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子安宣邦のブログ -思想史の仕事場からのメッセージ-

2014年09月

「方法としてのアジア」再考
—〈方法としての日本〉という道 子安宣邦

竹内がいう「方法としてのアジア」とは、ヨーロッパ近代が生み出しながら、その輝きを失わせてしまっている〈普遍的価値〉をアジアによって包みかえし、その輝きを再びとりもどすことはアジアにできるのではないか、そのアジアとは〈方法として〉のアジアだということである。
ここで確認しておかねばならないのは、竹内の「方法としてのアジア」論に前提されている歴史(世界史)認識である。すなわち、アジアは近代の〈普遍的価値〉を共有する世界史的過程に、1840年以降、軍事力による強制という仕方によったにせよ、参入したという歴史(世界史)認識である。だがアジアのこの世界史への参入の過程はアジアにとっては従属化、あるいは植民地化という〈負〉の歴史過程であった。アジアにとって〈負〉の歴史過程である世界史の過程は、ヨーロッパの生み出した自由・人権・平等といった〈普遍的価値〉を泥まみれにさせていった過程だと竹内はいうのである。その失われた輝きをもう一度輝かせることができるとすれば、それは〈負〉の過程を余儀なくされた〈アジア〉によってだと彼はいうのである。
だがそのアジアとは〈実体〉としてではない、〈方法〉としてだと竹内はいうのである。すなわち、アジアがヨーロッパへの対抗的な〈価値的実体〉として独自的な〈アジア〉を再構成することによってではないというのである。〈負〉の歴史過程をたどることを余儀なくされたアジアが、そのアジアであることによって、輝きを失った〈人類的価値〉をもう一度輝かせること、そのことによって世界史の上に普遍的アジアの刻印をおすことができるアジアになることである。私はここで具体的に〈日本〉について語ろう。

19世紀後半に同じく西洋の軍事的強制によって近代化過程に入った日本は、20世紀に入ると先進帝国主義国家と同列の位置を獲得していった。しかし竹内が「ドレイ的日本」と侮蔑の言葉でいったこの近代日本は、アジアにおける加害者になることで近代化の〈負〉の帰結を見出さざるをえなかったのである。戦後日本はこの歴史的な〈負〉の遺産を自ら負うことで再出発したはずである。非軍事的な平和主義的国家日本であることは、歴史的な〈負〉の遺産を負いながら日本が、世界史にプラスの価値印しを捺しうる日本になる唯一の道であった。
だがこの世紀に入って新自由主義的な構造改革を唱える歴史修正主義者小泉による政権が成立し、さらにその後継者である正真正銘の歴史修正主義者安倍による政権が成立して、この戦後日本の戦争責任を自覚したものの道のあからさまな変更が告げられ、その変更が遂げられようとしている。彼らが歴史修正主義者であるのは、近代日本がアジアの加害者となることで歴史に残した〈負〉の遺産を負うことを拒否することにある。だがこのことをいいながら私がここで強調したいのは、この歴史修正主義的政権をもちながらも、現代日本の市民は実に粘り強く戦後日本の平和主義的な国家原則を抵抗的に持ち続けているということである。日本の市民たちにおけるこの原則の抵抗的な保持が、自民党政権によるあからさまな軍事的国家への改憲的変更の企図を挫折させているのである。これこそが歴史における〈負〉の遺産を自己責任的に負いながら日本がそのような日本であることを通じて〈人類的価値〉につながっていく唯一の道、すなわち〈方法として〉の〈日本〉であることであろう。

[ここに載せた文章は、前にブログに公表した文章「帝国と儒教と東アジア—〈東アジア〉問題を今どう考えるか」の結論部分を補充したものである。そしてこれは11月に予定されているソウルでの講演の結びの一部をなすものでもある。その文章をあえていまブログ上に公表するのは、これが日本の戦う仲間たちに一日でも早く伝えたい私のメッセージであるからである。]


「思想史教室」からのお知らせ—10月の予定 子安宣邦
*だれでも、いつでも聴講できる「思想史の教室」です


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論語塾伊藤仁斎とともに『論語』を読む
10月25日(土)・12時〜15時 1雍也篇1 2顔淵篇2
会場:rengoDMS(連合設計社市谷建築事務所)JR飯田橋駅西口から徒歩5分


