中国と〈帝国〉的視野―「琉球」をなぜ語るのか
「中国問題」3 子安宣邦
中国と〈帝国〉的視野―「琉球」をなぜ語るのか
―汪暉『世界史のなかの中国』を読む・2
「日本の琉球への植民及び、1874年に台湾に対して行われた最初の攻撃(いわゆる台湾出兵事件)は、アジア地域で長きにわたり有効であった一連の関係と相互作用の法則に重大な変化が発生したことを意味していた。」 汪暉「琉球」
1「沖縄」を語ること
汪暉の『世界史のなかの中国』の副題は「文革・琉球・チベット」となっている。その副題通り、本書第2章のタイトルは「琉球―戦争の記憶、社会運動、そして歴史解釈について」である。中国の現代思想家の自国認識にかかわるこの書が「琉球」の章をもつことは当たり前のことだろうか。そんなことはない。私にはそれは異様に見える。しかもこの著者があえて語ろうとし、そして語ってしまったのは「琉球」であって、決して沖縄ではない。「琉球」としてはじめて沖縄は、この中国の〈新左派〉を称される思想家汪暉の語りうる対象となったのである。それはなぜなのか。そこには「琉球」が中国的呼称であること以上の問題があるように思われる。
彼はなぜ沖縄を語るのか、あるいはなぜ沖縄を語ることができるのか。沖縄が「琉球」であるからだ。汪暉は沖縄を「琉球」として語るし。語りきってしまうのである。どのように彼は語るのか。彼がそのように語りきってしまうことの意味は何か。私がここで答えようとしているのは、そのような問題である。
だがその問題に答える前に、私にとっての沖縄についてのべておきたい。本土の日本人である私は沖縄を、日本の中心を離れた北海道や九州のどこかについて語ると同様に語ることができるだろうか。日本現代史が沖縄に負わせてきたことへの罪責感ぬきに私は沖縄を語ることはできなかった。浜下武志が戦後日本の知識人による沖縄認識をめぐっていっている。日本本土の知識人たちは、「国家や民族の枠組みを前提として、むしろ国家や民族内部の共通性や均質性を共有できなかった沖縄に対する同情と、共有させなかった日本に対する批判と、共有を拒んできた沖縄の伝統に対する驚き」という三つのことを動機として沖縄を語ってきたというのである。だがこの沖縄についての戦後知識人たちの語りのあり方がいま問われているのだと浜下はいうのである。
「現在、地球化と地域化が同時に存在し、両者がせめぎあいながら、かつ通じ合うという時代にあって、国家や民族を絶えず媒介として沖縄を語り、沖縄に同情し、沖縄に謝罪し、沖縄に期待をこめようとしてきた日本の知識人の研究姿勢と沖縄認識の内容が根本的に問われている。」[1]
私はすでにいうように、沖縄について語るということはできなかった。私がはじめてというか、やっと沖縄に言及しえたのは〈靖国問題〉をめぐって『国家と祭祀』[2] を書いた際にであった。その最後の章で沖縄の住民に残酷な運命を強いた沖縄戦に触れてこう書いた。「沖縄県民の四人に一人が沖縄戦で死んだのである。この死は国家によって祀られない死である。この国家によって死に追いやられた死者、そして国家が決して祀ることのない死は靖国をめぐる美辞麗句が虚偽でしかないことを教えている。戦う国家は祀る英霊とともに祀られない死者を国の内外に大量にもたらすのである。」(第10章「戦う国家と祀る国家」)と。
私が沖縄に言及しうるのはこのような形でしかなかった。これもまた浜下が批判的に整理した戦後日本知識人の沖縄論のあり方に属するものであるかもしれない。少なくとも私には戦時から戦後への〈祀る国家〉的持続としての〈靖国日本〉への解体的な批判とのかかわりでしか沖縄への言及はありえなかったのである。
