとも今までよく知らなかった経済思想について知ることには大きな価値があります。まして思想を持たずに政策を実行したり、政策を評価することは困難であるだけでなく、危険ですらあるでしょう。巻末にはTPP参加賛成の立場と震災復興における経済政策についても論じています。今読んでおいて損のない一冊でしょう。
目次(一部抜粋)
第1章 新自由主義の思想とは何か
1 基本的な考え方
2 市場と政府の役割分担
談合は必要悪か 環境問題にも市場を活用
第2章 資本主義の終焉?
1 サブプライム・ローン問題の本質
「100年の一度」は大げさ
2 効率的な金融市場規制とは
第3章 市場主義は日本の伝統
1 平清盛から「天下の台所」まで
2 1940年体制と1970年体制
3 分裂国家日本
貿易自由化は「アメリカの圧力」?
国際主義と国内開発主義との対立
第4章 小泉改革で格差は拡大したか
1 所得格差拡大の真相
2 規制緩和への誤解
派遣法の規制緩和への誤解
タクシー参入規制は保護貿易
司法試験改革の理想と現実
第5章 小泉改革は「行きすぎ」だったか
1 郵政民営化の明暗
2 進まなかった地方分権化
3 構造改革特区
4 財政再建はなぜ成功しなかったのか
第6章 社会保障改革
1 年金制度は何のためにあるか
税方式にすれば大幅な増税が必要?
2 質の高い医療
第7章 労働市場改革
1 雇用格差を縮小する方法
2 新卒一括採用、定年制という悪習
人材ビジネスを成長産業に
3 女性が活きるために
ワーク・ライフ・バランスはなぜ実現できないか
第8章 新産業の可能性
1 コメを輸出産業に
コメの可能性 農業の活性化のために
2 医療・介護・保育をサービス産業に
3 都市の再開発とコンパクト・シティー
シャッター商店街は「商売放棄地」 混雑料金
終章 震災復興とTPP
2011年01月02日
村上春樹「1Q84 BOOK1 4月−6月」
[フレーム]
発売からずいぶん時間が経ちましたがようやく村上春樹さんの1Q84のBOOK1を読みました。まだBOOK1なので、とくにこれといった感想はありません。なんというか本の後半でようやく物語が始まったという感じです。稀代のストーリーテラーという感じはまだ受けていません。BOOK1のどの辺が良かったか、読んだ方は教えてほしいです。
とりあえず人物評だけやっておきたいと思います。
天呉
できるかぎり世界に対してコミットメントしないでおこうとする村上作品の典型的な登場人物。しかしながら他の人に対してできる限り率直であろうとするために物事に巻き込まれざるを得ない。高校時代に柔道をやっていて、怪我した一時だけティンパニーを練習し大きな才能を見せる。高校の吹奏楽部でヤナーチェクのシンフォニエッタを演奏する。予備校で数学を教えながら小説を書いている。まだ署名付の文章を出すにはいたっていない。
小松
天呉の文章力を買っている編集者。文章からは小汚いずんぐりな男を感じるが、村上の説明によるとつねにシャツかポロシャツにジャケットを着てチノパンをはいている。ファッションに興味がないというよりは興味がないことを宣言しているように見える(村上の記述より)。天呉ほどではないものの身長は高くすらっとしている模様。文壇に衝撃を与えたいとの思いでふかえりが書いた「空気さなぎ」を天呉に書き直させて出版、ベストセラーとなる。
ふかえり
小柄で髪が長くすらっとしていて、胸のラインがきれいと天呉にほめられる。17歳。空気さなぎの作者。読み書き、会話が苦手でひとつ以上の文章を離すことはほとんどないが、頭は良い模様。恋とは違う種類の好意、あるいは信頼を天呉に示している。村上作品では子どもが登場することが定番となっているがこれほど積極性、自主性のない子どもの登場人物は珍しい。が、今後の話の中で大きな役割を果たすことになりそう。
青豆
天呉のストーリーと交互に出てくるストーリーのもう一人の主人公。女性。麻布の柳屋敷の老婦人に依頼を受けて女性に暴力を振るう男の暗殺を行っている。普段はジムのインストラクターをしている。他者と深くかかわり合うことを避けているが人が嫌いというわけではない。運動神経抜群。コミットメントもオミッションもない村上作品の登場人物としてはやや珍しいタイプか。
老婦人
株式等で増やした莫大な資金を抱えている模様。女性に暴力を振るう男性を強く嫌悪し、憎んでいる。青豆にそういった男を「別の世界に送る」手伝いを依頼している。暴力を受けた女性を保護するための施設を自前で所有している。世界に対して非常に強いコミットメントを持っている村上作品にはやはり珍しい登場人物。BOOK2で、登場回数は減るかもしれないが、物語の中心となる「さきがけ」という宗教団体のなぞを解明する上で大きな役割を果たすことが予想される。
できる限りネタばれのないように、また自分のメモのために書き残しておきます。
以下はBOOK1のそれぞれの章のタイトル。それぞれのタイトルがそれぞれの章の中に必ず出てくるのも今作品の特徴となっています。
BOOK1<4月ー6月>
【目次】
第1章 (青豆)見かけにだまされないように
第2章 (天吾)ちょっとした別のアイディア
第3章 (青豆)変更されたいくつかの事実
第4章 (天吾)あなたがそれを望むのであれば
第5章 (青豆)専門的な技能と訓練が必要とされる職業
第6章 (天吾)我々はかなり遠くまで行くのだろうか?
