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子安宣邦のブログ -思想史の仕事場からのメッセージ-

2015年12月

「思想史講座」のお知らせー新春1月のご案内 子安宣邦

新年おめでとうございます。皆さまのご健勝とご多幸を祈り上げます。
本年もよろしくお願い申し上げます。
新年早々検査入院せざるをえず、昭和思想史研究会の講座の日程を変更させて頂きます。


*
思想史講座—「〈大正〉を読む」
大正 の末年から昭和初期にかけて、関東大震災後の社会的危機を背景に「日本精神」を標榜する論説・学説が登場してきます。1月には「日本精神」という言説の成立を考え、2月には和辻における「日本古代」についての倫理思想史的展開について考えます。

*大阪教室:懐徳堂研究会

「「日本精神」をいう言説の成立」
日時:1月16日(土)・13時〜15時
会場:梅田アプローズタワー・14階1407会議室

*東京教室:昭和思想史研究会

「「日本精神」をいう言説の成立」
日時(日程変更):1月30日(土)・13時〜16時

会場:早稲田大学14号館教室(予定)

参考文献:大川周明『日本精神研究』和辻哲郎『日本精神史研究』


*論語塾―伊藤仁斎とともに『論語』を読む

『論語』とともに、伊藤仁斎の『童子問』を読みます。

1月23日(土)12時〜15時 1 憲問篇 3 2 『童子問』上

資料は会場にて配布いたします。

会場:rengoDMS(連合設計社市谷建築事務所)JR飯田橋駅西口から徒歩5分



〈大正〉を読む・13

和辻と「偶像の再興」・その2 子安宣邦

ー津田批判としての和辻「日本古代文化」論

1 津田の記紀批判

「記紀の上代史が神代史と共に後世の創作であるといふことは、もう疑の余地がないと思ふ」と和辻が『日本古代文化』に書いたのは大正9年である。すでに津田の『神代史の新しい研究』(大正2年)も、その続編である『古事記及び日本書紀の新研究』(大正8年)も刊行されている。記紀によってわれわれは皇室と国家とそして民族の歴史的な起源なり成立をいうことができるのかという問いを、津田ははじめて真っ正面から突きつけたのである。この津田による記紀批判が導いた「結論」は、日本近代史において学問的・思想的言説がもたらした最大の事件であったといっていい。津田は「記紀の仲哀天皇(及び神功皇后)以前の部分に含まれてゐる種々の説話を歴史的事実の記録として認めることが今日の我々の知識と背反してゐるのは明かであらう」といい、また「国家の成立に関する、或は政治上の重大事件としての記紀の物語が一として古くからのいひ伝へによつたものらしくないとすれば、それが幾らか原形とは変つてゐようとも、根本が後人の述作たることに疑いは無からう」[1] ともいい切るのである。この津田による記紀批判の「結論」はさらに重大な言葉をもたらしている。

「要するに、記紀を其の語るがままに解釈する以上、民族の起源とか由来とかいふやうなことに関する思想を、そこに発見することは出来ないのであるが、それは即ち、記紀の説き示さうとする我が皇室及び国家の起源が、我々の民族の由来とは全く別のこととして考えられてゐたことを示すものである。記紀の上代の部分の根拠となつてゐる最初の帝紀旧辞は、六世紀の中ごろの我が国の政治組織と社会状態とに基づき、当時の官府者の思想を以て皇室の由来を説き、また四世紀の終ごろからそろそろ世に遺しはじめられた僅少の記録やいくらかの伝説やを材料として、皇室の御系譜や御事蹟としての物語を編述したものであつて、民族の歴史といふやうなものでは無い。」

記紀は皇室とそれを中心とした国家の起源を、しかも「後人の述作」によって語り出すものであって、決して民族の由来を語るものではないと津田はいう。「記紀の説き示さうとする我が皇室及び国家の起源が、我々の民族の由来とは全く別のこととして考えられてゐた」という津田の言葉は、記紀の神代史および上代史に天皇命(すめらみこと)とともにわが民族の生成する物語を読み取ろうとする民族主義的ロマンチシズムに冷水を浴びせるものであった。ここには皇室の起源と民族あるいは国民の起源とを一体視しない、きわめて健全で、考えてみれば当然の視点がある。そもそも明治の天皇制国家の創設ということが天皇と民族・国民との起源を一体視させるのであって、明治以前にそのような見方があったわけではない。天皇と民族との一体化を考えたのは『古事記』の再発見者である本居宣長ぐらいだろう.津田には明治が作り出す天皇制国家神話に簡単には与しない何かがあるようである。その何かとは、明治初期の青年たちの内に流れていった平民−国民主義的血潮だとここではいっておこう。彼に『文学に現はれたる国民思想の研究』を書かせるのはこの平民−国民主義である。

「こんな風であるから、民間に叙事詩は発達しないで、其の代り官府で神代史が作られたのである。神代史は官府もしくは宮廷の製作物であつて国民の物語では無く、初めから文字に書かれたものであつて伝誦したものでは無い。従つて又た知識の産物であつて、詩として生まれたものでは無く、特殊の目的を有つて作られたものであつて、自然に成り立つた国民生活の表象、国民精神の結晶ではない。」[2]

これは津田の「神代史」の諸研究とほとんど同じ時期に刊行された『文学に現はれたる国民思想の研究 貴族文学の時代』の第二章「文学の萌芽」における文章である。記紀の「神代史」とは、「国民生活の表象、国民精神の結晶ではない」と決然という津田の口調に注目すべきであろう。これは津田においてのみの聞きうるような、日本近代史における一回的な言葉だと私は見ている。21世紀日本においてなお国民文学的古典としてもてはやされる『古事記』の繁栄を見よ。かつて日本の公権力が抑え込んだあの津田の記紀批判の言葉を、現代の日本人は忘却の押入れに深くしまい込んだままにしているのである。