2008年4月、私は台湾新竹の国立交通大学で「戦後日本論―沖縄から見る」というタイトルで講演をした。「沖縄とはもともとの日本ではない。清と日本と政治的には等距離の関係をもっていた琉球が、日本の沖縄県になったのは1879年4月4日であった。沖縄は日本帝国の地理的だけではない、政治的にも辺境の位置を担い続けてきた。その沖縄は1945年から現在まで、米軍の極東における最重要な軍事基地であり続けている。この沖縄を視点として戦後日本の解読をしてみよう」と、その講演の冒頭で私はのべた。私の講演は「沖縄」を主題として語るものではなかった。「戦後日本」としての国家的な自立、経済大国としての日本の自己形成がもつ虚偽と偽瞞とを〈沖縄から〉の視点によって露わにすることを目的としていた。この沖縄への私の言及のあり方は私の〈靖国論〉における言及と同じあり方である。
ところで私がなぜ2008年の台湾で〈沖縄から見る〉というような講演をしたのか。「戦後日本」の経済大国としての国家形成を〈沖縄から〉解体的に見ていく私の講演によって、台湾の学生たちに〈台湾から〉大国中国を解体的、批判的に見る視点の構成を期待していたからである。しかし私がここで台湾での講演に言及するのは、この講演にこめた私の意図にかかわってではない。この講演で私が遭遇した一つの事件によってである。交通大学における私のこの講演のコメントを台湾のカルチュラル・スタディーズを代表する研究者陳光興が担当した。彼は私の講演終了後、起ち上がって話し出した。それは私の講演に対するコメントというものではなく、彼自身の〈沖縄論〉というべきものであった。彼は延々と語り始めた。通訳も翻訳することを諦めた。半時間ほど経過したところで、私は「ここはあなたの沖縄問題講演会ではない」といって発言を中止させた。これは台湾で私が初めて体験した不愉快な事件であった。
だがこの事件はいくつかのことを私に教えた。一つは「沖縄」がすでに彼らに語りうる問題として構成されているということであった。これは私の無知、情報欠如を示すような驚きであった。戦後のわれわれにとって「沖縄」とは、すでにのべたように、主題として語ることのできないような問題としてあった。私に精一杯できることは〈沖縄から〉見るという形で語ることであった。ところがその「沖縄」は台湾の研究者に、私が中断させなければ一時間でも、二時間でも語りうるような主題としてすでにあったのである。「沖縄」が彼らにおいてすでに語りうる問題としてあることの事情、理由を、私は汪暉の『世界史のなかの中国』を読んではじめて理解した。そしてそのことはもう一つのことを私に教えた。「沖縄論」「琉球論」が東アジアでこのような形で成立することの背景には、知的な、あるいは言説的なネットワークがここに存在するということである[3] 。このネットワークなくしては陳光興の「沖縄論」も、汪暉の「琉球論」もなかったであろう。私は東アジアの台湾そして沖縄(琉球)をめぐる地域研究・文化研究的ネットワークが非政治的であることはないという当たり前のことに気付かされたのである。
2 琉球と「海の歴史空間」
戦後日本知識人による沖縄の論じ方を批判していた浜下は沖縄を積極的に語り、『沖縄入門』という本さえ書いている。では沖縄はどのようにして、その将来についても彼に語りうるものとなったのか。彼は「琉球」が「沖縄」になること、すなわち琉球の日本国家化をめぐってこう書いている。
「日本が琉球処分によって琉球を沖縄県とし、日本の一部に組み替えたことによって、琉球はその歴史的な海洋ネットワークの拡がりから内陸的な一つの県の位置に再編成されることになった。これは日本が国家形成の中で琉球をその中に取り込んだことを意味すると同時に、琉球が歴史的拡がりを閉じることによって、日本の国家化を支えたともみることができるであろう。」
