[フレーム]

子安宣邦のブログ -思想史の仕事場からのメッセージ-

2014年11月


「信について」—私の「論語講義」から 子安宣邦

孔子は、「民、信無くんば立たず」という。人民は信がなければ立ちゆかない、というのである。その信とは何であろうか。また孔子は、「我を知るものは、それ天か」という。孔子は究極的には彼の信を天に置いているように思われる。その信とは信仰だろうか。信とは何か。

まず辞書的な意味で信とは何かを考えてみよう。漢和辞典はまずこの「信」字の成り立ちから説明する。すなわち「信」字が会意という二つの文字とその意味とから構成されたものであることをまずいう。「信」は「人」と「言」とから成るというのである。この「信」字の成り立ちを知ることは重要である。それは信の意味を考え直す上で大事なきっかけになるからである。
では「信」字が「人」と「言」とから成るということから何が考えられるのか。諸橋の大漢和辞典はこの「信」字の構成からこう説いている。「人言は人の心中を表白するもので、偽なきもの。故に信はまことを意味し、従って信ずるの意となる。故に説文は誠と訓む。」ここでいわれているのは、まず人の言葉は偽りなき、実なものだということである。それゆえ人の言は信頼しうるもの、すなわち信じることのできるものとして、「信」字が成るということである。ただ辞典は人の言が実である理由を、「人言は人の心中を表白するもの」であるからといっている。いかしこれは後世的な説明と思われる。すなわち外の偽飾と内の誠実といった内外の区別の意識が生まれた後の説明であると思われる。原初、人の言葉は信頼できるもの、すなわち信じることのできる実なものであったのである。の実であることを根拠にして信頼という対他的な人間の態度が生じ、「信」字とともにその意義を構成していったと私は考える。
ところでなぜ原初、人の言は実であったのか。そう訊ねることから、原初をめぐるさまざまな解釈の世界が展開されることになる。漢字の源に呪術的な原始宗教的世界を想定する白川静の語源学もその一つである。「信」字について白川はこう解いている。「会意、人+言。言は誓言、神に誓う語である。[説文]に誠なりという。[穀梁伝、僖二十二年]に、[言にして信ならざれば、何を以てか言と為さん]とあり、誓約の言であるから、信誠の意がある。」(『字通』)。言とは神に誓う言葉、あるいは誓い合う誓約、誓盟であると白川はいうのである。これは人間における重い言葉の発生を神との言語的な関わりにおいて見る立場である。日本でも神の前に祷る言葉すなわち祝詞に日本語の重要な始まりの形態を見たのは平田篤胤である。私は物事の原初を宗教的な始まりとして見ていくのは、始まりについての近代の民族学・宗教学的解釈だと考えている。それは「そうかもしれませんね」という程度のことだとみなしている。
大事なことは、「信」という字が人の言葉が実であり、信頼の根拠であったことの人間の記憶を持ち続けていることである。「信じる」という人間の態度は何によるのかを「信」字は、この字が生まれて以来われわれに示し続けているのである。その人の言葉が実であることの上に人と人との関係は成立するということである。お上の言葉に実がなければ、民との関係は成り立たない。それゆえ孔子は、「民、信無くんば立たず」というのである。
子安『思想史家が読む論語』(岩波書店、2010)「信」章の序より

〈大正〉を読む2
啄木の証言—〈大逆事件〉とは何であったのか・その2 子安宣邦

1 啄木の証言的記録

石川啄木に〈大逆事件〉の発端からの経過を当時の新聞記事・論説によって詳細に辿った「日本無政府主義者陰謀事件経過及び附帯現象」という彼以外の誰もしなかったこの事件の証言的記録がある。なぜ啄木によるこの証言があるのかは次の私の課題であるだろう。ここではこの証言的記録によって〈大逆事件〉の経過を見てみたい。明治43年6月5日、この日の諸新聞にはじめて本件(大逆事件)犯罪の種類、性質に関する簡単な記事が出て、国民を震駭させたとして、啄木は東京朝日新聞の記事を要約し紹介している[1]

「東京朝日新聞の記事は「無政府党の陰謀」と題し、一段半以上に亘るものにして、被検挙者は幸徳の外に管野すが、宮下太吉、新村忠雄、新村善兵衛、新田融、古川力蔵(作)の六名にして、信州明科の山中に於て爆裂弾を密造し、容易ならざる大罪を行はんとしたるものなる旨を記し、更に前々日の記事(幸徳拘引)を補足し、幸徳が昨年の秋以来・・・表面頗る謹慎の状ありしは事実なるも、そは要するに遂に表面に過ぎざりしなるべしと記載し、終りに東京地方裁判所小林検事正の談を掲げたり。」

啄木はここで小林検事正の談話を引いている。これは〈大逆事件〉について検察局の担当者がもった見透しとして重要である。

「今回の陰謀は実に恐るべきものなるが、関係者は只前期七名のみの間に限られたるものにして、他に一切連累者なき事件なるは余の確信する所なり。されば事件の内容及びその目的は未だ一切発表しがたきも、只前期無政府主義者男四名女一名が爆発物を製造し、過激なる行動をなさんとしたる事発覚し、右五名及連累者二名は起訴せられたる趣のみは本日(四日)警視庁の手を経て発表せり。」