2 偶像の再構築

和辻の「日本古代文化」研究とは、津田の記紀批判という偶像破壊を受けてなされた偶像再興の作業である。記紀における神代史・上代史の記述が後人の創作になるものであることは、「もう疑の余地がないと思ふが」と津田の記紀批判を受け入れるかのようにいいながら和辻は反転する。「たとへ一つの構想によつてまとめられた物語であつても、その材料の悉くをまで空想の所産と見ることは出来ぬ」と和辻はいうのである。もちろんそうだ。津田が記紀の「神代史」を後人の編述になる「作り物語」というとき、そこに編み込まれた説話・民話の類いがすべて後人によって創作されたなどといっているのではない。一定の意志をもった後人の編述を創作といっているのである。その創作的意志の遂行の過程で説話の原形もまた変容されるのである。説話は作為をもって「神代史」に編み込まれるのである。それを明らかにするのが津田の詳細な本文批評をもってした記紀批判である。津田がいう「神代史」の編述を貫く後人の創作意志とは、皇室の創成を神話的起源に由来する創成史として、いいかえれば高天原の主宰神である日神を皇祖神とした皇室の創成史として、すなわち「神代史」として語り出そうとする創作意志である。

だから津田の記紀批判は、皇祖神を中心とした皇室の思想を「神代史」の骨子として明らかにするのである。皇室の存在は津田の記紀批判によって記紀の創作意志との相関のうちに置かれることになるのである。それは津田自身の皇室観とかかわることではない。それは「神代史」を「作り物語」とする津田の文献批判の論理、私が〈脱神話化〉という記紀批判の論理に由来することである。津田の記紀批判は、たしかに神話的起源をいう天皇制国家権力にとって禁止されねばならない学術的言論であった。そして和辻にとっても津田の記紀批判は、いま始まる再興の作業が過去に葬るべき偶像破壊を意味したのである。

偶像破壊とは人びとの奉じる神を殺すことである。偶像の再興とはその神を再び祭壇上に奉じることである。津田の記紀批判は神を殺したわけではない。神を裸にしてしまったのである。日本の神がまとっていた民族的、共同体的な〈神話〉的装いを彼ははぎ取ってしまったのである。それが『記紀』の〈脱神話化〉である。『記紀』は皇室の成立を語っても、民族の成立を語るものではないと津田はいった。『記紀』の「神代史」とは、国民の精神の結晶というべきものではないともいった。それを奉じる人びと(民族・国民)から切り離された神とは、殺されたにも等しいというべきだろう。

和辻は津田の記紀批判を偶像破壊だとした。彼は破壊された偶像を再興しようとする。ではどのように再興するのか。はぎとられた民族的、共同体的装いをもう一度日本の神々に着せることによってである。神代史に編み込まれた説話や民話からもう一度、それらを語り伝えた人びとの息づかいを聞き出すことによってである。神が再び共同体の神として、神と民族とが一つのものとして神代の物語から読み出されたとき、偶像は再興されたといえるだろう。『古事記』がもう一度発見されなければならないのである。


3 『古事記』の復興
和辻は『日本古代文化』における『古事記』再評価の章の冒頭でこういっている。「古事記を史料として取扱ふためには厳密な本文批評を先立てねばならぬ。しかしこれを想像力の産物として鑑賞するつもりならば、語句の解釈の他に何の準備も要らない。しかも古事記がその本来の意義を発揮するのは、後者の場合に於てではないだらうか。」この文章が津田による記紀の解体的批判後のものであることは明かである。だがここでは津田の記紀批判は和辻なりに理解されている。和辻は津田の記紀批判における厳密詳細な本文批評を『記紀』の史料性の吟味にかかわる作業としている。これは『記紀』の「神代史」を後人の創作とした津田の見方を、恐らく意図的に欠落させている。和辻は津田の解体的批判は『記紀』を歴史的史料としてみなすことの上になされたものであった。歴史的史料とみなすかぎり、「帝紀」に対して「旧辞」的な説話的部分を多くもつ『古事記』の史料的な意味はほとんど津田によって否定されると和辻は解するのである。こう解することから津田批判としての和辻の『古事記』復活の論理が展開されることになる。『古事記』が歴史的資料としてではなく、文化的あるいは文学的資料としてみなされるならば、その意義は別個に、積極的に見出されるはずだと和辻はいうのである。和辻はここで「想像力の産物」としてみなすならばという。和辻のいう想像力とは恣意的な空想をいうのではない。民族の国家的な統一を作り出す政治的制作力と同等であるような、民族の文化的な統一を作り出す文学的創作力をいうのである。『古事記』をこの意味での「想像力の産物」とするならば、その意義を解するには文学的解釈力だけがあればいいと和辻はいう。『古事記』の復興は文学的解釈力を自負する和辻によって担われるのである。