琉球が日本になり、沖縄県になることは、琉球がもっていた国際的な拡がりを失うことを意味した。それは那覇港がもっていた国際的な開港場としての性格を失わせ、日本の開港場を長崎に集中させることを意味したのである。すなわち「琉球が持っている海洋の拡がりを消去し、日本に吸収する必要があった。あるいは海洋の拡がりを国家化する必要があったと言えよう。日本の開国は沖縄の鎖国であった」(傍点は子安)のだと浜下はいうのである。琉球の日本化、沖縄化が何を意味するのかをめぐるこの浜下の記述は重要である。「琉球・沖縄の歴史空間は、「日本」の中に収まり切れない広がりと独自の準則を持っていた」ことを知るものにしてはじめて沖縄の現在と将来に向けての積極的な発言もなしうることを私は理解する。沖縄が開かれた東アジア空間においてもつべき位置を知ることは、同じく日本が東アジアでもつべき位置を知ることでもあるだろう。この沖縄認識は〈開かれた海域〉としての〈東アジア世界〉の認識と相関的であるからである。
「琉球・沖縄の歴史空間は、「日本」の中に収まり切れない広がりと独自の準則を持っていた」と浜下がいう歴史空間とは、中国との〈朝貢関係〉からなる海洋的王国琉球の歴史空間である。「中国と朝貢関係を結び、またその関係に倣って自らの周辺地域との関係を形作った。儀礼や宗教、権威や威徳を中心とした宗主―藩属関係には、海という空間がその地域間関係の形成に大きな役割を果たしていた」と浜下は書いている。〈冊封体制〉をもって中国との間に臣従関係と儀礼的秩序とをもってきた周辺諸国・諸地域は〈朝貢関係〉[4] という中国との交通・貿易関係をも構成してきたのである。琉球王朝が構成してきたこの〈朝貢関係〉的な歴史空間を浜下は「海の歴史空間」として特色づけているのである。
〈海の視点〉から見るとき、琉球の〈朝貢関係〉的歴史空間は「多地域・多文化・多民族の交流と交渉」からなる開かれた海洋空間として見出されてくる。ここから浜下は、「海を重要な歴史主体として持つ東アジアが、多民族・多文化・多地域によって構成されているあるひとつの政体であることを意味している」と重要な指摘をしている。この海洋空間としての〈東アジア世界〉の構成は、浜下の〈朝貢関係〉論にしたがって再構成される汪暉の〈中華的世界〉を批判的に差異化する上できわめて重要である。
3 民主の"冷戦化"
汪暉が「琉球」をいかに語り出すかを見る前に、そこにある〈気になる記述〉について触れておきたい。彼は沖縄を論じるにあたって終始「琉球」の呼称をもってしている。それが中国からする沖縄の呼称だとしても、「琉球」をもって沖縄を論じきってしまった論文を現代日本人に提示すること自体に中華主義的な独善なり、挑発を私などは見てしまう。しかし私が〈気になる記述〉というのはそのことではない。汪暉は琉球を論じるのに、その背後に台湾を置いている。地理的にいっても、歴史的にいっても、さらに政治的にいっても両者が離しがたい関係にあることは理解できる。だが私が気になるというのは台湾の民主化運動をめぐる汪暉のとらえ方である。
「台湾の民主化運動は内容が多重であり、複雑に構成されていたため一概に論じることはできないが、その主流―とりわけエリート層の民主化運動―は、冷戦時代におけるアメリカのイデオロギーの影響を深く受けていた。・・・民主化の問題と、日に強まる中国大陸への敵意とを接続させたことこそ、台湾独立運動における一つの主要な特徴を構成した。」[5]
このアメリカ的イデオロギーに影響された民主化運動を汪暉は「民主の"冷戦化"」と呼び、この陰影を台湾の民主化運動だけではない、1989年以来の中国知識人の言説や民主化運動の中にも見ているのである。民主化運動におけるこの陰影を「"アメリカ性"として概括するのは、大体において正しい」と汪暉はいっている。この言葉は冷戦時のものではない、2009年のものである。汪暉が中共党政府によって〈動乱〉として鎮圧された1989年の学生・市民の運動に対して全く否定的であることについては、私はすでに前回(「中国問題」2)にふれた。しかしここで台湾の民主化運動を、中国の民主化運動とともに、冷戦時のイデオロギー性をもってしか見ることのできない汪暉のまさしく〈党派的〉というべきイデオロギー的硬直に私は驚くというよりは怒りを覚える。汪暉が敵対視しているのは中国における民主化運動であり、台湾の民主化運動であり、そしてそれらに連帯するわれわれ日本の市民運動であるだろう。
