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子安宣邦のブログ -思想史の仕事場からのメッセージ-

2016年10月

「思想史講座」のお知らせー11月のご案内 子安宣邦

*思想史講座
「未完のナショナリズムー津田『我が国民思想の研究』を読む」
*だれでも。いつからでも聴講できる思想史講座です。

*「未完のナショナリズム」というタイトルで始めました。この講座では津田左右吉の『文学に現はれたる我が国民思想の研究』をテキストとして読むというよりは、この書を課題として立てることによって見出されてくる問題を論じていくこと考えています。第1回は津田の書が「我々の民族」をいうことから始まっている、この始まり方と「民族」概念を問題にしましたが、第2回は、記紀「神代史」は「わが民族」の成立を伝えるものではないとする津田の上代史観をめぐって考えます。




*大阪教室:懐徳堂研究会(ご注意:11月は会場の都合で18日金曜日夕刻開催になります)

11月18日(金)・16時〜18時
津田『国民思想』論・2:神代史はわが民族の成立史ではない

会場:梅田アプローズタワー・14階1404会議室


*東京教室:昭和思想史研究会

11月12日(土)・13時〜16時
津田「国民思想」論・2:神代史はわが民族の成立史ではない

会場:会場:早稲田大学14号館1054教室

*参考文献:津田左右吉『文学に現はれたる我が国民思想の研究ー貴族文学の時代』「序説 第一章 上代国民生活の瞥見」、『神代史の研究』『古事記及び日本書紀の研究』総論。「上申書」(出版法違反事件、全集24巻)。

*論語塾―伊藤仁斎とともに『論語』を読む

『論語』はどこからでも新しく読むことができます。
途中からでも自由にご参会ください。
私の『論語古義』の解読作業も最終段階に入っております。『論語古義』の読み終えを共にしませんか
『論語』とともに、伊藤仁斎の『童子問』を読みます。
『童子問』は日本近世最高の思想書とみなされる仁斎晩年の著作です。

11月26日(土)12時〜15時 1 衛霊公篇・4 2 『童子問』上

資料は当日配布します。

会場: rengoDMS(連合設計社市谷建築事務所)JR飯田橋駅西口から徒歩5分


しかく津田・国民思想論・1の2 子安宣邦

「民族」という始まり・2 「民族」概念の成立

民族(ピープル)とは、あらかじめ国家機構のなかに存在し、この国家を他の諸国家との対立関係において「自分のもの」として認知するような、そのような想像の共同体である。

エティエンヌ・バリバール「国民形態の創出」[1]

2「民族」概念の成立

1)「民族」という語・1

「民族」という概念の成立とともに、この「民族」を「始まり」としたもう一つの「日本」の文化史・芸術史・文学史などが成立することをいった。そのことはわれわれにおける「民族」概念の成立以前には、この「日本」についてのもう一つの別の語りがあったことを意味する。私はすでにサンソムの「混合型」というべき文明史をもう一つの語りとして見た。ここでは竹越与三郎の『二千五百年史』から興味ある一節を引いておきたい。

「而して日本国民は其の初に於て支那文明の代表たる象形文字を以て、国民的言語とせずしてフヰニシヤ人が貿易によりて世界の民に交通せるより、各国の言語を写さんとして発明せる声音文字の文明に傾きて、自然に「いろは」四十七文字を生じて、国民的言語を成すに至りしを見れば、また以て太古日本の沿岸に於ける人種競争の結果は、支那人種の勝利とならずして、南島を経由したる人種の勝利となりし遺証と云ふべき乎。」[2]

このような日本の文明史的な始まりの記述は、やがて「民族」概念の成立とともに始まる「日本」という民族的同一性の記述によって覆い隠されてしまう。事実、竹越の『二千五百年史』は大東亜戦争勃発の前夜、昭和15年に発売禁止の処置を受けることになる。ところで竹越が『二千五百年史』を書いていった明治の20年代には「民族」という概念は成立していない。少なくとも当時の日本の論説家の言説上にそれは使用されるものとしてはなかった。この語が一般的な言説上に使用される時期は、普通に考えられているよりはるかに遅い。辞書的に「民族」という語彙の成立を探ってみると、この語彙の国語辞典上への登場は明治末年という時期だとみなされるのだ。近代漢語語彙の明治における成立を辞典類によって検証することは、大図書館や充実した研究施設から全く離れてしまっている私などにはほとんど不可能に近い作業である。私のした検証[3] は限定された資料、辞典類による推定であり、その推定の正しさを強く主張できるものではない。だが明治末年のさまざまな言説資料を通して見れば、私の推定に大きな間違いはないと思っている。

明治期の代表的国語辞典というよりは国策的に編集された国語辞典『言海』(1889−91年刊)によって見てみよう。私が見るのは明治37年(1901)改訂版『言海』である。そこには「民族」の語彙はない。ただ「人種」の語彙はあり、そこでは「人の種類、人の骨格、膚色、言語などの、(ほぼ)、一類なるを一大部として、世界の人民を若干に類別する称。亜細亜人種、欧羅巴人種」と説明されている。もちろん「人民」の語はあり、それには「タミ、クニタミ」という訓みによる説明がなされている。

明治の国語辞典『言海』はその後、長期にわたる増補訂正作業を経て昭和期に『大言海』(1932−37年刊)として再刊される。そこには「民族」の語は次のような説明とともにあり、「民族」ははっきりとした近代的な概念として成立したことを示している。

「みんぞく「民族」=人民の種族。国を成せる人民の言語、精神感情、歴史の関係などの、共通に基づく団結。異人種、合して成るもあり、一人種中に分立するもあり。」

ただこの「民族」という語に加えられた説明は、近代的「ネイション」概念の正確な翻訳的説明というべきもので、このような概念として「民族」は明治末年の日本に成立してきたわけではない。むしろ「民族」という語彙の成り立ちを説明する「人民の種族」という語が日本における「民族」概念の特質を告げているように思われる、