第7章 (青豆)蝶を起こさないようにとても静かに
第8章 (天吾)知らないところに行って知らない誰かに会う
第9章 (青豆)風景が変わり、ルールが変わった
第10章 (天吾)本物の血が流れる実物の革命
第11章 (青豆)肉体こそが人間にとっての神殿である
第12章 (天吾)あなたの王国が私たちにもたらされますように
第13章 (青豆)生まれながらの被害者
第14章 (天吾)ほとんどの読者がこれまで目にしたことのないもの
第15章 (青豆)気球に錠をつけるみたいにしっかりと
第16章 (天吾)気に入ってもらえてとても嬉しい
第17章 (青豆)私たちが幸福になろうが不幸になろうが
第18章 (天吾)もうビッグ・ブラザーの出てくる幕はない
第19章 (青豆)秘密を分かち合う女たち
第20章 (天吾)気の毒なギリヤーク人
第21章 (青豆)どれほど遠いところに行こうと試みても
第22章 (天吾)時間がいびつなかたちをとって進み得ること
第23章 (青豆)これは何かの始まりに過ぎない
第24章 (天吾)ここではない世界であることの意味はどこにあるのだろう
(HMVレビューより引用[URL])
発売からずいぶん時間が経ちましたがようやく村上春樹さんの1Q84のBOOK1を読みました。まだBOOK1なので、とくにこれといった感想はありません。なんというか本の後半でようやく物語が始まったという感じです。稀代のストーリーテラーという感じはまだ受けていません。BOOK1のどの辺が良かったか、読んだ方は教えてほしいです。
とりあえず人物評だけやっておきたいと思います。
天呉
できるかぎり世界に対してコミットメントしないでおこうとする村上作品の典型的な登場人物。しかしながら他の人に対してできる限り率直であろうとするために物事に巻き込まれざるを得ない。高校時代に柔道をやっていて、怪我した一時だけティンパニーを練習し大きな才能を見せる。高校の吹奏楽部でヤナーチェクのシンフォニエッタを演奏する。予備校で数学を教えながら小説を書いている。まだ署名付の文章を出すにはいたっていない。
小松
天呉の文章力を買っている編集者。文章からは小汚いずんぐりな男を感じるが、村上の説明によるとつねにシャツかポロシャツにジャケットを着てチノパンをはいている。ファッションに興味がないというよりは興味がないことを宣言しているように見える(村上の記述より)。天呉ほどではないものの身長は高くすらっとしている模様。文壇に衝撃を与えたいとの思いでふかえりが書いた「空気さなぎ」を天呉に書き直させて出版、ベストセラーとなる。
ふかえり
小柄で髪が長くすらっとしていて、胸のラインがきれいと天呉にほめられる。17歳。空気さなぎの作者。読み書き、会話が苦手でひとつ以上の文章を離すことはほとんどないが、頭は良い模様。恋とは違う種類の好意、あるいは信頼を天呉に示している。村上作品では子どもが登場することが定番となっているがこれほど積極性、自主性のない子どもの登場人物は珍しい。が、今後の話の中で大きな役割を果たすことになりそう。
青豆
天呉のストーリーと交互に出てくるストーリーのもう一人の主人公。女性。麻布の柳屋敷の老婦人に依頼を受けて女性に暴力を振るう男の暗殺を行っている。普段はジムのインストラクターをしている。他者と深くかかわり合うことを避けているが人が嫌いというわけではない。運動神経抜群。コミットメントもオミッションもない村上作品の登場人物としてはやや珍しいタイプか。
老婦人
株式等で増やした莫大な資金を抱えている模様。女性に暴力を振るう男性を強く嫌悪し、憎んでいる。青豆にそういった男を「別の世界に送る」手伝いを依頼している。暴力を受けた女性を保護するための施設を自前で所有している。世界に対して非常に強いコミットメントを持っている村上作品にはやはり珍しい登場人物。BOOK2で、登場回数は減るかもしれないが、物語の中心となる「さきがけ」という宗教団体のなぞを解明する上で大きな役割を果たすことが予想される。
できる限りネタばれのないように、また自分のメモのために書き残しておきます。
以下はBOOK1のそれぞれの章のタイトル。それぞれのタイトルがそれぞれの章の中に必ず出てくるのも今作品の特徴となっています。
BOOK1<4月ー6月>
【目次】
第1章 (青豆)見かけにだまされないように
第2章 (天吾)ちょっとした別のアイディア
第3章 (青豆)変更されたいくつかの事実
第4章 (天吾)あなたがそれを望むのであれば
第5章 (青豆)専門的な技能と訓練が必要とされる職業
第6章 (天吾)我々はかなり遠くまで行くのだろうか?
第7章 (青豆)蝶を起こさないようにとても静かに
第8章 (天吾)知らないところに行って知らない誰かに会う
第9章 (青豆)風景が変わり、ルールが変わった
第10章 (天吾)本物の血が流れる実物の革命
第11章 (青豆)肉体こそが人間にとっての神殿である
第12章 (天吾)あなたの王国が私たちにもたらされますように
第13章 (青豆)生まれながらの被害者
第14章 (天吾)ほとんどの読者がこれまで目にしたことのないもの
第15章 (青豆)気球に錠をつけるみたいにしっかりと
第16章 (天吾)気に入ってもらえてとても嬉しい
第17章 (青豆)私たちが幸福になろうが不幸になろうが
第18章 (天吾)もうビッグ・ブラザーの出てくる幕はない
第19章 (青豆)秘密を分かち合う女たち
第20章 (天吾)気の毒なギリヤーク人
第21章 (青豆)どれほど遠いところに行こうと試みても
第22章 (天吾)時間がいびつなかたちをとって進み得ること
第23章 (青豆)これは何かの始まりに過ぎない
第24章 (天吾)ここではない世界であることの意味はどこにあるのだろう
(HMVレビューより引用[URL])
2010年11月28日
フォーリン・アフェアーズ・リポート11月号
[フレーム]
R+さんからフォーリン・アフェアーズ・リポートの11月号を献本していただきました。
世界の動向に関心を持っている方なら名前くらいは聞いたことがある(らしい)、極めて情報化の高い外交専門誌です。そのレベルはほぼ学術誌に近いものがあるでしょう。
本当は今は非常に忙しいのでお断りしようかと思ったのですが、他でもないフォーリン・アフェアーズ・リポートの献本ですし、しかもレビューアーに選ばれたのが5名という、なんとも自尊心をくすぐる話だったのでお受けしました。
もう少しこの専門誌について説明しておきます。これは1922年にニューヨークの外交問題評議会によって創刊されたものです。過去に、冷戦の理論的支柱とされたジョージ・ケナンの「X論文」や、冷戦の大きなパラダイムの1つを提供したサミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」などの極めて重要な、時代を作ったともいえる論文を載せています。
この11月号の内容をエディターのジョームズ・ホーグ・ジュニアの言葉を借りながらみていきたいと思います。まず今月号のテーマは三つに分けることが出来ます。
一つ目は国家間そして人々の間のパワーバランスの変化、二つ目は切実な問題である気候変動、そして三つ目はアメリカの役割です。
論文寄稿者の見方のいくつかをいくつか拾い上げると、
「アジアの世界ステージへの復帰が時代を形づくる」
「互いの利害認識の隔たりが広がっていくにつれて、アメリカと中国の亀裂は大きくなる」
「気候変動を含む一連のグローバル・イシューへの国際協調は実現しそうにない」
「(テロ集団を含む)非国家アクターが、弱体な国家で力を増していく」
「市民にすぐれた教育を与える国が世界の経済競争で勝ち残る」
残念ながらどれも悲観的な見方を呈示しているといわざるを得ないと思います。いや、だからこそどれも知るべき問題であるともいえるでしょう。そのなかでも特に日本の内政にまでかかわりを持つと考えられる「人口と教育」の問題に焦点を当てている記事をここでは取り上げないと思います。