汪暉が台湾や中国の民主化運動における"アメリカ性"を批判的に指摘することとは対照的に沖縄の社会運動に見るのは"反アメリカ性"である。
「これとは対照的に、琉球の社会運動は、中国社会主義に対する想像を終始保ち続けている。・・・こうした想像自身に、冷戦構造における琉球の社会運動の"反アメリカ性"が現れている。これが私の第一印象であり、また私の言う「琉球という視野」の重要性に関する根拠の一つなのである。」
沖縄の社会運動が汪暉にとって重要な「琉球という視野」を彼に構成せしめることの根拠はその〈反米性〉にあるというのは、中国の〈党派的〉思想家汪暉にとって当然なことだろう。だが〈反米的〉な沖縄は彼の「琉球という視野」を構成しても、彼に「琉球論」を語り出させる理論的動機をなすものではない。沖縄は歴史的「琉球」であることによって、すなわち〈朝貢関係〉的歴史的世界すなわち〈中華的世界〉を構成する琉球王国であることによってはじめて中国から構成される論説「琉球論」の主題になるのである。沖縄とはあくまで琉球であり、琉球としてはじめて彼に語られるのだ。
4〈朝貢関係〉的システム
浜下は琉球の沖縄化を、琉球がもっていた「海洋ネットワークの拡がり」を失って「内陸的な一つの県の位置」に再編成されることとして語った。琉球がもっていた「海洋ネットワーク」とは、琉球の〈朝貢関係〉という多重、多層、多様な交易関係が構成するものであった。では浜下から学び取った〈朝貢関係〉は、汪暉の「琉球論」ではどのような意味をもって再構成されるのか。汪暉は、浜下が「海洋ネットワーク」の喪失をいう琉球の沖縄化の過程をこういっている。
「日本の琉球への植民及び、1874年に台湾に対して行われた最初の攻撃(いわゆる台湾出兵事件)は、アジア地域で長きにわたり有効であった一連の関係と相互作用の法則に重大な変化が発生していたことを意味していた。この変化は一つの王朝が一つの王朝を併合する過程であったばかりでなく、中国と日本という両国間の勢力消長の産物でもあり、しかも普遍的規則の突然変化でもあった。」(傍点は子安)
琉球から沖縄への変化をどこから、どのように語るのか。浜下は海洋的〈東アジア世界〉を構成する〈朝貢関係〉の中の一王国琉球から語っている。汪暉は中華帝国とともに古く、長く〈普遍的規則〉として〈朝貢関係〉的な国家間・政治体間関係を維持してきた〈中華的世界〉から語っている。浜下も汪暉も同じく〈朝貢関係〉的琉球王国を歴史的前提としながらも、琉球から沖縄への変化を語る二人の語りは全く違う。〈朝貢関係〉的琉球王国の歴史的参照は、浜下にとって海洋的な交通世界としての〈東アジア世界〉に琉球・沖縄を開いていくことを意味していた。だが汪暉にとって〈朝貢関係〉的琉球王国の歴史的参照とは、何を意味するのか。
汪暉は日本による琉球の沖縄化は「普遍的規則の突然の変化」を意味するといっていた。「普遍的規則」とは何か。汪暉は前の引用に続けて、「日本の朝鮮侵入、日清戦争(中国名:中日甲午戦争)、日露戦争、及び「大東亜戦争」と太平洋戦争はまさに、この普遍的規則の突然の変化が順を追って現れたものであった。初期のヨーロッパ国際法とはその実、帝国主義の国際法であり、日本はこの規則を用いてヨーロッパ帝国主義の行列に身を置こうと躍起になっていた」といっている。帝国主義的な領有なり、植民地的従属化を認知するものとしての「ヨーロッパ的国際法」的秩序への日本の参入を、「普遍的規則の突然の変化」と汪暉はいうのである。とすればこの「普遍的規則」とは、前近代の非ヨーロッパ的〈東アジア世界〉、歴史的正確さをもっていえば〈中華帝国的世界〉の国家間・地域間関係を支配していた規則、すなわち〈冊封体制〉的規則あるいは〈朝貢関係〉的規則を指していっているとみなされる。