明治における「民族」概念の成立を追いかけていた時期に『日本品詞辞典』を古書展で見つけた。それは品詞毎に日本語語彙を五十音順にその訓みにしたがって配列し、その漢字と意義あるいは同義語を記した袖珍版の辞典である。著者は佐村八郎で明治42年(1908)に六合館から刊行されたものである。それを見ると「民族」の語彙は「民心」「民人」「民籍」「民選」「民俗」などとともにはっきりと採録されている。そして「民族」の同義語として「民種」が挙げられている。このことは「民族」が採録さるべき日本語名詞としてすでにその時期にあったことを意味するだろう。それとともに「民種」が同義語として挙げられていることは、「民族」は「民種」とともに「人民の種族」から生まれたものであることを教えている。『大言海』が「民族」をまず「人民の種族」と敷衍するのは、むしろその語の成立の由来をいうものであった。恐らく「ネイション」の訳語としてまず「人民の種族」があったのではないか。これからより適切な翻訳漢語として「民族」「民種」が生まれたのではないか。だがこの人種的色彩の濃い「民族」概念は明治末年にいたるまで「国民」概念を斥けるほどの力をもつことはなかった。高山樗牛の明治31年(1898)の論説「日本主義を賛す」を見ると「民族」の語をすでに用いながらも、正しく「ネイション」を「国民」の語をもっていっている。

「宗教は今日多数の宗教徒が盲信する如く、啻に決して人類の先天性たるを必とするものに非ざるのみならず、夫の宗教的民族と称する者も、智識の進捗と共に漸く其迷信を擺脱し、超自然的信仰に代ふるに、実践道徳の原理を以てせむとするは、今日世界文化の大勢なり。況してや、我国民は由来宗教的民族に非ざるなり。三千年の文物歴史は、明かに之を証して殆ど余蘊なし。夫の外教を拉致して偏に之を強ゆるものの如きは、徒に性に戻り、情に違ひ、その結果たまたま国家の発達進歩を沮害するに終らむのみ。吾等は各国国民は其性質に随うて、亦其発達の制約を殊にすべきものあるを確信す。」[4]

2)「民族」という語・2

「ネイション」の訳語として「民族」が人種的な概念として明治日本に成立してくることについて、「人民の種族」からの「民種」とともに成立するという翻訳語の由来によって私はいってきた。だがマルクス主義系政治学者の鈴木安蔵はドイツの政治学・国家学の翻訳的導入による成立をいっている[5]

近代日本における政治的、社会的用語の殆どは先進ヨーロッパからの翻訳的転移として成立するのであり、固有漢語とみなされている多くの用語が翻訳語として再構成された近代漢語であることに気づかされるのである。「民族」という漢語もそうである。日本における「民族」概念の成立に深く関わったものとして鈴木はドイツの政治学者ブルンチュリー(Johan Kaspar Blunschli)の『国家論』の翻訳(1889年)と東京大学で講じた同じドイツの政治学者ラートゲン(Karl Rathgen)の『政治学』(上巻「国家論」)の翻訳(1891年)とを挙げている。ブルンチュリーの『国家論』第二巻「国民及国土」で「族民Nation」と「国民Volk」とを定義している箇所はこう訳されている。

「族民トハ種族ヲ相同クスル一定ノ民衆ヲ謂ヒ、国民トハ同国土内ニ居住スル一定ノ民衆ヲ謂フ。故ニ一族民ニシテ数多ノ国家ニ分裂シ、国家ニシテ数種ノ族民ヲ併有スベシト雖モ国民ハ則チ然ラズ。」

またラートゲンの『政治学』の第三章「社会的要素」で「族民」と「国民」とを論じた箇所はこう訳されている。

「族民ト国民トハ其ノ名義相似テ而シテ其ノ意義同ジカラズ。族民トハ種族ヲ同フスル一定ノ民衆ヲ云ヒ、国民トハ同国内ニ住居スル一定ノ民衆ヲ云フ、族民ハ人種学上ノ意義ニシテ法人ノ資格ヲ有セズ、国民ハ法律上ノ意義ニシテ法人ノ資格ヲ有ス。」

いずれも「ネイション」を「種族を同じくする一定の民衆」をいうとし、それに「族民」の訳語を与えている。われわれはここで「ネイション」が「人種」概念との結びつきを強くもった種族概念として定義され、それが「族民」の語をもって訳出されたことに注意すべきだろう。すでにラートゲンは「族民」を「人種学上の意義」をもって規定しているのである。とすれば「人民の種族」を「民族」とする明治日本における種族的「民族」概念は、ドイツ系政治学における「民族(ネイション)」概念の系譜を引くものだといえるだろう。

ホブズボームは1870年〜1918年のヨーロッパにおけるナショナリズムの変容を記して、「エスニシティーと言語がネイションでありうることの中心的意義を持つように」[6] なったことをいっている。19世紀後期ヨーロッパを席巻するこのエスニックな「ネイション」概念は、ナショナリズムとともに明治日本に転移されるのである。ブルンチュリーとラートゲンの故国ドイツは、1871年にプロイセンを盟主としてドイツ帝国として統一される。20世紀の帝国日本は帝国ドイツと「民族」概念を共有するとともに、国家の運命をも共にしていったといえるだろう。

3)「帝国主義」時代と「民族」概念

ホブズボームがエスニックな「ネイション」概念の席巻するヨーロッパを言ったその時代、19世紀末から20世紀の第一次大戦後にかけての時代、明治日本が世界的な戦争をなしうる国家になっていったその時代の変化を山路愛山もまたいっている。愛山は「余が所謂帝国主義」(明治36、1903年)で人種主義的ナショナリズムが横溢する時代への世界の変化をいっている。

「昔は羅馬教会は其信仰を以てラテン人種とチュートン人種とを結合したりき。今や然らず、各の人種は自己の同族を団結し、其力に依りて世界に於ける自己の生存を主張するは恰も神聖なる義務なりと感ずるものの如く然り。今の国家は固より種族の別名に非ず。一の国家にして多くの種族を統御するものあり、一の種族にして多くの国家に分るるものありと雖も、大勢の趨く所は一種族を以て直ちに一国家を為さんとするに在り。・・・余輩は激烈なる人種的競争は実に今後に於て生ずべき一偉観なるべしと信ず。」[7]