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思想史講座—「〈大正〉を読む」
20世紀の〈帝国〉日本は大正に形成されたのです。にもかかわらず大正は明治と昭和との間に陥没させたままです。遅まきながら大正の読み直し、再発見の作業を始めたいと思います。
*大阪教室:懐徳堂研究会 10月18日(土)・13時〜15時
「なぜいま大正なのか」
会場:梅田アプローズタワー・13階11号会議室

*東京教室:昭和思想史研究会
10月11日(土)・13時〜16時
「なぜいま大正なのか」
会場:早稲田大学14号館10階1040教室(予定)

*参考文献:成田龍一『大正デモクラシー』
(シリーズ日本近現代史・4、岩波新書)



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NHKカルチャー京都教室—「本居宣長とは誰か」

10月18日(土) 宣長は『源氏物語』をどう読んだか
*テキスト 子安『本居宣長とは誰か』平凡社新書

会場:NHK文化センター京都教室(四条通・四条SETビル3階)


帝国と儒教と東アジア

東アジア問題を今どう考えるか・2 子安宣邦

1 儒教の多元性

私はこの世紀の変わり目の時期に連続して台湾での「儒学」や「東亜問題」をめぐる学術集会に招かれ、多くの報告もし、議論にも加わった。台湾における「東亜儒学」という学術的問題領域の新たな形成にとって、日本思想史家であり、日本の近世儒学を専門にする私が必要とされたのであろう。

1997年4月に私は台南の成功大学で開催された「台湾儒学」を主題にした学術シンポジウムに報告者として招かれた。だが私はその招聘状にある「台湾儒学」という主題の意味を計りかねていた。台湾ナショナリズムの興隆がこの主題をもたらしていることは想像できても、その主題は台湾の文化的な主体、文化的な同一性の策定を促すものなのか、新たな文化的中心としての台湾の再構築なのか、それとも大中華主義への台湾からの呼応であるのか。そのいずれとも私は計りかねていた。ただ一般に,儒学を主題とする国際学術会議が、「現代化」「国際化」のスローガンに呼応しての過去の儒学的教説の恣意的な現代的解釈の退屈な述べ合いになることを知っていたし、恐らくこれもまたそのような会議であろうと不遜にも私は想像していた。私は「日本からいかに儒教を問うのか」という〈儒教問題〉をめぐる方法論的な報告を用意して台南のシンポに参加した[1]

私は会議における報告を聞くにしたがって「台湾儒学」というこのシンポに掲げられた主題の意味を理解していった。そこでなされた報告は、台湾の保守的月刊誌『孔孟月刊』の本土文化一元論的な儒学主義に対する批判であり、日本占拠時代の台湾儒学についてであり、台湾平埔族の儒教的教化をめぐる問題であり、さらに台湾一貫道における対儒家的融合などなどであった。それらは「台湾儒学」という問題設定とともに開かれる言説地平の豊かな広さをつぶさに私に教えた。台湾から「儒教・儒学」を見るという視座の成立が、一元論的な儒学的言説を解体させ、多様な儒教的言説への視点を開いているのである。「台湾儒学」という主題に危惧を抱いて参加した私は、シンポの会場にあって目を開かれたのである。

これらの「台湾儒学」という問題群は、ポスト・コロニアルの、あるいはカルチュラル・スタディーズの問題群だということができるだろう。だが私はこれらを台湾という中国の周辺から〈儒教・儒学〉を見ることから見出される〈儒教の多元性〉にかかわる問題構成としてとらえていった。シンポの最終日に総括の言葉を求められた私は黒板に儒教の座標軸を描きながら、〈儒教の多元性〉をめぐる総括の言葉をのべていった。

「いまひとつの図を描いてみたいと思います。文化的中心から周縁に向けての水平な文化軸を引きます。伝統的には中華帝国が文化的中心に位置し、日本帝国が新たな中心を主張しました。またそれと交差する形で古代から今代にいたる時間(歴史)軸を垂直に引きます。さらに三次元的に社会軸、すなわち帝国の官僚、学者(教授)、知識人から社会の末端の民衆層に至る社会軸を描き加えますと、それらの各象限に実に多数の儒教文化が成立し、展開したとみることができます。しかし私がこのような図を描くのは、それぞれの多様な儒教文化にそれぞれの位置を持ち分けさせようとするためではありません。むしろ「儒学」の文化一元論的な記述が〈帝国〉のナラティヴにほかならないことを明らかにするためです。〈文化的中心〉と〈帝国の官僚・学者〉にみずからを同一化させ、〈本来的始原〉に己れの視点を同定させる研究者によって〈真正〉な「儒学」は構成され、正統な儒学史が記述されることになるでしょう。そして彼の目からは軸上の末端に成立する儒教文化は〈歪曲〉と〈卑俗〉とをもって見られることになります。純粋な概念の同一性からなる〈真正〉な「儒学・儒学史」とはそうした研究者の語る〈帝国〉の哲学的ナラティヴなのです。〈儒教文化の多元性〉とは〈帝国〉の哲学的ナラティヴとしての「儒学史」の脱構築の上に開かれる文化理解のための新たな立場です。この会議が〈儒教文化の多元性〉という文化理解の新たな方向を指し示したことの重要性を私は確認したいと思います。」

