2009年08月01日
村上春樹「やがて哀しき外国語」
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なんとなく、文章が成熟してないなー、という言葉で片付けようかと思っていたのだけれど、そういう気分でもなくなってしまった。つまり、結局最後まで読み通して、僕はどこかで、村上春樹のアメリカ生活に共感してしまったのだ。
これは、村上春樹がプリンストンに滞在していた二年の間に書かれたエッセイのようなものです。中に書かれていることは、おもに村上さんがアメリカ滞在中に思ったアメリカのことについてです。1991年ごろからの二年間で、どういう時期かというと、パワーブック(当時の村上さんの愛用PC)が世の中には出ているんだけど、値段が2千ドルくらいして、日本で買うとその倍の値段がしところだそうです。とんでもなく高い。それでも一時に比べると「だいぶ安くなった」そうです。
なぜ、成熟していないと思ったかというと、同じエッセイなら、僕は「走ることについて語るときに僕の語ること」の方が圧倒的に好きだし、感じ入るものがたくさんあるなと思うからです。それに、この本の中で村上さんは、「どっちがいいとは言いたくない病」に強くおかされているのです。つまり、「AとBがあって、僕はAが好きなんだけど、それはどっちがよくてどっちが悪いというものではない」あるいは「AとBのどちらもがきっと正しい」なんてことをなんどもなんども、テーマを変えて言っているのです。「今の村上さんはその病気から立ち直ったのか」と聞かれると、僕には分からないし、「それは本当に病気なのか」と聞かれると、やはり僕には分からないです。けど、なんとなくすっきりしないなーと思うし、村上春樹らしい文体ではないなと思うのです。
しかし、「スプートニクの恋人」の稿でも似たようなことを僕は言ったけど、村上さんはこのことに関して割と明確に答えています。つまり、文体や言葉遣いなんてしょっちゅう変わる、と。その一方で「自分なりの『折り合った』日本語の文章のスタイル」を身に着けたなんていっているから、なんだ卑怯じゃないか、なんて思うわけだけど、他人がずっと同じ状態でいることに期待すること自体がおかしなことだし、こっちの勝手な思いであり卑怯なことなのかもしれないと思ったのです。まして、他人が自分が期待しているある一面しか、一時に持っていないと思うことも間違っていることなんだなと思ったのです。人にはいろんな面があって一人の人として出来上がっていて、その一面だけを知っていて、それと違う面を見たとたんに、「なんだつまらない人だ」と思うのはちょっとひどい話です。
作者と読者の関係においては、自分が好きな作者の面で書かれた作品だけを読んでいればいいのですが、ちょっと村上さんとはそういうわけには行かなくなってくるんですよね、こんなに何冊も読んでいると。まして、僕は高校一年生から村上さんの本に触れてきたわけだから(あの頃は若者が一度は通る道、程度にしか村上さんは評価されていなかったように思う)、今さら「なんだこんな面もあるのか、つまらない」といって無視したり、絶交するわけにはいかないのです。
つまり、そういう人間関係が生まれつつあり、そういう人間関係を求めてもいるのです。それは、村上さんだけに限った話じゃなくて、もっと広く一般的な人間関係においてもそうだなと思い、なんとなく、「未成熟なエッセイ集」とは切り捨てられなくなったと言うことです。
そうそう、僕はこの本のタイトルはずっと前から知っていて、「外国語が日本にやってきて、外来語として日本に定着するんだけど、変な使われ方や間違った使われ方をしていて、何となく哀しい」みたいな話をしている本だと勝手に思っていましたが、そういう本ではありませんでした。
じゃー、「やがて哀しき外国語」というタイトルの意味は何だと聞かれれば、それは読んでみてください、としか僕はいえません。
僕の解釈とあなたの解釈は違うかもしれませんから。けどどっちがいいとか悪いとか、どっちが正解でどっちが間違いというものではないと思うのです。ただ、僕はこう思うし、あなたはあなたで自分で読んでみるべきだと思うのです。