記事のタイトルは「新興国の少子化で世界経済の成長は減速する」。筆者はアメリカン・エンタープライズ研究所所属の政治経済学者、ニコラス・エバースタットです。
筆者はまず20世紀の人口増加について取り上げます。公衆衛生の劇的な拡大と改善により、1900年から2000年までの100年の間に世界の平均寿命は30歳から65歳まで延び、人口は16億人から61億人へと増大しました。
そして21世紀は出生率の低下が世界のトレンドになると主張します。日本を含む先進国の多くですでに人口減少が始まっていることが知られていますが、筆者はそのトレンドは新興国でも同様であるといいます。中国では一人っ子政策を超える少子化傾向が進んでおり、東アジア全域、東南アジア地域の多く、カリブ海周辺諸国、ラテンアメリカ地域、北アフリカから中東を経てアジアへと至る大イスラム地域、これら全ての地域で少子化傾向が出始めているといいます。まさに出生率の低下は世界中で今起こっている事態なのです。
そして、出生率の低下はそのまま生産年齢人口の規模の縮小を意味し、また高齢化社会の出現を意味します。しかも出生率の低下の原因はわかっていません。
また生産年齢人口の規模の縮小は消費支出の減少も同時に意味します。つまり、少ない人数で小さな経済を使って、たくさんの高齢者を支えなければいけない社会が世界規模で今後30年間の間にやってくることを意味するのです。
より具体的に日本の例をみてみましょう。今後20年間で日本の若い労働力は約25%減少すると考えられています。若い労働力とは15歳から29歳の人々を指します。この人々がなぜ重要かというと、世界的に見て一般にこの世代は教育レベルが高く、最新技術の知識も持っているため経済成長に大きく貢献できると考えられています。また健康状態も良いと考えられ、高年齢層の50歳〜64歳と比べると就業意欲も高いと考えられます。
今年の新卒採用率が57%程度であることを考えると、いっそ減った方がいいのでは?と考える方もいるかもしれません。しかし、若年労働力の就業率が低いということは、手にお金を持っている人が少ないことを意味し、消費が少ないことを意味します。消費が少なければ企業の収入は減り、ますます就業率は低下します。結果、経済は更に縮小するという負のスパイラルにすでに日本は片足、いやひょっとすると両足を突っ込んでいるのかもしれないのです。
日本の若い労働力が今後20年間で25%減少する一方、中国では30%、約一億人が減少するといわれています。日本に比べて中国は特に地方において教育レベルが低く、公衆衛生の問題も抱えています。また一人っ子政策のため一般的な社会で男子103〜105人に対して女子100人という男女構成比率が、中国では男子120人に対して女子100人という状態になっているそうです。
若年労働層の減少、経済の縮小、結婚難、そこから導き出される更なる人口減少。日本以上に今後成長が期待される新興国、中国の問題は深いように感じられます。
これらの問題に対して筆者が挙げる解決は端的に言って次の二点。
「教育の機会を拡大して人的資源の強化に務める」
「人々の健康状態を改善し、世界の貴重な人的資源がより効率的により多くを生産できるような経済環境を作り出す」
また筆者は特に低所得地域での教育の機会と質の改善が、地域、そしてグローバルな成長の見込みを大いに高めると論じています。
先進国においても、高齢化する社会が、健康を維持しつつ年を重ねていけるようにすることが重要であり、引退年齢を超えて働くことに否定的な認識を変える必要があると主張します。
まず一点。こういう話を聞くと「そこまでして経済は拡大しなければならないのか」という疑問を持つ方がいるかと思いますが、むしろ問題は「より少ない人数で現在の経済は維持できるか」ということです。経済は生産と消費によって支えられています。出生率の低下は生産力の低下と消費の減少を意味します。にもかかわらず、その少なくなった人々と経済によってより多くの高齢者を支えなければならないのです。したがって「経済の拡大」というよりも「維持」ができるかという問題すら危ういのです。
その上で日本の問題を考えますと、まず筆者が見落としているのは教育レベルの低下です。国内においては今さら言うまでもありませんが、就活期間の長期化によって日本の大学教育の質の低下はかなり現実化しています。私が大学で持っている授業でもよく学生が「就活に行っていたのでこの前の授業の欠席は取り消して欲しい」と言ってきます。気持ちはよく分かりますが、それが学生のため、社会のため、国のため、世界のためになるのかは疑問です。
人口減少の世界的トレンドは今や否定しがたき事実です。そして人口の問題は10年、20年の規模で津波のように我々の生活を襲います。今まさに手を打つ必要の問題です。20年後の世界を守るためにも今の教育とそれを取り巻く環境が非常に重要であることを改めて考えさせられる論文でした。
R+さんからフォーリン・アフェアーズ・リポートの11月号を献本していただきました。
世界の動向に関心を持っている方なら名前くらいは聞いたことがある(らしい)、極めて情報化の高い外交専門誌です。そのレベルはほぼ学術誌に近いものがあるでしょう。
本当は今は非常に忙しいのでお断りしようかと思ったのですが、他でもないフォーリン・アフェアーズ・リポートの献本ですし、しかもレビューアーに選ばれたのが5名という、なんとも自尊心をくすぐる話だったのでお受けしました。
もう少しこの専門誌について説明しておきます。これは1922年にニューヨークの外交問題評議会によって創刊されたものです。過去に、冷戦の理論的支柱とされたジョージ・ケナンの「X論文」や、冷戦の大きなパラダイムの1つを提供したサミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」などの極めて重要な、時代を作ったともいえる論文を載せています。
この11月号の内容をエディターのジョームズ・ホーグ・ジュニアの言葉を借りながらみていきたいと思います。まず今月号のテーマは三つに分けることが出来ます。
一つ目は国家間そして人々の間のパワーバランスの変化、二つ目は切実な問題である気候変動、そして三つ目はアメリカの役割です。
論文寄稿者の見方のいくつかをいくつか拾い上げると、
「アジアの世界ステージへの復帰が時代を形づくる」
「互いの利害認識の隔たりが広がっていくにつれて、アメリカと中国の亀裂は大きくなる」
「気候変動を含む一連のグローバル・イシューへの国際協調は実現しそうにない」
「(テロ集団を含む)非国家アクターが、弱体な国家で力を増していく」
「市民にすぐれた教育を与える国が世界の経済競争で勝ち残る」
残念ながらどれも悲観的な見方を呈示しているといわざるを得ないと思います。いや、だからこそどれも知るべき問題であるともいえるでしょう。そのなかでも特に日本の内政にまでかかわりを持つと考えられる「人口と教育」の問題に焦点を当てている記事をここでは取り上げないと思います。
記事のタイトルは「新興国の少子化で世界経済の成長は減速する」。筆者はアメリカン・エンタープライズ研究所所属の政治経済学者、ニコラス・エバースタットです。
筆者はまず20世紀の人口増加について取り上げます。公衆衛生の劇的な拡大と改善により、1900年から2000年までの100年の間に世界の平均寿命は30歳から65歳まで延び、人口は16億人から61億人へと増大しました。
そして21世紀は出生率の低下が世界のトレンドになると主張します。日本を含む先進国の多くですでに人口減少が始まっていることが知られていますが、筆者はそのトレンドは新興国でも同様であるといいます。中国では一人っ子政策を超える少子化傾向が進んでおり、東アジア全域、東南アジア地域の多く、カリブ海周辺諸国、ラテンアメリカ地域、北アフリカから中東を経てアジアへと至る大イスラム地域、これら全ての地域で少子化傾向が出始めているといいます。まさに出生率の低下は世界中で今起こっている事態なのです。