17年前の台南における「台湾儒学」国際学術シンポジウムの熱っぽい総括の言葉を私は長く引いた。それはこのシンポを通じて私は〈東アジア〉と〈儒教の多元性〉という〈近世日本儒教〉研究の意義、すなわち日本思想史研究者としての私の自立性にかかわる概念を新たに見出しえたからである。それは〈帝国の中心ー周縁的関係性からなる一元的儒学・儒学史の解体とそれからの離脱によってえられる開かれた地平をいう概念である。私の〈徳川儒教〉[2] 研究は、東アジアの多元的儒教の一構成体の研究を通してその多元的儒教文化の豊穣を実現していくことになるのである

だが台湾における〈東亜儒学〉という新たな学術的言説と学問領域のその後の形成は、〈東アジア〉における〈儒教の多元性〉という中国にとって未知の領野を開くというよりは、〈帝国〉の一元的な世界に帝国の周縁に成立する多様な地域的儒教を包摂する〈一元多様体〉としての儒教世界の構成という方向をとっていったのである。〈一元多様体〉とは現代中国の〈帝国〉的統合を仮装する文化的、政治的イデオロギーである。私がいう〈東アジア〉とは台湾・中国で「東亜儒学」という〈東亜〉ではない。

2 「東亜文化圏」は「中国文化圏」か

「東亜文化圏の形成と発展」という学術シンポジウムが台湾大学で開催されたのは2002年6月である。このシンポジウムは私が台南の「台湾儒学」のシンポジウムで〈儒教の多元性〉とともに見出した〈東アジア〉概念とはまったく違う、むしろその解体的な克服をいってきた〈東亜〉概念に基づくものであった。その開催趣意書は主題に掲げられた「東亜文化圏」をこう説明している。

「いわゆる「東亜文化圏」とは、近代以前の東亜文明世界を指している。近代以前、世界は数個の歴史世界からなっていた。それはたとえば地中海世界であり、イスラム世界であり、インド世界であり、また東亜世界である。東亜世界とは地理的に中国本土を中心として、今日の韓国・日本・ベトナムなどの地域を包括する。この東亜世界は中国文化を主要成分していることにおいて,他の歴史世界とはっきりと区別される。まことに銭穆がいっているように、中国文化は農業文化・平和文化であり、また古い文明国中でなお唯一現存する最優秀な文化である。これによって考えれば、中国文化の持久性は東亜文化圏の重要な特質を形成する。・・・東亜文化圏は漢字・儒教・律令・科学技術(特に医学・算学・陰陽学・天文・暦算など)・中国仏教の五要素を包括している。東亜文化圏の形成は一気になされたわけではない。長い時間と幾多の転変を経ねばならなかった。・・・隋唐の中国統一は歴史を画する意義をもっている。ここにはじめて中国文化圏が形成され、一元化された東亜世界が出現するのである。」[3]

1997年4月の台南の「台湾儒学」のシンポで、〈東アジア〉で儒教を問うことはかくあるべきだと思った私は、その5年後、台北の「東亜文化圏」のシンポで〈中華帝国〉に収納されてしまった〈東亜〉あるいは〈東亜儒学〉を見ることになった。これは5年という歳月がもたらした変化であるのか。あるいは台南(周縁)と台北(中心)という文化地理的位相がもたらす変化なのか。それとも〈東亜〉とはもともと〈中国〉に包摂される文化圏にほかならなかったのか。だがもともと〈中国文化圏〉であるものを、なぜいま〈東亜文化圏〉として語り直そうとするのか。それは中国の周縁である台湾を発信基地とする〈中国文化圏〉の語り直しであるのか。たしかに「東亜文明」とは、20世紀のアジアの新たな中心となった日本帝国からする「中華文明」の〈帝国〉的語り直しであった[4] 。とすれば中国は己れの周縁・台湾によって〈中国文化圏〉を〈東亜文化圏〉として〈帝国〉的に再構成する語り直しをやっていることになるのではないか。〈東亜文化圏〉をいうことによって何が変わるのか。それが〈中国文化圏〉であることの実質に何の変化もない。ただ広域文化圏としての仮装をしただけではないのか。