東アジアの前近代的世界における〈中華帝国的世界〉の規則はいま汪暉によって失われた東アジア世界の「普遍的規則」として回想されるのである。汪暉が歴史的「琉球」を参照することによって回想されるのは、近代日本の成立とともに失われた〈中華帝国的世界〉の「普遍的規則」すなわち〈朝貢関係〉的な国家間関係の規則である。
5 回想される〈朝貢関係〉
近代日本の主権下の「沖縄」から、前近代の〈冊封体制・朝貢関係〉下の「琉球」は汪暉によってどのように回想されるのか。汪暉は歴史的琉球をブータンやシッキムなどと同様の小政治体としてこういうのである。
「こうした小政治体はそれまでなぜ、いくつかの大きな政治体の間に存在することができたのだろうか。そしてそれらの小政治体はなぜ、いくつかの大きな政治体の一部分にならずにすんだのだろうか。さらに民族国家の時代に入るとこれらの小型王朝はなぜ、民族国家の特定の区域に少しずつ変化していったのだろうか。小さな政治共同体の相対的独立を提供しえたのは、いかなる文化や政治、制度の弾力性であったのだろうか。さらに、最終的に主権の名義を以って、これらの共同体を形式主義的主権概念の内に収容して改編してしまったのは如何なる文化や政治、そして形式化された制度であったのだろうか。」
浜下は日本の近代国家形成の中に琉球が取り込まれていくことによって、琉球が歴史的にもっていた国際的拡がりを閉ざさざるをえなかったといった。浜下のこの歴史的回想が見出しているのは、「自らのなかに多元的な原則、あるいは複数のかかわりを併存させること」によって、東アジアにおける海洋的交通の中継点として独自の役割を果たしてきた歴史的琉球の存立意義であった。だが汪暉の近代国家日本の主権下に沖縄として収容された琉球をめぐる歴史的回想が導くのは、琉球王国のような「小さな政治共同体」にもそれなりの独立性をもっての存立を承認してきた東アジアの〈朝貢関係〉的な政治体間システムである。この〈朝貢関係〉的システムが〈中華帝国〉的統治システムであることを汪暉はほとんどいわない。〈朝貢関係〉システムは、近代の厳しい内外区分に立った主権的国家間関係や強力な主権国家への弱小政治体の従属的関係への〈反近代〉的批判をともないながら、より増しな政治体間関係として理念化されるのである。
「アジア地区、とりわけ中国周辺において、朝貢システムの範疇に最近よく帰納されている政治体間の相互関係は、民族国家同士の関係とは完全に異なるものであった。朝貢関係の中にも内と外の概念があったが、主権概念下のそれ、すなわち境界及び境界内の行政管轄権などの概念が画定する内外関係とは同じではなかった。・・・主権原則に照らせば、内と外との厳格な境界設定によって、独立と統一という絶対的な対立が生まれ、その間に曖昧な地帯はない。しかるに朝貢関係は、親疎遠近の関係、つまり参与者の実践が相対的に弾力性を持って展開する関係のように思われる。このため朝貢関係は、主権国家の意義における内外関係とは全く異なる。」
近代の主権国家間の内外関係の厳格さに対して〈朝貢関係〉がもつ内外関係の弾力性がこのように想起される。この汪暉における〈朝貢関係〉という政治体間の弾力的関係性のモデルは、「民族主義のモデルがなぜかくも強烈に、内部の統一性や単一性、そしてはっきりとした内と外の関係を要求するのかについて」の追究が、歴史から呼び出すようにして構成していったもう一つの政治体間の関係性のモデルである。
1871年に台湾に漂着した琉球民の殺傷事件が起きる。これを理由として1874年に日本は台湾に出兵した。この事件をめぐる外交交渉が北京で行われたが、その際の清政府の回答を引きながら汪暉はこういうのである。
「これは内と外の厳格な分け隔てがなく、それと同時にまた多重の差異を包含している制度形態と関係モデルであると言うことができよう。ただ、この多元的な法律政治の制度もやはり一種の統治と支配の制度であって、この多元的な政治条件の下、各種各様の支配や戦争をもたらしたこともある。しかし、多様性と統一性を持った弾力性に富むその関係については、我々があらためて思考するに値するものだろう。」(傍点は子安)
