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子安宣邦のブログ -思想史の仕事場からのメッセージ-

2015年11月

「思想史講座」などのお知らせー12月のご案内 子安宣邦

*思想史講座—「〈大正〉を読む」

*大阪教室:懐徳堂研究会

12月19日(土)・13時〜15時
和辻哲郎と『古事記』の再評価
会場:梅田アプローズタワー・14階1407会議室

*東京教室:昭和思想史研究会
12月12日(土)・13時〜16時
和辻哲郎と『古事記』の再評価
会場:早稲田大学14号館10階1054教室

*論語塾―伊藤仁斎とともに『論語』を読む

『論語』とともに、伊藤仁斎の『童子問』を読みます。

12月26日(土)12時〜15時 1 憲問篇・ 2 『童子問』上

*なお当日講座終了後忘年会を予定しております。

会場:rengoDMS(連合設計社市谷建築事務所)JR飯田橋駅西口から徒歩5分


*講演―「中国問題についての私のかかわり」

『現代中国のリベラリズム思潮』出版記念シンポ;「中国はどこへ行く」

現代中国の思想問題をめぐる日本で初めて開催される真剣な報告と討論の集会です。
ぜひご参会下さい。

日時:12月6日(日) 午前9時30分〜午後5時30分
会場:明治大学グローバルホール(お茶の水・駿河台)1階、多目的ホール
主催:明治大学現代中国研究所 共催:藤原書店

記念講演:子安宣邦「中国問題についての私のかかわり」 9時40分〜

シンポ:第1部「現代中国のリベラリズム思潮」
シンポ:第2部 「現代日本における中国リベラリズムの言説空間」
シンポ:第3部「現代日本における中国リベラリズムの歴史と思想」
総括討論

〈大正〉を読む・11

「神代史」批判と〈脱神話化〉の意味 子安宣邦

ー津田左右吉『神代史の研究』を再読する


「その大和の国家の君主の家が統一国家の首長としての皇室となられたのである。国家の統一は民族の内側に発生した事件であり、皇室は民族内部に於ける存在であるので、ここに国民と民族とが同義語として用い得られる民族国家としてのわれわれの国家の特性がある。」 津田左右吉『文学に現われたる国民思想の研究』一「序説」

1 「神代史」の〈脱神話化〉

私は津田の『神代史の研究』をその記述と方法に共感しながら読んでいったわけではない。これを課題とすることを自分で定めながら、実際にこれを読み始めて、その読みにくさに閉口した。共感するどころか、違和感の方がはるかに私には強かった。だが記紀「神代史」の本文批判の諸章を何とか読み終えて、「神代史の結構」(第17章)から最終章「神代史の性質及び其の精神」(第24章)にいたる結論の諸章を読むに及んで、私が違和感をもち続けた本文批判の作業が記紀「神代史」の徹底した〈脱神話化〉を導くものであることを知って驚いた。この驚きから私はあらためて『神代史の研究』そのものを読み直し、とらえ直したのである。前回の講義「津田は「神代史」に何を問うたか」は、私のその読み直しに基づく報告であった。ところで私が驚いた津田による「神代史」の〈脱神話化〉的解体的読みのすごさは、次の一節に集約されている。

「さて上代の思想に於いては、天皇は「現人神」または「現つ神」であらせられる。政治的君主を宗教的にいえば現実に人たる神である。神代とは、観念上、此の神性を「現人神」から抽出して、それを思想の上で形づくられた遠い過去の皇室の御祖先に於いて具象化せしめ、其の時代をなづけたものであるが、宗教的崇拝の対象であり霊物として見られていた太陽を皇祖神としたことによって、それがおのずから充実せられ、また神の代としての其の色調が鮮明になった。或はむしろ皇祖神たる日神が此の具象化の核心となったという方が適切であろう。そうして此の神代を、同じく思想の上で形づくられたヤマト奠都の前とし、それから後を人の代と定めたことは、神代という観念が政治的なものであり、また皇室によってのみ意味のあるものである証拠であるが、それが即ちまた神代史の性質が上記の如きものであることを語るものでもある。更に具体的にいうと、神代史は皇室が「現人神」として我が国を統治せられることの由来を、純粋に神であったという其の御祖先の御代、即ち神代の物語として説いたものである。」(第22章「神代史の性質及び其の精神」上)

「神代という観念」は「政治的」なものだと津田はいう。大正13年(1924)のものとしては、これは驚くべき言葉だ。彼が「政治的」というのは、たとえば「タカマノハラ」という観念は宗教的でもなく、宇宙論的でもなく、ただ「政治的」だと津田がいうことと同じ意味においてである。「(タカマノハラという観念は)太陽が皇祖神としてあるところから生じたものであって其の外に意味が無い、ということを述べ、我が皇室の源は斯ういう意味のタカマノハラにあると説いてそれを全篇の中心思想としている神代史の精神を明かにしようとした」のが本書『神代史の研究』だという津田の言葉が「政治的」ということの決定的意味を伝えている。

では「タカマノハラ」が「政治的」であり、「皇室的」な観念であることは何を意味するのか。「それは本来一般民衆の思想とは交渉の無いものであるから、神代史が統治者の地位に立って統治者の由来を説いたものであるということも、また之によってたしかめられよう」と津田はいうのである。何度もいうようだが、20世紀前期日本で記紀「神代史」の政治的(=皇室的)な観念的構成をここまでいいきった学問的言説を私は知らない。