『古事記』とは日本の古代史のどこにもそれを歴史上に繋ぎ留める釘をもたない、いわば歴史的には浮游するテキストである。その成立は太安万侶の序という自己証明しかもっていない。その序には撰録が成って安万侶が『古事記』を元明天皇に献上したのは「和銅五年正月二八日」だと記されている。和銅5年とは712年である。だがこの年における『古事記』の成立を傍証するものは何もない。ちなみに『日本書紀』は養老4年(720)に成ったことが『続日本紀』に記されている。『古事記』が日本の最古の古書として見出され、その意義が評価されるに至ったのは本居宣長によってである。宣長は太安万侶の序を真実のものと信じた。「序は安万侶の(かけ)るにあらず、後の人のしわざなりといふ人もあれど、其は中々にくはしからぬひがこころえなり。すべてのさまをよく考るに、後に他人(あだしびと)の偽り書る物にはあらず、(うつな)く安万侶朝臣の作るなり。」(『古事記伝』二之巻)と宣長はいう。「序は恐らくは奈良朝の人の追て書し物かとおぼゆ」と宣長に告げたのは師である賀茂真淵であった[3] 。宣長は師に逆らう形で安万侶の序を真としたのである。これを真とすることは何を意味するのか。そのことはまず和銅5年(712)の『古事記』の成立を真とすることを意味する。さらに重要なことは、『古事記』成立の背後に天武天皇(命令者あるいは原形的古記録の選定者)と稗田阿礼(誦習者)とそして太安万侶(最終の撰録者)という統一的な意志をもった作者たちが存在することを序によって認めることである。古の事を古の言にしたがって正しく後に伝えようとする意志が『古事記』成立の背後に読み取られることになるのである。『古事記』テキストの成立過程に天武天皇の命にしたがってなされた稗田阿礼による誦習の過程を認めることは、このテキストがもつ古代性をいっそう確実にするのである。師に逆らってこの安万侶の序を真とすることによって、宣長の大著『古事記伝』ははじめて成るともいえるのである。

だが『古事記』とは危うい書である。虚心にこの安万侶の序を読むならば、これが何かを隠すがごとく装われた文章であることを直ちに認めるはずである。装飾的漢文の作為をにくむ宣長がそれに気づかなかったはずはない。しかし宣長はなおかつこれを真としたのである。宣長にこれを真とさせたのは、『古事記』の「旧辞」的世界がもつ古代性への信であったのかもしれない。『古事記』の「旧辞」的世界がもつ古代性への宣長の信が、安万侶の序をも真実とさせたのだろう。私がいいたいことはこうだ。『古事記』の古典性とは、後世における再評価的な発見者なり解釈者の存在と相関的だということである。『源氏物語』は宣長をまたずともわれわれにとっての古典でありえている。だが『古事記』は宣長なしにはわれわれにとっての古典ではない。『古事記』に対する宣長のこの位置を近代で継承し、再現するのが和辻だと私には思われる。

天武天皇は「帝紀を撰録し、旧辞を討覈(とうかく)して、偽りを削り実を定めて、後葉(のちのよ)(つた)」えることを欲せられ、稗田阿礼に「勅語して帝皇の日継及び先代の旧辞を誦み習」わしめたと太安万侶の序はいっている。後に安万侶はこれによって『古事記』を選録し、元明天皇に献上したというのである。和辻はこの安万侶の編集作業をこう考える。「もし安万侶が何らか手を加へたとすれば、それは従来離れてゐた帝皇日継と先代旧辞とを混合したことに過ぎないであらう。・・・古事記を芸術品として見るときには、右の混合は全体の統一に対する最も不幸な障害である。然らば安万侶は旧辞の芸術的価値を減殺する以上に内容的には何事をもしなかつたわけになる」と和辻はいうのである。安万侶の編成作業とは『古事記』がもつ「芸術的形式を破壊したに過ぎ」ないのである。ではもう一度『古事記』を高い芸術性において輝かすためにはどうするか。

「でもし我々が現在の古事記から帝皇日継と先代旧辞とを分離するならば、(即ち誤つて混合せられた系譜と物語とを、──散文的な現実の記録と想像から出た詩的叙述とを、──自然主義的記述と理想主義的記述とを、分離するならば、)そこに現はれた先代旧辞こそは、継体欽明朝に製作せられた一つの芸術的紀念碑なのである。」

『古事記』という一つのテキストから旧辞的部分だけを分離するというのはまったくの恣意である。だがこの恣意的操作によってはじめて『古事記』は現代に芸術的価値をもって甦るものであることを和辻のこの言葉は教えている。『古事記』とはたしかに危うい書なのだ。だが私が和辻による『古事記』再評価をめぐってのべてきたのは、『古事記』のこの危うさをいうためではない。和辻の『古事記』再評価によって、何が、いかにして甦るかである。何が、いかにして再興されるかである。

4
日本民族の読み出し

和辻は『古事記』の混合テキストから帝皇日継を洗い去ったところに「先代旧辞」という「一つの芸術的作品」を認めるのである。『古事記』の旧辞とされる神話・民話はただ寄せ集められた多数としてあるのではない、和辻はそれらを一つの芸術的な作品として見るのである。これを一つの作品とすれば、そこに作者が存在することになるだろう。「その作者が(単数であると複数であるとを問はず)上代のすぐれた芸術家であつたことを認める」と和辻はいうのである。その芸術的な価値においては『日本書紀』は『古事記』にはるかに及ばないと和辻はいう。その『日本書紀』について和辻は作者をいったりはしない。では『古事記』の「先代旧辞」の作者とはだれか。宣長はすでに和辻がいう「先代旧辞」の作者を天武天皇と稗田阿礼の二人に見ていたように思われる。和辻もまたこの二人を作者としていたのかもしれない。だがこの二人に見る作者とは、多くの異本群からこの「先代旧辞」を最良のものとした選定者であり、その旧辞の言語を誦習し、記憶にとどめた宮廷の語り部ではないのか。本当の作者とはその旧辞の中にこそいるのではないか。神話・民話として語り伝えられたこの「先代旧辞」をもしすぐれた一つの作品というならば、その本当の作者とは一つの言語(日本語)をもった神話・民話の想像力豊かな語りの匿名的多数の主体であるだろう。日本語をもった文化の共同的主体とは日本民族にほかならない。『古事記』の「先代旧辞」を和辻が一つの芸術的作品と認めたとき、彼は作者としての日本民族をその作品の背後に見出していたのである。