私は台北での学術シンポジウム「東亜文化圏の形成と展開」の総会で、あるいは最後の総括の場で、「東亜」を実体的な概念としてではなく、方法的な概念として考えるべきだといったのである。

「私は「東亜」概念の再構成にあたって方法的であるべきだといいたい。方法的ということは、「東亜」の実質的な、あるいは実体的な再生に対立しながら、「東亜」をあくまで思想の方法的な概念に組み替えていくことである。実体的な「東亜」とは、有機的な一体性をもった「東亜」の結合原理を求めながら、帝国的な言説として再構成されるものである。そのような「東亜」とは中華帝国の、あるいは日本帝国の代替物でしかなかったし、そうでしかないだろう。「東亜」概念をめぐって方法的であるとは、この実体的な「東亜」,帝国的言説としての「東亜」の再生に批判的であるということである。同時に「東亜」は方法的な概念へと組み替えられていかねばならない。「東亜」概念がもつ多元性への視点がここで方法的な視点として、「東亜」をめぐる言説的実践に貫かれることが必要である。」[5]

この文章は注記したように、2002年の台北での「東亜文化圏」シンポをめぐって書いた私の論文「「東亜」概念と儒学」の結論部分からの引用である。こうした自説の繰り返される引用は、〈東アジア〉問題をめぐって、私の近い過去の論説をたぐり寄せながら、問題を再構成し、〈東アジア〉の可能性を見出そうとするこの論述のスタイルに免れがたいものであることをご理解ねがいたい。私はこの12年前の文章を引きながら、東アジアの国際環境はいっそう難しい、厳しいものになっている現在でも、この結論がもつ意義はなお失われていないと思わざるをえなかった。この結論を写している私にここで求められていることは、〈方法〉的概念として〈東アジア〉をいうことの意味を、示唆的提示以上に、納得できるものにすることであろう。

3 〈方法としてのアジア〉再考

〈アジア〉の可能性を〈方法〉概念をもっていったのは竹内好が初めである。またぞろ竹内かと人はいうかもしれない。私自身もすでに何度も竹内と彼がいう「方法としてのアジア」について論じている[6] 。だが竹内のいうこのテーゼを除いて、われわれにおける〈アジア問題〉の理論的再構成を助けるものは他にない。戦後日本から、われわれの負う歴史と置かれている現実と己れ自身の認識に立って〈アジア〉をいった例外的な言葉でこれはある。

竹内がいう〈方法〉とは〈実体〉に対するものである。彼は1960年の講演でこういっている。「東洋の力が西洋の生み出した普遍的な価値をより高めるために西洋を変革する、これが今の東対西という問題点になっている。・・・その巻き返す時に、自分の中に独自なものがなければならない。それは何かというと、おそらくそういうものが実体としてあるとは思わない。しかし方法としてはありうるのではないか。」(「方法としてのアジア」[7]

竹内はここで「方法として」ということ以上に何もいっていない。後に竹内はこの講演を彼の評論集[8] に収録するに当たって補筆している。すなわち「方法としては」の後に「つまり主体形成の過程としては」という言葉を補っている。だがこの補正によって竹内の積極的な読み手たちが、アジア的変革を担う民族的主体の形成を通じてのヨーロッパ近代とその〈普遍的価値〉の練り直しのように解するならば、それは竹内が「方法としてのアジア」といったことと微妙に違う、新たな価値的な〈実体としてのアジア〉の形成をいうことになってしまうのではないか。すなわちアジア的主体による近代ヨーロッパの超克の方式になってしまうのではないか。そうなると竹内の〈方法としてのアジア〉とは、「社会主義的核心的価値」をいう現代中国の党=国家的戦略と同じものになってしまうだろう。これは溝口雄三がいう〈方法としての中国〉である。

溝口もまた竹内の〈方法としてアジア〉にならって〈方法としての中国〉をいった[9] 。だが溝口の〈方法としての中国〉とは、世界認識、歴史認識の基準としてのヨーロッパ的世界史を読み直す方法としての中国的近代の独自性の認識を意味している。したがって溝口の〈方法としての中国〉は〈実体としての独自的中国〉を生み出してしまうのである。だから私は竹内のテーゼへの民族主体の読み入れと、溝口の〈方法としての中国〉は同じだというのである。