日露の開戦を前にして非戦論を唱える内村鑑三に向けて「余は如何にして帝国主義者たるか」をいう山路愛山は、世界の各国は人種主義的に国民の団結を強めて相互に争う帝国主義時代に入りつつあることをいう。愛山は帝国主義を避けることなく国民的団結の手段にすべきことをいうのである。日本の最初の帝国主義的戦争である日露戦争を前にして展開される〈国民的結集の手段としての帝国主義〉の言説は、この時期こそ人種主義的「民族」概念の成立の時期でもあったことを教えている。

異質を排除しながら、人種的であるとともに、文化的、言語的な同一性をもった集合体としての「民族」が、帝国主義時代の「国民」の再結集を可能にする概念として要請されたのである。それは近代日本の国家的創成時から存在した概念ではない。日本が帝国主義的段階に入る20世紀に、分裂を深めていく国民の国家的再統合をもたらすものとして要請され、構成された概念である。

エティエンヌ・バリバールが「国民国家によって創出された共同体を虚構的エスニシティ(ethnicite fictive)とよぶことにする」といっている。彼がここで「虚構的エスニシティ」といっているのが、20世紀の日本で構成される種族的「民族」概念である。「いかなる国民(ネイション)も生まれながらにそのエスニック的基礎を備えているのではない。そうではなく、諸社会構成体が国民化(ナショナライズ)するに応じて、諸社会構成体に包摂されている住民ーー諸社会構成体のあいだに分けられ、かつそれらによって支配される住民ーーが「エスニック化」するのである。言い換えれば、諸社会構成体の国民化に応じて、そこに包摂されている住民は過去においても将来においても、あたかも彼らが自然的共同体を形成し、個人的および社会的条件を超越するような、起源・文化・利害の同一性を自然に備えているかのように再表現されるのである。」[8] ここには20世紀日本における「民族」概念の成立をめぐるすべてのことがいわれている。

最初の世界戦というべき日露戦争を通じて20世紀の帝国主義時代アジアの大国の位置を占めていく日本が必要としたのは、国民の再統合を可能にする理念、日本人という同一性を保証する理念である。「日本民族」という「虚構的エスニシティ」はこのように呼び出され、このように「日本・日本人」の〈始まり〉の語りを構成していく。明治末年に呼び出され、大正に言説化された「日本民族」概念は、昭和の全体主義国家のイデオロギー的中枢の位置を占めていくのである。

津田が『我が国民思想の研究 貴族文学の時代』の冒頭でいった「東海の波の上に我々の民族が住んでいる」という言葉は、津田のこの著述が大正における「民族」概念の歴史的言説化の最初で、しかも最大の事例であることを教えているようだ。たしかに津田は大正という時代の始まりから、国民的再統合の要請を深く聞き取っていたであろう。大正5年から10年にいたるわずか五年の間に『我が国民思想の研究』四巻を刊行させていった津田を動かしたものは何であったのか。〈国民的危機〉が津田の根底に感じ取られてあったのではないか。津田の国民主義(ナショナリズム)とは何か。

津田の「民族」を始まりとする言説は帝国主義時代の言説として、排他的な民族主義的な特質を津田の歴史的な言説はもっている。だが津田の「民族」をいう言説は昭和の全体主義を構成するものとはならなかった。むしろ昭和の全体主義によって禁圧される言説であった。それは津田の言説構成の何に由来することであるのか。

津田の「民族」をもって始まる『我が国民思想の研究』についての私の検証は、これらの問いから始まる。



[1] バリバール/ウォーラーステイン『人種国民階級ー揺らぐアイデンティティ』若森章孝他訳、大村書店、1995。

[2] 竹越与三郎『二千五百年史』明治9年(1896)。私が見ているのは明治41年(1908)の訂正18版(開拓社)である。昭和15年に発売禁止にされた。

[3] 私のした検証については私の論文「「日本民族」概念のアルケオロジーー「民族」・「日本民族」概念の成立」を参照されたい。子安『日本ナショナリズムの成立』(白澤社、2007)所収。ここで記すこともこの論文の要約である。

[4] 高山樗牛「日本主義を賛す」『明治思想集II』松本三之介編、近代日本思想大系31、筑摩書房。

[5] 鈴木安蔵「明治前期における民族主義的思潮及び民族論」『日本民族論』(民族科学大系)帝国書院、1943.

[6] E.J.ホブズボーム『ナショナリズムの現在』浜林正夫訳、大月書店、2001.

[7] 山路愛山「余が所謂帝国主義」『愛山文集』民友社、1917.

[8] エティエンヌ・バリバール「国民形態の創出ー歴史とイデオロギー」前掲『人種国民階級』所収。


[私のブログ「子安宣邦のブログー思想史の仕事場からのメッセージ」の訪問者数が昨10月15日をもって3万人に達した。二年前2014年4月にこのブログを始めた時、私は危機感をもっていた。当時私は「中国問題」をめぐる隠然たる言論規制と恐らくは年齢上の理由から自分の論説公表の場を失いつつあった。現代世界に「中国問題」などは無いかのように沈黙する非国際的な『世界』などという雑誌を見れば、この言論統制がどれほど現代日本の言論と言論人とを駄目にしていったか、すぐにでも分かるだう。70年代に連載という形で自分の論説を公表してきた雑誌からも断られて、私は途方に暮れていた。そのとき私はブログという21世紀的言説の公表手段とその場のあることを教えられた。若い友人の助けでこのブログを立ち上げたのが、2014年の4月27日である。最初にブログに書いたのは、あの春の台湾の学生たちの決起をめぐってである。あれから2年半、私はこのブログを通じて語り出し、言い続けることができた。そしてこのブログから『帝国か民主かー中国と東アジア問題』(社会評論社、2015)が、『「大正」を読み直す』(藤原書店、2016)が生まれた。これはこのブログを支えて下さった3万人に及ぶ訪問者の方々のおかげである。深く感謝するとともに、これからもくりかえしご訪問くださるようお願いしたい。今日はここに14年4月の3回目の投稿記事「戦争は少年の私に何を残したか」を再投稿することにした。これは比較的多くの方々に読まれ、今でも訪問者の絶えない記事である。]