2 二重の〈脱神話化〉

「神代史」とは、津田がいうように「人」と「人の代」からはっきり区別された「神」と「神の代」の物語である。その意味でこれを〈神話〉だということはできるかもしれない。だが津田において〈神話〉とは〈神々の物語〉という意味においてだけである。「人間は、いつの時代どこの場所でも必ず神話を持ち、それによって世界や人間や文化の起源を説明し、神話が提供する範例に従って、社会を組織し生活することを続けてきた」と神話学者吉田敦彦は〈神話〉を定義していっている[1] 。この〈神話〉の定義にしたがってわが「神代史」を見るならば、もっとも〈神話〉的とされる『古事記』においても、後の潤色の跡を止めた多くの切れ切れの〈神話的〉説話とその再編成からなる〈神話的〉記述をわれわれは見出すしかないのである。

『古事記』とは、これを〈神話〉だというものによってしか、あるいはこれを〈日本神話〉だと信じるものによってしか〈神話〉ではない。神話学者たちが『古事記』を〈日本神話〉として再構成し、国家神道主義者が〈日本神話〉として信じ、国民にそう信じさせたのである。昭和の日本人はこれを〈神話〉だと信じさせられたのだ。記紀「神代史」が日本の〈神話〉になったとき、天皇はたしかに〈現人神〉になったのである。津田の『神代史の研究』が発売禁止の処分を受けるのは昭和15年(1940)である。

話が先に進みすぎたが、津田は「神代史」を〈神〉と〈神の代〉の物語として〈神話〉だとしても、記紀「神代史」のどこにも口誦伝承された〈神話〉の跡を彼は見出すことはなかった。津田が見出したのはすでに編述された文辞からなる〈神話〉的テキストだけであった。記紀「神代史」とは、すでに編述された「旧辞」という断片的〈神話〉テキストをもう一度編み直し、作り直した〈神話〉すなわち〈神の代の物語〉テキストであるにすぎない。津田はこれを「作り物語」だというのである。

「また神代の物語は、だれが読んでも、実際の人事で無いことがすぐにわかるように書かれてある。勿論、神武天皇以後の物語も、決して其のままに歴史的事実とは見られないが、大体に於いて人事らしく書かれてあるから、神代巻とは全く性質が違う。これは記紀の編者が神武天皇以後と所謂神代との間に截然たる区別があるものと考へていたからである。言を換えていうと、神代の物語は歴史的伝説として伝わっていたものでは無く、作り物語であるということを示しているのである。」「しかし神代史は其の間にいくらか歴史的事実の反映が含まれているにしても、其の全体の結構が空想から成り立っているのであるから、これとは(神武以後とは)性質がちがうのである。」(『神代史の新しい研究』「緒論」)

記紀「神代史」が「作り物語」であるならば、この物語の構成者の意図が問われてくる。津田はその意図を「神代史」という構成に見る「性質」「精神」、あるいは「神代史」の構成から読みうる「思想的事実」として明らかにするのである。「神代史」の「精神」とは何かとはすでに本稿の序章に引いた津田の言葉が明らかにしている。それをくり返して引けば、津田は自著『神代史の研究』が明らかにする「時代史の精神」についてこういっていた。「此の観念(タカマノハラという観念)が太陽を皇祖神としてあるところから生じたものであって其の外に意味が無い、ということを述べ、我が皇室の源は斯ういう意味のタカマノハラにあると説いてそれを全篇の中心思想としている神代史の精神を明かにしようとしたのである。」「タカマノハラ」がこのように皇室にのみ意味をもつものとして構成された観念であるならば、「それは本来一般民衆の思想とは交渉の無いものであるから、神代史が統治者の地位に立って統治者の由来を説いたものであるということも、また之によってたしかめられよう」と津田はいうのである。

私は津田の「神代史」の批判的作業を〈脱神話化〉的作業だといった。津田の〈脱神話化〉は、まず記紀「神代史」という「神代の物語(神話)」の伝承性を否定するところにある。「神代史」を構成するのは〈伝承神話〉ではない。それは語り直され、記し直された「作り物語」としての〈神話〉である。そして「作り物語」としての「神代史」は、日神を皇祖としてもったヤマトの統治者の神性の由来を語っていくのである。その〈神話〉は政治的であり、皇室にのみ意味をもった、民衆とは無縁の物語である。これが第二の〈脱神話化〉である。このように記紀「神代史」は津田において二重に〈脱神話化〉される。

3 宣長と津田

私はいま津田による「神代史」の〈脱神話化〉作業の意味を考えながら、これを宣長の『古事記伝』という〈脱神話化〉作業と対比してみたいという誘惑を感じている。こんなことをいえば津田の側に立つ人も、宣長の側に立つ人も私の非常識にともに呆れるだろう。だが宣長と津田は〈(から)・シナ〉に対する〈やまと・ニホン〉という強いナショナルな意識において共通していたし、宣長の『古事記伝』は中世神道的テキストからの〈脱神話化〉的注釈作業であった。そして津田と宣長との対比が決定的な意味をもつのは、彼らの〈脱神話化〉作業が導き出した『古事記』の「精神」においてである。