そして、出生率の低下はそのまま生産年齢人口の規模の縮小を意味し、また高齢化社会の出現を意味します。しかも出生率の低下の原因はわかっていません。
また生産年齢人口の規模の縮小は消費支出の減少も同時に意味します。つまり、少ない人数で小さな経済を使って、たくさんの高齢者を支えなければいけない社会が世界規模で今後30年間の間にやってくることを意味するのです。
より具体的に日本の例をみてみましょう。今後20年間で日本の若い労働力は約25%減少すると考えられています。若い労働力とは15歳から29歳の人々を指します。この人々がなぜ重要かというと、世界的に見て一般にこの世代は教育レベルが高く、最新技術の知識も持っているため経済成長に大きく貢献できると考えられています。また健康状態も良いと考えられ、高年齢層の50歳〜64歳と比べると就業意欲も高いと考えられます。
今年の新卒採用率が57%程度であることを考えると、いっそ減った方がいいのでは?と考える方もいるかもしれません。しかし、若年労働力の就業率が低いということは、手にお金を持っている人が少ないことを意味し、消費が少ないことを意味します。消費が少なければ企業の収入は減り、ますます就業率は低下します。結果、経済は更に縮小するという負のスパイラルにすでに日本は片足、いやひょっとすると両足を突っ込んでいるのかもしれないのです。
日本の若い労働力が今後20年間で25%減少する一方、中国では30%、約一億人が減少するといわれています。日本に比べて中国は特に地方において教育レベルが低く、公衆衛生の問題も抱えています。また一人っ子政策のため一般的な社会で男子103〜105人に対して女子100人という男女構成比率が、中国では男子120人に対して女子100人という状態になっているそうです。
若年労働層の減少、経済の縮小、結婚難、そこから導き出される更なる人口減少。日本以上に今後成長が期待される新興国、中国の問題は深いように感じられます。
これらの問題に対して筆者が挙げる解決は端的に言って次の二点。
「教育の機会を拡大して人的資源の強化に務める」
「人々の健康状態を改善し、世界の貴重な人的資源がより効率的により多くを生産できるような経済環境を作り出す」
また筆者は特に低所得地域での教育の機会と質の改善が、地域、そしてグローバルな成長の見込みを大いに高めると論じています。
先進国においても、高齢化する社会が、健康を維持しつつ年を重ねていけるようにすることが重要であり、引退年齢を超えて働くことに否定的な認識を変える必要があると主張します。
まず一点。こういう話を聞くと「そこまでして経済は拡大しなければならないのか」という疑問を持つ方がいるかと思いますが、むしろ問題は「より少ない人数で現在の経済は維持できるか」ということです。経済は生産と消費によって支えられています。出生率の低下は生産力の低下と消費の減少を意味します。にもかかわらず、その少なくなった人々と経済によってより多くの高齢者を支えなければならないのです。したがって「経済の拡大」というよりも「維持」ができるかという問題すら危ういのです。
その上で日本の問題を考えますと、まず筆者が見落としているのは教育レベルの低下です。国内においては今さら言うまでもありませんが、就活期間の長期化によって日本の大学教育の質の低下はかなり現実化しています。私が大学で持っている授業でもよく学生が「就活に行っていたのでこの前の授業の欠席は取り消して欲しい」と言ってきます。気持ちはよく分かりますが、それが学生のため、社会のため、国のため、世界のためになるのかは疑問です。
人口減少の世界的トレンドは今や否定しがたき事実です。そして人口の問題は10年、20年の規模で津波のように我々の生活を襲います。今まさに手を打つ必要の問題です。20年後の世界を守るためにも今の教育とそれを取り巻く環境が非常に重要であることを改めて考えさせられる論文でした。
2010年08月14日
海堂 尊「医学のたまご」
医学のたまご (ミステリーYA!)
- 作者: 海堂 尊
- 出版社/メーカー: 理論社
- 発売日: 2008年01月17日
- メディア: 単行本
チーム・バチスタの栄光シリーズで人気の海堂 尊さんが書いた中高生向けの小説です。といっても、連載は日経メディカルという専門医が読む雑誌上で行われたそうです。
主人公は中学一年生の男の子。要領はいいが成績は下のほう。彼の父親は世界的に有名なゲーム理論の研究者。ある日、学校で行われた潜在能力試験でそんな彼が全国一位の成績を取ってしまいます。彼の潜在能力が買われて、なんと大学の医学部で医学の研究をすることになってしまうのです。
しかし彼が一位を取ったのは彼の潜在能力が優れていたわけではなく、その試験を作ったのが彼の父親であったため。その試験の内容や問題の解き方をつぶさに聞かされていたのです。
周りにちやほやされ期待にこたえようとして、彼はそのからくりについては明かさずに周りの友人の力を借りてなんと、世紀の発見をしてしまいます。
彼の能力を買った教授は大喜びでネイチャーに論文を掲載しようとします。しかし、その発見は追試(実験結果を再現すること)がされていませんでした。教授はそれは実験助手の責任だと無理難題を押し付け、とにかく成果を急ぎます。教授は真摯に真実を求める研究者どころか、金と名声と自分の地位が大事なだけの人間だったのです。彼はそんな教授に利用されていただけなのでした。
やがて論文の不備を指摘され、彼は大学を追い出されそうになるのですが、彼の父親や周りに友人が彼を助けてくれて、事態をなんとか解決しようとするのですが。。。その顛末は本を読んでみてください。
とんでもないことに少年が巻き込まれていくなかで、友人との付き合い方、大人との付き合い方、研究の重要性、難しさなどを身をもって学びながら成長していきます。
また研究の現場についても垣間見せてくれます。
筆者の海堂さんはあとがきの中で述べています。
医療は病気を治すことが最終目的ですが、それだけで成り立つほど単純なものではありません。病人を治せば医学研究なんてどうでもいいと考えるのは大きな間違い。研究という思考法を身につけないと、客観的な治療を行うセンスを獲得することは難しいからです。研究は公平な心で行わなければならない。藤田教授のような気持ちで研究をしては絶対にいけません。もっとも現実には、藤田教授みたいな医師は少ないのですが。
中高生向けに書かれた本ではありますが、研究に向かう上での基本的な姿勢を改めて考えさせてくれます。
目次
第1章 「世界は呪文と魔方陣からできている」と、パパは言った。
第2章 「扉を開けたときには、勝負がついている」と、パパは言った。
第3章 「初めての場所でまず捜すべきは、身を隠す場所だ」と、パパは言った。
第4章 「エラーは気づいた瞬間に直すのが、最速で最良だ」と、パパは言った。
第5章 「ムダにはムダの意味がある」と、パパは言った。
第6章 「閉じた世界は必ず腐っていく」と、パパは言った。
第7章 「名前が立派なものほど、中身は空っぽ」と、藤田教授は言った。
第8章 「悪意と無能は区別がつかないし、つける必要もない」と、パパは言った。
第9章 「一度できた流れは、簡単には変わらない」と、パパは言った。
第10章 「世の中で一番大変なのは、ゴールの見えない我慢だ」と、パパは言った。
第11章 「心に飼っているサソリを解き放て」と、パパは言った。
第12章 「道は自分の目の前に広がっている」と、僕は言った。
2010年07月30日
エリック・クォルマン「つぶやき進化論‐「140字」がGoogleを超える!