こういう表現がとにかくたくさん出てきますので、読むときは、注意してくださいね。
外国語で自分の気持ちを正確に伝えるコツというものが書かれていたので引用します。
村上さん曰く、これは<文章の書き方>にも当てはまるということですが、まったくそうだなあと思います。
なんとなく、文章が成熟してないなー、という言葉で片付けようかと思っていたのだけれど、そういう気分でもなくなってしまった。つまり、結局最後まで読み通して、僕はどこかで、村上春樹のアメリカ生活に共感してしまったのだ。
これは、村上春樹がプリンストンに滞在していた二年の間に書かれたエッセイのようなものです。中に書かれていることは、おもに村上さんがアメリカ滞在中に思ったアメリカのことについてです。1991年ごろからの二年間で、どういう時期かというと、パワーブック(当時の村上さんの愛用PC)が世の中には出ているんだけど、値段が2千ドルくらいして、日本で買うとその倍の値段がしところだそうです。とんでもなく高い。それでも一時に比べると「だいぶ安くなった」そうです。
なぜ、成熟していないと思ったかというと、同じエッセイなら、僕は「走ることについて語るときに僕の語ること」の方が圧倒的に好きだし、感じ入るものがたくさんあるなと思うからです。それに、この本の中で村上さんは、「どっちがいいとは言いたくない病」に強くおかされているのです。つまり、「AとBがあって、僕はAが好きなんだけど、それはどっちがよくてどっちが悪いというものではない」あるいは「AとBのどちらもがきっと正しい」なんてことをなんどもなんども、テーマを変えて言っているのです。「今の村上さんはその病気から立ち直ったのか」と聞かれると、僕には分からないし、「それは本当に病気なのか」と聞かれると、やはり僕には分からないです。けど、なんとなくすっきりしないなーと思うし、村上春樹らしい文体ではないなと思うのです。
しかし、「スプートニクの恋人」の稿でも似たようなことを僕は言ったけど、村上さんはこのことに関して割と明確に答えています。つまり、文体や言葉遣いなんてしょっちゅう変わる、と。その一方で「自分なりの『折り合った』日本語の文章のスタイル」を身に着けたなんていっているから、なんだ卑怯じゃないか、なんて思うわけだけど、他人がずっと同じ状態でいることに期待すること自体がおかしなことだし、こっちの勝手な思いであり卑怯なことなのかもしれないと思ったのです。まして、他人が自分が期待しているある一面しか、一時に持っていないと思うことも間違っていることなんだなと思ったのです。人にはいろんな面があって一人の人として出来上がっていて、その一面だけを知っていて、それと違う面を見たとたんに、「なんだつまらない人だ」と思うのはちょっとひどい話です。
作者と読者の関係においては、自分が好きな作者の面で書かれた作品だけを読んでいればいいのですが、ちょっと村上さんとはそういうわけには行かなくなってくるんですよね、こんなに何冊も読んでいると。まして、僕は高校一年生から村上さんの本に触れてきたわけだから(あの頃は若者が一度は通る道、程度にしか村上さんは評価されていなかったように思う)、今さら「なんだこんな面もあるのか、つまらない」といって無視したり、絶交するわけにはいかないのです。
つまり、そういう人間関係が生まれつつあり、そういう人間関係を求めてもいるのです。それは、村上さんだけに限った話じゃなくて、もっと広く一般的な人間関係においてもそうだなと思い、なんとなく、「未成熟なエッセイ集」とは切り捨てられなくなったと言うことです。
そうそう、僕はこの本のタイトルはずっと前から知っていて、「外国語が日本にやってきて、外来語として日本に定着するんだけど、変な使われ方や間違った使われ方をしていて、何となく哀しい」みたいな話をしている本だと勝手に思っていましたが、そういう本ではありませんでした。
じゃー、「やがて哀しき外国語」というタイトルの意味は何だと聞かれれば、それは読んでみてください、としか僕はいえません。