宣長は津田が「神代史」として記紀を一つにして見ることに対して、『日本書紀』を斥けて『古事記』を選びとった。だが私のこのいい方は転倒している。宣長が『古事記』を選んだことに対して、津田は記紀を一つにして「神代史」を考えたというべきだろう。ともあれ宣長は『古事記』を選んだ。「彼(書紀)はもはら(から)に似るを旨とし、此(古事記)は漢にかかはらず、ただ古への語言(ことば)を失はぬを主とせり。」(『古事記伝』一之巻・総論)。宣長はわが語言(ことば)(やまとことば)を主としたテキストとして選んだのである。ここには口誦の言語こそが真言(まこと)だとする言語観がある。この言語観を津田は宣長と共有している。両者に共通するのは漢字とそれによって構成される観念的知識体系への反感である。宣長はそこから「ただ古への語言(ことば)を失はぬを主と」した『古事記』を採った。津田は記紀の「神代史」はともに漢字の導入によってはじめて成立した記述だと考える。漢字とその知識体系は記紀「神代史」のテキストに浸透し、この「神代史」を編んだ貴族知識人に浸透している。津田が記紀「神代史」にわが「民族」も「民衆」も見出すことはできないとするのは、彼のこの漢字言語観と深くかかわっている。

宣長は『古事記』の漢字漢文表記のテキストからわが「古えの語言」を読み出そうとした。わが古え人の言葉は真言(まこと)である。真言とは真事、すなわち事実である。宣長は『古事記』を神代から伝えられる聖なる〈事実〉の記録としたのである。『古事記』には「神の道」などがことごとしく説かれてはいない。もしわが道があるとすれば、それは古えから伝わる〈神代の事実〉に備わる道でしかない。宣長は『古事記伝』の「序」である『直毘霊』でこういっている。

「そも此の道は、いかなる道ぞと尋ぬるに、天地のおのづからの道にもあらず、人の作れる道にもあらず。此の道はしも、可畏(かしこ)きや高御産巣日(たかみむすび)神の御霊(みたま)によりて、神祖(かむろぎ)伊邪那岐大神・伊邪那美大神の始めたまひて、天照大御神の受たまひたもちたまひ、伝へ賜ふ道なり。」そしてそれは「天皇の天ノ下しろしめす道」にほかならない。

これが宣長が〈神代からの伝承的事実〉としていう「神の道」である。宣長が『古事記』の脱神話化的注釈作業によって導くこの「神の道」を見れば、これは津田が記紀「神代史」の脱神話化的本文批評によって導く〈「神代史」の思想的事実〉とほとんど同じであることを知るのである。津田はいっていた。「神代史は皇室が「現人神」として我が国を統治せられることの由来を、純粋に神であったという其の御祖先の御代、即ち神代の物語として説いたものである。」(第23章「神代史の性質及び其の精神・上」)

『古事記』の神代の巻、あるいは記紀「神代史」が語るのは「現人神」である天皇による天下統治の道の神代からの由来だということにおいて、宣長と津田とは異なるところはない。ではどこが違うのか。天皇観、皇室観の違いだろうか。津田は『神代史の新しい研究』(大正2年刊)とほとんど同じ時期に執筆された『文学に現われたる我が国民思想の研究・貴族文学の時代』(大正5年刊)の「序説」で皇室による民族的統一についてこういっている。

「大体からいうと、一旦統一せられた後は、多くの豪族等は喜んで我が皇室に帰服していたので、皇室と諸氏族との間には親和な関係が成り立つようになった。だから皇室も威力を以て彼等を抑圧せられることがなかったのである。やや後になって出来たものではあるが、皇室の本源を説くために作られた神代史が、天を以て帝権の象徴とし地を以て民衆に擬し、天子を以て高いところから民衆を見下ろすものとする支那思想とは反対に、皇室があらゆる氏族の宗家であって、それと祖先を同じくし血統を同じくせられ、国民という一大家族の内部に在って其の核心となっていらせられるとして、皇室の威厳を力強く示すよりは親愛の情を主として説いてあるのも、やはり斯ういう実際の状態から生じたことである。」[2]

ここに見る「国民という一大家族の内部に在って其の核心」をなすものという言葉には、津田における近代の君主制的国民(民族)国家日本の皇室観が投影されているように思われる。津田は「神代史」にその祖型的成立を見ているようである。そのことをよりはっきりと見せるのが、本稿冒頭に引いた戦後改訂版『国民思想の歴史第一巻』の「序説」の言葉である。そこには民族内部の皇室による国家統一に民族=国民国家の理想的成立を見る津田の見方がはっきりと示されている。津田は皇室を核とした民族=国民国家としてのニホン以外のニホンを考えることはなかった。それでは宣長と津田が昭和日本にもった違いをどのように考えるのか。それは宣長と津田のどのような違いに由来するのか。

4 〈再神話化〉と〈脱神話化〉

宣長による「天照大御神の受たまひたもちたまひ、伝へ賜ふ道」すなわち「天皇の天ノ下しろしめす道」という「神の道」の『古事記』からの読み出しは、『日本書紀神代巻』の儒教形而上学による解釈が構成する密教的神道神話世界の〈脱神話的〉な解体を意味した。それはたしかに18世紀における神道の革新であった。この宣長によって革新された「神の道」を近代の神道史家は「復古神道」といい「古学神道」と名づけた。宣長の新たな「神の道」は、『古事記』における「神代」からの歴史的伝承的事実に基づく天皇主義的国家神道を近代日本に構成していくのである。宣長の『神代巻』の〈脱神話化〉としての「神の道」は、『古事記』の天皇主義的な〈再神話化〉を近代日本にもたらすのである。

では津田の記紀「神代史」の〈脱神話的〉な理解、すなわち「神代史が統治者の地位に立って統治者の由来を説いたものである」という大正13年(1924)の「タカマノハラ」の観念をめぐる津田の理解は何を意図し、何を意味するものだろうか。それは上に見たような『古事記』の天皇主義的再神話化への批判を意図したものだろうか。だが『古事記』や「神代史」の再神話化がはっきりとなされていくのは、昭和における国家主義的ファッシズムの登場とともにである。津田の記紀「神代史」批判が昭和の天皇主義的な記紀の再神話化への批判としての意味をもつとするならば、それは津田の著述が昭和に事後的にもっていった意味であって、彼の著述意図としてあったものではない。