引用によってする論証はもうこれでやめよう。すでに明らかだろう。歴史的「琉球」の参照が汪暉にもたらすものが何であるかは。それは琉球をもその内にもった〈朝貢関係〉という「多様性と統一性を持った弾力性に富む」〈中華帝国〉的統治システムである。汪暉はしかし〈朝貢関係〉とは中華主義的〈帝国〉の統治システムであることを曖昧にし、むしろ隠蔽して〈朝貢関係〉を近代の主権主義的国家間関係に対するもう一つの、より増しな国家間あるいは政治共同体間関係モデルとして提示していこうとするのである。この〈中華帝国〉的政治性を内に隠した偽瞞の国家間関係モデルがいま沖縄・琉球に対してだけではない、台湾に対しても、日本に対しても、いや〈東アジア世界〉に対しても提示されているのである。
6 〈東アジア世界〉像の挑戦的提示
汪暉は香港を例にとりながらこういっている。「香港は中国の一部であるが、国際的な法律主権の意味において、国際組織に加入する権利が香港にはあり、大陸とは異なるパスポートと独立したビザのシステムを有している。この情況は中国の朝貢関係内部の権力構造に近い。「一国二制度」は一つの可能性に過ぎず、これはまた主権体系内部における一種の総合と発展でもある。しかしそれは異なる情況に基づき、異なる関係モデルを構想する可能性を提示しているのである」と。もうやめるといいながらまた引用してしまったが、しかしこの引用は、汪暉において〈朝貢関係〉的モデルが、政治的、社会的体制を異にし、文化・習俗も異にする周辺諸領域、周辺的諸政治体と中国との弾力性をもった一体的統合を可能にする関係的モデルとして歴史から呼び出されていることを明らかにしている。
だが汪暉のいう〈朝貢関係〉的モデルによる〈中華帝国〉的統合とは、中共党の一元的支配による全体主義的政治社会体制をもった経済大国中国への統合でしかない。この統合が何であるかは、チベットや新疆ウイグルの苦難の実状が教えているし、「一国二制度」がいわれる香港の現状は台湾の人びとに明日の自分たちの姿を予見させている。この春の大規模な〈民主的台湾〉のための運動は、香港の現状に台湾の将来が重なることを拒もうとした学生・市民の民主的決起でもあったのである。
われわれはこの〈朝貢関係〉的モデルの提示に欺かれることはないといいうるかもしれない。だが「なぜ伝統的な政治関係や結合モデルにおける、文化や政治、その他習俗の多様性に対する容認度は現代世界のそれよりも高いのだろうか」といった問いかけとともに汪暉が提示する〈朝貢関係〉的な関係性をもった〈東アジア世界〉像はわれわれにとって挑発であり、挑戦でもあるだろう。それは浜下が歴史的な「琉球」からわれわれに読み開いていった多重・多層・多元的な海洋的交易空間としての〈東アジア的世界〉を、一体的な〈中華帝国〉的世界に多元性の相互承認的空間として包摂してしまおうとする挑戦的な〈東アジア的世界〉像の新たな提示であるからである。浜下の〈朝貢関係〉論の汪暉における剽窃的盗用がもつ犯罪的意味はこの点にある。
(2014年06月19日.)
[1] 浜下武志『沖縄入門―アジアをつなぐ海域構想』(ちくま新書、2000)。
[2] 『国家と祭祀』青土社、2004。この書の諸章は2003年7月から04年4月まで『現代思想』に連載された。
[3] このネットワークについては汪暉がその著作中で詳しくのべている。
[4] 「「中国」皇帝を中心として東アジアと東南アジアの広域地域にかけて作られた朝貢・冊封体制は、朝貢国として朝鮮・日本(明の中期まで)・琉球・越南・カンボジア・ミャンマー・シャムなどを含み、これらは、中国と二国関係における朝貢・冊封関係を形作ることによって、時間や政治儀礼・位階制度・交易関係を共有する地域空間を作り上げていた。」(浜下『沖縄入門』)。
[5] 汪暉『世界史のなかの中国』第2章「琉球―戦争の記憶、社会運動、そして歴史解釈について」。なおこの論文は『現代思想』2009年9月号に掲載された。