『日本古代文化』の冒頭の章「上代史概観」で和辻は、「我々の上代文化観察はかくの如き「出来上つた日本民族」を出発点としなければならぬ」といっている。彼は考古学的遺物をはじめ歌謡、神話、信仰、音楽、造形美術などによって上代文化を考察するが、その文化の共同的形成主体である日本民族がすでに出来上がっていることを前提にするというのである。混成せられた民族がすでに「一つの日本語」を話すところの「日本人」として現れてきていることを前提にするというのである。『古寺巡礼』の作者和辻にしてはじめてなしうるような日本上代文化の考察とは、芸術性豊かな日本民族を文化的遺物によって読み出すことでもあるのだ。『古事記』とはこの日本民族の最初にして最古の芸術的作品である。昭和の偶像はこのようにして再興された。


[1] ここに引くのは『古事記及び日本書紀の新研究』(大正8)を改訂した『古事記及日本書紀の研究』(大正13)の「結論」の章からである。

[2] 『文学に現はれたる国民思想の研究 貴族文学の時代』(岩波書店、大正5年)は戦後改訂され、『文学に現はれたる国民思想の研究 第一巻』として昭和26年に岩波書店から刊行された。ここの引用は『津田左右吉全集』別巻第二所収の大正5年初版本によっている。なおこの引用冒頭の「こんな風であるから」とは、漢文の知識も漢字利用も少数の貴族のものであって、国民の多数のものではなかった上代日本の風をいっている。

[3] 真淵が宣長宛書簡(明和5年3月13日)でいっている(『校本賀茂真淵全集』思想篇下、弘文堂書房、1942。

〈大正〉を読む・12 子安宣邦

和辻と「偶像の再興」・その1
─津田批判としての和辻「日本古代文化」論

1 偶像の破壊
『日本古代文化』の大正9年初版[1] の序で、「在来の日本古代史及び古代文学の批評」は彼にとっては「偶像破壊の資料」に過ぎなかったといっている。少年時代以来、和辻はさまざまな理由から「日本在来のあらゆる偶像を破壊しつくして」きたという。明治22年(1889)生まれの和辻にとってその青少年期は日露戦争の戦後という時代であった。日本近代史は最初の戦後をその時期に経過し、人びとも最初の戦後をその時期に体験したのである。日本は日露戦争とともに帝国主義的近代に入っていく。和辻ら明治後期の青年における近代意識の形成は、眼前の近代への批判意識の生起とともになされるものであった。あるいはむしろ批判意識とともに近代が彼らに自覚されるのである。青年和辻の最初の著書が『ニイチェ研究』であることは象徴的である。彼らは近代にそれが作る偶像の破壊を通して向き合うことになるのである。

和辻にとって「偶像破壊の資料」に過ぎなかったという「日本古代史及び古代文学の批評」とは何を指しているのか。津田の記紀批判の最初の著作『神代史の新しい研究』が公刊されたのは大正2年(1913)である。『古事記及び日本書紀の新研究』の刊行は大正9年(1919)である。その間に津田は『文学に現はれたる我が国民思想の研究』の「貴族文学の時代」「武士文学の時代」「平民時代・上」を刊行している。津田のこれらの書が和辻にとって重要な意味をもってくるのは、むしろ和辻の「偶像の再興」期における和辻の批判的文脈においてである。和辻の「偶像破壊の資料」というのは、津田のこれらの書に具現化されていった当時の史学的・文学的「批評」作業をいうのだろう。和辻がいう「批評」とは古典的文献に対する「高等批評」の謂いであり、文献学的なテキスト批判、史料批判を意味している。明治末年から大正にかけての時期、古典的文献・古代史料のテキスト批判的な吟味が古代史・古代文学研究の基本作業として重視されていった。津田の『神代史の新しい研究』の刊行に先立つ時期に白鳥庫吉が「『尚書』の高等批評」[2] という論文を発表している。白鳥は津田を先導する文献批判的方法意識をもった最初の東洋史学者である。同じく文献批判的方法意識をもった内藤湖南が東洋史講座開設のために京都大学に赴任するのが明治40年(1907)である。彼らによって新たな東洋学(オリエンタリステイック)あるいは支那学(シノロギー)が成立するのである。

この支那学の成立とともに四書五経といわれる儒教経書の原典性そのものが批判的に吟味されるようになる。聖なる成立時に鎮まっていた『論語』の原典性は容赦ない文献批判によって、後世的な長い編纂過程からなる人為的なテキストへと変容・解体されていくのである[3] 。それはまさしく偶像の破壊である。この偶像破壊的な文献批判が白鳥を介した津田によって『古事記』『日本書紀』という日本の国家的原典に向けてなされていくことになる。

『記紀』とは明治日本において国家の原初的な成立を証す根元的史料であった。『記紀』をこの意味での根元的史料としたのは明治国家である。明治における近代国家としての日本の成立が『記紀』をこの根元的史料として要請したのである。そこから神話における「神武創成」が日本国家の歴史的紀元とされることになった。『記紀』とは日本近代が「日本国家」とともに作り出した偶像である。この『記紀』という偶像に向けていま文献批判という偶像破壊的方法が用いられようとする。これは近代国家日本が直面する逆説的な事態である。あるいは王政復古的な日本近代がもった逆説というべきかもしれない。文献批判・史料批判を前提にした近代的な歴史研究・古代研究の成立が、近代が「国家」とともに作り出した「国家的原典」という偶像を破壊しようとするのである。それは明治末年から大正にかけての時期である。24歳で『ニイチェ研究』を処女出版した青年和辻も、この偶像破壊的な時代的エートスの中にいたのである。