津田の記紀「神代史」の脱神話化的批判は、近代日本の歴史学における〈神話学〉的「神代史」解釈に向けられている。津田の『神代史の新しい研究』の執筆動機についてその「序」で語っている。津田が師とする白鳥庫吉と「神代史」の解釈について語り合うと、「先生の説は根本的に僕の考とは違っている点があるので、そこになると、まるで話が合わない」という。この白鳥との間にある「神代史」解釈をめぐる根本的な違和感が、津田の『新しい研究』の執筆動機をなしているというのである。白鳥も津田の『新しい研究』に寄せた「序」で、「神話の一部を構成する我等の祖先の思想としての宇宙観が、どういうものであったか、是等の論点は、互に見る所が違っていて、殊に神話の全体を貫通する我が国体に関する精神の観察については、ふたりの間に大きな懸隔があった」[3] といっている。

白鳥と津田のこれらの言葉からすると、津田の『神代史の新しい研究』は白鳥の「神代史」研究あるいは〈神話学〉的「神代史」理解に向けてなされた批判的著述だと思われてくる。少なくとも白鳥「神代史」批判を主要なモティーフとした著述であることに間違いはない。

白鳥の「神代史」の諸論考は没後『神代史の新研究』[4] にまとめられた。いまここで白鳥の「神代史」研究について詳しく論じる余裕はない。津田が「神代史」の批判的解体作業の〈核〉をなす観念とした「タカマノハラ」について白鳥のいうところだけを見てみよう。

「高天ノ原は光明の神。至善の神の世界であって、凡ゆる善は此の世界から発生するのである。夜見ノ国は闇黒の神、至悪の神の住む世界であるから、凡ゆる悪は此の世界から発生するのである。かようにして、善悪明闇の二世界が相対して人の信念に湧出してくるのである。そうして顕国(うつしくに)はその間に位する故に、此処では善悪生死、相交叉混合して所謂世界相を生ずるのである。是れ即ち我が神代史に高天ノ原と夜見ノ国との間に顕国が現出しているものと記載せられたわけである。是の故に、此の三大国の中、天国と地国とは幽界即ち観念思想上の世界であって、顕国は現実の世界である。」(第五篇 高天ノ原と天孫降臨の章)

私はこれを写しながら、これは平田篤胤の『霊の真柱』の「三大考」的世界ではないかと、広汎な文献学的知識を駆使する東洋学者白鳥の「神代史」理解に呆れかえる思いがした。私は白鳥のこの「高天ノ原」観を知って、はじめて津田の「要するにアシハラノナカツクニとタカマノハラとは共に現し国(うつしくに)を構成するものであり、其の間の関係は政治的なものである」と怒りをぶつけるようにしていう意味が分かった。津田の『神代史の研究』の結論は怒るような厳しさをもって書かれている。この津田の著述の向こう側に白鳥先生の『神代史の新研究』をなしていく多くの講演・講述の展開を見ることで、はじめて津田の文章の怒りも理解される。津田の「神代史」の激しい〈脱神話化〉的解読作業は、日本の近代史学による「神代史」の民族学的・民俗学的・宗教学的・神話学的な〈日本神話〉の再構成に対する批判的作業である。このことを知っていたのは白鳥だけであるかもしれない。

津田は〈神話〉的に潤色されない君主制的民族(国民)国家ニホンの成立を願っていたのであろう。その意味で津田こそが近代日本でもっとも近代的な歴史学者であった。その津田を昭和の全体主義は法廷に引き立て、歴史家の筆を取り上げようとした。そして『古事記』を再神話化し、国家的神典にしていったのは昭和の全体主義者であった。


[1] 『岩波哲学思想事典』(1998)。

[2] 津田『文学に現はれたる我が国民思想の研究 貴族文学の時代』(『津田左右吉全集』別巻第二、岩波書店、1967)。

[3] 白鳥庫吉「序」(津田左右吉『神代史の新しい研究』、『津田左右吉全集』別巻第一)。

[4] 白鳥『神代史の神研究』岩波書店、1954(『白鳥庫吉全集』第一巻、岩波書店、1969)。

〈非知〉とは〈非僧〉だー川田恒信さん追悼 子安宣邦

川田恒信さんが早稲田でやっている私の思想史教室に、毛利健次さんとともにふらりと現れたのは2007年の春のことであった。これは私のあいまいな記憶によっていうことで、確かなことではない。いずれにしろ私はその時はじめて川田さんを知ったのである。いきなり現れた二人を見て、私はすぐに「本物」が来たと思った。より丁寧にいえば、「本物の活動家であった人」が来たと思ったのである。そう思ったのは、その服装と顔つきと目つきからである。ただ私はそう察しただけで、私のこの推定の当否を彼にも人にも、その時もそれ以後も尋ねることを私はしていない。

教室にいきなり現れた二人を見て、他のメンバーとの異質を感じながらも、どうせ一回きりの来訪者だろうと私は思っていた。だが私の予想ははずれた。彼らはそれ以後も欠かすことなく、毎月第二土曜日の私の早稲田の講座に現れた。ことに川田さんは、親友の毛利さんを亡くした後も、孤立感をただよわせながら早稲田の教室にほとんど欠かすことなく出てきた。