竹内がいう〈方法としてのアジア〉とは、ヨーロッパ近代が生み出しながら、近現代史の過程でその輝きを失わせている〈普遍的価値〉をアジアで包みかえし、その輝きを再びとりもどすことはアジアにできるだろうということである。この〈アジア〉とは、中心周縁という関係性において己れを中心化させたり、もう一つの中心となろうとする帝国的〈アジア〉ではない。竹内がいうのは〈アジア〉が〈アジア〉であることで〈普遍的価値〉を高めていくことである。竹内の〈方法としてのアジア〉がいおうとするのは、アジアの多元的な世界が、その多元性を通じて人類の普遍的価値を充実させ、輝かしていく道である。

私は台湾における〈儒教〉や〈東亜問題〉シンポの体験をたぐり寄せながら、〈東アジア〉をめぐって私に可能な言葉を求めてきた。私は〈東アジア〉をいうことは〈帝国〉の仮装であってはならない。〈東アジア儒教〉をいうことは、東アジアの〈多元的儒教世界〉を見出すことである。私は徳川儒教がコピーでも、まがい物でもないことを知っている。私は徳川儒教の豊穣な成果の認識を通じて、これを成立せしめた朱子学の普遍的意味を再発見しているのである。それは宮嶋のいう「儒教モデル」としての朱子学とは全く違う。私は伊藤仁斎を通して孔子という存在の本当の意味を再発見するのである。私が徳川日本の仁斎によって『論語』を読むということは、〈東アジア〉における、むしろ〈世界〉における『論語』あるいは〈孔子の学〉の普遍的な意味を再発見することであるのだ。



[1] 台南における「台湾儒学」国際学術シンポジウムについては、そこでの私の報告と総括とを含む文章を『思想』(883号、1998年1月)に「儒教文化の多元性」として書いている。これは『方法としての江戸』(ぺりかん社、2000)に収録されている。

[2] 〈徳川儒教〉という呼び方は、近世日本を〈徳川日本・Tokugawa Japan〉と呼ぶ欧米の日本研究における呼び方にしたがったものである。私は〈皇国日本〉の連続性に立たない〈徳川日本〉という呼び方の良さを認めている。ところで多元的儒教の一構成体としての〈徳川儒教〉の研究を通して、私は〈徳川儒教〉そのものを日本に成立させた〈朱子学〉の普遍性を再発見している。だが私その普遍性を再発見する〈朱子学〉とは、宮嶋のいう〈儒教パラダイム〉を構成するような朱子学ではない。それは普遍的な哲学的言説・知識体系としての朱子学である。

[3] 国際学術シンポ「東亜文化圏の形成と展開」の開催趣意書を含めて、この会議がもつ問題やその会議における「東亜」概念を巡る私の発言については、私の「「東亜」概念と儒学」(『「アジア」はどう語れてきたか』収録、藤原書店、2003)を参照されたい。

[4] 昭和日本と「東亜」概念については、私の「昭和日本と「東亜」の概念」(『「アジア」はどう語られてきたか』所収)を参照されたい。

[5] これはシンポ「東亜文化圏の形成と展開」をめぐって書いた私の論文「「東亜」概念と儒学」の結論部分の引用である。この論文は当初藤原書店の季刊誌『環』の2002年夏号に掲載された。

[6] 子安『「近代の超克」とは何か』(青土社、2008)、『日本人は中国をどう語ってきたか』(青土社、2012)など。

[7] 『思想史の対象と方法』所収、武田清子編、創元社、1961。

[8] 『日本とアジア』竹内好評論集・第3巻、筑摩書房、1966。

[9] 溝口の「方法としての中国」については、前掲『日本人は中国をどう語って来たか』で私は詳しく論評している。

帝国と儒教と東アジア東アジア問題を今どう考えるか・その1 子安宣邦

「帝国は、諸国家がいかに連合していくかという問題に対して、歴史的な教訓を与えるものです。・・・だから、帝国の経験は、マルクス主義であろうとなかろうと、けっして見逃すことのできないものです。」 柄谷行人「帝国・儒教・東アジア」

