帝国と儒教と東アジア
—東アジア問題を今どう考えるか・2 子安宣邦
1 儒教の多元性
私はこの世紀の変わり目の時期に連続して台湾での「儒学」や「東亜問題」をめぐる学術集会に招かれ、多くの報告もし、議論にも加わった。台湾における「東亜儒学」という学術的問題領域の新たな形成にとって、日本思想史家であり、日本の近世儒学を専門にする私が必要とされたのであろう。
1997年4月に私は台南の成功大学で開催された「台湾儒学」を主題にした学術シンポジウムに報告者として招かれた。だが私はその招聘状にある「台湾儒学」という主題の意味を計りかねていた。台湾ナショナリズムの興隆がこの主題をもたらしていることは想像できても、その主題は台湾の文化的な主体、文化的な同一性の策定を促すものなのか、新たな文化的中心としての台湾の再構築なのか、それとも大中華主義への台湾からの呼応であるのか。そのいずれとも私は計りかねていた。ただ一般に,儒学を主題とする国際学術会議が、「現代化」「国際化」のスローガンに呼応しての過去の儒学的教説の恣意的な現代的解釈の退屈な述べ合いになることを知っていたし、恐らくこれもまたそのような会議であろうと不遜にも私は想像していた。私は「日本からいかに儒教を問うのか」という〈儒教問題〉をめぐる方法論的な報告を用意して台南のシンポに参加した[1] 。
私は会議における報告を聞くにしたがって「台湾儒学」というこのシンポに掲げられた主題の意味を理解していった。そこでなされた報告は、台湾の保守的月刊誌『孔孟月刊』の本土文化一元論的な儒学主義に対する批判であり、日本占拠時代の台湾儒学についてであり、台湾平埔族の儒教的教化をめぐる問題であり、さらに台湾一貫道における対儒家的融合などなどであった。それらは「台湾儒学」という問題設定とともに開かれる言説地平の豊かな広さをつぶさに私に教えた。台湾から「儒教・儒学」を見るという視座の成立が、一元論的な儒学的言説を解体させ、多様な儒教的言説への視点を開いているのである。「台湾儒学」という主題に危惧を抱いて参加した私は、シンポの会場にあって目を開かれたのである。
これらの「台湾儒学」という問題群は、ポスト・コロニアルの、あるいはカルチュラル・スタディーズの問題群だということができるだろう。だが私はこれらを台湾という中国の周辺から〈儒教・儒学〉を見ることから見出される〈儒教の多元性〉にかかわる問題構成としてとらえていった。シンポの最終日に総括の言葉を求められた私は黒板に儒教の座標軸を描きながら、〈儒教の多元性〉をめぐる総括の言葉をのべていった。
「いまひとつの図を描いてみたいと思います。文化的中心から周縁に向けての水平な文化軸を引きます。伝統的には中華帝国が文化的中心に位置し、日本帝国が新たな中心を主張しました。またそれと交差する形で古代から今代にいたる時間(歴史)軸を垂直に引きます。さらに三次元的に社会軸、すなわち帝国の官僚、学者(教授)、知識人から社会の末端の民衆層に至る社会軸を描き加えますと、それらの各象限に実に多数の儒教文化が成立し、展開したとみることができます。しかし私がこのような図を描くのは、それぞれの多様な儒教文化にそれぞれの位置を持ち分けさせようとするためではありません。むしろ「儒学」の文化一元論的な記述が〈帝国〉のナラティヴにほかならないことを明らかにするためです。〈文化的中心〉と〈帝国の官僚・学者〉にみずからを同一化させ、〈本来的始原〉に己れの視点を同定させる研究者によって〈真正〉な「儒学」は構成され、正統な儒学史が記述されることになるでしょう。そして彼の目からは軸上の末端に成立する儒教文化は〈歪曲〉と〈卑俗〉とをもって見られることになります。純粋な概念の同一性からなる〈真正〉な「儒学・儒学史」とはそうした研究者の語る〈帝国〉の哲学的ナラティヴなのです。〈儒教文化の多元性〉とは〈帝国〉の哲学的ナラティヴとしての「儒学史」の脱構築の上に開かれる文化理解のための新たな立場です。この会議が〈儒教文化の多元性〉という文化理解の新たな方向を指し示したことの重要性を私は確認したいと思います。」