川田さんは直ぐに私の思想史講座にとって欠かすことのできない存在になった。彼の低い声での、耳の遠い私にはことに聞きとりにくい発言は、しかし厳しさと重さとをいつももっていた。それは川田さんが蓄えてきた思想体験の重さであり、きびしさであろう。彼の存在は私の講義を引き締め、教室を緊張させた。ことに私が戦後史を語りながら吉本隆明に批判的にふれるとき、私は川田さんとあたかも真剣勝負をするかのような緊張感をもった。吉本の『最後の親鸞』をめぐる私の講義の原稿は、重い聞き手としての川田さんを意識しながら書かれたものである。

「最後の親鸞」を「非知」にまで読み進めたとき、吉本はこれで彼自身も死ぬことができると思ったはずだと、私は『歎異抄と近代』の講義で語った。その数日後、川田さんからメールが届いた。そこにはこう書かれていた。「マルクス的に言えば、「現実を変革する、現実の思考運動」でしょうか、ぼくはそれも一種の「非知」だと思っています。」これは吉本のいう「非知」について私に考え直させる言葉であった。

「非知」を最後の親鸞の到達した境地として見れば、「非知」とはそれで死ぬことのできる言葉になってしまう。だが「非知」とは親鸞において「非僧」である。「非僧」とは寺院的知識の体系を負った僧における自己否定の運動である。知識人が己れの知識の自己否定を続ける知識人の運動を「非知」と見れば、最後にいたる親鸞をこの「非知」の運動を貫き通したものとみなされなくもない。(私の『歎異抄の近代』第14章「僧に非ず、俗にあらず」から)

川田さんは「最後の親鸞」について、「最後の吉本」について、そして「最後の私たち」について大事なことを教えてくれた。川田さんは11月10日の早朝に急逝された。

「天」と「公」とー清沢における「儒家的なもの」 子安宣邦

1 清沢との邂逅

清沢に私は出会うべくして出会ったわけではない。私はかなり早くから弟子の暁烏敏の方に関心をもっていた。暁烏が『歎異抄講話』の「例言」で、『精神界』に「歎異抄を読む」を書いていた時期、すなわち明治36年1月から43年12月にいたる時期、「この間、ほとんど毎年京都にまいります度ごとに、大谷の御本廟に参詣して本抄を拝読し、時には泣きくずおれて喜んだこともある」と書いている。私は『歎異抄』とは近代の青年をこのように感涙せしめるような書であるのか、近代日本にもなおこのように感涙する宗教青年がいるのかと驚きとともに暁烏敏という人物を見出したのである。清沢の名が私に登場してきたのは、このような暁烏との関係からであった。

その清沢が私の直面すべき対象になっていったのは、今村仁司の『清沢満之と哲学』(岩波書店、2004)について、2007年に亡くなった今村を追悼するシンポで報告する役を負わされたことに起因する。やむをえずその役を引き受けた私は清沢の『宗教哲学骸骨』や『精神主義』の諸章に大急ぎで目を通しながら、今村の著書を読んでいった。私はさまざまな意味で今村のこの著述のあり方に疑問をもたざるをえなかった。

今村は清沢の初期の著作『宗教哲学骸骨』を再発見したのであって、清沢満之を再発見したわけではなかった。われわれがこの書を読んで、「これは清沢なのか、今村なのか」と迷うのは、彼はこの書で清沢を借りて今村自身の社会哲学を語り出しているからである。私は今村のこの書に「信」を置くことはできない。「信」とは対他的関係において人を信じること、信頼、信用することである。人を信じることができるのは、その言行が実(ほんとう)であることによる。それが実であることによって、その人の言行を信じるのである。私はこの書に「信」を置くことはできなかった。

さらにいえば今村はこの書で清沢の「信」を問うことをしていない。宗教者清沢に問われる「信」とは、他者との関係における信頼の究極的な信頼、対他的関係を超え出た超越者への究極的な信頼という「信」である。中国では古く人が究極的に信頼し、依拠するものを「天」といってきた。孔子は最愛の弟子顔回が死んだとき、「天()れを喪ぼせり」(先進)といって嘆いた。孔子が究極的に依拠してきた天に見放されたといっているのである。孔子はまた「民、信無くんば立たず」(顔淵)というが、私はこの言葉を、「人は究極的に依拠すべきものへの「信」なくして立つことはできない」と敷衍して考えている。

清沢にあるのもこの「信」である。だから清沢も孔子とともに「天」をいうのである。今村が清沢の「信」を問うことをしないということは、清沢にこのような「信」の展開を見ることを彼はしないということである。清沢に「信」を問うことのない今村は、己れにおける「信」をも問うことはないのである。

2 私の回り道

私は清沢に、あるいは『歎異抄』に直面するまで回り道をしている。私にはまず暁烏がいた。『歎異抄』の近代における感動的受容者であり、同時に昭和ファシズム期の民衆的伝道者であった暁烏が、私の思想史的関心を刺激するものとしてまずあった。さらに私は今村の『清沢満之と哲学』を余儀なく読むという回り道をたどらざるをえなかった。この回り道を経てはじめて私は清沢の「信」を自分の課題として問うことになったのである。

だが私の回り道はそれだけではない。もし清沢の「信」に、己れの「信」をも重ねる問いが、私の行き着くべき目的としての問いであるとすれば、私は何と長い回り道をしてきたことか。日本の近世儒家である伊藤仁斎から、中国の朱子らを経て『論語』の孔子という儒家思想の原初にいたる遠い回り道を私はしてきたようである。だが清沢を読み始めて、この私のしてきた回り道は、清沢の「信」に己れの「信」を重ねて問うための不可避の道のりではなかったかと思うようになった。この回り道がなければ、清沢は私には読めなかったであろうし、私における清沢の再発見もなかったであろう。