「さらに今日、グローバリズムが席捲する中で、儒教モデル受容の歴史的経験の不在という条件が日本の進路を大きく制約していると考えられること、云々」

宮嶋博史「日本史認識のパラダイム転換のために」

1 香港の〈帝国〉的再統合

いま中国の津々浦々に次ぎのような12の言葉が流布していると、朝日新聞の論説記者はいっている。それは「富強・民主・文明・和諧・自由・平等・公正・法治・愛国・敬業・誠信・友善」という12の言葉である[1] 。北京の中心部の交差点に立つ巨大な広告塔にも、そして内陸地方都市の銀行や商店の電光掲示板、さらにバスやタクシーの中にまで中国の「社会主義核心的価値観」を表現する12の標語があふれているというのである。この12の標語には中国の党=国家が忌避してきた近代的民主社会の諸価値も含まれている。
中国の党中央は昨年の春、各大学に講義してはならない七つの主題を提示したという。それは「七不講」と呼ばれている。すなわち「(人権などの)普遍的価値」「報道の自由」「市民社会」「共産党の歴史的過ち」「司法の独立」などである
[2] 。とすればあの12の標語における「民主」も「自由」も「平等」も、そして「公正」も「法治」も、近代的民主社会における〈普遍的価値〉—中国はこれを近代欧米社会における〈特殊的価値〉とする—とは異なった、まさしく中国のいう〈社会主義的価値〉であることになる。中国の人びとは街に氾濫するこの12の標語を見ても、また例によってお上のキャンペーンだとして気にも留めない風であると記者はいっている。
だが私は中国の街中に氾濫する12の標語の報道を聞いて、「これはすごいことだ!」とあらためて思わざるをえなかった。中国が従来批判し、その受容を拒否してきた欧米的近代社会における〈普遍的価値〉を、おのれの独自的価値系列に組み入れ、「社会主義核心的価値」として再構成し、再提示してしまう中国のふてぶてしい大国性に、私はあらためて「これはすごい」と感嘆せざるをえなかった。しかしこれに感嘆するとともに、私は香港における行政長官選挙をめぐる政治的事態の性格をも理解したのである。
中国の
全人代常務委員会が2017年に予定される香港行政長官の選挙をめぐって8月31日にした決定とは、香港市民に許されるのは〈社会主義的価値〉としての「民主」であり、「自由」だけだということである。市民に許されるのは、ただ限定された候補者についての投票行為だけだということである。そのことは「一国二制度」をいわれる自治的行政区香港が、〈社会主義的価値〉の共有体としてあらためて中国に〈一国的〉に、いいかえれば政治的制度、価値観において一多様体としてある香港が中国に〈帝国〉的に再統合されようとしていることを意味している。これは東アジア世界におけるわれわれの存立にかかわる重大な問題だと私は考えている。だが香港の〈帝国〉的再統合に、東アジアにおけるわれわれ日本人の存立にかかわる危機を感じ取っているものはほんの少数でしかない。