啄木がここに小林検事正の談話を記録したことは何を意味するのか。この爆発物の製造・実験をめぐる無政府主義者の未発のテロ事件、検察庁の担当検事が事件関係者は幸徳ら7名を出ないといっていた事件が、東京から信州、大阪、紀州、熊本の社会主義者を包括する反天皇制的国家的事件〈大逆事件〉になっていく過程を啄木は確かにみすえているからである。啄木がこの証言的記録をいつ作成したのか。啄木の「年譜」[2]によれば、明治44年(1911)1月23日に「幸徳事件関係記録の整理に没頭」したとある。大審院が24人に死刑の判決を言い渡したのが1月18日である。その日に先立つ1月3日に啄木は友人である平出修(幸徳の弁護人)から幸徳が弁護人に送った「陳弁書」を借り受けて読んでいる。その数日後(9日)に啄木は旧友瀬川深宛に「自分を社会主義者と呼ぶことを躊躇してゐたが、今ではもう躊躇しない」といっている。啄木は無政府主義的テロリズムが社会主義と等置されながら、あの〈爆弾テロ事件〉が日本における社会主義思想の国家的排除をめざす政治的弾圧事件〈大逆事件〉に転化したことを見ているのである。しかも〈事件〉のこの転化を国家権力とともに推進しているのは〈新聞〉であることを啄木は見抜いているのである。小林検事正の談話を載せた東京朝日の同じ記事中にはこういうことが書かれていると啄木は証言する。

「同人(新村忠雄)は社会主義者中にありても最も熱心且つ過激なる者なるより、自然同地(長野県屋代町)は目下同主義者の一大中心として附近の同志四十名を数へ居る事、及び現在日本に於ける社会主義者中、判然無政府党と目すべき者約五百名ある事を載せたり。」

東京朝日新聞はあたかも検察当局とともに社会主義者捜しをやっていると啄木は証言しているのである。そして同年6月21日、東京朝日新聞は「無政府主義者の全滅」という記事を掲載した。

「和歌山に於ける大石、岡山における森近等の捕縛を最後として、本件の検挙も一段落を告げたるものとなし、斯くて日本に於ける無政府主義者は事実上全く滅亡したるものにして、第二の宮下を出さざる限りは国民は枕を高うして眠るを得ん云々の文を掲げたり。」

これを読めば〈大逆事件〉を作り上げていったのは山県有朋・桂太郎・平沼騏一郎といった国家権力の中枢だけではない、新聞などマス・メディアの側もそれに一役も二役も買っているのである。〈大逆事件〉とは新聞情報が大衆的意見形成に大きな意味をもつ時代の始まりを告げるような国家的な事件であったといえるだろう。啄木は社会主義概念を反国家的、反皇室的な危険思想として大衆に定着せしめた上で新聞が果たした役割の大きいことをいうのである。「無政府主義者の全滅」をいう東京朝日の記事を紹介した後で啄木は「社会主義」概念をめぐっていっている。

「本件は最初社会主義者の陰謀と称せられ、やがて東京朝日新聞、読売新聞等二三の新聞によりて、時にその本来の意味に、時に社会主義と同義に、時に社会主義中の過激なる分子てふ意味に於て無政府主義なる語用ゐらるるに至り、後検事総長の発表したる本件犯罪摘要によりて無政府共産主義の名初めて知られたりと雖も、社会主義・無政府主義の二語の全く没常識的に混用せられ、混用せられたること、延いて本件の最後に至れり。・・・而して其結果として、社会主義とは啻に富豪、官憲に反抗するのみならず、国家を無視し、皇室を倒さんとする恐るべき思想なりとの概念を一般民衆の間に流布せしめたるは、主として其罪無知且つ不謹慎なる新聞紙及び其記者に帰すべし。」

啄木は同年9月23日付け東京朝日の「京都の社会主義者狩」の記事を紹介しいる。その冒頭に「社会主義者に対する現内閣の方針はこれを絶対的に掃蕩し終らずんば止まじとする模様あり」という記者の感想が記されている。この記者の危惧通りに〈事件〉は進行し、社会主義者の息の根を止めるような、社会主義者に〈大逆罪〉という究極的な罪科を負わせるような〈大逆事件〉が作られていったのである。

日本の20世紀的現代は社会主義に〈大逆罪〉という罪科を負わせて始まったのである。われわれはこの始まりを、〈大逆事件〉を歴史の中に置き去るとともに忘れている。田中伸尚の『大逆事件ー死と生の群像』は、われわれの〈事件〉の忘却がなお現代日本社会に〈大逆事件〉を存続せしめている戦後の国家体制を共犯的に作り出しているのではないかという痛切な反省を私にもたらした。〈大逆事件〉は社会主義の〈冬の時代〉を大正にもたらしただけではない。〈大逆罪〉という社会主義に負わせた罪科は日本社会のトラウマとなって、その思想の社会的成立も成熟も内部的に妨げられてきたように思われる。現代日本で社会主義がその政党とともにほぼ溶解してしまった現実を、社会主義に〈大逆罪〉の罪科を負わせて始まった20世紀日本現代史の帰結として見ることもできるのではないか。もしそうであるなら、われわれは田中伸尚の「道行き」に同行して、〈大逆事件〉を持ち続けてきた日本の国家社会が刻んだ無残な傷痕を見つめることから社会的公正と共生の思想・社会主義の再建を考えるしかない。すでに石川啄木は社会主義をその主義者とともに殲滅することをめざした〈大逆事件〉に正面しながら己れの社会主義を問い直し、社会主義者であることの自覚をあえて友に告げようとしたのである。



[1] 石川啄木「日本無政府主義者陰謀事件経過及び附帯現象」『啄木全集』第10巻所収、岩波書店、1961。

[2] 「年譜」『啄木全集』別冊「啄木案内」所収、岩波書店、1961.