私は日本思想史という自分の専門との関わりから『論語』を見ることはあっても、この全部を読み通そうとは思わなかったし、これを読めるとも思わなかった。私はただ仁斎の『論語古義』を読むことで『論語』を読んでいただけである。だが仁斎の『古義』を朱子ら諸家の解釈と照らし合わせながら読むうちに、『論語』のテキストは私にも読みうるものになることに気がついた。私における『論語』の再発見の次第については、『歎異抄の近代』の「序章」に私は書いている。「『論語』のテキストは仁斎や朱子の読みを辿る私のいわば参照系として彼らの解釈の向こうに見られる外部的テキストになる。この参照系としての『論語』テキストは、後世の諸解釈を相対化しながら、しかし己れの絶対的な正しい解釈を要求するような実体的なテキストであるのではない。むしろ新たな読みを常に可能にしていく開放的なテキストであるのだ。私は『論語』を私の読み直しを可能にするテキストとして再発見したのである」と。

こうして私は『論語』を読み直していった。『思想史家が読む論語』(岩波書店、2010)はその最初の成果である。私はこの『論語』の読み直しを通じて、『論語』を孔子による最初の問い直しの記録として再発見した。彼は何を問い直したのか。孔子の問い直しの項目をもって私は自分の著書の章名とした。それは「学」であり、「仁」であり、「道」であり、「信」であり、「政」であり、「文」であり、などなどである。私は孔子のこの最初の問い直しをたどりながら、『論語』におけるこのラジカルな問い直しを私の思想体験として読んだ。私にとって最も重い思想体験は孔子における「天」と「信」とをめぐるものであった。この思想体験の重さを私はすでに今村批判の中でもいっている。私は孔子に彼が究極的に依拠するものとして「天」をもっていることを知った。そして「信」とは依拠しうるものとして人をもつことであることからすれば、孔子が究極的に依拠するものとして「天」をもつとは、孔子は究極的な「信」をもって「天」に対したことである。われわれはこの究極的な依拠=信を信仰といっている。私は孔子の「天」信仰を『論語』の思想体験として読んだのである。

「天」と「信」とをめぐる『論語』の思想体験は私にとって衝撃的であった。私はこの思想体験によって『歎異抄』と、そして親鸞を、さらに清沢を読むことができると思ったのである。これは事後的なこじつけではない。『歎異抄』とそして親鸞(清沢)とが、私の究極的な問いの向けられる対象としてもっていたからである。『論語』への私の回り道が、親鸞を、そして清沢を私に読むことができるものにしたのである。『論語』への道をたどらずして私は親鸞も、清沢も読むことはできなかったであろう。私は多くの人がたどらない道をたどった。ただそれは清沢がたどった道ではないかと、私は今ではそう考えている。

3 清沢の「儒家的なもの」

清沢の最後の信仰告白とも遺書ともいわれる『我が信念』の末尾の言葉は、われわれを深く考えさせる。「私は私の死生の大事を此如来に寄托して、少しも不安や不平を感ずることがない。「死生命あり、富貴天にあり」と云うことがある。私の信ずる如来は、此天と命との根本本体である。」(『清沢満之集』岩波文庫)。なぜ清沢は如来への信をいうのに「天命」とともにいうのだろうか。しかも最後の文章のその最後を締めくくる言葉を「天」と「命」とをもってしていることは、それが仮借の修辞といったものではなく、清沢の「信」と本質不可分なものであることを意味している。にもかかわらず清沢の「信」を「天命」観との不可分な関係性をもって語るものはいない。

清沢の「信」が儒家的言語をもって表出されることを私は知っていたわけではない。今村の清沢論との関わりから清沢を読むようになった私は、『宗教哲学骸骨』『他力門哲学骸骨』などを読むことから清沢を考え始めた。だがそれらは清沢の「信」にいたる手掛かりを私に与えることはなかった。清沢の「精神主義」の諸章を読み、『臘扇記』の文章から『有限無限録』『転迷開悟録』へと読み進めることを通じて、彼の言葉による彼の「信」の開示を私は驚きをもって見ることになった。驚きとはその主要な文章が儒家的概念と言語とをもって綴られていることに対してである。ことに『有限無限録』の「仁義礼智信」の節を見て、なぜ明治32年(1899)の他力信仰の言説が「仁義礼智信」をいうのか、驚きと疑いとをもって考え込まざるをえなかった。だがこの清沢の儒家的概念・言語によった他力信仰的言説を読むうちに、これは仮借的修辞といったかりそめのものではない、必然性をもった清沢の内面的思惟の表出だと理解するようになった。私が『論語』を読むことによってしてきた孔子の思想体験は、清沢の儒家的言語による清沢の私における思想体験を可能にしたのである。

ところで清沢のテキストにおける儒家的なものについて、清沢の解説者たちはそれを積極的に読むことをほとんどしていない。それらは清沢の他力信仰的思惟とその言語的表出にともなわれる前時代の残留物か仮借的修辞とみなされている。『清沢満之全集』(第2巻)の解説者は『有限無限録』の「仁義礼智信」「智仁勇」といった儒教的徳目名を掲げた節について、「しかしその解釈はどこまでも清沢独自のものである」といい、それ以上、清沢が儒教的徳目を掲げた理由についてのべることをしていない。解説者は『有限無限録』における清沢の儒家的概念・言語をもってする記述のあり方を、思想的本質にかかわりない表面的修辞として無視したのである。清沢における儒家的なものの無視とは、この解説者だけではない、清沢の教団的研究者・解説者が共通にするところだろう。日本近代仏教史の吉田久一が清沢における儒教的倫理の残存をめぐっていっている。