2 中国の〈帝国〉的現前とその承認

香港における民主的、市民的権利の行方について強い危機意識をもって見つめている日本人はまことに少数である。香港の問題だけではない、今年の春の台湾における学生らによる立法院占拠という〈民主的台湾〉のための闘争に支援の手を差し伸べ、支援の言葉を届けようとしたものは日本にはほとんどいなかったのである。私が台北に駆けつけても、それはただ例外性を示すことにしかならなかった。
これは中国本土における民主化運動についてもいえることである。中国の党=国家政府によって規制されることがなくとも、日本の〈進歩的〉知識人たち、ことに中国に関わりの深い学者・知識人・出版人たちはあたかも自主規制しているかのように口を
(とざ)すのである。いや彼らは自主規制するというよりも、民主化運動を抑圧し、言論を封殺する中国党政府の側の正当性をむしろ積極的に認めているように私には思われるのだ。中国本土における民主化運動だけではない、香港市民の民主的権利をめぐる抵抗闘争についても、台湾の学生たちによる台湾の民主的自立をかけた闘争についても、〈社会主義的価値〉の共有による〈帝国〉的統合を貫こうとする中国の党政府の側に彼らは正当性を認めているのではないか。これは当てこすりの非難ではない。東アジア市民の民主的自立のための闘争に、終始沈黙をもって対する現代日本の知識人たちの政治的態度から自ずから導かれる結論である。なお自らを〈社会主義〉国とする経済大国中国に常に寄り添うかのごとき日本の〈革新的〉知識人の中国党政府との親和的姿勢は東アジアにおいて、いや世界においても稀れなことだろう。
私は中国の自治的行政区香港における市民の民主的権利を抑圧して行われようとする行政長官選挙は、〈社会主義的〉中国による香港の〈帝国〉的再統合ではないかといった。明・清朝中国の〈帝国〉的領域の正統的継承をいい、〈中華民族〉のより強大な復興をいう現代中国はすでに〈帝国〉を自認しているといえるだろう。香港の行政長官選挙をめぐる事態は、中国の〈帝国〉的現前を香港市民だけではない、東アジアのわれわれにまざまざと見せつける事態である。
この〈帝国〉的に現前する現代中国を日本の知識人たちはいち早く承認しているように私には思われる。さきに『世界史の構造』[3] (岩波書店、2010)で世界史に〈中華帝国〉の正当な位置を回復させた柄谷行人は、中国・清華大学での講義からなる新著『帝国の構造』(青土社、2014)で、〈帝国〉としての統合的支配の経験を中国のために歴史から語り出し、東アジア周辺・亜周辺地域における〈帝国〉体験をコリアと日本のために歴史から語り出している。この『帝国の構造』が東京の書店の店頭に大量に平積みされている光景を見て、「これは一体何なのか?」「何を意味するのか?」といった問いを繰り返し発せざるをえなかった。さらにこの書の翻訳本が、北京で、ソウルで、そして台北でやがて販売され、あるいはすでに販売されていることを思うと、私の疑問と困惑とは東アジアと等身大のものとなる。〈中国=帝国〉は東アジアですでに文書上にはっきりと現前しているのである。
〈中国=帝国〉の歴史的な再帰的意味づけをすでに早くしていったのは日本の中国史・東洋史学者たちであった。彼らは唐宋間の変革に中国近世の始まりを見る内藤湖南の説を継承発展させ、十一世紀の宋朝帝国に政治史、経済史、社会史、思想史、さらに技術史的近世(早期近代)の始まりを論証していった。それは世界史的にずば抜けて早い近世(近代)の始まりであった。この宋朝近世は哲学的に体系化された新儒学(宋学・朱子学)を成立させ、官吏登用試験としての科挙を皇帝国家的制度として確立させた。こうして皇帝に直属する国家官僚・官吏(士大夫)層が儒家的教養をもった読書人階層として成立することになる。貴族の領主的支配に属していた平民は、この貴族を廃絶した宋帝国にあって、官僚的な統治機構に組み入れられながらも人身的に帰属することはなく、むしろ皇帝の直接的な支配体系に帰属する平民になるのである。内藤湖南はこの宋朝的中国社会の成立を近世(近代)と呼んだのである。中国的近世とは「君主専制時代」であるとともに「平民発展時代」であると湖南はいう。

「それで貴族時代が崩れて、そうして君主も貴族から解放されます。平民も貴族から解放される。丁度平民が解放された時代が君主も解放されて、そうして君主が政権を専有して居りましたが、それに支配されるものは平民で、その間の貴族という階級が取れましたから、それで君主専制時代が即ち平民発展時代になります。」[4]

ところで世界史的にずば抜けて早く成立する宋朝近世(近代)の国家社会体制を「儒教モデル」と呼びながら、東アジアの近代史の根本的な読み直し、とらえ直しを朝鮮史の宮嶋博史がいっている。宮嶋がいう「儒教モデル」とは、「儒教=朱子学を理念として掲げ、その理念の実現を目指す国家、社会体制のことである。その核心は、儒教に関する深い知識を有する者を科挙によって選抜し、彼らが国家統治を担当すること、および、統治のもっとも重要な方法として「礼」が位置づけられ、「礼治」の徹底をはかることの二点にある」[5] という儒教的統治システムである。これだけでは「儒教モデル」の理念型的構成としては不完全ではあるが、宋朝近世社会の世界史的な早期の成立を、普遍的哲学、知識、道徳体系としての新儒学(宋学・朱子学)の成立との強い関係性の上に宋朝近世の国家社会を「儒教モデル」という普遍的な類型をもって再提示しようとした意図は理解される[6] 。宮嶋はこの「儒教モデル」を構成することによって、この「儒教モデル」との関係の中で日本近代史を、すなわち日本近代のいち早い成立も、また東アジアの現在における日本の孤立をも読み解いていくのである。

「一九世紀なかばまでの日本が東アジアで周辺的な地位にあったというとき、その最大の根拠は、日本における儒教モデルの拒否にあったこと、そして一九世紀後半以降日本が東アジアの中心に駆けあがることができたのも儒教モデルから日本が相対的に自由であったことが決定的に作用したこと、さらに今日、グローバリズムが席捲する中で、儒教モデル受容の歴史的経験の不在という条件が日本の進路を大きく制約していると考えられること・・・。」