つぶやき進化論 「140字」がGoogleを超える! (East Press Business)
つぶやき進化論 「140字」がGoogleを超える! (East Press Business)
- 作者: エリック クォルマン
- 出版社/メーカー: イースト・プレス
- 発売日: 2010年07月29日
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
R+さんから献本していただきました。
これから会社でTwitterを使おうとしている人、あるいはすでに使っている人、必読の本です。
原題は「Socialnomics‐How social media transforms the way we live and do business」といいます。twitterやfacebook(アメリカ版Mixiのようなもの)といったソーシャルメディアによって我々の生き方や仕事の仕方が変わっていくというテーマについて書かれた本です。
世の中はグーグルなどの検索エンジンの登場によって大きく変化しました。知りたい全ての情報はわずか数クリック先にあり、つねに最新の情報が手の届くところに固められてあります。しかもそのようなサービスを消費者はお金を支払うことなく、利用できるのです。サービスを提供する会社は消費者からお金をもらう代わりに広告を検索結果に表示することによって収入を得ています。
しかしいま、また新たな、大きな変化が起きようとしています。それが、twitterのようなミニブログやfacebookのようなソーシャルネットワーキングサービスなのです。人はつねにそういったツールによって自分の情報を友人に対して更新し、お互いの情報を共有しあいます。増えすぎた何億という情報から欲しい情報を取り出すためにGoogleに行くかわりに、自分の友人のネットワークから情報を取り出す(社会的つながり(ソーシャル)を介する(メディア))ようになり始めているのです。
見ず知らずの他人が映画やレストランをほめるより、よく知った友人の情報の方があてになるということを我々はよく知っています。何十という広告から自分で欲しいものを見つけるより、友人がすでに持っていたり体験したことのある商品について知ることの方がより有用な情報を得ることが出来ます。
いま、そういったソーシャルメディアによってこれまでごく身近な人からしかえられなかった情報が、Googleを使うような手軽さと、あらかじめ最適化された規模から、取り出せるようになりつつある。
この時代の変化についていっているものはすでに大きな成功を収めており、ついていけないものは確実に破滅の道を歩んでいると著者は言います。
時代の流れが非常に速くなった今日では
新聞はもはやニュースの生素材を伝えているだけではだめで、その意味について「意見を述べ」、付加価値をつけるべきだろう。 p.27と著者は言います。
そして、
実はこの本でも、その現象が実感できる。印刷されるまでの間に、本書に収められた多くのニュースが時代遅れになる可能性もある。といいます。
だから書籍にとって重要なのは、新聞や雑誌と同じように、ニュースが意味することについて役に立つ意見を述べ、これまでに生まれた構図とこれから生まれるであろう構図を明らかにする能力なのだ。 p.27
実際、本書には多くの箇所で「執筆時点では」とか「刊行時点では」といった表現が用いられています。多くの具体的な事例を用いつつ、本書が読まれるときにはすでに現実とは一致しない点があるかもしれないということを自覚しつつ、その現象の意味と今後の構図についての示唆を著者は与えてくれます。
いまでも多くの企業が著作権を頑なに守ろうとする一方でいくつかの企業は積極的に消費者にtwitter上などでの再生産を促します。
ソーシャルネットワーク内のつながりを効果的に活用したい企業は、「情報は、簡単に転送できるようにするべもはや、企業が独自にマーケティングを行う時代は終わっており、消費者にそれを代わりにやってもらう時代になっているのです。twitterで他者の発言を引用する機能(リツイート)などはその象徴的な例といえると思います。
きだ」ということを理解しなくてはならないのだ。 p.27
またソーシャルメディアを使うことで
他のユーザーのために情報を整理することにもなる。これがソーシャルメディアの強みだ。 p.37と著者は言います。
著者が示す面白い例としてブリタニカ百科事典とウィキペディアの比較があります。
ネイチャーが行った調査では、ブリタニカ百科事典とウィキペディアの両方から幅広いテーマの記事を選び、それぞれの分野に詳しい専門家に送って査読を依頼した。どちらがウィキペディアでどちらがブリタニカなのかを知らされないまま、専門家たちは2つの記事を丹念に比較した。ネイチャーが専門家から集めた有効な査読結果は42 件だった。結局、重要な概念について根本的に間違っているなど重大な間違いが8カ所見つかったが、そのうち4カ所はどちらの百科事典にも共通していた。世界的に有名なブリタニカ百科事典ですら、ソーシャルメディア(人々のつながり)によって生み出されるウィキペディアにはかなわないという自体がすでに現実に起こっているのです。
ウィキペディアはブリタニカ百科事典と同じぐらい正確だったという事実がこの調査で明らかになったのだ。p.41
だから著者は訴えます。
企業はそもそも、ビジネスモデルを大きく変えなくてはいけない。ビジネスモデルを変えもせずに、「デジタル化するだけ」ではダメなのだ。ソーシャルメディアの影響と需要に応えられるような、根本的な変革が必要だ。 p.53重要なものは企業単独では作れない。ソーシャルメディアの影響と需要にこたえられうシステムになっていないと、ダメなのです。著者は更に語彙を強めます。
企業は目を覚まさなくてはなるまい。ネット上の「新しいメディア」(twitterなど)は消えてなくなってはくれない。目の前にあって、1番重要な位置に陣取っている。だから、企業は目を覚ましてそれに注意を向けるか、さもなくば注意を払っている会社に負けるか、しかないのだ。p.59
これまでの情報形態なら会社に都合の悪いことはもみ消すことが出来たでしょう。しかし、情報を発信しやすく、しかも発信した情報があっという間に伝わる今日の世界ではそれは不可能です。不可能であるだけではなくより不利に働く、というのが著者の主張です。そしてそのような世界の変化をチャンスと捉えなければならないと言います。
Twitterなどのソーシャルメディアの出現によって、顧客は不満をつぶやきやすく、企業はそれを見つけやすくなった。つまり、企業は問題の「発見」よりもその「解決」に多くの時間を割くことができるのである。
優れた企業はTwitter の登場を、顧客のために一層の努力をすることをいとわない企業姿勢を見せる絶好の機会ととらえているのだ。p.64
いま企業がやらなくてはならないことは、ユーザーが、自分のイメージに重ねたいと思うだけでなく「発信したい」と思うようなブランド力をもつ商品をつくることともいえる。p.71
いま企業が力を入れなくてはいけないのは、目的がはっきりしていて役に立つものを消費者に提供することだ。これまで消費者から嫌われてきた典型的なマーケティングとはまったく逆だ。宣伝文句に中身のない約束をならべるのではなく、ほんとうに価値のあるものを消費者に提供することだけを考えるべきなのだ。p.72特に最後の引用を読んで気づかれた方もいるかもしれない。そう、意味のないマニフェストを繰り返し、出来もしない目標設定をし、少し批判をされると「言っていない」「そういう意味ではない」と繰り返す政治家は確実に淘汰されるのです。企業が変わらなければ生き残っていない現状において、政治家だけは特別であるという時代はとうに終わっているのです。著者が訴えるSocialnomics(みんなの経済)の時代においては、すべてのサプライヤーが変わる必要があるのです。
政治だけは昔どおりでいい、あるいは例外だと考えるのはナンセンスなのです。