2 偶像の再興

「日本文化、特に日本古代文化は、四年以前の自分にとつては、殆ど「無」であつた」と前に引いた『日本古代文化』の「初版序」で和辻はいっている。「四年以前」とは和辻が『ニイチェ研究』を出した時期、明治末年から大正の初年にかけての時期である。その時期、『記紀』の日本古代文化は彼にとってほとんど無かったのである。顧みるべき何物でもなかったのである。それは『日本古代文化』が出る大正9年(1920)に先立つ僅か四年以前の時期であった。津田による『記紀』文献批判的な偶像の解体が始められていったのもその時期である。だから和辻は「日本古代文化」の価値を再発見しようとするこの書で、「記紀の上代史が神代史と共に後世の創作であるといふことは、もう疑の余地がないと思ふ」と書いているのである。明らかに和辻は津田の日本神代史を「作り物語」とする見方を認めているのである。だがそのことを告げる和辻の言葉は、「もう疑の余地がないと思ふが」と反転し、「たとへ一つの構想によつてまとめられた物語であつても、その材料の悉くをまで空想の所産と見ることは出来ぬ」(「上代史概説」5)というのである。これは『記紀』の再発見的読みの可能性をいう言葉である。和辻の『日本古代文化』は、一度破壊された『記紀』という偶像の再興を図ろうとする書である。だからかつて偶像破壊者であった自分はいまここでは「すべてが破壊しつくされた跡に一つの殿堂を建築すべく、全然新しい道を取らなくてはならなかつた」(初版序)と書くのである。和辻はいまや偶像の再興者になったのである。

若き日に偶像破壊者であった和辻は転向した。大正7年(1918)に刊行した評論集『偶像再興』(岩波書店)の冒頭の「序言」でいっている。「予は当時を追想して烈しい羞恥を覚える。しかし必ずしも悔いはしない。浅薄ではあつても、とにかく予としては必然の道であつた。さうしてこの歯の浮くやうな偶像破壊が、結局、その誤謬をもつて予を導いたのであつた」[4] と。羞恥とともに回想される偶像破壊とは、自己の未成熟からくる模倣的な破壊衝動であったのか。ともあれ彼は転向する。そして偶像は再興さるべき権利をもっていると書くのである。「破壊せらるべき偶像がまた再興せらるべき権利を持つといふ事実は、偶像破壊の瞬間においてはほとんど顧みられない。破壊者はただ対象の堅い殻にのみ目をつけて、その殻に包まれた漿液のうまさを忘れている。」

少年和辻をかつて偶像破壊へと向かわせた理由について、「数知れぬさまざまな理由」と『日本古代文化』の「初版序」に和辻は書いている。ではその彼を偶像の再興者へと転向させた理由は何か。「一人の人間の死が偶然に自分の心に呼び起した仏教への驚異、及び続いて起つた飛鳥奈良朝仏教美術への驚嘆が、はからずも自分を日本の過去へ連れて行つた」と和辻は同じく「初版序」に書いている。かつての彼にとって無きに等しかった「日本古代文化」の再発見に彼を導いたのは「一人の人間の死」であったといっているのである。和辻の精神の転換を導くほどの重い意味をもった「一人の人間の死」とは何であったかを探る手段を私はもっていない。和辻の「年譜」にはそれを窺わせる記事はない。「ある子供の死(なき坂秀夫の霊に手向く)」[5] という『思想』(大正10年11月)に載った文章があるが、その「子供の死」が上の「一人の人間の死」であるかどうかは分からない。ともあれ「一人の人間の死」が和辻における精神的な転換を導いたのである。『偶像再興』に「転向」を記したその翌大正8年に和辻は『古寺巡礼』を出版する。和辻の名を今に留める名著である。『日本古代文化』が刊行されるのはその翌大正9年である。

和辻の人生において重い意味をもった「一人の人間の死」が彼の精神の転換を導いた。偶像の破壊者であった和辻は、再興さるべき権利をもったものとして偶像を再び見出すのである。日本の古代とその文化は、いま再発見者和辻をもつことになるのである。「一人の人間の死」は和辻の個人史をこえた重い意味を日本文化史あるいは日本近代史の上にもつことになるのである。

3 津田の記紀批判

「記紀の上代史が神代史と共に後世の創作であるといふことは、もう疑の余地がないと思ふ」と和辻が『日本古代文化』に書いたのは大正9年である。すでに津田の『神代史の新しい研究』(大正2年)も、その続編である『古事記及び日本書紀の新研究』(大正8年)も刊行されている。『記紀』によってわれわれは皇室と国家とそして民族の歴史的な起源なり成立をいうことができるのかという問いを、津田ははじめて真っ正面から突きつけたのである。この津田による記紀批判が導いた「結論」は、日本近代史において学問的・思想的言説がもたらした最大の事件であったといっていい。津田は「記紀の仲哀天皇(及び神功皇后)以前の部分に含まれてゐる種々の説話を歴史的事実の記録として認めることが今日の我々の知識と背反してゐるのは明かであらう」といい、また「国家の成立に関する、或は政治上の重大事件としての記紀の物語が一として古くからのいひ伝へによつたものらしくないとすれば、それが幾らか原形とは変つてゐようとも、根本が後人の述作たることに疑いは無からう」[6] ともいい切るのである。この津田による『記紀』批判の「結論」はさらに重大な言葉をもたらしている。