「彼の性格には儒教的倫理が色濃く内在していた。「言志録」や『論語』を喜び、「赤穂義士伝」も愛読書の一つであった。本願寺の改革運動も、君側の奸を除くという一面があったし、宗門に対する恩誼は一生持ち続けられている。仁義の解釈を、無限的自覚が対他的行為にあらわれたのが仁で、無限者が対自的にあらわれた場合が義であるという説明を下した時期もあった。内村鑑三はしばしば武士道とキリスト教的愛との結合をのべているが満之にもこのような儒教的なリゴリズムがあり、その自力修道的の倫理を克服しようとしたところに、興味ある課題を見出している。」(人物叢書『清沢満之』1961)

清沢における儒家的なものを前近代の儒教的倫理や士道的エートスの残存とするような吉田の見方は、これを無視することよりも(たち)が悪いと私には思われる。彼らは儒家的言語による清沢の文章をまともに読むことさえしないからである。

だが儒家的教養とか士道的エートスを前近代的遺習とする見方から離れていえば、これらが明治転換期にその足跡を刻んでいった人びとの人格形成の上にもった深い意味を無視することはできない。幕末から明治初年の時期までに生まれた人びと、ことに士族出身者が身に着けている儒家的・漢学的教養と士道的エートスとは明治近代における彼らの自立的な人格的存立を底深く規定し、支えているのである。私はそれを吉田のように否定的にいうのではない。むしろ明治における自立的人格の形成をもたらした大事な要因として、私は積極的にいうのである。清沢は文久3年(1863)の生まれである。彼に近い時期に生まれたものを挙げれば、内村鑑三(文久1、1861)や森鴎外(文久2、1862)がいる。やや年齢が離れるが中江兆民(弘化4、1847)をも挙げておきたい。私は明治社会における彼らの特異な、そして自立的な人格的な存立は、彼らがその土壌のなかに成長してきた儒家的・漢学的教養と士道的エートスぬきにはないと考えている。清沢は終生『論語』や佐藤一斎の『言志録』を手放すことはなかった。そのことを明治人の遺習として笑うよりは、なぜ清沢がそれらを手放すことなく絶対他力宗の信仰者になり、教育者になったのかを考えてみるべきであろう。

脇本平也は『評伝清沢満之』(法蔵館、1982)で清沢の『我が信念』を巻頭に引きながら、清沢のきわめて個性的な信仰形成の過程を語っている。

「ここに現れた他力信仰は、とりわけて満之らしい個性的な特徴をそなえている。真宗伝統の教義に、必ずしも型どおりに寸法を合わせたものではない。そうした出来上りの型に対して、満之生涯の苦闘の実験が、存分に裁断の鋏を加えた。その結果、満之その人の人間像にぴったり合った『我が信念』が、生活史のなかから形成され、獲得されてきた。」

私もまた清沢の他力信仰とは、彼生涯の苦闘の実験を通して形成された信仰的立場、清沢という個性的な特徴を備えた他力信仰の立場であると思う。そうであるならば清沢における儒教的なもの、儒教的思惟であり、理念であり、言語であるものは、拭い残された前代の遺習でもないし、無視してよい仮借の修辞でもない。それらはそれなくして清沢の他力的信仰思想そのものが形成されない不可避の思想的契機であるであろう。清沢に「天」の理念、また「天命」の概念なくして、「如来」への、そして「如来」からの他力信仰の道を自らに形成し、人にそれを語る言葉をも清沢は見出すことはなかったであろう。『我が信念』の末尾の言葉は、そのことをわれわれに教えている。

「私は私の死生の大事を此如来に寄托して、少しも不安や不平を感ずることがない。「死生命あり、富貴天にあり」と云うことがある。私の信ずる如来は、此天と命との根本本体である。」

4「天」と「公」と

『我が信念』の上に引いた末尾の言葉に見るように、儒家的「天」と「天命」概念は清沢の他力信仰の究極相を言葉にする上で不可欠なものであるようだ。言葉にする上で不可欠であるだけではない、信仰を究極相にまで問い詰める上でそれらは不可欠だというべきだろう。清沢は「天命」概念によって他力信仰の究極的な、ぎりぎりの問題を提示するのである。『転迷開悟録』から青年会談信会における講演で「天命」をいう一節を引いておきたい。

「之を我が一身の行為に就きて云はば、彼の人事を尽くして天命に安んずるの事に過ぎずと雖も、我は寧ろ之を天命に安んじて人事を尽くすと云はまく欲す。その故は天命に安んずるは勿論人事を尽す迄が皆天与の恩賜なれば、先づ天命に安んずるにあらずば人事を尽すこと能はざるべし。」(「十月三日夜青年会談信会に於て」、表記を変えている)

ここでは現世における人の行為とその存立の究極的な意味を天命として知るものこそが君子なのだという孔子以来の「天命」観が、「他力回向」をより一般的に敷衍する思想言語として使われている。「命を知らざれば、以て君子たらざること無きなり」(堯曰)とは孔子が『論語』の最終章でいう言葉である。私はいま儒家的「天命」観が他力信仰的理念のより一般的な敷衍化のために使われているといった。そのことは儒家的「天命」観が清沢とともに広く同時代の人びとに受容されている観念だということだけをいっているのではない。清沢という絶対他力的信仰者は真宗的言語とは異質な言語で他力信仰の思想的本質を解いてきたのである。これが清沢を単なる教派的講説家以上のものにしている理由である。彼は生来の思想的言語というべき儒家的言語を意図的に使っているのだ。『有限無限録』が見せる異様さは、20世紀を迎えようとする明治32年(1899)の日本で清沢が儒家的言語をあえて使用していることにある。私はそれを儒家的言語の戦略的使用というのである。そして清沢における儒家的言語の使用の意味がもっとも問われるのは、儒家的「公」概念の使用にある。