実際、著者はオバマがいかにfacebookやyoutubeという新しいメディアを通して選挙戦を勝利したかを説明しながら、これからの国民と政府のかかわりについても訴えています。
ソーシャルメディアは、政府が国民とさらに団結して、政治的な駆け引きから脱却して問題の核心に迫り、本当の意味での民主主義を実行する手助けとなる。 p.113
ソーシャルメディアが社会に大きな影響を与える世の中は著者の言う「みんなの経済(Socialnomics)」の世の中です。そしてそれは経済にとどまらず政治も同じです。
2008年、ITアドバイザリ会社のガートナー・グループは、ソーシャルメディアが政府の機能を補う、あるいは部分的に置き換えることさえあるだろうという仮説を立てた。ばかばかしいと笑い飛ばす向きもあるだろうが、そもそもアメリカ政府とはそういうものであるはずだったのでは? つまり、人民の人民による人民のための政府、だ。 p.113
twitterが投稿可能数を140字に制限しているのは偶然ではありません。時代がそちらにシフトしつつあり、それを的確に捉えたのがtwitterだったに過ぎないのです。
イギリスのトニー・ブレア元首相は、ニューヨークで2008年に開かれたワールド・ビジネス・フォーラムでこう述べた。「情報がこれほど速く広がるようになった今、一般の人やマスコミに何を伝えるにも簡単にわかりやすくまとめなくてはいけません。ところが複雑な問題になると、それでは伝えられない。これは本当に難しい問題です」。簡潔でわかりやすいコミュニケーションを取り入れるしかない。好きかどうかにかかわらず、それが正しいかどうかにかかわらず、そんな時代になったのだ。 p.186何度も繰り返しますが、政治家も同じです。国民が求めているものは常に「よりよい暮らし」と政治家のアカウンタビリティ(説明責任・説明能力)です。今の政治家に足りないのは「よりより暮らし」を理解するための「聞く力」、それを作るための「ヴィジョン、見通す力」、そしてそれらを「説明する力」です。言い換えれば、耳と頭と口が足りない。なんだか、何も足りないような気がしてきます。しかし著者の主張を取り入れるなら、良い耳さえ持っていれば、よりよい暮らしは国民とともに作り上げていけばいいのです。それこそが民主主義なのです。Socialnomicsの世界では、より良い製品を作るには企業と消費者が必要なように、政治家と国民、その両方に責任があるのです。
会社や商品の特徴、他社との違いを簡潔にわかりやすく言えないようなら、すぐに事業を見直さなくてはならないからだ。
この新しい世界では、まずメッセージ戦略を決め、市場からのフ
ィードバックを参考にしながら、戦略が正しいかどうか見直したり修正したりしても構わないのだ。顧客と対話をしていれば、変わり続けるニーズをすぐに見つけて対応することができるだろう。 p.187
著者は徹頭徹尾ソーシャルメディアが個人や企業、そして社会に良い変化を与えると訴えます。例えば、
今、そしてこれからも、個人や企業は自慢したいことがあればソーシャルメディアを使って世界じゅうに知らせようとするだろう。これはすばらしいことだ。何も自慢するものがない人は、いまの行動(テレビを見るとか)を改めて何かおもしろいこと(脚本を書くとか)を始めつまり著者の論理はこうです。ソーシャルメディアは自慢をあおる。自慢するにためにはよりよい生活が必要、より良い生活はより良い社会作りにつながる。
るだろう。長い目でみるとそれは、より意味のある社会をつくることにつながっていく。 p.91
しかし、全ての人がより良い生活を遅れるとは限りません。他人の生活を見えやすくするソーシャルメディアの存在のもとでは、そういった人たちとの格差はより明確に、そしてあからさまになるでしょう。
また著者は
ソーシャルメディアがあれば人々はその場で人生を見直し、いつも人々を悩ませてきた「私の人生はこれでいいのか?」という問題に答えを出しやすくなる。今までより多くの人が生産的な活動や社会貢献に関わろうとするようになるため、社会にとってもプラスになる。 p.92と言います。これはある一面においては事実ですが、つねにポジティブな結果を生み出すとは限らないと私は思います。
ソーシャルメディアの存在によって、自分の生活に対して不満感や、relative deprivation(他者との比較によって経験される相対的な喪失感)を経験する頻度が増えます。その不満感や喪失感をポジティブな行動で満足感や充実感に変えられる人はいいですが、それが叶わない人は、衝動的、暴力的な方法でそれを解消しようとするかもしれません。秋葉原無差別殺傷事件などはその一例と言えるでしょう。
後半では、より具体的なテーマを取り上げつつ、twitterがどのようにビジネスを変えていくのか、あるいは自分の会社をsocialnomics時代に合わせてどう変えていくべきなのかを説明しています。ここでは、いくつか指針が挙げられていたので、それらを紹介したいと思います。
●くろまる昨日までのマーケティング担当者の考え
・重要なのは、メッセージやブランドイメージがセクシーで魅力的なことだ。
・とにかくメッセージで決まる。マーケティングが良ければどんなものでも売れる。
・私たちは顧客が何を買えばいいのか知っている。顧客は自分が本当は何を求めているのかを知らないのだから、それを勧めるのが仕事だ。
・まず社内で商品やメッセージを開発して、それを一般の人に広める。
●くろまる今日からのマーケティング担当者の考え
・重要なのは、顧客のニーズに耳を傾け対応することだ。
・とにかく商品で決まる。他のあらゆる部署と連携を取り続けなくてはいけない。
・顧客にとって何が正解なのかは私たちには絶対にわからない。だからいつも顧客の声を聞いて調整を続ける。最初から答えがわかっていることなどほとんどない。
・商品を広める力は私たちより顧客のほうがたいてい大きい。顧客のアイデアを活用することができれば、みんなが得をするp.188
もしこれから巨大ソーシャルネットワークのどれかに(自分の企業が)進出するところなら、以下に関わる基本事項をしっかりと認識しておくのがベストだ。
1.なにをするか
2.どこでやるか
3.なぜやるのか
4.どのような成功の形をとろうとするか
5.どのような落とし穴があるか p.241
ソーシャルノミクスの世界で成功しようとにらんでいるのなら、以下のことが不可欠だ。
1.誰かの成功を足掛かりにする。必ずしも一から築き上げる必要はない。自尊心は捨てよう。
2.地元の顧客を活用する。リアルタイムで作ったり直したりするのを手伝ってくれるのは彼らであることをしっかり認識する。
3.過度に投資しない。すばやくテストして修正できるような手軽なペータ版を作る。
4.自分が目指すものをじっくり考える。すべてを手に入れようとしてはいけない。そしてひとたび決めたなら、迅速に断固たる態度で臨む。 p.248
著者は言います。
140字の世界には長所も短所もあるが、いずれにせよ後戻りはできない。ソーシャルメディアの発達により個人がより大きな力を持ち、その個人が集まった時の力がより強く、しかも取り出しやすくなっています。新しい世界に企業はどう動くのか。その対応次第で自社の
"遺伝子"を次世代に残せるかが決まる時が来ているのです。
ここで紹介できたのはまだ本の一部です。「もっと知りたい!」と思った方はぜひ手に取ってみてください。
以下、誤字脱字。
友人のうち2人はゴーアヘッドツアーズでチリを訪れ、高く評価していた(こと)がわかる。p.141
彼らは、一般の人に特定チームの「スーパーファン」になってもらい、記事を書かせたの(で)だ。p.201
Twitter人気が高まった理由は、まだあまりみんなが使っていなかった(の)からこそ自分を印象づけられるし、クールだったからだ。p.212
(一字下がり)そして、願わくば本書の読者の中からp.319
2010年07月07日
マルコム・グラッドウェル「The New Yorker 傑作選1 ケチャップの謎 世界を変えた"ちょっとした発想"をいかに引き出すか
R+さんから献本していただきました。なんと今回は発売前どころかタイトルさえ決まっていないそうです。