*〈大正〉を読む・2

〈大逆事件〉とは何であったのか—その1 子安宣邦


1 なお〈大逆事件〉は在る

坂本清馬は、〈大逆事件〉で死刑判決を受け、恩赦によって無期に減刑された12人の事件連座者の一人である。秋田監獄に収監されている時期から坂本は再審請求の可能性を追求していた。12人の減刑者のなかで坂本はもっとも遅く昭和9年(1934)に仮出獄を許された。出獄後の厳しい監察下で彼は再審請求の可能性を追求し続けた。戦後になって弁護士森長英三郎の献身的な助力もえて坂本は、森近運平(死刑)の妹栄子(ひでこ)とともに再審請求を東京高裁に起こすことができた。それは昭和36年(1961)1月18日であった。その日は「大審院が二四人に死刑判決を言い渡した日からちょうど五〇年後であった」と田中伸尚は書いている[1] 。東京高裁における坂本らの再審請求にかかわる審尋が始められたのは63年9月になってである。裁判長は長谷川成二であった。弁護団側は審尋の公開を要請した。だが長谷川裁判長はそれを認めなかった。坂本ら24人に死刑判決を下した明治の大審院法廷と同じように、昭和戦後の再審請求の法廷もまた扉を閉ざしたままの非公開の裁判であった。昭和戦後の東京高裁は国民から隔てられた閉じた法廷でもう一度〈大逆事件〉を審議したのである。日本の法廷は〈大逆事件〉を二度非公開で審議し、その真相を法廷内に閉じ込めてしまったのである。

田中伸尚の著書『大逆事件—死と生の群像』によって昭和戦後日本の非公開の法廷における裁判長による審問の様子を知って、私は驚きとともに恐怖を覚えた。長谷川裁判長は再審査請求人坂本にこういう質問をしているのである。

「・・・請求人は無政府共産主義を信奉していたようだが、そういう立場は当時(仮出獄後)も続けていたのか。」

〈大逆事件〉の再審査の請求によって始められた昭和戦後日本の法廷は、明治の大審院裁判が思想弾圧的裁判であったことの本質そのままに、もう一度ここで請求人の〈無政府共産主義〉的立場の認定から始めているのである。また森近運平の妹榮子への審問(1964年1月)で長谷川裁判長はこう訊いている。

「社会主義というのはその当時どういうものかということは、もち論判らなかったと思いますけれども、人にいやがられるような運動だと思ったことはありませんでしたか。」

私はこれを読んで慄えあがるような恐ろしさを覚えた。これは50年前の思想裁判的尋問をもう一度やり直しているのではないか。兄運平が処刑されたとき栄子は13歳であった。それから50余年後、67歳の栄子は兄運平の社会主義思想についてもう一度問われているのである。こうした審問からなる再審請求裁判とは、〈大逆事件〉裁判を戦後日本の法廷がもう一度やり直したことを意味している。心臓病で入院中の坂本のもとに東京高裁の再審請求棄却の決定が届いたのは、1965年12月10日であった。なぜ棄却したのか。棄却の理由としてこういうことがいわれている。

「坂本は検事調書、公判供述を通じ一貫して大逆の犯意を否定しているが、明治四一年(一九〇八)十一月「平民社」で幸徳から逆謀を告げられて同意し、決死の士を集めることを同意したという事実は、幸徳らの予審調書などを総合してこれを認めることができる。また坂本は受刑中も無罪を主張していたが、判決後の行動においては同人の無罪を確認させる有力な証拠は見られない。」(要旨)

この棄却決定理由を見れば、戦後日本の東京高裁は〈大逆事件〉の裁判をもう一度やり直したのである。すなわちこのでっち上げ事件のでっち上げ的予審調書[2]などをたどり直して坂本の死刑判決に間違いないことを判定し直したのである。〈大逆事件〉を戦後日本の法廷はもう一度審査し、再審の請求人は〈大逆事件〉の有罪者であることを再確認したのである。

最高裁の大法廷は昭和32年(1967)7月5日、〈大逆事件〉再審請求の特別抗告を棄却することを全員一致で決定した。裁判長は横田正俊であった。日本の裁判所は半世紀をこえて否定され続けてきた再審請求者の人権を回復させるよりも、日本の国家的、司法的体系が再審によって揺るがせられることを拒んだのである。〈民主主義〉国家日本の最高裁は国民の人権よりも、明治以来の国家的司法体系を優先させたということである。明治44年(1911)1月18日の24人に死刑を言い渡した大審院判決は、昭和32年(1967)に戦後日本の最高裁によって追認されたのである。〈大逆事件〉はなお〈大逆事件〉であり続けているのである。

戦後日本の〈民主主義〉的国家・社会とは、〈大逆事件〉が〈大逆事件〉としてあり続けることを許している国家・社会であることをわれわれは知らなければならない。

2 『大逆事件ー死と生の群像』

田中伸尚は〈大逆事件〉の連座者たち、死刑判決によって直ちに死刑に処せられた12名、死刑の判決後無期に減刑された12名、そして爆発物取締法違反で有期刑とされた2名を含む26人の連座者たちとその家族や類縁者たちのその後、すなわち80年をこえるその後をたずねていった。「私が、彼らの遺族やその周辺をめぐる旅ーそれを私は「道ゆき」と名づけたーを少しずつ始めたのは一九九七年ごろからだった」と田中は「あとがき」に書いている。〈大逆事件〉の現在にいたる80年をこえるその後を田中は書いていったのである。彼は〈大逆事件〉とは何かを書こうとしたのではない。彼は〈大逆事件〉とは日本社会において何であったのかを書くことによって、〈大逆事件〉という恐るべき〈事件〉の本質を明らかにしていったのである。