僕の解釈とあなたの解釈は違うかもしれませんから。けどどっちがいいとか悪いとか、どっちが正解でどっちが間違いというものではないと思うのです。ただ、僕はこう思うし、あなたはあなたで自分で読んでみるべきだと思うのです。
こういう表現がとにかくたくさん出てきますので、読むときは、注意してくださいね。
外国語で自分の気持ちを正確に伝えるコツというものが書かれていたので引用します。
(1)自分が何を言いたいのかということをまず自分がはっきりと把握すること。そしてそのポイントを、なるべく早い機会にまず短い言葉で明確にすること。
(2)自分がきちんと理解しているシンプルな言葉で語ること。難しい言葉、カッコいい言葉、思わせぶりな言葉は不要である。
(3)大事な部分はできるだけパラフレーズする(言い換える)こと。ゆっくりと喋ること。できれば簡単な比喩を入れる。(p179)
村上さん曰く、これは<文章の書き方>にも当てはまるということですが、まったくそうだなあと思います。
綿矢りさ「蹴りたい背中」
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1984年、京都生まれ。僕と同い年の彼女が、史上最年少という19歳で芥川賞をとった作品をようやく読みました。
主人公が、16歳、高校一年生なわけですが、なんとなく懐かしい感じがしましたね。
作品の冒頭で、
というシーンが出てくるのですが、すごく良く分かります。中学高校の頃というのは、どうしてもこういう緊張にあり溢れているものです。筆者が言うとおり、「適当なところに座れといわれて、適当なところに座る子なんて、一人もいない」わけですし、そこには「一瞬のうちに働く緻密な計算」があるわけです。
そういった、グループ分けとか、男女混合の仲良しグループとか、あるいは「男友達(あるいは女友達)」という言葉の響きに対する単純な憧れとか、そういうものがなんとも懐かしいなと思わせるわけです。
そういう中にあって、主人公は、いわゆる「輪に入れない子」。けど、自分を「輪に入らない子」として描き出そうとしているのです。解説の人が、「そういう状況を「シカト」や「イジメ」というわかりやすい言葉で説明したくない」と解説しているのですが、僕はそれを読んでぞっとします。
ちょっと待ってくれ。あれは「シカト」でも「イジメ」でもないだろうと。筆者もそんなつもりで、「その状況」を描いたわけではないと信じたい。むしろ、そういう孤立を生んでしまっているのは、自分自身(つまり主人公)の心なんです。いじめられる人が悪い、とか言っているわけじゃない。だって、いじめなんてないんですから。
「仲良しごっこ」的な雰囲気や、「沈黙を埋めるだけの会話」に主人公は心底疲れてきっているのです。しかし、主人公だって孤独は嫌だし、友達は欲しい。いやしかし、友達がいないということは表層的な問題であって、本当の問題は「本当の友達を作ろう」とする人、あるいは雰囲気が教室にはないことが問題なのです。そういう虚無感と、本物の孤独感が、主人公が背負っているものなのではないでしょうか。
勝手に、自分と同い年の筆者を同じグループとみなし、その言葉を代弁させてもらうなら、僕らは、そういう上っ面の、建前だけの世界を生きてきた世代なのです。KYだとか、最近になって言われているけど、それは今になって「空気を読まない人」が出てきたわけじゃない。「空気を読まない人」が多すぎて、その人が市民権を得てきた。あるいは、そういう人たちを十把一からげに呼ぶ必要が出てきたということなのです。
すこし話題がそれましたが、もし、筆者が描き出したものが、上手にグループに入れない人を「シカト」したり「イジメ」たりする、学校という場なのであるなら、僕はそこには共感できないのです。
そうではなくて、上っ面の付き合いがしんどくて、そこから自らドロップアウトしているんだけど、そんなこといったって、自分だって友達は欲しいし、男友達だって欲しい。そういう微妙な、15〜16歳の気持ちを「背中を蹴る」という愛情表現なのか、孤独のサインなのか、他人に分かってもらうどころか、自分にだって分からない方法によって、象徴していることが、この作品の核なんじゃないかなと僕は思います。