「はじめに」によると、著者がニューヨーカー誌に1996年から発表したものを選んで収録したものがこの本だそうです。さらにその記事は三つのカテゴリーに分けられているようです。一つ目は「まるで何かに取り憑かれたように何かを成し遂げたマイナーな世界の天才たちの物語」、つまり万能野菜カッターを開発・販売したロン・ポピール、ヘアカラー商品の画期的なコピーを生み出したシャーリー・ポリコフの物語です。二つ目はその時代を代表する理論やパラダイム、人間が経験した出来事を"体系的に理解するための方法"をテーマにして書かれています。三つ目は「"他人に対して行う判断"について考える」そうです。今回いただいた献本に含まれていたのは一つ目のカテゴリーでしかも第一章から第三章までです。正直、面白いところに入る前で切られちゃった感はありますが。。
とりあえず慣例に従っていいなと思ったところを抜き出したいと思います。
最初の章はTVショッピングの王様の話。なにがどう王様かというと、お店でやっていた実演販売をTVで放映するという革命を起こし、それによって財を成した人の話です。
第三章は「ブローイングアップ(吹っ飛び)の経済学」ではナシーム・タレブという投資家の話が出てきます。投資業界で「吹っ飛ばない」ための方法は、毎日の小さな不利益を恐れずたった一日の巨額な利益を求めることだとタレブは言います。普通、投資家は日常的に小さな利益を得ようとします。ただしこれにはたった一日で全てを失うリスクが伴うのです。タレブの会社、エンピリカで働くスピッツネーグルは言います。
タレブは言います。
二つ目、三つ目のカテゴリーはどうやら今後続いて出版される本に収録されるようなので、そちらが出たらぜひまたチェックしてみたいと思います。追記2010年7月15日
「はじめに」によると、著者がニューヨーカー誌に1996年から発表したものを選んで収録したものがこの本だそうです。さらにその記事は三つのカテゴリーに分けられているようです。一つ目は「まるで何かに取り憑かれたように何かを成し遂げたマイナーな世界の天才たちの物語」、つまり万能野菜カッターを開発・販売したロン・ポピール、ヘアカラー商品の画期的なコピーを生み出したシャーリー・ポリコフの物語です。二つ目はその時代を代表する理論やパラダイム、人間が経験した出来事を"体系的に理解するための方法"をテーマにして書かれています。三つ目は「"他人に対して行う判断"について考える」そうです。今回いただいた献本に含まれていたのは一つ目のカテゴリーでしかも第一章から第三章までです。正直、面白いところに入る前で切られちゃった感はありますが。。
とりあえず慣例に従っていいなと思ったところを抜き出したいと思います。
最初の章はTVショッピングの王様の話。なにがどう王様かというと、お店でやっていた実演販売をTVで放映するという革命を起こし、それによって財を成した人の話です。
当時、ライバルたちは商品開発とマーケティングとを切り離して考えていた。だがポピールたちは、それは間違いだと考えた。ポピールたちにとってそのふたつは一体だった。 p.23
多くの優れたイノベーションがそうであるように、チョップ・O・マティックも過去のスタイルを破壊する存在だったのだ。初めて見る商品をいかにお客さんに伝えるかを考えるTVショッピングの知恵は、いかに科学的発見を伝えるかということにも重要なヒントを教えてくれるように感じます。
それではどうやって世間に、過去のスタイルを捨てるよう説得するのか?
ただ消費者に取り入ったり、誠実さを打ち出したりするだけでは充分でない。もちろん紹介者が著名人や美人であるだけでもだめだ。発明そのものを説明する必要がある――一度や二度ではなく、三度でも四度でも。説明のたびに新しい工夫を加えて、商品が具体的にどう作動し、なぜそのように動くのかを示し、それが毎日のキッチン仕事でどう使われるのかをずばり伝える。そして最後に、革命的な商品であるにもかからわらず、使い方は実に簡単だ、という逆説的な事実をわかってもらった上で売らなければならない。 p.40
第三章は「ブローイングアップ(吹っ飛び)の経済学」ではナシーム・タレブという投資家の話が出てきます。投資業界で「吹っ飛ばない」ための方法は、毎日の小さな不利益を恐れずたった一日の巨額な利益を求めることだとタレブは言います。普通、投資家は日常的に小さな利益を得ようとします。ただしこれにはたった一日で全てを失うリスクが伴うのです。タレブの会社、エンピリカで働くスピッツネーグルは言います。
「それはまるで10年もピアノを弾いているのに、子どもが片手で弾けるごく単純な曲も満足に演奏できないようなものだ」
「それでも自分を前進させるものはただひとつ、ある朝、目を覚ますと、自分がラフマニノフのような腕前になっている、という強い信念だけなんだ」 pp.117-118
タレブは言います。
「重要なのはアイデアがあることじゃなく、そのアイデアを活かす方策を持っていることだ」
「秘訣」とは、状況ごとに具体的な対処方法が明記されたプロトコル(実行の要領)である。
「だから、プロトコルをつくりあげた。こう言うためだ。私の指示を仰ぐんじゃなく、プロトコルの言うことを聞け、とね。さて、私にはプロトコルを変える権利がある。だけど、プロトコルを変えるためのプロトコルがある。為すことを為すために、自分に厳しくなければならない。ニーダーホッファー(ウォールストリートで最も儲けている投資家の1人。毎日の利益に賭け、たった一日、9.11の日に吹っ飛んだ。)に見られるバイアスは私たちにも存在するから」 p.119
二つ目、三つ目のカテゴリーはどうやら今後続いて出版される本に収録されるようなので、そちらが出たらぜひまたチェックしてみたいと思います。追記2010年7月15日
2010年07月06日
ダニエル・ピンク「モチベーション3.0 持続する「やる気!」をいかに引き出すか」
モチベーション3.0 持続する「やる気!」をいかに引き出すか
モチベーション3.0 持続する「やる気!」をいかに引き出すか
- 作者: ダニエル・ピンク
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2010年07月07日
- メディア: 単行本
R+さんより発売前のダニエル・ピンクの新著の一部を献本していただきました。
本書は、これまで企業などにおいて支配的であった人間の行動に関する仮定が通用しなくなりつつあり、それに代わるあらたな仮定の必要性、重要性、そして有効性について論じた本です。
本書では人間の行動に関する仮定と指令体系をOSに喩え、それぞれモチベーション1.0、2.0、3.0と名づけています。1.0は人間は生存のために行動すると仮定し、2.0は報酬を求め処罰を避けるために行動すると仮定します。これまでは、そして今なお多くの企業がモチベーション2.0のOSを使用しています。しかし、このOSを使っているがために、多くの社員はやる気をそがれ、仕事への意欲をなくし、仕事への積極的関与を避け、人生の楽しみさえ失っているのだとときます。そして、それに取って代わるべき3.0は「人間には、学びたい、想像したい、世界を良くしたいという動機のもとに行動する」と仮定します。この仮定がいかに正しく、また実際に効果を上げているかを豊富な心理学、行動経済学の知見と、3.0のOSをすでに取り入れている企業の序っ奨励を上げながら説明しているのが本書なのです。
はじめに訳者前書きとして、大前研一さんの言葉が載せられているのですが、そのなかで大前さんは、
日本企業の現状の問題点は、成果主義を採らなければ会社は一部のできる人におんぶにだっこで不公平。成果主義に走れば社内がギクシャクして不安定になる、というジレンマである p.3と述べ、この現状を打破できるのがモチベーション3.0であると言います。
ダニエル・ピンクは経済学が仮定する人間観の問題に言及した上で行動経済学の知見を基に
目的達成において厄介なのは、二十年前にわたしがそう教わったように、人間はロボットと同じように機械的に富を最大化する習性があると、モチベーション2.0がみなしている点だ p.53と述べ、「人が予想通りに不合理ならば」報酬以外のために行動することを予想してもなんら不合理ではないだろうといいます。