田中はその著書『大逆事件ー死と生の群像』の「プロローグ」を女性史家今川徳子の小学校時代の記憶から書き出している。岡山の森近運平の生家がある高屋町の小学校(当時国民学校)の6年生であった今川徳子は、終戦の翌年1946年の12月に友達3人で郷土の人「森近運平」についての〈卒論〉を書こうとした。彼女たちは森近運平の名を〈大逆事件〉の連座者として知っていたわけではもちろんない。たまたま同郷の人森近の名を父のもつ書中に見つけ、彼をめぐる聞き取り調査で〈卒論〉を書こうとしただけだという。それと運平の妹榮子を「おばちゃん」と呼んで日ごろから親しくしていたことも、その理由であった。今川たちは町の誰れかれと無く、特にお年寄りに「運平さんてどんな人だったか」をたずねて歩いた。だが運平さんのことになると誰もが黙ってしまった。「何で今頃そんなことを訊いてまわっているんだ」と強い口調でいわれたこともあった。今川たちは日ごろから「おばちゃん」と呼んで親しくしていた運平の妹榮子に直接話を聞くことにした。子供たちの口から「運平」の名が出るのを聞いて戸惑った栄子は、しばらくして涙を目に溢れさせて呟いた。「運平さんはね、お国に殺されたんだよ」と。

町中に張りめぐらされた沈黙の壁によって、出口がみつからないまま今川たちは歩きまわった日録風の記録と彼女たちには解きがたい、しかし膨らんでくる疑問を50枚の卒論にまとめた。「町の人たちの沈黙の理由もよく分からず、「おばちゃん」のぽたぽた落ちる涙と「運平さんはお国に殺された」という言葉とが、私の中に(おり)のように残ってしまいました」と今川はいっている[3]

今川たちが高屋の人びとに「運平さんとは誰か」を訊いてまわったのは終戦から間もない1946年のことであった。高屋の町の人びとが「森近運平とは誰れ?」という子供たちの問いに沈黙をもって対したことは、まだその時期ならばわれわれにも分かる。だが〈大逆事件〉から半世紀後の再審請求によって〈事件〉とその連座者森近運平についての地元の見方も変わり、『井原市史』においても歴史上の人物として森近運平の事蹟が記されるようになった時期になっても、高屋の人びとはなお運平について沈黙をし続けているという。地元で「森近運平を語る会」を続けている久保冨美子は2008年4月の墓前祭の後にこう語っている。

「私も墓前祭には、だいたい毎年出ていますが、高屋からの出席者はありません。・・・「大逆事件」は運平さんだけでなく、高屋全体が巻き込まれたという思いが、今も変わらずにあるようです。やはり国家が処刑したという事実は、閉鎖性の強い地域では長く重くのしかかってきたのではと、思います。」[4]

〈事件〉後、一世紀にもなろうとする時期の森近運平の地元高屋の町の人びとの沈黙は、日本社会のわれわれの沈黙というか、意識的・無意識的にこの〈事件〉をあえて見ることをせずに歴史の中に置き去りにしてしまっているあり方を集約していることのように私には思われる。田中伸尚は彼が「道ゆき」という〈事件〉の連座者の遺族やその周辺を尋ね行く旅を1997年ごろに始めた。その「道ゆき」の途中で市民運動をしている知人に、「今さら、どうして「大逆事件」?みんな知っているでしょう?」と訊かれたという。だがそう訊いた知人は例外であるわけではない。恐らく多くの人が、私も含めて、「今さら、どうして「大逆事件」なの?」と訊いたかもしれないのだ。その知人は〈大逆事件〉はもう知っていると思っていた。私もそうだ。だが田中のこの書を読んで、私は〈大逆事件〉を何も知らなかった、あるいは知ろうともしなかったことを痛切に思い知らされたのである。

なぜ私は知ろうともせずに、知ったつもりでいたのだろうか。私の認識志向を抑制する何かがあったのだろうか。〈大逆事件〉という〈事件〉の重石が無意識的に私の目と耳と口とを塞いでしまっていたのだろうか。すでに記したように最高裁は昭和32年(1967)7月5日に〈大逆事件〉再審請求の特別抗告を棄却することを決定した。これによって明治末年の〈大逆事件〉は戦後日本にも〈大逆罪〉を構成する国家犯罪的事件として、その冤罪性が法廷で問われることなく、国家的冤罪性への問いを封じる形で存在し続けることになってしまったのである。これは戦後日本の最大の国家的・司法的スキャンダルといってもよい。戦後日本の〈民主的〉国家としての再出発のいい加減さをわれわれは随所に見ているが、〈大逆事件〉が〈大逆事件〉としてあり続けていることは、このいい加減さを根底的に示すものではないだろうか。

だが〈大逆事件〉が戦後日本でなお〈大逆事件〉であるようにさせてしまっているのは、〈事件〉を歴史の中に置き去って、耳と目と口とを塞いでしまってきたわれわれの意識的、無意識的な忘却によることだといえなくもない。〈大逆事件〉を〈大逆事件〉としてあり続けている戦後日本の〈民主的?〉国家の形成の加担者としてわれわれはあるのではないか。田中の『大逆事件ー死と生の群像』は事件の連座者とその遺族たちの死にいたるまでの排除と監視と抑圧の80年、いや一世紀を記して、〈大逆事件〉とは日本社会にとって何であったか、〈大逆事件〉をなお〈大逆事件〉であらしめている日本社会とは何かをわれわれに痛切に考えさせるのである。



[1] 田中伸尚『大逆事件ー死と生の群像』岩波書店、2010.本稿における〈大逆事件〉をめぐる記述は田中氏のこの労作によっている。また田中氏の〈大逆事件〉をめぐる講演の記録「自由と抵抗をめぐってー「大逆事件」の現在」(『わだつみのこえ』133号、2010.11.)からも多くのことを教えられた。

[2] 幸徳秋水は東京監獄の監房から弁護人宛に「聞取書及調書の杜撰」という陳弁書を送っている。「検事の聞取書なる者は、何を書てあるか知れたものではありません。・・・大抵検事が斯うであらうといつた言葉が私の申立として記されてあるのです。多数の被告に付ても、皆な同様であつたらうと思ひます。其時予審判事は聞取書と被告の申立と孰れに重きを置くでしやうか。」(『幸徳秋水全集』第6巻)この秋水の弁護人宛の手紙は石川啄木の「A LETTER FROM PRISON」に収められている。

[3] 今川の文章は田中『大逆事件ー死と生の群像』から引いている。

[4] 引用は田中『大逆事件ー死と生の群像』による。

*ソウル講演(2014年11月07日.)