ちなみに、高校のグループに上手く溶け込みながらも、主人公のハツとついたり離れたりしながらうまくやっている、中学からの友達の「絹代」の存在がとっても救いです。
そして、ハツと仲良くしてる絹代がいじめられていないことが(ハツと仲良くしていることを理由によって、という意味ですが)、やはり、ハツがいじめられていないという証拠になるんじゃないかなと思います。
1984年、京都生まれ。僕と同い年の彼女が、史上最年少という19歳で芥川賞をとった作品をようやく読みました。
主人公が、16歳、高校一年生なわけですが、なんとなく懐かしい感じがしましたね。
作品の冒頭で、
「今日は実験だから、適当に座って五人で一班を作れ。先生が何の気なしに言った一言のせいで、理科室にはただならぬ緊張が走った。」
というシーンが出てくるのですが、すごく良く分かります。中学高校の頃というのは、どうしてもこういう緊張にあり溢れているものです。筆者が言うとおり、「適当なところに座れといわれて、適当なところに座る子なんて、一人もいない」わけですし、そこには「一瞬のうちに働く緻密な計算」があるわけです。
そういった、グループ分けとか、男女混合の仲良しグループとか、あるいは「男友達(あるいは女友達)」という言葉の響きに対する単純な憧れとか、そういうものがなんとも懐かしいなと思わせるわけです。
そういう中にあって、主人公は、いわゆる「輪に入れない子」。けど、自分を「輪に入らない子」として描き出そうとしているのです。解説の人が、「そういう状況を「シカト」や「イジメ」というわかりやすい言葉で説明したくない」と解説しているのですが、僕はそれを読んでぞっとします。
ちょっと待ってくれ。あれは「シカト」でも「イジメ」でもないだろうと。筆者もそんなつもりで、「その状況」を描いたわけではないと信じたい。むしろ、そういう孤立を生んでしまっているのは、自分自身(つまり主人公)の心なんです。いじめられる人が悪い、とか言っているわけじゃない。だって、いじめなんてないんですから。
「仲良しごっこ」的な雰囲気や、「沈黙を埋めるだけの会話」に主人公は心底疲れてきっているのです。しかし、主人公だって孤独は嫌だし、友達は欲しい。いやしかし、友達がいないということは表層的な問題であって、本当の問題は「本当の友達を作ろう」とする人、あるいは雰囲気が教室にはないことが問題なのです。そういう虚無感と、本物の孤独感が、主人公が背負っているものなのではないでしょうか。
勝手に、自分と同い年の筆者を同じグループとみなし、その言葉を代弁させてもらうなら、僕らは、そういう上っ面の、建前だけの世界を生きてきた世代なのです。KYだとか、最近になって言われているけど、それは今になって「空気を読まない人」が出てきたわけじゃない。「空気を読まない人」が多すぎて、その人が市民権を得てきた。あるいは、そういう人たちを十把一からげに呼ぶ必要が出てきたということなのです。
すこし話題がそれましたが、もし、筆者が描き出したものが、上手にグループに入れない人を「シカト」したり「イジメ」たりする、学校という場なのであるなら、僕はそこには共感できないのです。
そうではなくて、上っ面の付き合いがしんどくて、そこから自らドロップアウトしているんだけど、そんなこといったって、自分だって友達は欲しいし、男友達だって欲しい。そういう微妙な、15〜16歳の気持ちを「背中を蹴る」という愛情表現なのか、孤独のサインなのか、他人に分かってもらうどころか、自分にだって分からない方法によって、象徴していることが、この作品の核なんじゃないかなと僕は思います。
ちなみに、高校のグループに上手く溶け込みながらも、主人公のハツとついたり離れたりしながらうまくやっている、中学からの友達の「絹代」の存在がとっても救いです。
そして、ハツと仲良くしてる絹代がいじめられていないことが(ハツと仲良くしていることを理由によって、という意味ですが)、やはり、ハツがいじめられていないという証拠になるんじゃないかなと思います。