「要するに、記紀を其の語るがままに解釈する以上、民族の起源とか由来とかいふやうなことに関する思想を、そこに発見することは出来ないのであるが、それは即ち、記紀の説き示さうとする我が皇室及び国家の起源が、我々の民族の由来とは全く別のこととして考えられてゐたことを示すものである。記紀の上代の部分の根拠となつてゐる最初の帝紀旧辞は、六世紀の中ごろの我が国の政治組織と社会状態とに基づき、当時の官府者の思想を以て皇室の由来を説き、また四世紀の終ごろからそろそろ世に遺しはじめられた僅少の記録やいくらかの伝説やを材料として、皇室の御系譜や御事蹟としての物語を編述したものであつて、民族の歴史といふやうなものでは無い。」

記紀は皇室とそれを中心とした国家の起源を、しかも「後人の述作」によって語り出すものであって、決して民族の由来を語るものではないと津田はいう。「記紀の説き示さうとする我が皇室及び国家の起源が、我々の民族の由来とは全く別のこととして考えられてゐた」という津田の言葉は、記紀の神代史および上代史に天皇命(すめらみこと)とともにわが民族の生成する物語を読み取ろうとする民族主義的ロマンチシズムに冷水を浴びせるものであった。ここには皇室の起源と民族あるいは国民の起源とを一体視しない、きわめて健全で、考えてみれば当然の視点がある。

そもそも明治の天皇制国家の創設ということが天皇と民族・国民との起源を一体視させるのであって、明治以前にそのような見方があったわけではない。天皇と民族との一体化を考えたのは『古事記』再発見者である宣長ぐらいだろう。津田には明治が作り出す天皇制国家神話に簡単には与しない何かがあるようである。その何かとは、明治初期の青年たちの内に流れていった平民ー国民主義的血潮だとここではいっておこう。彼に『文学に現はれたる国民思想の研究』を書かせるのはこの平民−国民主義である。

「こんな風であるから、民間に叙事詩は発達しないで、其の代り官府で神代史が作られたのである。神代史は官府もしくは宮廷の製作物であつて国民の物語では無く、初めから文字に書かれたものであつて伝誦したものでは無い。従つて又た知識の産物であつて、詩として生まれたものでは無く、特殊の目的を有つて作られたものであつて、自然に成り立つた国民生活の表象、国民精神の結晶ではない。」[7]

これは津田の神代史の諸研究とほとんど同じ時期に刊行された『文学に現はれたる国民思想の研究 貴族文学の時代』の第二章「文学の萌芽」における文章である。『記紀』の神代史とは、「国民生活の表象、国民精神の結晶ではない」と決然という津田の口調に注目すべきであろう。これは津田においてのみの聞きうるような、日本近代史における一回的な言葉だと私は見ている。21世紀日本においてなお国民文学的古典としてもてはやされる『古事記』の繁栄を見よ。かつて日本の公権力が抑え込んだあの津田の記紀批判の言葉を、現代の日本人は忘却の押入れに深くしまい込んだままにしているのである。


[1] 和辻『日本古代文化』初版・序(岩波書店、1910年初版)。

[2] 白鳥庫吉「『尚書』の高等批評」、『東亜研究』1912。

[3] 東洋学・支那学の成立については、「近代知と中国認識ー「支那学」の成立をめぐって」『日本近代思想批判ー近代知の成立』(岩波現代文庫、2003)を参照されたい。

[4] 和辻『偶像再興』岩波書店、1918。

[5] 「ある子供の死(なき坂秀夫の霊に手向く)」『和辻全集』第20巻所収(岩波書店、1963)。この文章は、『思想』大正10年11月号に掲載された。全集最終巻(第20巻)の「小説・戯曲」と分類された篇中に収められている。それからするとこの文章は小説の形を取った亡き子への追悼文であるのかもしれない。なお『日本古代文化』は「亡き児の霊前に捧ぐ」の献辞をもっている。

[6] ここに引くのは『古事記及び日本書紀の新研究』(大正8)を改訂した『古事記及日本書紀の研究』(大正13)の「結論」の章からである。

[7] 『文学に現はれたる国民思想の研究 貴族文学の時代』(岩波書店、大正5年)は戦後改訂され、『文学に現はれたる国民思想の研究 第一巻』として昭和26年に岩波書店から刊行された。ここの引用は『津田左右吉全集』別巻第二所収の大正5年初版本によっている。なおこの引用冒頭の「こんな風であるから」とは、漢文の知識も漢字利用も少数の貴族のものであって、国民の多数のものではなかった上代日本の風をいっている。

「中国問題」と私のかかわり 子安宣邦

1)私は「中国」の研究者でも専門家でもない。私は「中国問題」についての一人の外部的な発言者である。外部的というのは、私の発言は日本からの、日本思想史という専門的立場からの、そして方法論的な外部的視点からの発言だということである。このような外部的発言者としての私の「中国問題」についての発言が意味ありとして、私はここに招かれたのであろう。そうであれば外部者である私がなぜ、どのようにして「中国問題」の発言者になったのか、あるいはなぜ私に発言すべき「中国問題」が構成されていったのか、その由来を語ることが、私にここで求められていることではないかと考えた。

2)私の「中国問題」とのかかわりは台湾から始まった。90年代の終わりの時期、私が対話を求めた「中国儒教」はそこにしかなかったからだ。私がもっとも頻繁に台湾を訪ねた今世紀の初めの時期に、台湾で「東亜儒学」という概念が形成され始めた。私はむしろこの概念形成に必要な人間として呼び出されたのである。私は台湾で儒教の多元化と日本に展開した儒教、ことに江戸儒教の独創的展開とその意義との認知を要求していった。だが私のこの要求はそのまま「東亜儒学」概念に包摂されてしまうことを知った。「東亜儒学」とは一元的「中国儒学」を一元多様体的儒学世界として再構成したものである。