東アジアと普遍主義の可能性 子安宣邦



1 〈東アジア〉は自明か
本連続講座が掲げる「東アジア文明と普遍主義の可能性」という課題をあえて私の講演の主題として、自分なりの答えを出すことを試みた。この答えることの困難な問題を考えるにあたって、〈東アジア〉あるいは漢語でいう〈東亜〉とははたして自明な概念としてあるのかという問いをまず提起しておきたい。〈東亜〉とはわれわれがもともともっている自明な地域的概念であるかのように人は思っている。だが果たしてそうか。試みに手近にあるやや古い辞書を見てみよう。少なくとも1930年前の辞書であれば、そこに「東亜」の語を見出すことはない。たとえば『字源』(簡野道明著、1923)を見れば、そこには「東夷」の語はあっても「東亜」の語はない。ただ「東洋」の語はあり、そこには「亜細亜大陸の東の方の称、即ち我邦及び支那の汎称=大東」という説明がある。これは漢学者にしては実にいい加減な説明である。「東洋」とは漢語で「東方の海洋」をいうのであり、簡野がいう「東洋」とは20世紀近代に「東亜」とともに成立するような概念であろう。戦後の諸橋の『大漢和辞典』(1957)は、「東亜」をごく簡単に「亜細亜の東部、極東」としている。また岩波の『広辞苑』(第4版、1955)は、「アジア州の東部、すなわち中国・日本・朝鮮などの諸国の汎称」と説明している。これらは『字源』の「東洋」概念をそのまま「東亜」概念にしているようである。しかしそれにしてもこれら戦後の辞書における「東亜」概念の説明は、あたかもこの語にまとわりついている〈日本帝国〉の記憶を振り棄てるかのようである。

私は「東亜」も「東洋」も、20世紀日本のこの地域、すなわちアジアの東部における〈帝国〉的成立と分かちがたい概念であると考えている。この〈東亜〉概念の成立の時期は、恐らく1920年代のことであろうと私は思っている。私が「東亜」概念の近代的成立について最初に語ったのは、2000年11月に成均館大学で開催された「東アジア学国際学術会議」の講演においてである[1] 。私は「東亜」の概念は、もともと中華帝国の〈帝国〉的支配に遠近・強弱の違いをもちながらも包摂されている地域、すなわち実質的に「中国文化圏」とみなされる地域をその〈周縁〉から「東亜文化圏」ととらえ直すことから成立してくる概念ではないかといった。近代史における中国から日本へのこの地域における〈中心〉の移動が、日本に〈東亜〉概念を成立させたのだと私は見ている。「中国文化圏」は「東亜文化圏」となるのである。〈中心〉の移動とはその地域を包摂する〈帝国〉の移動である。やがて〈帝国〉日本が〈東亜共同体〉を提唱することになるのである。

〈東亜〉概念には〈帝国〉の記憶がつきまとっている。わわれがいま〈東アジア〉をいうとき、〈帝国〉の記憶から切れた、新しい〈東アジア〉がはたして見出されているのだろうか。

2 方法的概念としての〈東アジア〉

この世紀に入って間もない時期、2002年6月に台北の台湾大学で「東亜文化圏の形成と展開」という国際学術シンポジウムが開催された。中国はもとより東アジアの各国・各地域から多くの学者・研究者がこの会議に参加した。「東亜文化圏」というタイトル通りに、参加者はたしかに東アジアの各地から参集した人びとであった。だがそのタイトルにおける「東亜文化圏」とは「中国文化圏」にほかならないことをシンポの開催趣意書はいっていたのである。すなわち中国本土を中心として、韓国・日本・ベトナムなどを包括する東亜世界とは、中国文化を主要成分としていること、したがって「東亜文化圏」とは「中国文化圏」にほかならないと趣意書はいっているのである。「隋唐の中国統一は歴史を劃する意義をもっている。ここにはじめて中国文化圏が形成され、一元化された東亜世界が出現するのである」と趣意書は中国文化圏としての東亜世界の形成過程をいっている[2]。とするならば、もともと「中国文化圏」にほかならないものをなぜ「東亜文化圏」として、その「形成と展開」をめぐるシンポジウムを東アジアの各地から学者たちを台湾に集めて開こうとするのか。これは台湾を代理人とした「中国文化圏」再形成のための国際会議であるのではないか。

「東亜世界は中国文化をその実質的な主成分とする」とあの開催趣意書がいうように、〈東アジア〉をある実体をともなった概念とみるかぎり、「東亜文化圏」とは「中国文化圏」であり、それをせいぜい広域化していうにすぎないことになる。しかもこの広域的文化圏が〈中心ー周縁〉という関係構造をもつてとらえられるかぎり、この広域圏は中国の〈帝国〉的世界に重なってくる。そこから「中国文化圏」を実質とする「東亜文化圏」をいうことは、中国による東アジアの〈帝国〉的な文化的再統合の言説ではないのかという疑いが当然生じることになる。

