「方法としてのアジア」再考
—〈方法としての日本〉という道 子安宣邦
竹内がいう「方法としてのアジア」とは、ヨーロッパ近代が生み出しながら、その輝きを失わせてしまっている〈普遍的価値〉をアジアによって包みかえし、その輝きを再びとりもどすことはアジアにできるのではないか、そのアジアとは〈方法として〉のアジアだということである。
ここで確認しておかねばならないのは、竹内の「方法としてのアジア」論に前提されている歴史(世界史)認識である。すなわち、アジアは近代の〈普遍的価値〉を共有する世界史的過程に、1840年以降、軍事力による強制という仕方によったにせよ、参入したという歴史(世界史)認識である。だがアジアのこの世界史への参入の過程はアジアにとっては従属化、あるいは植民地化という〈負〉の歴史過程であった。アジアにとって〈負〉の歴史過程である世界史の過程は、ヨーロッパの生み出した自由・人権・平等といった〈普遍的価値〉を泥まみれにさせていった過程だと竹内はいうのである。その失われた輝きをもう一度輝かせることができるとすれば、それは〈負〉の過程を余儀なくされた〈アジア〉によってだと彼はいうのである。
だがそのアジアとは〈実体〉としてではない、〈方法〉としてだと竹内はいうのである。すなわち、アジアがヨーロッパへの対抗的な〈価値的実体〉として独自的な〈アジア〉を再構成することによってではないというのである。〈負〉の歴史過程をたどることを余儀なくされたアジアが、そのアジアであることによって、輝きを失った〈人類的価値〉をもう一度輝かせること、そのことによって世界史の上に普遍的アジアの刻印をおすことができるアジアになることである。私はここで具体的に〈日本〉について語ろう。
19世紀後半に同じく西洋の軍事的強制によって近代化過程に入った日本は、20世紀に入ると先進帝国主義国家と同列の位置を獲得していった。しかし竹内が「ドレイ的日本」と侮蔑の言葉でいったこの近代日本は、アジアにおける加害者になることで近代化の〈負〉の帰結を見出さざるをえなかったのである。戦後日本はこの歴史的な〈負〉の遺産を自ら負うことで再出発したはずである。非軍事的な平和主義的国家日本であることは、歴史的な〈負〉の遺産を負いながら日本が、世界史にプラスの価値印しを捺しうる日本になる唯一の道であった。
だがこの世紀に入って新自由主義的な構造改革を唱える歴史修正主義者小泉による政権が成立し、さらにその後継者である正真正銘の歴史修正主義者安倍による政権が成立して、この戦後日本の戦争責任を自覚したものの道のあからさまな変更が告げられ、その変更が遂げられようとしている。彼らが歴史修正主義者であるのは、近代日本がアジアの加害者となることで歴史に残した〈負〉の遺産を負うことを拒否することにある。だがこのことをいいながら私がここで強調したいのは、この歴史修正主義的政権をもちながらも、現代日本の市民は実に粘り強く戦後日本の平和主義的な国家原則を抵抗的に持ち続けているということである。日本の市民たちにおけるこの原則の抵抗的な保持が、自民党政権によるあからさまな軍事的国家への改憲的変更の企図を挫折させているのである。これこそが歴史における〈負〉の遺産を自己責任的に負いながら日本がそのような日本であることを通じて〈人類的価値〉につながっていく唯一の道、すなわち〈方法として〉の〈日本〉であることであろう。
[ここに載せた文章は、前にブログに公表した文章「帝国と儒教と東アジア—〈東アジア〉問題を今どう考えるか」の結論部分を補充したものである。そしてこれは11月に予定されているソウルでの講演の結びの一部をなすものでもある。その文章をあえていまブログ上に公表するのは、これが日本の戦う仲間たちに一日でも早く伝えたい私のメッセージであるからである。]
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