宮嶋は「儒教モデル」による日本史認識のパラダイム転換をこのようにいうのである。このパラダイム転換は日本史についてだけいうのではない。これはもともと世界史認識におけるパラダイム転換である。すなわち〈ヨーロッパ的近代〉から〈宋朝的近代〉への世界史認識における〈近代〉の範型的転換である。この歴史認識のパラダイム転換の要求には、〈ヨーロッパ的近代〉の行き詰まり、あるいはその終焉の認識が前提されている。それゆえこのパラダイム転換の主張は、アジアにおける〈近代の超克〉の21世紀的な表現でもあるだろう。20世紀の〈近代の超克〉論は、その論の構成基盤に皇国的中心・日本と八紘一宇の帝国的周辺とをすでにもっていた。21世紀の〈近代の超克〉論が暗黙に前提しているのは、〈宋朝的近代〉を21世紀的現代に実現する東アジアの〈社会主義〉的な中心周辺的関係を備えた〈帝国〉=中国である。たしかにそうだ、「日本史認識におけるパラダイム転換」論は21世紀中国の〈帝国〉的現前と、成立の時期をともにしているのである。
最後に宮嶋の「パラダイム転換」の問題提起は与那覇潤の『中国化する日本一日中「文明の衝突」一千年史』
[7] といういっそう過剰な「パラダイム転換」による文明論的な歴史裁断の言説を成立させていることをいって、私の〈東アジア〉論への長すぎた現状認識的序論を終えよう。



[1] 朝日新聞「社説余滴」(201492日)。記者は国際社説担当の村上太輝夫。

[2] 朝日新聞「学問の自由縛る七不講」(消される言葉・天安門事件から25年3、201461日)。

[3] 『世界史の構造』については私のブログ「子安宣邦のブログ -思想史の仕事場からのメッセージ- : 中国と〈帝国〉の経験 柄谷『世界史の構造』を読む http://t.co/7JsTEfcZ0u 」を参照されたい。

[4] 内藤湖南「近代支那の文化生活」『支那論』所収、創元社、1938

[5] 宮嶋博史「日本史認識のパラダイム転換のために一「韓国併合」100年にあたって」『思想』20101月、岩波書店。

[6] 宮嶋の「儒教モデル」を補強するものとして、伊東貴之のいうところを引いておこう。「宋「近世」説における、世界史的に見た、中国の政治社会の相対的な「先進性」への評価のひとつの眼目が、開かれた社会的な流動性を担保する、科挙官僚体制の充実にあることは、見易い道理であろう。」(伊東「伝統中国をどう捉えるか?」『現代思想』2014年3月号。)

[7] 与那覇潤『中国化する日本一日中「文明の衝突」一千年史』文藝春秋、2011。



「思想史教室」からのお知らせ—9月の予定

*
論語塾伊藤仁斎とともに『論語』を読む
9月27日(土)・12時〜15時 1公冶長篇3 2顔淵篇1
10月25日(土)・12時〜15時 1雍也篇1 2顔淵篇2
会場:rengoDMS(連合設計者市谷建築事務所)JR飯田橋駅西口から徒歩5分

*
思想史講座—「中国問題」をめぐって

*大阪教室:懐徳堂研究会
9月20日(土)・13時〜15時
「帝国と儒教と東アジア—〈東アジア〉問題を私はどのように考えてきたか」
会場:梅田アプローズタワー14階1402号会議室

*東京教室:昭和思想史研究会
9月13日(土)・13時〜16時
「帝国と儒教と東アジア—〈東アジア〉問題を私はどのように考えてきたか」
会場:早稲田大学14号館10階1040教室(予定)

*「中国問題」をめぐる思想史講座の最終回として『現代思想』14年3月号の特集 「いまなぜ儒教か」の柄谷・丸川の対談テーマ「帝国・儒教・東アジア」を批 判的に逆用して、私における〈東アジア問題〉の構成の過程を語ります。

*「思想史講座」は10月から大阪教室も東京教室も新しいテーマになります。

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NHKカルチャー京都教室—「本居宣長とは誰か」

9月20日(土)・10時〜11時30分 「物のあはれを知る心」とは何か
テキスト:子安『本居宣長とは誰か』平凡社新書

会場:NHK文化センター京都教室(四条通・四条SETビル3階)


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