「無限的行為は善なり(公の為にする行為なり)。」

「仁とは利他的行為なり(仁とは天の為に尽すの心なり)。」

「公は天なり。公に尽すの心は仁なり、道心なり。」

「公は彼を摂し我を摂し一切を摂す。故に公は大慈悲者なり。 公の為にするものは大慈悲心を分享するものなり。」

これだけではない。『有限無限録』には「公」によっていう文章が沢山ある。そこで用いられているのは中国の儒家思想で展開されてきた「公」概念である。その「公」について私は『歎異抄の近代』の清沢の章(第3章「清沢はなぜ儒家的〈公〉をいうのか」)でかなり詳しく説いている。ここでは儒家的〈公〉概念を規定している一節だけを引いておこう。「「公」とは「私」の反として、天下のすべてを覆う普遍性、天下の人すべての共同性、そして平等性にかかわる儒家の道徳的、政治的思惟の基幹的概念である。」ここでいう「公」とは、程子が「仁とは天下の公、善の本なり」(『近思録』)という「公」概念である。私はこのような「公」を己れの思想文脈の核をなす概念として使用しているような文章を、清沢のもの以外に見たことはない。それは江戸から現代までの文章を通していうことである。

だが問題は明治32年の清沢がこの儒家的「公」概念による言説をどうして展開したかである。あるいはこの「公」概念による清沢の言説展開の意味をどのように考えるかである。私はすでに前に引いた『歎異抄の近代』第3章で私なりの解答は出している。そこで示したのは、『教育勅語』という欽定の儒家的言語による国家・国民的な義務としての「公」、すなわち奉公的「公」の形成を見ることで、「明治32年の清沢が「無限」「公」「天」という超越的、普遍的概念を前提にして道徳論的テーゼを導いたことの例外的な意味」を理解しようとする道である。これは晩年の清沢が苦闘した「俗諦」論の中心にある問題である。私はこの問題への理解の道をいうだけで、まだ十分な理解に達したとは思っていない。

私は清沢の儒家的「公」概念の使用をめぐって、私の著書のもう一つの章で触れている。それは暁烏をめぐる第6章においてである。私はそこでこういっている。

「「公」とは仏心者の大慈悲行である。親鸞の信が「真信」であるのは、徹頭徹尾この「公」を志向するものだからである。そして「私」の異議のはびこる今、想起されなければならないのは、徹頭徹尾「公」を志向する親鸞の「真信」だと唯円はいうのである。」

清沢における「公」概念は、『歎異抄』の〈異議〉の問題が『歎異抄』の近代的受用そのものの中に再生していることをもわれわれに教えている。清沢の「公」概念をめぐる論はここから始められるべきなのであろう。ただ私の『歎異抄の近代』はその全体として、清沢が「公」概念によって提議した問題への私なりの解答だと考えている。

[これは10月30日に清沢満之研究会(親鸞仏教センター)でした私の問題提起の要旨である。]

「思想史教室」からのお知らせー11月のご案内 子安宣邦

* だれでも、いつからでも聴講できる「思想史の教室」です。
*「論語塾」で伊藤仁斎の『童子問』を併せ読むことにしました。

*思想史講座—「〈大正〉を読む」

先月(10月)の思想史講座では津田左右吉による記紀「神代史」の脱神話化作業を追跡しました。津田は記紀における「神世の物語(神話)」に民族性・民衆性・国民性を読みとることを批判し、否定しました。これはあらためて確認することの必要な重要な問題提起です。11月の講座ではこの津田の問題提起をもう一度考えて見たいと思います。それは昭和における『古事記』の民族的神話化、民族文学化を批判的に〈大正〉から読み直す、「方法としての〈大正〉」というべき思想史作業です。

*大阪教室:懐徳堂研究会
11月21日(土)・13時〜15時
『古事記』と民族・民衆・国民ー津田『神代史研究』を再読する
会場:梅田アプローズタワー・10階1005会議室

*東京教室:昭和思想史研究会
11月14日(土)・13時〜16時
『古事記』と民族・民衆・国民ー津田『神代史研究』を再読する
会場:早稲田大学14号館10階教室予定

*参考文献:津田左右吉の「神代史の研究」と『古事記及び日本書紀の研究』および『文学に現れたる国民思想の研究』第一巻の「序説」によって基本的に考えるつもりです。『古事記』の民族文学としての再構成は和辻の『日本古代文化』(初版・大正9,新稿・昭和26)でなされます。

*論語塾―伊藤仁斎とともに『論語』を読む

『論語』はどこからでも新しく読むことができます。
途中からでも自由にご参会ください。
『論語』とともに、伊藤仁斎の『童子問』を読みます。
『童子問』は日本近世最高の思想書、仁斎晩年の著作です。

11月28日(土)12時〜15時 1 憲問篇・1 2 『童子問』上

資料は当日配布します。『童子問』のテキストも用意いたします。
なお岩波文庫に『童子問』はありますが、古書でしか入手できません。

会場:rengoDMS(連合設計社市谷建築事務所)JR飯田橋駅西口から徒歩5分

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