3)一元多様体的儒学世界とは中華帝国的儒学世界である。この世紀のはじめに台湾から「中華帝国」的文化概念が発信されたのだ。「東亜儒学」が「中華帝国」的文化概念になるのは、「東亜」を「中国文化圏」として実体化することによってである。私は「東亜」を実体としてではなく、方法概念として、「方法としての東亜」として考えるべきことを主張した。ここには「方法としてのアジア」「方法としての中国」として論争的に構成された問題と同種のものがある。ところで大陸中国から距離をもった台湾という位置は、大陸中国に先駆ける形で「中華帝国」的文化概念としての「東亜儒学」概念を形成し、発信させてしまうのである。私は台湾の「東亜儒学」にやがて大陸中国から発信される「帝国」文化的メッセージを予見した。それゆえ私は溝口や汪暉らによってやがて発信されていった「帝国」的言説を読み間違えることはなかった。

4)「東亜儒学」といった「帝国」的メッセージは台湾の中心・台湾大学が発信したものである。だが台湾南部の成功大学は「台湾儒学」を表題とした国際シンポを開いた。「台湾儒学」という儒学的実体があるわけではない。それは台湾を場として、そこにおける儒教・儒学の多層的・重層的な展開の相を顕わにしながら、一元的儒学を解体する方法論的立場をいうのである。台湾には明代儒学があり、日拠時代のシナ学的儒学があり、土着化した民間儒教があり、そして国民党がもたらした正統儒学がある。中国の内部的他者ともいうべき台湾は、「中国儒学」といった一元論的な閉鎖的文化言説を多層化、多様化して多元論的な地平に開放していくような視点を構成する場でもあるのである。このことは台湾の自立性が中国の政治的多元化にとってもつ重大性を教えている。私の台湾の学生たちによる民主化運動へのサポートはこの台湾認識に基づいている。

5)私の思想史的作業を通じての中国への認識論的かかわりは、「近代の超克」論をめぐってなされていった(『「近代の超克」とは何か』青土社、2008)。日本の現代思想史における「近代の超克」の問題は、最終的には竹内好の「方法としてのアジア」と溝口雄三の「方法としての中国」にしぼられていった。「近代の超克」とは西欧中心的世界史のアジアによる転換をいう昭和前期日本の西対東という政治地理学的関係性に立った歴史哲学的な理念であった。竹内も溝口も戦後日本においてなお「近代の超克」の課題をそれぞれに持ち続けている。私もまた私なりにポスト構造主義的立場で「近代の超克」の課題を持ち続けている。このことは本書における「近代リベラリズム」をめぐる議論に対するある距離感を私に与えている理由でもある。

6)竹内は近代を構成してきた民主主義や人権思想に代わる何かが実体として東洋にあるとは考えない。だが「方法」として、民主主義や自由をもう一度世界史的な普遍的概念として輝かす何かがアジアにあるだろうというのである。それが何であるかを竹内はいわない。恐らくそれはアジアとその民衆が歴史的体験を通じてもった何かであるのだろう。その何かを見出していくのはわれわれの課題である。その意味では竹内の「方法としてのアジア」とは未来に向けた問いかけである。この竹内の問いかけを私もまた自分の課題として受け取っている。

7)溝口は竹内の「方法」とは「実体」に対するものであることを理解しなかった。彼は竹内にならって「方法としての中国」をいいながら、溝口は竹内を読んでいないようだ。彼は竹内の語法だけを模倣して、竹内とは反するテーゼを構成してしまった。彼は歴史的中国を実体化して、この中国を通じて、中国によって世界史を見ること、あるいは読み直すことを「方法としての中国」だというのである。これは昭和戦時期の「近代の超克」論の戦後的な、東洋の盟主を日本から中国に移した形での再現である。溝口は竹内よりも京都学派の高山岩男を熱心に読んだのであろう。溝口は歴史的中国に「独自的近代」の形成を読み出しながら、彼の「方法としての中国」論を基礎づけていった。私は中国の「独自的近代」を読み出していく溝口の中国研究は現代「社会主義」中国の弁証論にしかならないといった(『日本人は中国をどう語って来たか』青土社、2012)。中国の「独自的近代」「独自的社会主義」論は中国共産党といわゆる「左派」社会主義者のイデオロギーである。

8)私が現代中国の問題に直接かかわるようになったのは、いいかえれば中国が私における「中国問題」を構成するようになったのは、「08憲章」(2008年12月10日.)の起草者の一人である劉暁波の拘留問題へのコミットを通じてである。「08憲章」とは現代中国におけるはじめての市民(公民)的立場からする〈もう一つの政治〉への希望の提示であった。この〈劉暁波問題〉にコミットしたことは、実に多くのことを私に教えた。それは中国についてだけではない。日本についても、東アジアについても教えた。第一に私は中国政権を一党支配の専制的全体主義政権としてはっきり認識した。「社会主義」とは全体主義の別名でしかないことを理解した。中国における市場経済の進展と世界経済への参入は中国の政治改革を導くだろうという期待は幻想にすぎないことをはっきりと知ったのである。天安門事件以降、中国政権は「六四」の記憶を地底に埋め込むとともに、一切の体制批判を封じて、一党支配の専制的体制に開き直ったのである。〈劉暁波問題〉にコミットすることを通じて私はこのことを知るとともに「中国問題」の用意ならぬ困難を知ったのである。