17年前の台南における「台湾儒学」国際学術シンポジウムの熱っぽい総括の言葉を私は長く引いた。それはこのシンポを通じて私は〈東アジア〉と〈儒教の多元性〉という〈近世日本儒教〉研究の意義、すなわち日本思想史研究者としての私の自立性にかかわる概念を新たに見出しえたからである。それは〈帝国の中心ー周縁的関係性からなる一元的儒学・儒学史の解体とそれからの離脱によってえられる開かれた地平をいう概念である。私の〈徳川儒教〉[2] 研究は、東アジアの多元的儒教の一構成体の研究を通してその多元的儒教文化の豊穣を実現していくことになるのである。
だが台湾における〈東亜儒学〉という新たな学術的言説と学問領域のその後の形成は、〈東アジア〉における〈儒教の多元性〉という中国にとって未知の領野を開くというよりは、〈帝国〉の一元的な世界に帝国の周縁に成立する多様な地域的儒教を包摂する〈一元多様体〉としての儒教世界の構成という方向をとっていったのである。〈一元多様体〉とは現代中国の〈帝国〉的統合を仮装する文化的、政治的イデオロギーである。私がいう〈東アジア〉とは台湾・中国で「東亜儒学」という〈東亜〉ではない。
2 「東亜文化圏」は「中国文化圏」か
「東亜文化圏の形成と発展」という学術シンポジウムが台湾大学で開催されたのは2002年6月である。このシンポジウムは私が台南の「台湾儒学」のシンポジウムで〈儒教の多元性〉とともに見出した〈東アジア〉概念とはまったく違う、むしろその解体的な克服をいってきた〈東亜〉概念に基づくものであった。その開催趣意書は主題に掲げられた「東亜文化圏」をこう説明している。
「いわゆる「東亜文化圏」とは、近代以前の東亜文明世界を指している。近代以前、世界は数個の歴史世界からなっていた。それはたとえば地中海世界であり、イスラム世界であり、インド世界であり、また東亜世界である。東亜世界とは地理的に中国本土を中心として、今日の韓国・日本・ベトナムなどの地域を包括する。この東亜世界は中国文化を主要成分していることにおいて,他の歴史世界とはっきりと区別される。まことに銭穆がいっているように、中国文化は農業文化・平和文化であり、また古い文明国中でなお唯一現存する最優秀な文化である。これによって考えれば、中国文化の持久性は東亜文化圏の重要な特質を形成する。・・・東亜文化圏は漢字・儒教・律令・科学技術(特に医学・算学・陰陽学・天文・暦算など)・中国仏教の五要素を包括している。東亜文化圏の形成は一気になされたわけではない。長い時間と幾多の転変を経ねばならなかった。・・・隋唐の中国統一は歴史を画する意義をもっている。ここにはじめて中国文化圏が形成され、一元化された東亜世界が出現するのである。」[3]
1997年4月の台南の「台湾儒学」のシンポで、〈東アジア〉で儒教を問うことはかくあるべきだと思った私は、その5年後、台北の「東亜文化圏」のシンポで〈中華帝国〉に収納されてしまった〈東亜〉あるいは〈東亜儒学〉を見ることになった。これは5年という歳月がもたらした変化であるのか。あるいは台南(周縁)と台北(中心)という文化地理的位相がもたらす変化なのか。それとも〈東亜〉とはもともと〈中国〉に包摂される文化圏にほかならなかったのか。だがもともと〈中国文化圏〉であるものを、なぜいま〈東亜文化圏〉として語り直そうとするのか。それは中国の周縁である台湾を発信基地とする〈中国文化圏〉の語り直しであるのか。たしかに「東亜文明」とは、20世紀のアジアの新たな中心となった日本帝国からする「中華文明」の〈帝国〉的語り直しであった[4] 。とすれば中国は己れの周縁・台湾によって〈中国文化圏〉を〈東亜文化圏〉として〈帝国〉的に再構成する語り直しをやっていることになるのではないか。〈東亜文化圏〉をいうことによって何が変わるのか。それが〈中国文化圏〉であることの実質に何の変化もない。ただ広域文化圏としての仮装をしただけではないのか。