そしてそれが報酬などの外から与えられる刺激に基づいた「外発的動機づけ」ではなく、「内発的動機づけ」、つまり「行為そのものが楽しい、行為そのものが報酬である」という動機によって人は行動すると述べています。
フライが述べているように、「内発的動機づけは、あらゆる経済活動にとって、"大いに重要"である。人間が唯一、あるいはもっぱら外発的なインセンティブによって動機づけられているなどとは、想定しにくい」。 p.54
そしていくつかの企業は事実そういう方向に動き出しているのです。「匿名希望のビジネスリーダーは採用面接を行なうとき、応募者にこう告げる」らしい。
他人からモチベーションを与えられる必要がある人物を採用するつもりはありません p.60つまり言い換えるとこういうことになるでしょうか。「十分は報酬は保障するが、報酬のためだけにしか働けない、報酬にしか興味のない人を採用するつもりはない」と。
なぜ、このようなことがおきているかというと、ダニエル・ピンクによれば、先進国の多くはモチベーション2.0がうまく機能していたようなルーティンワーク(同じ作業の繰り返しを要する仕事)を人件費の安い諸外国に輸出し、国内に残っているのはクリエイティビティを要する仕事ばかりになっているためだからです。そのような仕事に対して2.0を適用すると結果的に社員のやる気を削ぎ、生産性は悪くなる一方だからです。
2.0と3.0の違いをうまく言い表しているのがマーク・トウェインの言葉です。
"仕事"とは、他人に"強制"されてやることで"遊び"とは、強制されないでやることである p.64
この"強制"という言葉に深く結びつくのが"自律性"です。我々はよく、「あれをしたらこれをあげる」といった内容のことを言います。「宿題をしたらご褒美を」「お手伝いをしたらお小遣いを」といった具合にです。しかしダニエル・ピンクはこのような
「交換条件つき」の報酬は、自律性を失わせる p.67と言います。自発的にやっていたようなことでも報酬を与えたとたんに、それは"強制"された行動になる可能性があるということです。
また報酬は創造性を下げる可能性もあることを心理学の知見を基にダニエル・ピンクは紹介します。
報酬には本来、商店を狭める性質が備わっている。解決への道筋がはっきりしている場合には、この性質は役立つ。前方を見すえ、全速力で走るには有効だろう。だが、「交換条件つき」の動機づけは、ロウソクの問題(画鋲の箱をロウソク台に転用する)のように発想が問われる課題には、まったく向いていない。広い視野で考えれば、見慣れたものに新たな用途を見つけられたかもしれないのに、報酬により焦点が絞られたせいで功を焦ってそれができなかったのである。 p.75
同じことは芸術にも言えることのようで、
「絵画にしろ彫刻にしろ、外的な報酬ではなく活動そのものに喜びを追い求めた芸術家のほうが社会的に認められる芸術を生み出してきた。結果として、外的な報酬の追求を動機としなかった者ほど、外的な報酬を(生涯では)得た」 p.77という皮肉な結果を示す調査があるそうです。
さらに2.0の問題点として、処罰の存在が「処罰されるべき行動を増大する」ということがあります。ある保育園で子どもの迎えが遅くなった親に対して罰金を貸すことにしたそうです。これは保育園が残業を強いられた保育士に残業代を払わなくて済むようにするための処置でした。しかし結果は、遅刻する親が増えるというものでした。これは、保護者には保育士に対して「公平な態度で接したい」「きちんと時間を守りたいという内発的動機づけ」を罰金という脅威が奪ってしまったためです。
罰金のせいで、保護者の決断のよりどころは、いくらかは道徳的な義務感から、純然とした取引("お金を払えばすむんでしょ")へと移った。両者が共存する余地はなかった。罰金は、善良な行動を促さずに、むしろ締め出したのだ。 p.86
エドワード・デシ(内発的動機づけの研究で有名)の学生であったリチャード・ライアンは言います。
「人の性質に"根本的な"何かがあるとすれば、それは興味を抱く能力だ。その能力を促進するものもあれば、蝕むものもある」 p.110つまり(能力を発揮したいという)有能感、(自分でやりたいという)自律性、(人々と関連を持ちたいという)関係性という三つの欲求が満たされているとき、その能力は促進されます。一方、それらを満たさないような環境、つまり有能感を感じられないルーティンワーク、自律性を奪う、金のためにやっているという感覚をもたらすような報酬によって構成されるような環境(2.0で統制された世界)ではその能力は蝕まれるのです。
後半ではより具体的に3.0を構成する三つの要素、自律性、マスタリー(熟達)、目的について言及していきます。
今回いただいた献本では、マスタリーの章までしか読めなかったのですが、そこでは「努力」重要性が書かれています。
キャロル・ドゥエックが言うように、「努力とは、人生に意味を与える諸々の事柄の一つである。努力をするということは、その対象となるものに意味があるとあなたが見なすことである。それが重要だからこそ、人はいとわずに努力するのだ。もし何にも価値を見出さなかったり、価値あるものに向けて熱心に努力しないようであれば、あなたの人生は不毛となるだろう」 p.180
バスケットボールの殿堂入りを果たしたDr.Jことジュリアス・アービングは
「プロフェッショナルとは自分が心から愛することをするということだ。たとえどんなに気乗りがしない日であっても」 pp.180-181と言います。最後の一文に重みがありますが、一流と呼ばれる人はみな、自分がやっていることに対して情熱を持っているように感じます。また、自分もその人たちに負けないような情熱を持ちたいなと思います。
フランスの画家、セザンヌの不朽の名作といわれる作品の大半は、晩年に描かれたそうです。「これはセザンヌが生涯一貫して自分の最高作品を描こうとしていたから」だそうです。タイガー・ウッズは「自分はもっと上達できる――上達しなくてはいけない」と何回も語っているそうです。ダニエル・ピンクはマスタリーへの道は決して到達することのない漸近線であると言います。
マスタリーの漸近線は、欲求不満を引き起こす。なぜ、人は完全に到達できないものを求めるのだろうか。だが一方でそれが魅力でもある。だからこそ、到達しようとする価値がある。喜びは、実現化することよりも追求することにある。とどのつまり、マスタリーはどうしても得られないからこそ、達人にとっては魅力的なのである。 pp.182-183タイガー・ウッズは自身がマスタリーに到達できないと分かっているといいます。「達人」にとって到達できないからこそ「マスタリー」が魅力的とはいささか矛盾に満ちた表現ですが、「マスタリーを求めぬく中に達人は存在する」のかなと僕は感じました。
マーク・トウェインが表現しているように究極的には、それが仕事であれ、遊びであれ、「行動そのものが楽し」くなければやる意味はありませんし、人生を豊かにすることは困難です。ポジティブ心理学の大家であり、ある行動自体が報酬になっている状態に人が経験する「フロー」の研究で有名はチクセントミハイは言います。
仕事と遊びの境界が人為的なものだと気づけば、問題の本質を掌握し、もっと生きがいのある人生の創造という難題に取りかかれる p.186
いま、自分のやっていることにやりがいが感じられない、よりよい人生を創造したい、あるいは自分の部下たちにもっとやりがいを持って仕事に取り組んでもらいたいと思っている方はぜひ一度、読んでみてはいかがでしょうか。
【関連記事】
僕が運営しているもう一つのブログで努力の重要性について書いた記事もよかったらどうぞ。
天才に必要なものは努力 ―スピードスケート清水宏保から加藤条治へのメッセージ
二人の天才―浅田真央とキムヨナ―
名言3:ヨハン・セバスチャン・バッハ
あなたが天才になるまでの時間
以下、誤字脱字
特定の結果を達成した「こと」よりも、 p.105
解明しようとした「。」学者たち。 p.178