戦争は少年の私に何を残したかー
昭和の少年と戦争の記憶 子安宣邦


1 消える記憶

昭和16年12月8日の対米英開戦の報を知らせるラジオの臨時ニュースの高ぶった声を、私はなお鮮明に耳の底に残している。そのとき私は9歳であり、小学3年生であった。そして終戦の詔勅を聞いた昭和20年8月15日は、県立川崎中学校(川中)1年生の私にとって夏休み中の一日であった。すでに13歳であった。いま私はこの10歳前後数年間の戦争と戦後の記憶を思い起こしながら、何が消え、何が残っているかを書きたいと思っている。

戦災という直接的な被害の体験ならずとも、敗戦を境にした数年の日常的衣食住における欠乏の体験は普通一般の人びとにとってはもっとも苛酷なものであったはずである。いかに食べたらいのか、何を着るのか、どこに住むのかが、人びとにとってもっとも深刻な問題であったはずだ。だがもっとも深刻であったはずのこの衣食住の欠乏体験を、時間の経過は消していくようだ。不足よりも過食を気にするような時代になり、衣装の個性を競い、破れたジーンズをわざわざ好んで着るような時代になると、あの衣食住における苛酷な体験の記憶は薄れ、むしろそれは懐かしい耐乏の記憶に変わってしまうようである。しかしあの時代もっとも深刻であったのはいかに食べるか、どこに寝るかであったはずである。

本土への米軍の空爆が頻繁に行われるようになった昭和20年の4月に私は中学(川中)に入学した。その入学式の日、南武線は不通であった。当時私たち一家は、川崎の市中から強制疎開によって市の北部の登戸に移っていた。その日、姉に連れられて町田から横浜戦経由でやっと川崎の学校にたどり着いたことを覚えている。南武線は戦中・戦後しばしば不通になった。私たちは20キロの道のりを線路の枕木を踏みながらよく歩いたものである。中学で弁当をもっていくようになったが、しかし弁当箱に入れる米などはなかった。私はよくさつま芋を一本新聞紙にくるんでもっていった。さつま芋をもっていける私などはまだましであったかもしれない。何ももたないで来る学友もいたはずである。だがその立場を思いやる余裕は私たちにはなかった。私たちが疎開で移った登戸は当時まったくの農村で、子供たちは草鞋履きで小学校に通っていた。雪の朝、びしょ濡れの草鞋で通学したときの泣くほどのつらさだけはいまも覚えている。ゴム長靴などはもちろんなかった。それから雨の日、雨漏りのしない屋根の下で寝たいと痛切に思ったものである。こうした衣食住における欠乏と困苦の体験は敗戦の迫った時期から戦後の一二年のものであっただろう。私にとってそれは小学6年から中学2年にかけての時期である。こうした欠乏と困苦の体験は、私の生きるための精神のバネを作り出すものであっても、心に傷跡を残すものではない。困苦体験の肉体的な痛切さは、肉体的な充足とともに、痛みの記憶は薄れていくようである。私の心に強いトラウマを刻みつけたような戦時の体験は別にあった。

2 夢に見た恐怖

敗戦を間近くした時期にみた夢を今でも私は覚えている。それをいつまでも私が記憶しているというのは、その夢をみた直後から何度もその内容が私の心の内で反芻されたからである。本土への空襲がすでに常態化し、「本土決戦」が叫ばれている時期であった。「一億玉砕」という標語は、小学6年生の私にとっては偽りのかけ声ではなく、子供にも死の決意を促す重い言葉として受け取られた。口に出すことは許されなかったが、恐ろしい事態であった。本当は逃げたい思いであった。

ある夜、いよいよ一億玉砕が迫った日の夢をみた。その夢の中で私は玉砕の場から逃げようとする弟を「非国民」といって謗っていたのである。夢はただそれだけであった。しかしその夢をみた直後から、自己嫌悪に似た思いを私は反芻し続けた。逃げたいと思ったのは弟ではなく、実は自分ではないのか。夢で弟が私の心理を代表したのではないのか。卑怯なのは自分ではないのか、と私は内心で反芻し続けた。もちろんその当時こう整然と夢分析したわけではない。しかしこの夢をみた直後から自己嫌悪に満ちた思いを私はもち続けたのである。その自己嫌悪の思いは私が夢の中で弟を「非国民」と謗ったことによって二重化された。逃げたい自分が逃げる弟に向かって「非国民」という言葉を浴びせる自分の偽善が嫌であった。この自己嫌悪感をここに書いたように分析できたのは、戦後になってからだろう。しかしこの夢は消し去ることのできない自己嫌悪の思いをトラウマのように私の心に刻んだ。「自分は本当は卑怯者なのだ」といった嫌悪感を。

あの戦争は「一億玉砕」といった言葉を当時の少年たちにただの空語としてではなく実語として与えていった。その標語は彼らに死の決意を促していったのである。20世紀の総力戦とは子供をも巻き込んで死の決意をさせる、そういう性格のものである。沖縄戦における住民の集団自決に軍の命令ないし指示があったか、なかったかが法廷で争われたりした。しかし「一億玉砕」とは本土の子供にとってもそれは実語であったことをいっておきたい。軍部とは「一億玉砕」という国民に死を促す命令の体現者であり、発信者であったのだ。その国民には私のような子供も含まれている。だれがその命令をいったか、いわなかったかといった問題ではない。あの総力戦を遂行した軍部は「一億玉砕」をまさしく実語として国民に与えていったのである。

あの戦争の時代、「非国民」というレッテルを貼られることは、村八分に会うと同様の、あるいはそれ以上の共同体的差別を受けることを意味した。「非国民」の謗りは、死の宣告と同様の恐怖を人びとに与えた。それは恐ろしいレッテルであった。私が夢の中で弟に「非国民」と謗ったのは、自分がその謗りを受けることへの恐怖を裏返すものであった。ファッシズムとは「非国民」の謗りを浴びせながら、あるいは国民同士が浴びせ合いながら、国民の全心身的結集をはかっていく政治的体制であるのだ。