私は台北での学術シンポジウム「東亜文化圏の形成と展開」の総会で、あるいは最後の総括の場で、「東亜」を実体的な概念としてではなく、方法的な概念として考えるべきだといったのである。
「私は「東亜」概念の再構成にあたって方法的であるべきだといいたい。方法的ということは、「東亜」の実質的な、あるいは実体的な再生に対立しながら、「東亜」をあくまで思想の方法的な概念に組み替えていくことである。実体的な「東亜」とは、有機的な一体性をもった「東亜」の結合原理を求めながら、帝国的な言説として再構成されるものである。そのような「東亜」とは中華帝国の、あるいは日本帝国の代替物でしかなかったし、そうでしかないだろう。「東亜」概念をめぐって方法的であるとは、この実体的な「東亜」,帝国的言説としての「東亜」の再生に批判的であるということである。同時に「東亜」は方法的な概念へと組み替えられていかねばならない。「東亜」概念がもつ多元性への視点がここで方法的な視点として、「東亜」をめぐる言説的実践に貫かれることが必要である。」[5]
この文章は注記したように、2002年の台北での「東亜文化圏」シンポをめぐって書いた私の論文「「東亜」概念と儒学」の結論部分からの引用である。こうした自説の繰り返される引用は、〈東アジア〉問題をめぐって、私の近い過去の論説をたぐり寄せながら、問題を再構成し、〈東アジア〉の可能性を見出そうとするこの論述のスタイルに免れがたいものであることをご理解ねがいたい。私はこの12年前の文章を引きながら、東アジアの国際環境はいっそう難しい、厳しいものになっている現在でも、この結論がもつ意義はなお失われていないと思わざるをえなかった。この結論を写している私にここで求められていることは、〈方法〉的概念として〈東アジア〉をいうことの意味を、示唆的提示以上に、納得できるものにすることであろう。
3 〈方法としてのアジア〉再考
〈アジア〉の可能性を〈方法〉概念をもっていったのは竹内好が初めである。またぞろ竹内かと人はいうかもしれない。私自身もすでに何度も竹内と彼がいう「方法としてのアジア」について論じている[6] 。だが竹内のいうこのテーゼを除いて、われわれにおける〈アジア問題〉の理論的再構成を助けるものは他にない。戦後日本から、われわれの負う歴史と置かれている現実と己れ自身の認識に立って〈アジア〉をいった例外的な言葉でこれはある。
竹内がいう〈方法〉とは〈実体〉に対するものである。彼は1960年の講演でこういっている。「東洋の力が西洋の生み出した普遍的な価値をより高めるために西洋を変革する、これが今の東対西という問題点になっている。・・・その巻き返す時に、自分の中に独自なものがなければならない。それは何かというと、おそらくそういうものが実体としてあるとは思わない。しかし方法としてはありうるのではないか。」(「方法としてのアジア」[7]
竹内はここで「方法として」ということ以上に何もいっていない。後に竹内はこの講演を彼の評論集[8] に収録するに当たって補筆している。すなわち「方法としては」の後に「つまり主体形成の過程としては」という言葉を補っている。だがこの補正によって竹内の積極的な読み手たちが、アジア的変革を担う民族的主体の形成を通じてのヨーロッパ近代とその〈普遍的価値〉の練り直しのように解するならば、それは竹内が「方法としてのアジア」といったことと微妙に違う、新たな価値的な〈実体としてのアジア〉の形成をいうことになってしまうのではないか。すなわちアジア的主体による近代ヨーロッパの超克の方式になってしまうのではないか。そうなると竹内の〈方法としてのアジア〉とは、「社会主義的核心的価値」をいう現代中国の党=国家的戦略と同じものになってしまうだろう。これは溝口雄三がいう〈方法としての中国〉である。