私はこの「東亜文化圏の形成と展開」のシンポで〈東アジア〉を実体概念とするのではなく、方法的概念とすることを提案した。〈東アジア〉を実体的にとらえるかぎり、たとえ中国的中心の周縁に文化の多様体を見出しても、それらは文化的中心に対する周縁的多様体として、文化一元的〈帝国〉に包摂されざるをえない。この〈帝国〉における政治的、文化的支配の構造を〈一元的多様体〉と私は呼んでいる。〈東アジア〉を実体的な概念とするかぎり、この東方の世界に〈一元的多様体〉としての〈帝国〉的支配の構造は免れがたく存続し、あるいは再生してくると思われる。私はそれゆえ〈東アジア〉を実体的な概念とせずに方法的概念とすることを提起したのである。

〈東アジア〉を方法的概念にするということは、〈東アジア〉の脱〈帝国〉化の遂行を意味している。長い歴史を通じて〈中華帝国的世界〉としてその実質も、その範囲をも規定されてきた〈東亜〉から、そして近代の〈日本帝国〉によって帝国主義的に再構成された〈東亜〉から、その脱〈帝国〉的解体によって、新たな〈東アジア〉概念を導くことである。その〈東アジア〉概念とは、〈一元多様体〉的構造としての〈帝国〉的世界を超えた新たな〈東アジア〉的世界を指し示すものでなければならない。

3 「方法としてのアジア」再考

私が方法的概念として〈東アジア〉をいおうとするとき、私のこのとらえ方は当然、竹内好のいう「方法としてのアジア」を前提にしている。竹内と彼のいう「方法としてのアジア」については、すでに私は何度か論じている[3] 。だがくりかえしだという譏りを承知の上で、あえてもう一度、竹内のいう「方法としてのアジア」を考えてみたい。日本のわれわれが〈アジア問題〉を考える際に、現在でもなお依拠しうる発言は竹内のそれだけだということは、戦後日本における〈アジア問題〉をめぐる思考の貧困をいうものでしかないだろう。私はなお竹内の発言の再考としてこの論を進めるしかない。

竹内がいう〈方法〉とは〈実体〉に対するものである。彼は1960年の講演でこういっている[4] 。「東洋の力が西洋の生み出した普遍的な価値をより高めるために西洋を変革する、これが今の東対西という問題点になっている。・・・その巻き返す時に、自分の中に独自なものがなければならない。それは何かというと、おそらくそういうものが実体としてあるとは思わないしかし方法としてはありうるのではないか。」(「方法としてのアジア」[5] )。彼はここで「方法として」ということ以上に何もいっていない。しかも竹内は「方法として」をはっきりと「実体として」に対していっているのである。後に竹内はこの講演を彼の評論集[6] に収録するに当たってこの箇所に補筆している。すなわち「方法としては」の後に「つまり主体形成の過程としては」という言葉を補っている。

だがこの補正によって「方法として」の意味はより鮮明にされたというよりは、むしろ誤読を読み手に生じさせることになったように私には思われる。竹内の言説の積極的な読み手たちは、この補正によって竹内の発言を、アジア的変革を担う民族的主体の形成を通じてのヨーロッパ近代とその〈普遍的価値〉の練り直し的再生をいうものと解するならば、それは竹内が「方法としてのアジア」といったことと微妙に違う、新たな価値的な〈実体としてのアジア〉の形成をいうことになってしまうだろう。すなわちアジア的主体による近代ヨーロッパの超克の方式になってしまうだろう。そうなると竹内の「方法としてのアジア」とは、欧米的〈普遍的価値〉に対して「社会主義的核心的価値」[7] をいう現代中国の党=国家的戦略と同じものになってしまう。これはまさしく日本の中国学者溝口雄三がいう「方法としての中国」である。

溝口もまた竹内の「方法としてアジア」にならって「方法としての中国」をいった。だが溝口の「方法としての中国」とは、世界認識、歴史認識の基準としてのヨーロッパ的世界史を読み直す方法としての中国的近代の独自性の認識を意味している。したがって溝口の〈(認識)方法としての中国〉は〈実体〉としての独自的近代化(現代化)を遂げる〈中国〉、すなわち〈社会主義中国〉を読み出すことになってしまうのである。それゆえ私は竹内のテーゼへの民族的主体の読み入れと、溝口のいう「方法としての中国」とはは同じだというのである。

竹内がいう「方法としてのアジア」とは、ヨーロッパ近代が生み出しながら、その輝きを失わせてしまっている〈普遍的価値〉をアジアによって包みかえし、その輝きを再びとりもどすことはアジアにできるのではないか、そのアジアとは〈方法として〉のアジアだということである。ここで確認しておかねばならないのは、竹内の「方法としてのアジア」論に前提されている歴史認識である。すなわち、アジアは近代の〈普遍的価値〉を共有する世界史的過程に、1840年以降、軍事力による強制という仕方によったにせよ、参入したという歴史認識である。だがアジアのこの世界史への参入の過程はアジアにとっては従属化、あるいは植民地化という〈負〉の歴史過程であった。アジアにとって〈負〉の歴史過程である世界史の過程は、ヨーロッパの生み出した自由・人権・平等といった〈普遍的価値〉を泥まみれにさせていった過程だと竹内はいうのである。その失われた輝きをもう一度輝かせることができるとすれば、それは〈負〉の過程を余儀なくされた〈アジア〉によってだと彼はいうのである。だがそのアジアとは〈実体〉としてではない、〈方法〉としてだと竹内はいうのである。すなわち、アジアがヨーロッパへの対抗的な〈価値的実体〉として独自的な〈アジア〉を再構成することによってではないというのである。〈負〉の歴史過程をたどることを余儀なくされたアジアが、そのアジアであることによって、輝きを失った〈人類的価値〉をもう一度輝かせること、そのことによって世界史の上に普遍的アジアの刻印をおすことができるアジアになることである。私はここで具体的に〈日本〉について語ろう。