3 共同体的トラウマ

あの戦争の時代に小学校・中学校の教育を受けた私たちに良い意味で忘れられない教師がいるとともに、悪い意味で忘れ去ろうとしても忘れ去ることのできない教師がいる。ここでは実名をもってことに後者の教師たちについて語ろう。実名をもって語ることこそが彼らには相応しい。私は疎開で川崎北部の農村地帯に移り、その地の国民学校6年に転入した。クラスの担任は金井という男性の教師であった。農村地帯ゆえの実習授業がしばしばあった。ある時間、縄ないの実習授業があった。川崎の都市部で育った私は藁を手にしたこともなければ、もちろん縄をなったことなどない。途方に暮れた私は、周囲の生徒たちの縄なう様を一生懸命まねて、どうにか10センチほどの縄様のものをこしらえ、教師にそれを見せにいった。教師は一言も発することなく、私が作ったその縄様のものを抛り捨てたのである。それは私にとって肉体的な制裁以上の重い制裁であった。彼は都会育ちの子供に、そのひ弱さを思い知らせようとしたのかもしれない。だがそれはこの農村を代表してこの教師が私に加えた恨みに満ちた制裁に思われたのである。

私は疎開でこの地に移ってはじめて農村共同体の内部に入るという体験をした。言葉のなまり、草鞋や半纏などの衣装の同調を私は求められた。共同体的同調への強制は子供の世界ではきびしかった。私は仲間入りするために番長的な子に媚びていたようだ。弟からなぜあんな奴のいいなりになっているのだといわれたりもした。だからあの教師の仕打ちは、都会育ちの子供への教師の手を借りてした共同体的な制裁に思われたのである。この教師の仕打ちは私に重いトラウマを刻みつけた。それは共同体的トラウマといっていい。私の戦時のこの閉鎖的な農村共同体の体験は、戦時における「非国民」という排除的制裁の恐怖と重なって、私に共同体的トラウマを刻みつけた。

4 狂気の制裁

やがて敗戦を迎える中学1年のとき、小柴という西洋史の教師がいた。当時2年以上の上級生はすべて動員されて工場で働いていた。新入のわれわれ1年生に対してだけ通常の授業が行われた。それは貴重な授業であった。敵性言語である英語の充実した授業も行われた。古代ギリシャからローマ帝国の形成と衰亡にいたる西洋史の授業も実に興味あるものであった。だが小柴というこの西洋史の小柄な教師は、敗戦が近づくにつれて狂気じみていった。ある時間、もし戦争に負けることがあったらいかに米軍によって日本の女性たちがレイプされるかを語ったりした。当時、空爆によって大きな穴がいくつもあいた校庭を芋畑にしていた。その農作業をわれわれ1年生が担当していた。放課後の農作業は、使用した鍬やシャベルを爆弾による穴にたまった水で洗って終了することになっていた。ある日、一人の級友が過って鍬を穴の水底に落としてしまった。小柴という教師による制裁はそれから始まった。われわれは一列に並ばされた。鍬を失うことは、兵士が陛下に賜与された武器を失うことと同様であるとかいって、生徒の頭を鍬の堅い樫の柄で一人ずつ撲っていった。頭を叩く音が順次近づく恐怖にわれわれは耐えていた。鍬を失ったその級友に対して小柴は他の生徒以上に力を入れたのであろう。その級友は頭から血を出して倒れた。狼狽した小柴がその生徒を抱え起こしたことだけは覚えている。その後の経過を見届ける余裕などはわれわれにはなかった。

この教師による恐ろしい制裁事件をわれわれは心の底に飲み込んで、人に語ることもなかった。われわれ自身も語り合うこともしなかった。それは心の底に凍結しておきたい恐ろしい事件であった。それをわれわれが言葉に出して語るようになったのは、あれから50年余を経過した同窓会の席上であった。そしてこの文集でも私以外にもこの事件に触れるものはいるだろう。われわれは当時12、3歳の少年であった。その少年の頭を樫の柄で撲るという狂気の制裁行動に戦争は教師を追い込んでいったのである。そしてこれに類した事はどこでも行われていたのである。総力戦に少年を含めた国民を駆り立てるということは、こうした狂気の制裁行動をともなってであることをここにはっきりと記しておきたい。戦争とは戦場で人を殺し、殺されることだけではない。戦場ではない内地で教師をも狂気に追い込み、生徒の死をも招くような制裁行動に駆り立てもするのである。あるいは「非国民」のレッテルを貼りながら、共同体的排除の恐怖に人びとを落とし入れもするのである。それが兵士ならざる人びとにとっての、また子供にとっての戦争なのである。

5 終戦の日の記憶

終戦を迎える年の8月、われわれは中学生としての最初の夏休みの中にいた。小田急の鉄橋のかかる多摩川の近くに住むわれわれはほとんど毎日川遊びにふけっていた。きれいな多摩川であった。8月15日、大事な放送があるというので家に帰り、ラジオの前の整列して玉音放送を聞いた。天皇が読む詔勅の言葉はほとんど私には分からなかった。その放送が終わって、大人たちが何を語り合ったのか、何も覚えていない。そそらく皆無言であったのだろう。私は天皇の詔勅中の「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」という言葉だけを耳に留めることができた。私はそれを「さらに忍耐強く戦え」と国民を励ますものと解した。その日の午後、ふたたび川原に集まった少年たちはあの天皇の放送の意味を語り合った。私はさらに戦えといったと主張した。別の子は戦争は終わったのだといった。戦争が終わったということはその日のうちに明らかになった。翌日の朝、われわれは恐れもなく空を見上げることができた。アメリカ空軍の支配する空を恐れもなく見上げることはそれまでできなかったのである。ほんとうの解放感を私は味わった。

夏休みが終わり、中学の新学期が始まった。工場動員されていた上級生たちが学校に帰ってきた。同時にあの小柴などファッショ的な教師たちは姿を消していた。戦後の解放と混乱の学校生活が始まった。

戦争とは少年であったわれわれにとって何であったのか。太平洋戦争とは何であったのか。その戦争に先立って日華事変という大陸での戦争が続けられていたことを、アジア・太平洋戦争という15年にわたる戦争を日本はしていたことを、私たちは戦後になって知るのである。この戦争の意味の認識は戦後のことであるが、しかしこの戦争は少年であるわれわれに消すことのできない心の傷痕を残していった。私にとってそれは戦争という全体主義的体制が教師を通して生徒の私に刻みつけていった傷痕である。それは消すことができない、あるいは凍結されて秘められたようにして残された傷痕である。しかしそれは今日に及ぶ私の思想的作業を促す深いモチベーションをなすものであった。
(2009年8月15日)

[2009年8月15日の日付をもつこの文章は私の出身校である神奈川県立川崎高等学校の第20期卒業生の文集「戦中・戦後―私たちの思い出」に載せたものである。「昭和の日」に当たってここに再録した。昭和の少年としての私のこの体験は、戦後における私の行動と発言の原点としてある。14年4月29日]

津田「国民思想」論・1
[民族」という始まりー1 子安宣邦

民族(ピープル)とは、あらかじめ国家機構のなかに存在し、この国家を他の諸国家との対立関係において「自分のもの」として認知するような、そのような想像の共同体である。

エティエンヌ・バリバール「国民形態の創出」1⃣



1 「民族」をいう始まりの言説


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1)「民族」から始まる

津田左右吉の『文学に現はれたる我が国民思想の研究 貴族文学の時代』[2] の「序説」は次のような文章で始められている。「東海の波の上に我々の民族が住んでいるということのやや広く世界に知られたのは割合に新しい時代のことであって、文献に見える限りでは普通に前一世紀といわれる時代、即ちシナの漢代が始めである。」[3] 私がこれを引くのは、津田が「我が国民思想」の歴史研究的叙述をどこから、どのように始めるのかが気になったからである。

ところで津田は『国民思想の研究』の戦後改訂版で書名から「我が」の二字を削っている。津田自身は書名から「我が」の二字を削ったことにさしたる意味はないといっている。「書名の「我が」を削ったのは、さしたる意味があってのことではなく、それが無くても、この書が我が日本の国民思想を取扱ったものであることは、おのずから知られる」ものであることなどの理由によるといっている[4] 。「我が」とは「我が日本の」ということであり、そうである限り「我が」とあえていわずして明らかであると津田は削除の理由を釈明している。
この釈明文はわれわれに二つのことを教えている。一つはあの「我が」とは「我が日本の」ということであり、この「我」とは「序説」冒頭の文章で「我々の民族」というのと同じ「われわれ日本人」を意味していることである。「我が国民思想」とは「われわれ日本人の国民思想」であることはだれにも明らかだから、「我が」の二字を省いてもよいと津田はいっているのである。だが「われわれ日本人の国民思想」を津田が「我が国民思想」というとき、その「我」に大正初年のいま「国民思想」をその始まりから叙述しようとする津田という独自の思想主体を私は感じ取る。戦後の改訂版でこの「我が」の二字を削ったとき、津田はあの「我が国民思想」という「我」に込められていた津田という思想史家の独自性を自ら削り取ったことにはならないか。あの削除の釈明文が教える二つ目のことはこのことである。だが恐らくこれはここで問うべきことではない。ここではわれわれが読むべきなのは、「我が」の二字が付された初版本『我が国民思想の研究』だということを知ればよいのである。

津田は『我が国民思想の研究』をどのように語り始めるのか。私はまずその始まりの一文を引いた。彼は「東海の波の上に我々の民族が住んでいるということ云々」と書き始めているのである。「我が国民思想」の始まりを津田は「東海の波の上に我々の民族が住んでいる」という「我が民族」の原初的な成立の光景から書き始めているのである。

すでに見たように「我が国民思想」とは「我が日本(日本人)の国民思想」をいうことであり、「我々の民族」とは「我々日本人」ということである。「民族」という日本語概念ー「民族」とは日本製漢語であるーについてはあらためて検討するが、津田のいう「日本民族」とは「日本の民族(ピープル)」すなわち「日本人民」「日本人」を意味すると私は考える。津田はいま「我々の民族」すなわち「われわれ日本人」が東海の波の上に成立していることを書き出すことをもって「我が国民思想」の物語の「始まり」を記しているのである。ここにあるのは「起源」の遡行的追求ではない。「民族」の、あるいは「日本人」の起源への追求的視線は遮断され、すでに成立している「民族」という始まりが記述されるのである。

津田が「民族」をいうことは「起源(オリジン)」をいうことではない、「始まり(ビギニング)[5] をいうことである。「始まり」はこれから始まる物語の「始まり」として、物語の性格を決定的に意味づけていく。たとえば「天照大御神」という「始まり」は「日本国家」の語りを国体論的に決定的に意味づけていくのである。いま津田は「我が国民思想」という語りを「我々の民族」の成立をいうことから始めているのである。

2)「日本の文」の始まり

津田の「国民思想」の語りは『文学に現はれたる我が国民思想の研究』の書名がいうように「わが文学」の歴史的展開による国民思想の語りである。ここでいう「文学」とは文芸から美術・音楽・演芸をも含む広い意味におけるものである。この広意における「文学」の歴史的展開を通して「国民思想」を追求するという形を津田の書はとる。そこから津田の「此の書は国文学史の(幼稚ではあるが)新しい試みともなっている」(「例言」)という言葉もあることになる。この言葉は私に「日本文学史」とその「始まり」の記述への参照を強く促した。

「日本の文」の始まりを日本文学史はどのように語るのか。だが既成の「国文学史」には私が期待するような「始まり」の記述はない。はっきりと「始まり」の記述をもっているのは、私が知るかぎり小西甚一の『日本文芸史』[6] だけである。小西の『日本文芸史』は欧米の研究者・学生を読者にもって、新しい方法意識と世界文学的視点とをもって書かれた文学史である。私は『万葉集』などについて多くのことを教えられた。英語版とともに刊行されたこの「日本文学史」ははっきりと「日本の文」についての「始まり」の記述をもっているのである。
「まず「日本」という点から考えてみよう。日本文芸史における「日本」とは、何をさすのであろうか。・・・地域としての「日本」には、アイヌ文芸が存在するけれども、これをヤマト系の文芸と連関させて迹づけることが不可能だから、ユーカラで代表されるアイヌ文芸は、ヤマト系の文芸と交渉するところが無かったから、包括する必然性は無いのである。」(一「対象と方法」)