9)この問題が私に教えたもっとも痛切なことは、〈劉暁波問題〉について耳を塞ぎ、口を封じるのは中国だけではない、日本もまたそうだと知ったことである。「08憲章」と劉暁波を抹殺することは中国だけがやるのではない。日本の知識人も研究者たちもまたこれに眼を塞ぐのである。中国における劉暁波の抹殺は党国家権力による抹殺である。日本でなされるのはこの権力に配慮する〈進歩派〉知識人・言論人による抹殺である。私はこうした日本の言論状況の中で〈劉暁波問題〉をめぐる二册の論集を出版され、いま『現代中国のリベラリズム論集』を出版された藤原書店に深い敬意を表せざるにはいられない。

10)中国の政治体制的問題については問わないという政経分離という国家間関係は経済優先の馴れ合い的関係であって、それは中国の反民主的な全体主義的な政治体制を容認するだけではなく、日本の民主的政治体制をも劣化させていくと私は考えてきた。中韓両国、ことに中国と日本との間にこの数年来強い政治的緊張関係が続いてきた。国際的緊張関係の増大は、国内政治体制の全体主義化と相関的である。中国も韓国も日本も、一党的国家体制であるか、多党的議会主義的国家体制であるかのちがいをこえて、それぞれに政治的自由を抑圧しながら、反民主的な寡頭的専制的政治支配の体制を作り出している。日・中・韓の国家間緊張関係は相互規定的である。国内の全体主義的傾向を相互に作り出しているのである。

11)だが21世紀的世界は、ナショナリズムの軋みを相互に起こしながら諸国家が、新たな〈帝国〉的統合と分割の過程に入ったとみなされる。この過程が容易ならざるものであることは、ISという反〈帝国〉的過激派国家をこの過程そのものが作り出していることに見ることができる。この過程は私などの予見や予測を許すものではないが、ただ東アジア世界はすでにこの〈帝国〉的再統合の過程にあることを私はいいたい。われわれが直面しているのは21世紀のそうした東アジア世界であり、われわれにおける自由も民主主義もまたこの東アジアの現在から考えられねばならない。

12)2008年以来、中国はこの東アジア地域における核心的利益を主張するようになった。それは大国中国によるこの地域の再編成の要求である。当然それは日米安保というこの地域の軍事的安全保障体制の見直しの要求を含んだものである。だが日本政府は、ことに安倍政権は日米軍事体制を自立的・軍事的に強化するという方向でしか対応しなかった。そこから〈歴史認識問題〉を切り札にした国家間の緊張がこの地域を支配することになった。

私は東アジアにこの半世紀余を通じて一つの〈歴史認識〉問題があったのではないと考えている。いまあるのは世界の超大国中国によって、またすでに経済先進国である韓国によって主張される21世紀の〈歴史認識〉問題である。そしてこれはそれぞれにナショナリズムを喚起しながら為される国家的主張である。

13)しかし対外的なナショナリズムは本質的に国内問題に起因しながら、その問題を隠蔽する。東アジアのそれぞれの国・地域にあるのは増大する経済格差と社会分裂の危機である。われわれが正面せねばならないのはこの社会的危機である。ナショナリズムは国家とともにこの危機を隠蔽し、人びとをそれに直面させることをしない。私は21世紀のナショナリズム(国家主義・民族主義)を歴史的な反動思想だと考えている。〈大中華民族主義〉は中国の〈帝国〉的存立を正当化し、〈帝国〉の厖大な棄民を見捨てようとする。日本のナショナリズムは日米安保による対抗〈帝国〉化のなかで沖縄の住民に長い隷従を強いるのである。ナショナリズムは東アジアに緊張を作り出しながら、この地域を〈帝国〉間の緊張と〈帝国〉的再編の場にしてしまっているのである。

14)だが繰り返されてきた政経分離という馴れ合い的和解は東アジアの〈帝国〉間でもあるいは再び実現するかもしれない。すでにそのように動いている。しかしそこからもたらされる東アジアの平和とは、みせかけのものでしかない。政治的には何も変わることはない。われわれはこのみせかけの平和ではない、東アジアの本当の平和を、すなわち〈もう一つの東アジア〉を提示し、それを実現しなければならない。それを可能にするのは社会的危機に直面するそれぞれの国・地域における市民たちによる〈もう一つの政治〉を要求し、それを実現しようとする力であり、運動であるだろう。この〈民の力〉を小田実は〈でもくらてぃあ〉といったのである。〈もう一つの東アジア〉を可能にするのはこの〈民の力〉であり、その連帯である。私が台湾における〈もう一つの台湾〉を求める学生・市民の民主的決起に東アジアの希望を見出したのはそれゆえである。

15)私はやっと「台湾から」という私における始まりの問題にもどった。台湾から「中国問題」へのかかわりを始めた私は、いま台湾の学生・市民の運動に〈もう一つの中国〉〈もう一つの東亜〉への大事な第一歩が踏み出されたことを知ったのである。21世紀のわれわれにおける市民的自由の課題は、この台湾の第一歩を東アジアのわれわれの大きな歩みにしていくことにある。

(詳しくは子安『帝国か民主かー中国と東アジア問題』(社会評論社、2015)を参照されたい。)

[今日12月6日、シンポ『現代中国のリベラリズム思潮』(明大現代中国研究所主催)でした講演の語り終えざる講演原稿の全文である。私に40分という講演を依頼する方が間違いなのか、40分に手際よくまとめない講演者が悪いのか。ともあれ思う存分語り得ぬ講演ばかりが続いている。だがこれは国内での話だ。台湾でも韓国でも私は思う存分語ることができたのだが。]

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