19世紀後半に同じく西洋の軍事的強制によって近代化過程に入った日本は、20世紀に入ると先進帝国主義国家と同列の位置を獲得していった。しかし竹内が「ドレイ的日本」と侮蔑の言葉でいったこの近代日本は、アジアにおける加害者になることで近代化の〈負〉の帰結を見出さざるをえなかったのである。戦後日本はこの歴史的な〈負〉の遺産を自ら負うことで再出発したはずである。非軍事的な平和主義的国家日本であることは、歴史的な〈負〉の遺産を負いながら日本が、世界史にプラスの価値印しを捺しうる日本になる唯一の道であった。だがこの世紀に入って新自由主義的な構造改革を唱える歴史修正主義者小泉による政権が成立し、さらにその後継者である正真正銘の歴史修正主義者安倍による政権が成立して、この戦後日本の戦争責任を自覚したものの道のあからさまな変更が告げられ、その変更が遂げられようとしている。彼らが歴史修正主義者であるのは、近代日本がアジアの加害者となることで歴史に残した〈負〉の遺産を負うことを拒否することにある。だがこのことをいいながら私がここで強調したいのは、この歴史修正主義的政権をもちながらも、現代日本の市民は実に粘り強く戦後日本の平和主義的な国家原則を抵抗的に持ち続けているということである。日本の市民たちにおけるこの原則の抵抗的な保持が、自民党政権によるあからさまな軍事的国家への改憲的変更の企図を挫折させているのである。これこそが歴史における〈負〉の遺産を自己責任的に負いながら日本がそのような日本であることを通じて〈人類的価値〉につながっていく唯一の道、すなわち〈方法として〉の〈日本〉であることであろう。

〈方法としてのアジア〉についてもう一ついうべきことは、その〈アジア〉とは〈実体的アジア〉を対抗的に構想し、構成することを否定していることである。既成の〈東アジア〉あるいは〈東亜〉という語には、すでにいうように新旧の〈帝国〉の記憶が刻みつけられている。〈実体としてのアジア〉は、この〈帝国〉の記憶と離れがたいものとしてある。だからこそ竹内は〈実体〉としてのアジアをいうことを斥けて、〈方法〉としてのアジアをいおうとするのである。私はそこに竹内における〈帝国〉の脱構築的志向を読むのである。〈帝国〉とは〈中心ー周縁〉的関係をもって構成される政治的、文化的な広域支配の体系である。この〈帝国〉は広大ではあるが一元的に包括された多様体的な体系としてある。これを〈一元的多様体〉と私は呼んだ。脱〈帝国〉的志向をもつ〈方法としてのアジア〉が、それゆえ〈アジア〉として見出すのは開放系としての〈多元的世界=アジア〉である。竹内がいう〈方法としてのアジア〉とは、〈アジア〉が〈アジア〉であることによって〈普遍的価値〉を高めていく道であった。そして竹内の〈方法としてのアジア〉が指示するのは〈多元的なアジア〉であるならば、〈方法としてのアジア〉とは、アジアの多元的な世界が、その多元性を通じて人類の普遍的価値を充実させ、輝かしていく道であるということができるだろう。

私たちが〈東アジア〉をいうことは一元的〈帝国〉の仮装であってはならない。したがって〈東アジア儒教〉をいうことは、一元的な〈帝国的儒教〉の仮装であってはならないのである。〈東アジア儒教〉をいうことは東アジアの〈多元的儒教世界〉を開いていくことでなければならない。私は徳川儒教がコピーでも、まがい物でもないことを知っている。私は徳川儒教の豊穣な成果の認識を通じて、これを成立せしめた朱子学の普遍的意味を再発見している。と同時にこの朱子学の脱構築を通じて仁斎古学が再発見する『論語』の孔子の世界に、彼の原初的な人間への問いがもつ人類的な意味を私は再発見している。

「東アジアと普遍主義の可能性」という課題へのいまできる私の回答は以上の通りである。



[1] ウルにおけるこの会議とそこでの私の講演については、「昭和日本と「東亜」の概念」(『「アジア」はどう語られてきたか』所収、藤原書店、2003)に詳しく書いている。

[2] 国際学術シンポ「東亜文化圏の形成と展開」の開催趣意書を含めて、この会議がもつ問題やその会議における私の発言については、私の「「東亜」概念と儒学」(前掲『「アジア」はどう語られてきたか』所収)を参照されたい。

[3] 子安『「近代の超克」とは何か』(青土社、2008)、『日本人は中国をどう語ってきたか』(青土社、2012)など。

[4] 「方法としてのアジア」は1960年1月に国際基督教大学アジア文化研究委員会でなされた講演である。

[5] 『思想史の対象と方法』所収、武田清子編、創元社、1961、引用文中の傍点は子安。

[6] 『日本とアジア』竹内好評論集・第3巻、筑摩書房、1966。


[
本講は韓国学術研究院(KARC)の招聘による「東アジア問題」をめぐる講演の原稿である。講演は14年11月7日になされた。]

[7] 現代中国では「富強・民主・文明・和諧・自由・平等・公正・法治・愛国・敬業・誠信・友善」の12の語が「社会主義核心的価値」としていたるところに宣伝的に掲示されているという。


東アジア問題を今どう考えるのか

子安宣邦

1.)グローバル資本主義という現代世界のあり方は、転換すべき最終的段階にいたっているという多くの識者の認識を私も共有しています。これが「東アジア問題」を考えるときのマクロなレベルにおける私の認識・判断の最大の前提です。グローバル資本主義は一国的資本主義を超えて世界の地域的統合化、すなわち〈帝国〉的再分割を進めています。アメリカとEUと、そして旧社会主義国であるロシヤ、さらになお社会主義国を称している中国がグローバル資本主義世界における〈帝国〉として存立してきているのが、21世紀的世界の現状です。それが東アジア世界の現状でもあると私は考えています。