溝口もまた竹内の〈方法としてアジア〉にならって〈方法としての中国〉をいった[9] 。だが溝口の〈方法としての中国〉とは、世界認識、歴史認識の基準としてのヨーロッパ的世界史を読み直す方法としての中国的近代の独自性の認識を意味している。したがって溝口の〈方法としての中国〉は〈実体としての独自的中国〉を生み出してしまうのである。だから私は竹内のテーゼへの民族主体の読み入れと、溝口の〈方法としての中国〉は同じだというのである。
竹内がいう〈方法としてのアジア〉とは、ヨーロッパ近代が生み出しながら、近現代史の過程でその輝きを失わせている〈普遍的価値〉をアジアで包みかえし、その輝きを再びとりもどすことはアジアにできるだろうということである。この〈アジア〉とは、中心—周縁という関係性において己れを中心化させたり、もう一つの中心となろうとする帝国的〈アジア〉ではない。竹内がいうのは〈アジア〉が〈アジア〉であることで〈普遍的価値〉を高めていくことである。竹内の〈方法としてのアジア〉がいおうとするのは、アジアの多元的な世界が、その多元性を通じて人類の普遍的価値を充実させ、輝かしていく道である。
私は台湾における〈儒教〉や〈東亜問題〉シンポの体験をたぐり寄せながら、〈東アジア〉をめぐって私に可能な言葉を求めてきた。私は〈東アジア〉をいうことは〈帝国〉の仮装であってはならない。〈東アジア儒教〉をいうことは、東アジアの〈多元的儒教世界〉を見出すことである。私は徳川儒教がコピーでも、まがい物でもないことを知っている。私は徳川儒教の豊穣な成果の認識を通じて、これを成立せしめた朱子学の普遍的意味を再発見しているのである。それは宮嶋のいう「儒教モデル」としての朱子学とは全く違う。私は伊藤仁斎を通して孔子という存在の本当の意味を再発見するのである。私が徳川日本の仁斎によって『論語』を読むということは、〈東アジア〉における、むしろ〈世界〉における『論語』あるいは〈孔子の学〉の普遍的な意味を再発見することであるのだ。
[1] 台南における「台湾儒学」国際学術シンポジウムについては、そこでの私の報告と総括とを含む文章を『思想』(883号、1998年1月)に「儒教文化の多元性」として書いている。これは『方法としての江戸』(ぺりかん社、2000)に収録されている。
[2] 〈徳川儒教〉という呼び方は、近世日本を〈徳川日本・Tokugawa
Japan〉と呼ぶ欧米の日本研究における呼び方にしたがったものである。私は〈皇国日本〉の連続性に立たない〈徳川日本〉という呼び方の良さを認めている。ところで多元的儒教の一構成体としての〈徳川儒教〉の研究を通して、私は〈徳川儒教〉そのものを日本に成立させた〈朱子学〉の普遍性を再発見している。だが私その普遍性を再発見する〈朱子学〉とは、宮嶋のいう〈儒教パラダイム〉を構成するような朱子学ではない。それは普遍的な哲学的言説・知識体系としての朱子学である。
[3] 国際学術シンポ「東亜文化圏の形成と展開」の開催趣意書を含めて、この会議がもつ問題やその会議における「東亜」概念を巡る私の発言については、私の「「東亜」概念と儒学」(『「アジア」はどう語れてきたか』収録、藤原書店、2003)を参照されたい。
[4] 昭和日本と「東亜」概念については、私の「昭和日本と「東亜」の概念」(『「アジア」はどう語られてきたか』所収)を参照されたい。
[5] これはシンポ「東亜文化圏の形成と展開」をめぐって書いた私の論文「「東亜」概念と儒学」の結論部分の引用である。この論文は当初藤原書店の季刊誌『環』の2002年夏号に掲載された。
[6] 子安『「近代の超克」とは何か』(青土社、2008)、『日本人は中国をどう語ってきたか』(青土社、2012)など。
[7] 『思想史の対象と方法』所収、武田清子編、創元社、1961。
[8] 『日本とアジア』竹内好評論集・第3巻、筑摩書房、1966。
[9] 溝口の「方法としての中国」については、前掲『日本人は中国をどう語って来たか』で私は詳しく論評している。