小西の「日本」あるいは「日本の文」の始まりの語りをあらためて読み直して、これが異質の排除からなる「ヤマト系文芸」の始まりの記述であることを知って驚いた。異質の排除からなる「ヤマト系文芸」をいうことは、「ヤマト」というアイデンティティの成立を前提にしている。「日本」「日本の文」の始まりを問う小西は、すでにはじめからその答えをもっていたのである。「日本」という自己同一性の原初型としての「ヤマト」を。この「ヤマト」を定義して小西はこういっている。
「わたくしの日本文芸史がヤマト系に即して組織されることは、前に述べたとおりであるが、さらにヤマト系ということを定義するならば、それは「弥生式の土器で代表される文化を形成し完成させた民族とその子孫がもつ文芸であり、現代日本語とその古形によって制作・享受されるもの」というべきである。」(三「ヤマト系文芸と非ヤマト系文芸」)

ここで筆者自身がカギ括弧でくくっている文章は自己引用なのか、自らした概念的要約なのか。いずれにしろこれは「弥生式日本」あるいは柳田風にいえば「平地常民的日本」として定型化された「日本」の再生でしかない。そのことはともかく「ヤマト」という「始まり」は「アイヌ」という異質を排除することによって「わが始まり」として画定される。だから「ヤマト」という「始まり」を画定することは、〈外部〉を排除して「日本」という〈内部〉を画定することでもある。したがって「ヤマト」を始まりとする『日本文芸史』は日本的内部としての日本人による文芸的表現とその特質をめぐる詳細な分析批評的記述となる。その際、世界文学が参照されようとも、それは内部的特質を際立たせるものでしかない。私がさきに小西のこの著書に教えられたといったのは、「日本の文」の内部的特質の詳細な分析的記述によってである。

ところで小西はこの大著『日本文芸史』を「故ジョージ・サンソム卿」に捧げている。小西をアメリカの学界に引き入れたのは、当時スタンフォード大学顧問教授のサンソムであったという。小西が深い感謝と尊敬の念を捧げるサンソムであるが、彼が日本とその文化の起源に向ける視線は小西とはまったく異なっている。サンソムが『日本文化史』で記述しようとするのは「始まり」ではなくして「起源」である。サンソムは『日本文化史』をこう書き始めている。
「日本人の起源についてはまだ定説はない。しかし地理上歴史上の既知の事実に照らして先験的に論定すれば、日本民族は歴史以前の時代にアジア本土の各地方から移住した諸要素の混合からなるという結論に達する。」[7]

「始まり」をいう文化史的言説は「わが文化」の自己同一的な文化の〈純粋型的始まり〉を見出していく。それに対して「起源」を尋ねる文化史的言説は多様的なものの混合型的起源を推定していく。そこから始まる文化史的な記述はまったく対照的性格をもった二つの展開を見せていく。サンソムがイギリス本島と日本列島の文化地理的な類似をこういっている。
「いずれも背後には種々の民族の住む大陸があり、前方には無際限の大洋がある。飢餓と恐怖との圧迫にかりたてられたもの、いなむしろ単なる変化を求めたもの、そういう移住者の集まりがちなのがこのポケットである。そこから先には行くにも行かれないために、混和するか死滅するかのほかないのもこのポケットである。」

この混合的文化の成立をめぐるサンソムの言葉は、岡倉天心の『東洋の理想』の言葉を思い起こさせる。「日本の芸術史は、こうして、そのままアジア的理想の歴史となるーー東洋の思想の波が日本の国民意識という渚に打ちよせて来るたびに、波の痕を砂地に残してゆくのだ。」[8] この天心の言葉を読むことでわれわれは、「日本(やまと)」という「始まり」から始めないもう一つの日本文化史・芸術史・文学史の言説があることを知るのである。同時にわれわれは「日本(やまと)」という「始まり」から始める日本文学史もまたもう一つの文学史であることを、すなわち「日本(やまと)」という自己同一性が成立して以降の、すなわち日本近代の「日本」および「日本の文」の再構成的文学史であることを知るのである。日本文学史における「始まり」を見てきたわれわれはここで津田左右吉における「民族」という「始まり」の言説にもどろう。

「東海の波の上に我々の民族は住んでいる」という言葉をもって始めた津田は、この民族による国民の形成を語っていく。「さて此の民族全体が国民として完全に統一せられたのは、ずっと後のことで、確かには判らないが大てい所謂四世紀の初め頃、即ちシナの晋代に当る時分で有ろうから、我々の祖先は纏まった一国民としての生活を始めない前、随分長い年月の間、民族としての生活を経過してきたのでる。」
四世紀の初め頃と推定される統一的国家の成立とともに国民となる民族、あるまとまりをもった民族がずっと以前からこの列島に存在したと津田はいうのである。彼のいう民族とは国民となる人々の国家成立前の名称だということになる。この国家が
日本やまとであるとすれば、やがて日本国民となる日本人が日本民族である。このことは未刊の『国民思想の研究 五』の「序説」をなすものとして編集されている「回顧二千年」[9] という文章で一層明かにのべられている。
「いわゆるアジアの東方の列島に生活しているわれわれ日本人の祖先は、知られる限りの古代において、既に体質を同じくし言語を同じくし生活を同じくし、過去の長年月にわたる共同の歴史を経過してきて、低いながら共同の文化をもっていた。一つの民族として、われわれの知識に入ってくる日本民族は、民族としては附近の大陸及び半島の諸民族とは全く違った特異の民族であり、現在では、他に類族のあることの認められない世界唯一の民族である。そうしてそれが後の歴史の進展の過程において政治的に統一せられ、一つの国家を形成して、今日までも変らぬ民族国家の国民として世界に立つことになった。」

これは大正5年(1916)に『我が国民思想の研究 貴族文学の時代』の第一章の冒頭でのべた「民族」という「わが始まり」の言説を昭和37年(1962)に再生させたものであって、「民族」概念に、その「始まり」をいう言説に何らか戦後的な変容が加えられているわけではない。「日本民族」という同一性的概念が一層あからさまになっただけで、ほぼ同じことは大正初年の文章でもいわれている。だが約半世紀後の「回顧二千年」の文章が放つ反動的なにおいに私は辟易する。それは「民族」という概念、あるいは「民族」主義的言説のもつ歴史的性格の問題なのか。「回顧二千年」から引く上の文章は、20世紀の「民族国家」日本の自己誇示ともいいうるものではないか。津田の「民族」という「始まり」をいう言説とは、20世紀の「民族国家」日本の成立を二千年前に遡行させた言説ではないのか。だがそういい切る前にわれわれにおける「民族」概念を考えてみよう。



[1] バリバール/ウォーラーステイン『人種国民階級ー揺らぐアイデンティティ』若森章孝他訳、大村書店、1995。

[2] 津田左右吉『文学に現はれたる我が国民思想の研究』の第1巻「貴族文学の時代」は大正5年(1916)に洛陽堂から刊行された。第2巻「武士文学の時代」は大正6年に、第3巻「平民文学の時代上」は大正8年に、第4巻「平民文学の時代中」は大正10年に刊行された。津田のこの一連の著述は第5巻「平民文学の時代下」(明治維新を中心とする思想史)を未刊のままにして絶版となり、戦後に至った。津田は戦後昭和23年(1948)からこの一連の著述の補訂に取りかかり、昭和26年に改訂版『文学に現はれたる国民思想の研究第一巻』として「貴族文学の時代」を岩波書店から刊行した。次いで「武士文学の時代」は『第二巻』として昭和28年に、「平民文学の時代上」が『第三巻』として同じ昭和28年に、「平民文学の時代中」が『第四巻』として昭和30年に刊行された。だが「平民文学の時代下」すなわち『第五巻』は刊行さrえなかった。津田は昭和36年(1961)に亡くなった、津田の『国民思想の研究』には初版と戦後改訂版の二種があることになる。だが日本近代史に出現した津田の歴史思想的言説の思想史的意味を問う私の立場から、初版本が考察の対象とされる。初版本は『津田左右吉全集』別巻第二〜第五に収められている(岩波書店)。

[3] 津田の著述からの引用にあたっては当用の漢字、かな遣いに改めている。

[4] 改訂版『国民思想の研究一』「まへがき」『津田左右吉全集』第4巻、岩波書店。津田の著作からの引用に当たって、当用の漢字・かな遣い表記に改めた。また「支那」は「シナ」とした。

[5] 「始まり(beginning)」がもつ言説論上の重大な意味について、「起源(origin)」と「始まり」の意味論上の差異についてはE.W.Said"BEGINNINGS Intention and Method"Columbia University Press, New York, 1985.参照。

[6] 小西甚一『日本文芸史I』講談社、1985.I〜V巻と別巻の全6巻からなる小西の『日本文芸史』は英語版が同時に刊行されているように、著者の米国(スタンフォード大学)における研究と教授体験にもとづくもので、いわゆる国文学史の域をこえた方法意識と世界文学的視点をもって書かれたすぐれた文学史である。

[7] G.H.サンソム『日本文化史』福井利吉郎訳、東京創元社、1976,

[8] 岡倉天心『東洋の理想』(佐伯彰一訳)『岡倉天心全集』第一巻、平凡社、1980.『東洋の理想(原題:THE IDEALS OF THE EAST WITH SPECIAL REFERENCE TO THE ART OF JAPAN)』は1903年にロンドンのジョン・マレー社から出版された。

[9] 「回顧二千年」は雑誌『心』の昭和37年11月号に掲載された。『津田左右吉全集』の第8巻が未刊の『文学に現はれたる国民思想の研究五』として編集された際、その第一論文として収められた。

「思想史講座」のお知らせー10月のご案内 子安宣邦

*思想史講座
「未完のナショナリズムー津田『我が国民思想の研究』を読む」
*だれでも。いつからでも聴講できる思想史講座です。

*10月から「未完のナショナリズム」というタイトルで新講座を出発させます。この講座では津田左右吉の『文学に現はれたる我が国民思想の研究』を読むというよりは、この書を課題として立てることによって見出されてくる問題をめぐって考えてみたいと思っています。第一回には津田の書が「我々の民族」をいうことから始まっている、この始まり方を問題にします。この始まり方が何を意味するのか、その「民族」概念とともに問い直してみたいと思っています。




*大阪教室:懐徳堂研究会

10月15日(土)・13時〜15時
津田『国民思想』論・1:「民族」という始まり」

会場:梅田アプローズタワー・14階1403会議室


*東京教室:昭和思想史研究会

10月8日(土)・13時〜16時
津田「国民思想」論・1:「民族」という始まり

会場:会場:早稲田大学14号館1054教室

*参考文献:津田左右吉『文学に現はれたる我が国民思想の研究ー貴族文学の時代』初版本(岩波文庫、全集別巻二)の「序説 第一章 上代国民生活の瞥見」だけをできたらお読み下さい。お読みにならなくともわかるようにお話いたします。
「民族」概念については、私の『日本ナショナリズムの解読』(白澤社、2007)の「解読6 日本民族概念のアルケオロジー」をご参照下さい。

*論語塾―伊藤仁斎とともに『論語』を読む

『論語』はどこからでも新しく読むことができます。
途中からでも自由にご参会ください。
私の『論語古義』の解読作業も最終段階に入っております。『論語古義』の読み終えを共にしませんか
『論語』とともに、伊藤仁斎の『童子問』を読みます。
『童子問』は日本近世最高の思想書とみなされる仁斎晩年の著作です。

10月22日(土)12時〜15時 1 衛霊公篇・3 2 『童子問』上

資料は当日配布します。

会場: rengoDMS(連合設計社市谷建築事務所)JR飯田橋駅西口から徒歩5分


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