2.)グローバル資本主義が転換すべき最終段階であるということの最大の理由は、世界大で経済格差と社会分裂をもたらし、それをたえず拡大し、深化させていることにあります。人間の共同的生存条件を世界規模で失わせているのです。この社会分裂は国家的統合の危機であります。この国家的統合の危機はいつでも民族主義(ナショナリズム)を呼び起こすことになります。グローバル資本主義的世界で経済的躍進を遂げていった中国を始めとする東アジアの諸国が、21世紀の10年代に入って激しい民族主義的な抗争関係をとるにいたったことを、私はグローバル資本主義がもたらした国内的危機の深化と無縁に見ることはできません。

3.)21世紀に入ってからの現在にいたる日中、日韓間の民族主義的抗争関係は、それ以前の〈歴史認識問題〉をめぐる政治的緊張関係とは異質だと私は見ています。領土をめぐる国際的政治・外交問題が民族主義的抗争問題になっていくのは、むしろ国内的要因にあるということは20世紀の戦争史に照らしても明らかです。いま東アジアが民族主義的緊張関係を作り出しているのは、それだけ国内的危機は深く、社会分裂の度合いは大きいということを意味します。

4.)たしかに日本で安倍という歴史修正主義的な政治家の再登場をゆるした理由も、永続する経済不況と東北大地震と福島原発事故がもたした深刻な社会的危機にあります。それとともに東アジアの緊張的国際環境が政権担当者としての安倍の再登場を促したことも事実です。この安倍首相の再登場と現在にいたるまで政治的リーダーとしてのその存立を許していることは、野党の事実上の解体という日本の戦後政治のツケであるとともに、原発体制と軍国化に反対する市民運動がまだ政局を転換させるだけの力を質と量とにおいて残念ながらもっていないことによります。それとともに私があえてここでいいたいのは次のことです。

5.)いわゆる〈歴史認識問題〉をめぐる対日批判が民族主義的色彩をますます濃くしていることです。すでに〈歴史認識問題〉をこえた民族主義的な問題になってしまっているように思われます。このことがわれわれにとって不幸であるのは、一方では〈歴史認識問題〉再浮上の火付け人というべき歴史修正主義者安倍首相の立場を対抗民族主義的に支えてしまっていることです。そしてまた他方では日本政府の対応に批判的な私たちの発言を国内の民族主義的圧力が抑えてしまっていることです。これは非常に不幸なことです。東アジアの民族主義的対立という現状をだれがいったい望んだのでしょうか。国内危機を国際危機に転化させた国家権力の担い手たちでしょうか。いまこれをほくそ笑んでいるのは戦争神(マルス)だと私は思います。

6.)私は今年の四月、〈靖国参拝問題〉をめぐる韓国の通信社からの問い合わせに、もし安倍首相が靖国参拝をしたら、それを民族主義的レベルでとらえることをせずに、人類史的犯罪行為として抗議すべきだと答えました。ことに東アジアの隣人たちに与えた文字にも数字にもし難い加害にもかかわらず、なお日本首相がかつての戦争国家日本の祭祀施設に参拝することは人類史的犯罪です。こうした人類的抗議を通じてはじめて東アジアにおける〈靖国問題〉をめぐる市民運動的連帯を作り出すことができるでしょう。私たちが求めているのは民族主義的対立ではない、アジア市民としての連帯です。

7.)アジア市民の連帯は人類的、人類史的な普遍主義の立場において始めて可能でしょう。私が最初にいったように、グローバル資本主義の転換すべき最終段階としての現代世界は人類的危機をあらゆるところに、戦争や原発問題だけではなく、われわれの社会生活から生活基盤にいたるあらゆるところに問題を顕在化させています。この危機が民族国家をこえたアジア市民・生活者の連帯を呼んでいるのだし、この連帯こそが危機的現代世界の転換をもたらす力にもなるはずです。

8.)具体的には日本国憲法の平和主義的原則の理想と現実について日韓の学生たちが共同討議することがあってもいいのではないでしょうか。その際、韓国の徴兵制の実際について日本の学生が知り、ともに考えることができればきわめて有益だろうと思います。それと原発問題は本質的に地球的問題であり、原発的エネルギー体制として国際的体制の問題であり、これが一国的問題としてあるかぎり、その停止も廃絶も不可能であると思われます。生活者のレベルでの問題の共有と廃絶に向けての運動の連帯が緊急に求められていることです。

9,)最後に東アジアの儒教をめぐる問題ですが、私が今回の招聘講座でのべようとする大事な点は、〈東アジア〉を実体としてではなく、方法として考えようということです。〈東アジア〉を〈儒教文化圏〉として見ることは、〈東アジア〉を実体的に見ることです。この実体としてとらえられた儒教とは、中華帝国という礼教的体制を支えてきた道徳・政治的教説です。ですからいま〈東アジア儒教〉をいうことは、現実に登場しつつある中華〈帝国〉への再包摂を意味することでしかないと私は考えています。
〈東アジア〉を方法として考えるということは、〈東アジア〉をわれわれが創っていく〈東アジア〉として考えるということです。アジア市民の連帯と運動とは〈東アジア〉をわれわれの共同の生活世界として作っていくことです。

[これは今回のソウルの講演・ゼミナールにあたって「朝鮮日報」が企画した対談を、時間の都合上、書面をもってした際、ソウルからの問いに私がした回答のほぼ全文である。実際にはこの三分の一のみ掲載された。全体の文脈から切り離された靖国問題をめぐる私の発言に対して、多くの非難が寄せられている。もしその非難が私の全体的文脈から切り離された靖国をめぐる私の発言だけに向けられたものであるならば、是非この全文をお読み下さり、私の発言の主旨をご理解下さるようお願いいたします。2014,11.08.]

このページのトップヘ

traq

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /