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子安宣邦のブログ -思想史の仕事場からのメッセージ-

2015年03月

「日本思想史の成立」について

ー「台湾思想史」を考えるに当たって 子安宣邦



1「日本思想史の成立」という問題
私がここで掲げる主題「日本思想史の成立」とは、「日本思想史」という学問的方法的概念の成立をいうのであって、日本思想史の起源的成立を問うことではありません。その意味ではこの主題を「日本思想の成立」と言い換えることもできます。なぜなら「日本思想」という概念が何らかの形で成立してはじめて、その歴史的な展開が「日本思想史」として問われることになるのですから。ですから「日本思想史の成立」の問題とは「日本思想の成立」の問題でもあるのです。

「日本思想史の成立」という主題をこのように考える私の理解の前提には、「日本思想史」という概念も、その対象としての「日本思想」という概念も歴史的な言説上の構成物だという見方があります。その時期をはっきりいえば近代20世紀の日本に成立したものです。それらは決して日本列島とそこの住民とともに古代風の(アルカイック)姿をもって自ずから存立したものではありません。

だが日本で近世(前近代(プレ・モダーン))と呼ばれる徳川時代の国学者本居宣長(17301801)は日本人の言葉も心も考え方も日本列島とその住民に固有のものだということを、日本最古の漢字書記テキスト『古事記』(712成立)の注釈を通じて言い出しました。〈日本的なもの〉の固有性が宣長によって最初に思想的体系性をもって主張されたのです。しかし漢字書記テキスト『古事記』による〈日本的なもの〉の主張には、複合的なものをあえて純粋化していく作為と飛躍と、そして隠蔽がともなわざるをえません。いずれにしろ民族主義的な純粋型としての〈日本〉を、やがて成立する近代民族国家(ネイション・ステイト)日本が要請していたのです。

私は宣長たち国学者を〈日本的なもの〉の固有主義的な主張者だとみなします。アメリカの日本研究者は宣長らの国学をnativismと訳しますが、それは正しい訳し方です。この宣長らによる〈日本はもともと日本である〉という固有主義は、明治(1868)以降の近代国家形成のなかで民族=国家主義(nationalism)として継承されていきます。そしてこの近代に継承された〈日本的なもの〉をめぐる思惟と志向は、昭和(1925)にいたってヨーロッパ文献学、解釈学的方法をもって「日本思想史」あるいは「日本精神史」を成立させることになります。日本人の思想的テキストだけではない、あらゆる言語表現から解釈的に抽出される「日本思想」「日本精神」そして「日本的民族性」が記述されていくことになります。昭和とは第一次世界大戦を通じて世界先進国の仲間入りをした日本が全体主義的国家へと転身していく時期です。昭和の全体主義国家日本とは中国大陸における帝国主義的覇権を賭けた戦争へと向かう日本です。その昭和日本が「日本思想」を「日本思想史」とともに成立させたということができます。

2 「日本思想史」とは何であったか

私の日本思想史の始まりは、国学者宣長による〈日本〉創出作業の批判的解読にあります。宣長の『古事記伝』という『古事記』の注釈作業とは実は〈日本〉というものの創出作業であることを明らかにしたのが、私の宣長研究です。ですから私の日本思想史的作業は〈日本〉を創出する宣長国学の解体から始まったのです。私にとって「日本思想史」は両義的です。私は既成の日本思想史を解体しながら、なお日本思想史にかかわっていました。

私は1980年代の終わりの時期、大阪大学日本学講座の授業で唐突に「私はもう日本思想史を止める」といい出したことがあります。日本思想史というものが現実にある学問的な事態にほとほと嫌気がさしたからであります。宣長の『古事記』注釈が〈日本〉を創出していったように、日本思想史が〈日本〉を発見し、〈日本思想〉を記述していく。これは〈日本〉という自己同一性の記述、すなわち「日本とは日本である」といった同義反復的な記述にすぎません。〈理念史的〉日本思想史がこの自己同一性の同義反復的な記述に陥っている一方で、〈歴史的〉日本思想史は〈近代〉の肯定的形成過程の記述か、あるいは否定的思想系譜の批判的記述かといった近代主義以外の方法的視点をもとうとはしていなかったのです。

〈日本〉の自己同一性にかかわる日本思想史や〈近代主義〉的日本思想史が意味をもちえたのは、日本における〈近代〉の再構築が国家的目標とされた戦後日本の60年までの時期でしょう。60年というのは日本の安全保障体制をめぐる国論を二分するような〈安保闘争〉が展開された年です。この60年を境にして日本はグローバルな世界市場における経済大国への道をはっきりととっていきます。われわれが直面しているのは〈後期近代〉と呼ばれる現代世界であることを日本思想史家は気付こうともしません。日本思想史は転換されねばならなかったのです。

3 「日本思想史」の方法論的転換

1970年から80年代にかけて私は日本思想史の方法論的な模索を続けていました。私が方法的な転換をはっきり遂げたのは85年にいたってです。私の『「事件」としての徂徠学』(青土社、1990年)はこの転換を表現するものです。私はこの転換を哲学の「言語論的転換」に因んで「言説論的転換」と呼んでいます。簡単にいえば、ある言説の思想的意味を、その時代の、あるいは来るべき時代の言説的空間に向けて何が新たに言い出されたのかという言説の〈事件性〉においてとらえることです。意味を言説的テキストの内部に、あるいは作者の内部に求め、それをテキストから読み出すのではなく、テキストの外部に、同時代の、あるいは時代を隔てた読み手や受け手とのかかわりにおいて見出していくことです。要するにこれは日本の思想的テキストを〈日本的〉同一性の同義反復的な自己確認的言語回路から、あるいは〈あるべき近代〉の歴史遡行的な近代主義者の自己確認的言語回路から解放するための方法的転換をいうのです。

「方法としての江戸」とは、この方法的転換の一つの具現化です。〈近代〉から、〈東京〉から見るという思想史的視点を転換させ、〈前近代の江戸〉から見ることによって〈日本近代〉として実現されたものを批判的に相対化することを目指したのです。私の方法的転換のもう一つの具現化とは、まさしく日本の思想的テキストを〈日本的〉同一性の同義反復的な自己確認的言語回路から解放することです。それは一国思想史の世界化、あるいは一国思想史の自己否定というべきかもしれません。端的にいえば日本の17世紀の儒学者伊藤仁斎(16271705)の思想の世界的意味をどうとらえるかということです。ここからまさしく今日ここでの主題に真っ直ぐに入っていくことになります。

4 東アジア儒学世界

私は1990年ごろからしばしば台湾を訪れ、中国儒学(哲学)研究者と交流をもつようになりました。私は日本の近世儒学の展開を東アジアの儒学世界の中でとらえてみようと考えていました。だがこの時期、儒学の東アジア各地における多様的展開を内包した〈東アジア儒学〉という概念は成立していませんでした。東アジア世界には〈中国儒学〉が存在するのであって、〈東亜儒学〉があるわけではなかったのです。この認識は台湾や中国だけでもたれていたものではなく、日本の中国学者・儒学研究者も共有するものでした。当時私がここに来て知ったのは台湾の中哲研究者と日本の旧帝大の中哲研究者との強い結びつきでした。一国思想史の枠を出ようとして台湾に来た私は、旧帝国の中哲的学問世界にここで包み込まれてしまうように思いました。中国儒学・哲学の〈帝国〉的な持続的存立がまず問われなければならないと私は考えました。〈帝国〉とは民族的、国家的多様を〈中心と周縁〉という関係性をもって差異化し、秩序化していく支配の体系です。

私は台湾で開かれる学術シンポに数多く出席して、〈方法としての東亜〉を提唱しながら、〈帝国〉としてではなく、多様性が多様性として意味をもった〈東アジア世界〉の多元的再構成を主張してきました(子安『東亜儒学:批判と方法』台大出版中心、2004、参照)。それから十数年を経た今、〈東亜儒学〉が台湾で、そして中国で理念的にも、制度的にも成立しているように思われます。だがそれははたして多様性が多様性として意味をもつような多元的な東アジア儒教世界の成立を意味するものでしょうか。残念ながら私が見ているのは一元的〈帝国〉的儒学の中心ー周縁的関係性をもって差異化された東亜儒学体系として記述される東亜世界の成立です。日本儒学・朝鮮儒学・琉球儒学などなどはいま〈帝国〉的中国儒学に再包摂されているのです。

考えてみれば私が日本の儒学思想の積極的な意味づけを求めて東アジアの多元的世界としての再構成を主張していった時期は、大国中国が中華主義的〈帝国〉としての存立のあり方を強めていった時期に重なります。だから東アジアを多元的儒教世界として再構成することの私の主張が、東亜儒学世界としての〈帝国〉的再包摂を促したと人はいうかもしれません。だが私がいう多元的東アジア世界と〈帝国〉的一元的東亜世界とは決定的に違うといわなければなりません。そのことをいわねばならないのはまさしく今です。その今とは中国が〈帝国〉的存立のあり方を一層強め、香港の政治的多様性を否認しようとしている今であり、自立的多様体としての台湾がその自己主張を明確にしている今です。地域的な多様体が多様体として積極的な意味をもち、多様体としてあることを通じて東アジアを、そして世界を豊かにしていく道とは、〈帝国〉的東亜世界を形成する道とは決定的に違うと、今はっきりといわねばなりません。

日本についていえば、今日本の安倍政権はアメリカとの軍事的同盟関係を自国のいっそうの軍事化によって固めながら、日本のナショナル・アイデンティティーを強めるという対抗〈帝国〉的路線を進んでいます。これは私がいう多元的な東アジア世界への道にまったく反する独善的な一国主義的な道です。それは日本の思想と言語とを不毛にしていく道です。それは決して日本の思想を豊かにしていく道ではありません。

私は「日本思想史の成立」という形での私への問いかけにすでに答えています。

最後に関東大震災(1923)の際、日本陸軍によって虐殺された無政府主義的社会主義者大杉栄(18851923)の言葉を引いておきたいと思います。

「人生は決して定められた、すなわちちゃんと出来上がった一冊の本ではない。各人がそこへ一文字一文字書いてゆく、白紙の本だ。人間が生きてゆくそのことが人生なのだ。・・・労働問題は労働者にとっての人生問題だ。労働者は、労働運動というこの大きな白紙の本の中に、その運動によって、一字一字、一行一行、一枚一枚ずつ書き入れていくのだ。」(大杉「社会的理想論」)

この大杉の言葉にしたがっていえば、アジア・デモクラシーというべきわれわれの運動が〈東アジア〉という大きな白紙の本の中に刻みつけていく一字一字、一行一行が「台湾思想」であり、「日本思想」ではないでしょうか。

[本稿は「台湾思想史」の成立という問題を考えるに当たって、「日本思想史の成立」ということについて語って欲しいという要望を受けて、台湾の中央研究院台湾史研究所で3月24日になされた講演の原稿である。]

遺稿「親鸞」から三木清を読む 子安宣邦

1 三木との出会い

私はこの10年来、思想史的関心をもっぱら昭和の戦前から戦中期に向けてきた。そして「靖国と国家神道」、昭和の「アジア観」、「近代の超克」、「和辻倫理学」などの主題を構成しながら私の思想史的作業を進めていった。付け加えていえば,それ以降の思想史的作業の主題となったのは近代日本の「中国論」であり、そして「歎異抄の近代」であった。この思想史的作業の過程で私は三木清に出会うことになった。最初は「近代の超克」論で斜めにかするように出会い、「歎異抄の近代」論でまともに彼に出会うことになった。

昭和10年代、中国における〈事変〉という日本の戦争が拡大し続けていった時期、三木は日本の論壇の寵児であった。彼は近衛首相を支えるブレイン集団「昭和研究会」の有力なメンバーとして、蝋山政道とともに〈事変〉の収拾策としての「東亜新秩序」構想の理念的構成者になっていった。この時期の諸雑誌に連続して発表された三木の論説は、ほとんどこの「東亜新秩序」構想の歴史哲学的敷衍、すなわち(世界史的意味づけ)というべきものであった。私たちがいまこれらの三木の論説に見るのは、戦争に突き進む時局の添え物になってしまっている哲学的意義づけの言説の無残ともいうべき姿である。三木の名を近衛の「東亜新秩序」構想とともに知る私は、西田門下の英才三木をそれ以上に知ろうとも、読もうとも思わなかった。私の中にあったのは時流、時局の中であたら才能を使い果たしていく三木という哲学者の無残な姿であった。

私は2012年の10月から近代における『歎異抄』を清沢満之から読み直す作業を始めた。この作業を通じてあらためて三木清にまともに出会うことになったのである。

2 遺稿「親鸞」と三木の死

清沢満之、暁烏敏、倉田百三とたどっていった私の「歎異抄の近代」は昭和に入り、三木清の遺稿「親鸞」を読むことが次の課題となった。私は三木の遺稿「親鸞」とは、彼の死(獄死)後に遺された未完の原稿であるかのように思っていた。だがそれは甘ったるい私の想像であった。三木は日本の終戦の年、昭和20年(1945)の9月26日に東京中野の豊多摩刑務所で獄死した。当時の刑務所は拘留者に執筆を許すような場所ではなかった。遺稿「親鸞」は三木の死後、疎開先の埼玉県鷲宮(わしみや)町の住居から見出されたものであった。三木はその前年の9月に娘洋子を連れてその地に疎開していた。遺稿「親鸞」がいつ書かれたのかは明らかではない。三木は昭和20年3月に検挙されるが、その前年、埼玉の鷲宮に疎開したその年の暮れを三木は「「親鸞」の筆を起して書き進みつつ年を越したように思われる」と『全集』の「年譜」は記している。

三木の遺稿「親鸞」は、終戦と彼の死の翌年昭和21年1月に『展望』創刊号に掲載され、彼の非業の死とともに全国の読者に知らされていった。この遺稿「親鸞」は『全集』などによって読むことはできるが、私は『展望』創刊号に最初に発表された姿で見たいと思った。ちなみに私の思想史作業は、ある言説の成立の現場に立ってみる、あるいは思想の成立をそこで追体験してみるといった現場主義を方法的立場としてもっている。これが対象についての先入見を改めさせ、新たな発見に私を導いているのである。

私は『展望』の創刊号を見に国会図書館に行った。昭和21年1月の創刊号を含む最初期の『展望』誌は国会図書館の憲政資料室が収蔵する占領軍による検閲図書に含まれていた。私はその資料室で敗戦時の日本を追体験するようにマイクロ・フィッシュで読みにくい『展望』創刊号を見ていった。三木の遺稿「親鸞」を『展望』創刊号に載せたのは、京大哲学科の三木の後輩であり、彼を敬慕する唐木順三であった。唐木は「親鸞」を載せ、その後に「遺稿「親鸞」について」という文章を付している。その冒頭で唐木は、「拘置所内では執筆は禁止されていたのであるから、埼玉の疎開先に残されたこの『親鸞』の未定稿が恐らく三木さんの絶筆であろう」といっている。そして遺された原稿の構成を説明し、その最後をこういう言葉で結んでいる。

「私はこの文章を写しているうち、故人の息吹を直々に感ずるようなところ、あの岩乗な姿が眼の前に浮び上って来るような箇所に度々逢着した。そういう点から言っても、この未定稿は単なる研究論文の不完全な一部というに尽きるものではない。故人の体験的なものを多分に含んだ貴重な記録であると思う。」

ここで唐木がこの遺稿が「故人の体験的なもの」を含むといっていることは大事な指摘である。三木は遺稿「親鸞」の「一 人間性の自覚」の冒頭で、「親鸞の思想は深い体験によって滲透されている。これは彼のすべての著作について、『正信偈』や『和讃』の如き一種の韻文、また仮名で書かれたもろもろの散文のみでなく、特に彼の主著『教行信証』についても言われうることである」といっている。三木が親鸞の思想を「体験的」というその語を、唐木は三木自体の思想についていうのである。

ところで遺稿「親鸞」を戦後におけるその最初の発表時の姿で見ることは、三木の獄中における死と残された「親鸞」とを、戦後にそれを知り、それを受け取った人びとの「体験」において見ることでもある。唐木はこの「親鸞」を「三木さんの絶筆」として受け取り、これを『展望』の創刊号に載せたのである。そしてその第二号に「三木清といふひと」という唐木におけるまさしく「体験」としての「三木清」について書くのである。『展望』創刊号の誌上の「親鸞」を「具体的」に見ることは、三木と遺稿「親鸞」とを昭和20〜21年の人びとの体験において見ることである。ちなみに「体験的」「現実的」「具体的」であることは三木において「人間的」であることのシノニムである。唐木は「三木といふひと」を三木の獄死の知らせを受け取ったものの収めようのない憤りの体験として書き始めている。「終戦後四十日もたつて、・・・三木さんの獄死が報ぜられた。これはまさにあつけにとられた形で、言ひやうのない憤りを吐き散らさねばおさまらないものがあった。」その憤激は、「拘置所で疥癬といふ野蛮な皮膚病をうつされ、それが昂じて急性腎臓炎をよびおこし」て、現代日本の稀にみる知識人のいのちを奪った「戦争下の日本の異常な馬鹿らしさ」に向けられるものであった。唐木が憤りとともに、三木の最後の様子を伝える言葉をここに引いておこう。遺稿「親鸞」を体験的に読むことは、三木の惨酷な死を追体験的に知ることと切り離せないと思うからである。

「九月二十六日の朝は食欲がないといふので食事をとらなかつた由、獄医は一応は診たが危険はないと言つて外出してしまつたといふ。そしてその日の午後三時に死んでしまったのである。臨終には誰も居合はせず、ベッドから降りて床に倒れたままこときれてゐたさうで、その倒れ方から察するに、尿意でも催ふして、静かにベッドを離れて、歩いてゐる途中で倒れたといふのではなく、恐らく苦しさの余りベッドに立上り、そのままガックリと床にころがりおちて、そのままになつたらしいといふ話であつた。」

三木の死の(むご)さは唐木の憤りとともに伝えられる。三木の遺稿「親鸞」は、終戦40日後の三木の無残な獄死とともに人びとに伝えられ、受け取られたのである。

2 パスカルと親鸞

私はとりあえず遺稿「親鸞」を『全集』本によって読んでいった。私は親鸞の末法論をめぐる三木の力のこもった独自の歴史論的読み方に感銘を受けた。とともにこれは三木自身のための「親鸞論」であるように思われた。「親鸞論」を「宗教的人間論」といいかえてもよい。私がここで「三木自身のための」というのは、昭和の知識的世界の読者人に向けての旺盛な教養主義的な哲学的論説家という側面でしか三木を私は見ていなかったからである。私はこの遺稿「親鸞」を読んで、私はすぐに彼の処女作品である『パスカルに於ける人間の研究』を思い起こした。三木について読むことも、知ることも少ない私ではあるが、しかしこの作品が彼において特異な位置を占めるものであることは知っていた。それは著者の愛着する作品でありながら、著者の著述の主流からはずれた作品とみなされてきた。これは〈私的〉な性格をもった著作とみなされてきたのである。〈私的〉とは、これが自己の人間と生のあり方への反省に立つものであることを意味している。これを〈人生論〉的といってもいい著作である。三木は己れの処女作として哲学的な〈人生論〉的著作をもっているのだ。三木は自分自身のために「パスカル論」を書いたのである。私が遺稿「親鸞」を読んですぐに彼の『パスカルに於ける人間の研究』を思い起こしたのは、両著作がもつこの性格によっている。

だが奇妙なことに三木自身の強い愛着にもかかわらず『パスカルに於ける人間の研究』に対する戦後の論者たちの評価は低い。三木のパスカルへの執着は彼の人生論的な感傷主義に由来するとされたり、彼のハイデッガーや親鸞への執着とともに三木における不可解な暗部をなすとされたりしてきた。そしてこの否定的評価は、ドイツ留学中のリッケルトのゼミナールにおける三木の報告テーマまで記載する詳細な「三木清年譜」(久野収編『三木清』現代日本思想大系33)が、彼のパスカルをめぐる論文名も、その発表時も、さらに『パスカルに於ける人間の研究』の刊行をも記載しないことに行き着くことになるのだろう。この「年譜」はしたがって『人生論ノート』の刊行をも記載しないことになるのだ。だがこのことは逆に戦後の論者たちによって消されようとした「パスカル論」から「親鸞論」にいたる三木の「自分自身のため」にする自己反省的著述の重要性を教えるものだろう。もし三木を読み直すなら、そこからなされねばならないことを教えているのである。

『展望』創刊号に三木の遺稿「親鸞」を載せた唐木順三が第二号に「三木清といふひと」という文章を書いていた。この文章は三木の獄死の実際だけではない、遺稿「親鸞」を三木に位置づける上で貴重ないくつものことを教えてくれた。三木における「パスカル論」と「親鸞論」との結びつきを私に確信させたのもこの文章である。唐木は三木の「我が青春」(『読書と人生』所載)から次の文章を引いていた。

「京都へ行ったのは、西田幾多郎先生に就いて学ぶためであつた。高等学校時代に最も深い影響を受けたのは、先生の『善の研究』であり、この書物がまだ何かやらうかと迷つてゐた私に哲学をやることを決心させたのである。もう一つは『歎異抄』であつて、今も私の枕頭の書となってゐる。最近の禅の流行にも拘らず、私にはやはりこの平民的な浄土真宗がありがたい。恐らく私はその信仰によつて死んでゆくのではないかと思ふ。後年パリの下宿で――それは二十九の年のことである――『パスカルに於ける人間の研究』を書いた時分からいつも私の念頭を去らないのは、同じやうな方法で親鸞の宗教について書いてみることである。」

パスカルを書いたと同じ方法で親鸞を書いてみることは、パスカルを書いた29歳の時から今にいたるまで彼の念頭をいつも去らない強い思いであるというのである。「同じ方法」でというのは、人間学的解釈学的方法でということであろうか。だが親鸞を三木が持ち続けているのは、ただ方法論的関心からすることではない。『歎異抄』が彼の枕頭の書であるというのは、親鸞という信仰者が三木という人間の根底的な関心としてあり続けていたということである。それを〈宗教的関心〉としていうならば、三木とは根底に〈宗教的関心〉を持ち続けた哲学者であり、昭和前期の一時代を風靡した論説家でもあったということである。そしてこの三木によって、彼以外のだれもいうことのないような言葉がいわれるのである。「恐らく私はその信仰によつて死んでゆくのではないかと思ふ」という言葉である。「その信仰」とは親鸞の絶対他力の信仰である。唐木の文章によって三木の獄死の実際をたどっていた私は、唐木が引く三木の回想的読書論中のこの言葉に接して衝撃を受けた。この文章は彼の獄中の死の四年前のものである。これはあたかも四年後の、「親鸞」を書き遺すようにして強いられた獄中における己れの死を予想していたかのようである。遺稿「親鸞」は彼の死と分かちがたいと私は思った。

三木が親鸞の信仰による己れの死について書いたのは44歳の時である。肉体的に健全である人間がこの年齢で自分の死について書くのは、いまの高齢社会からすれば異様であるだろう。だがすでに十代で死の決意を余儀なくされた昭和戦時期においてこのことは少しも異様ではない。むしろこれを異様ではないとした昭和戦前ー戦中期という時代こそが根本的に異様なのであろう。この異様な昭和という時代の中に三木は、人間が「慈悲(宗教)の秩序」に至るべきことの必然をパスカルによる人間存在の解釈学的分析によって導きながら帰ってきたのである。昭和戦前ー戦時期という時代を風靡するような三木の社会的な言論的活動が始まっていく。だがその三木の心底にあのパスカルとともに親鸞を同じ方法をもって書きたいという願いはいつも持ち続けられていたのである。それは己れの死についての思いをいつも持ち続けていたことでもある。三木清とは死についての思いを生涯持ち続けていた哲学者であったと私は考えるのである。彼は自らいうように宗教的人間なのである。

3 私は宗教的人間である

昭和5年(1930)5月、三木は日本共産党に資金を提供したという嫌疑を受けて警視庁に検挙された。いったん釈放されたが、7月に起訴され11月中旬まで豊多摩刑務所に拘留された。判決の結果は執行猶予となった。出所の2ヵ月ほど前に三木は担当の戸沢検事の求めに応じて手記をしたためて提出した。それが遺稿「親鸞」とともに『全集』第18巻に載る「手記」である。「手記」の日付けは昭和5年9月3日となっている。この「手記」は事柄の性格上、三木のマルクス主義に対する自分の立場の弁明という性格をもっている。これを「転向」の文章と見るかどうかは、読者の判断にまかせられることだが、ここにのべられているマルクス主義批判は三木の既存の公表された文章上にすでに見られることである。『全集』の解説者桝田啓三郎は、「手記」において三木は「その根本的な立場をいささかも歪曲したり虚飾したりすることなく、著者の哲学思想とマルクス主義哲学との異なりを率直かつ簡明に述べている」といっている。三木はこの「手記」の冒頭で、自分がマルクス主義者になることを不可能ならしめることの究極的な理由は、彼自身が「元来宗教的傾向をもつた人間」であることにあるというのである。

「先づ最初に云つておかう。私は元来宗教的傾向をもつた人間である。私はこのことを単に断言するのでなく、私の著書『パスカルに於ける人間の研究』がそれに対する立派な証拠を与へてゐる筈である。そこにはパスカルに対する私の解釈を通じて私の宗教的感情が流れてゐる筈だ。そしてこの私の宗教的な気持ちこそが私を究極に於てマルクス主義者たることを不可能たらしめるところのものの一つである。」

三木は己れ自身を宗教的人間だというのである。三木はそのことをこの「手記」では彼がマルクス主義者となることの不可能な理由としていっている。だが彼の愛着する『パスカルに於ける人間の研究』をその明白な証拠としていう宗教的人間であることの自己主張は、世間が彼に着せ、彼もまた被っていったものが仮装にすぎないことをいおうとしているようだ。三木は宗教的人間である己れ自身を内に抑えて生きざるをえなかった。彼が宗教的人間であることをもう一度、そして最終的に証明すべき「親鸞」論を、三木は遺稿として残さざるをえなかったのである。それはなぜか。そう問うことによって三木の読み直しが始まるのである。私はその第一歩を始めたにすぎない。

4 「親鸞」―末法時の歴史的自覚

三木は親鸞には無常感はないといっている。これは親鸞についての重要な指摘である。「無常感はそのものとしては宗教的であるよりも美的である」という三木は「どこまでも宗教的であった」親鸞を見出そうとする。宗教的である親鸞とは無常感よりも罪悪感としての自己意識を強くもつ親鸞である。「自己は単に無常であるのではない、煩悩の具わらざることのない凡夫、あらゆる悪を作りつつある悪人である」という自己意識をもつ親鸞である。この親鸞の自己意識は、現在を末法時とする歴史的自覚に深く結びついている。三木は正像末三法の歴史観と現在を末法時とする歴史意識をめぐって『教行信証』化身土巻によって詳しく説いている。末法をめぐる仏説的解説はすべて遺稿に譲って、ここでは末法を人間における死を譬喩としていう三木の説き方をめぐって見てみたい。

「現在の意識は現在が末法であるという意識である。死を現在に自覚し、いかにこれに処すべきかという自覚が人生の全体を自覚する可能性を与えるごとく、現在は末法であるという自覚が歴史の全体を自覚する可能性を与えるのである。」死は決して継続する生の中間点ではない。それは生の絶対的な終わりであり、終極点である。だが病気とは病みながらも生が継続される中間点を意味している。三木は末法を死を譬喩としていうのである。死を譬喩とする末法とは、したがって病める時代をいうのではない。絶対的な終わりの時代をいうのである。だから三木は、「末法思想は死の思想のごときものである。それは歴史に関する死の思想である」というのである。さらに三木は、「死は主体的に捉えられるとき初めてその問題性を残りなく現すごとく、末法思想も主体的に捉えられるとき初めてその固有の性格を顕わにするのである」という。

これは深刻な言葉である。末法を語ることは死を語ることだ。末法としての現在としての歴史意識を語ること、あるいは末法時における存在の自覚を語ることとは、人間における「死の思想」を語ることだと三木はいうのだ。昭和のこの今を末法時と自覚し、そしてその自覚を「死の思想」として語り出すことは、遺稿という形でのみ可能であったといいうるかもしれない。だが三木清とは死についての思いを生涯持ち続けていた哲学者ではなかったか。三木は彼の「死の思想」をすでに「人生論」として語り出しているのだ。私は三木の『人生論ノート』を彼を読み直す上で最も重要な著述の一つと見ている。『人生論ノート』の第一章は「死について」であるのだ。いまここでの問題にも関連する文章を引いておこう。彼は死の絶対性の譬喩によって「過去」あるいは「伝統」を語ろうとしている。

「死は観念である。そして観念らしい観念は死の立場から生まれる。現実或いは生に対立して思想といわれるような思想はその立場から出てくるのである。」

「死の問題は伝統の問題につながっている。死者が蘇りまた生きながらえることを信じないで、伝統を信じることができるであろうか。」

「絶対的な伝統主義は、生けるものの生長の論理でなくて死せるものの生命の論理を基礎とするのである。過去は死にきつたものであり、それはすでに死であるという意味において、現在に生きているものにとつて絶対的なものである。半ば生き半ば死んでいるかのように普通に漠然と表象されている過去は、生きているものにとって絶対的なものであり得ない。過去は何よりもまず死せるものとして絶対的なものである。」

これは『人生論ノート』という書名に引きずられて本の頁を開いてみた読者を困惑させるような文章であるだろう。「死について」という第一章の原名は「死と伝統」であった。過去(あるいは伝統)が現在にそのまま生きている至上の国体主義が横溢する時代に、過去は死にきっていることによって絶対的であることをいう三木の反時代的な「死の思想」がもつ根源的な批判性は、「人生論」として許され、「人生論」として読まれることでその意味を失ったのである。三木は「過去」あるいは「伝統」が死にきったものとして、死とともに人間にとって絶対的であることをいう。死は絶対的であり、経験的な人間の生を超越する。死にきった「過去」とは、絶対的な、超越的な「過去」である。病み衰えながら、あるいは姿を変えて現在に生きている過去とは、過去ではないし、過去が今に生きているわけではない。ここには病み衰えた、変質した今があるだけである。では現在に絶対的な意味をもつ「過去」「伝統」とは何か。それは人間における「死」とともに絶対的で超越的な「過去」であり、「伝統」である。もしそれを「釈迦その人とその時代」といい、あるいは「大無量寿経の教法」というならば、『人生論』の人生論的「死の思想」は遺稿「親鸞」の末法論的「死の思想」に直ちに結びついてくるだろう。私は昭和13年(1938)の「死と伝統」という文章は、三木における親鸞的思考の深化の中で書かれたものだと思っている。

正法とは持戒の時代であり、像法は破戒の時代であり、末法とは無戒の時代である。無戒とは破戒以下である。破戒はなお守るべき戒法はある。無戒とはすでに戒法もない。「無戒者は戒法の存在すら意識しない。彼は平然として無慚無愧の生活をしている。無戒者は無自覚者である。」末法無戒の時代にあって、人は無戒であることに無自覚である。無戒の時に無戒に自覚的であることとは何か。それは可能なのか。「無戒は無戒としては無自覚である。かかる無自覚の状態は自覚的にならねばならぬ」という言葉は、親鸞に同一化した三木のものである。「無戒」において「無戒」であることの意味を問うこと、それは三木において「死」の絶対性において絶対的である「死」の意味を問うことであり、死にきった「過去」として「過去」の意味が問われることであった。昭和末法の時代における末法論的「死の思想」というべき三木独自の親鸞論はそこから展開される。

「無戒は持戒とともに破戒でないということにおいて、末法時は正法時に類似している。このことは末法時においては、持戒および破戒の時期である正法像法とは全く異なる他の教法がなければならぬことを意味する。」

この言葉は三木の次のような結論を導いていく。

「聖道門の自力教から絶対他力の浄土教への転換は親鸞によって末法の歴史的自覚に基づいて行われ、これによってこの転換は徹底され純化されたのである。」

三木はこの言葉を残して昭和20年9月に豊多摩刑務所の獄中で、末法の時代を刻印するような無惨な死を遂げた。その死を知ることが、私の三木の遺稿「親鸞」の読み直しをうながした。私は三木の「親鸞」がよみなおされることを願っている。だがそれが本当に読み直され、三木の思念がわれわれに再生するかどうかは、この時代をわれわれの内においても、外においても根源的な転換が遂げられねばならない末法の時代として自覚するかどうかにかかっている。

[本稿は私の『歎異抄の近代』(白澤社、2014)の三木清論を、姫路の山陽教区同朋会館で3月4日に行われた講演のために書き改めたものである。]

「思想史教室」からのお知らせ—4月のご案内 子安宣邦
*だれでも、いつからでも聴講できる「思想史の教室」です


*論語塾伊藤仁斎とともに『論語』を読む
4月25日(土)・通常と違い 午前10時〜12時にいたします 1 述而篇・1 2 子路篇・1
『論語』はどこからでも新しく読むことが出来ます
資料は当日配布いたします
会場:rengoDMS(連合設計社市谷建築事務所)JR飯田橋駅西口から徒歩5分

*
思想史講座—「〈大正〉を読む」
20世紀の〈帝国〉日本は大正に形成されたということができます。にもかかわらず大正は明治と昭和との間に陥没させたままです。遅まきながら大正の読み直し、再発見の作業を始めたいと思います。大正の読み直しは、戦後的日本の読み直しでもあると考えています。
*大阪教室:懐徳堂研究会
4月18
日(土)・13時〜15時
「大杉栄と二つの批判的先見性」
会場:梅田アプローズタワー・14階1402会議室

*東京教室:昭和思想史研究会
4
月11日(土)・13時〜16時
「大杉栄と二つの批判的先見性」
会場:早稲田大学14号館1054教室

*参考文献:松田道雄編・解説『アナーキズム』(現代日本思想大系16)
大杉栄「民主主義の寂滅」
多田道太郎編・解説『大杉栄』(日本の名著46)
大杉栄「無政府主義将軍 ネストル・マフノ」
岡義武編『吉野作造評論集』(岩波文庫)
*NHKカルチャー京都教室—「本居宣長とは誰か」
3月をもって終了いたしました。

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台湾での講演と討論会
現在の東アジア世界において「日本思想史の成立」をどのように考えるか
「台湾思想史の成立」の問題を向こうに見ながら問題提起をします
3月24日(火)午後2時〜5時
*台湾中央研究院にて

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新著刊行予定


『帝国か民主かーいま中国問題を考える」社会評論社、4月15日刊行予定
『仁斎学講義ー『語孟字義』を読む』ぺりかん社、5月10日刊行予定

「中国の衝撃」とその後ー〈もう一つの東アジア〉へ 子安宣邦


溝口雄三が『中国の衝撃』(東大出版会)を出版したのは2004年5月である。「中国の衝撃」とは、中国だけではない、アジアの近代世界史への繰り込みを軍事力をもって強制した「西洋の衝撃」
に対していわれたものである。「西洋の衝撃」をいうことは歴史家に、この衝撃によって始まったアジアの近代化過程を記述させる。それに対して「中国の衝撃」をいうことは、中国の独自的近代化過程を記述しながら、その大きな歴史的結実としての現代中国の存立によって、既存の西洋中心的な世界史認識の転換を促そうとするのである。ところで溝口の『中国の衝撃』が出た2004年には政治的大国中国は、同時に経済的な大国としても世界に存立しようとしていた。それゆえ溝口の書は、近い時期における超大国中国の出現の衝撃を予告するものであった。この「中国の衝撃」をわれわれは2012年秋の中国における反日暴動を通じてもろに体験することになった。

私はその12年の11月に、近代日本の中国に関わりをもった北一輝から竹内好、そして溝口雄三にいたる人びとの「中国論」の解読を『日本人は中国をどう語ってきたか』(青土社)として出版した。その最終章をなす原稿を書き上げたのがその年の9月22日であった。この最終章「現代中国の歴史的な弁証論」とは溝口雄三の『方法としての中国』と『中国の衝撃』をめぐるものであった。その結びをなす文章を書き終えたとき、私はふだん書くこともない擱筆の日付けを記した。すなわち「2012年9月22日擱筆」と。そこには2011年9月以来『現代思想』誌に連載してきた「中国論を読む」という私の思想史的作業がようやく終わったという思いが当然あった。だがそれ以上に、溝口の『中国の衝撃』をめぐって最終章を書き終えようとしていたそのときに、われわれは現実に「中国の衝撃」を受けているという暗合に、運命的とでもいいたい重いものを私は感じ取っていたからでもあった。その9月22日の新聞は、〈尖閣国有化〉という重大な政治的過誤の決定をくだした野田首相の民主党代表選における大差の再選を伝えるとともに、中国における領土問題をめぐる反日の動きのいっそうの拡大をも伝えていた。

日本政府の〈尖閣国有化〉に端を発した中国における激しい反日行動は、一部暴徒化したデモによる日系商業施設などの打ちこわしと掠奪などの暴力行為をも含んで、中国全土の主要都市で展開されていった。この反日的集団行動は9月18日をピークにして、当局の抑制によって沈静化された。だが沈静化されたのは、ただ民衆を含んだ反日デモという政治的な集団行動だけであった。むしろ反日の動きは文化分野など多方面に拡大していった。日本のわれわれはこの激しい反日的集団行動をテレビの画面によって、その成り行きに不安と怖れとを抱きながら見つめていた。だがこの反日デモを見つめているうちに、これはただ単に中国民衆における愛国的意志の自発的な表現といったものではないと思うようになった。ここに見えるのは民衆の愛国的意志というよりは、中国の強い国家的意志であるように思われた。

中国民衆の愛国的意志はその表現過程で暴力化することの予想を、中国当局は当然もっていたはずである。にもかかわらず生じた日系企業や工場の破壊にも及んだ大規模な暴動をどう考えたらよいのか。さらに不思議であったのは、あの毛沢東像を掲げたデモ隊のあり方であった。毛沢東像は〈愛国無罪〉を保証するものとして民衆によって掲げられるものではない。〈文革〉を思わせる毛沢東像の掲示は、〈愛国無罪〉というよりは〈造反有理〉の保証として共産党内分子によってなされたものであったであろう。中国において〈愛国運動〉としてのみ許されるデモなどの集団的政治行動は、民衆的暴動に転化する危険性をもつことはつねにいわれてきたことだ。さらに毛沢東像を掲げた反日的集団行動が見せたのは、〈愛国運動〉が党内的権力闘争を思わせる側面をも示しながらも展開されたということであった。ここから〈尖閣問題〉を中国共産党内権力闘争の文脈で読もうとする誘惑を生じさせた。中国の政権交代を間近にした時期であることもあって、日本でも党内権力関係が詳細に分析されていったりした。だが私はむしろ今回の中国における反日的集団行動が毛沢東像を国旗とともに正面に掲げながら、一部暴動化する民衆をも含み込んで、全国的規模で展開されたそのことに、総体としての中国共産党国家政府の〈尖閣問題〉をめぐる強い国家的意志を感じ取ったのである。それは民衆の暴動化に見るような国内的危機を背景にして、退くことは決して許されない中国の対外的な強い国家意志である。中国は本気であると私は思った。

テレビに映し出された激しい反日デモによってわれわれはすでに「中国の衝撃」を受け取っていた。そのデモを見直し、読み直しながら私はあらためて中国が本気であることを知って、いっそう強く「中国の衝撃」を感じた。私が受けたその衝撃感には、溝口の『中国の衝撃』の読後感が加重されている。私は溝口のこの書によって現代中国の存立を〈衝撃〉として見直したのである。溝口がいう「中国の衝撃」とは、アジアと中国の近代史を政治的、軍事的、そして認識論的にも規定してきた「西洋の衝撃」に対していわれるものである。溝口は西洋的基準によらない「中国の独自的近代」の成立を、中国史の内部から読み出そうとした。だが考えてみれば、これは異様な歴史的、思想的作業である。日本の中国学者が現代中国の歴史的アイデンティティを創出するともいえる作業をしているのである。溝口は現代中国を生み出す母胎として前近代的中国を歴史的に再認識していく。この歴史遡行的な中国的母型の再認識作業が、〈清朝〉すなわち〈清帝国〉を、現代中国の〈中華主義的国家〉の母型として再発見していくのである。私にとって驚きであり、〈衝撃〉であったのは、溝口による〈清朝〉の歴史的再評価であった。

「もっぱら否定的にみられてきた清朝こそは、いいか悪いかは今はさておくとして、新疆、内蒙古、チベットなどを統合または併呑しつつ現在の中国の版図へと拡張した王朝であり、また文学・美術についてももっとも高い水準に到達した、いかにも最後の王朝にふさわしい繁栄を築いた王朝である。そしてこの王朝の遺産こそが、よきにつけ悪しきにつけ近代中国にもっとも直接的に継承されているはずなのである。」(溝口『方法としての中国』東大出版会、1989)

これは現代中国における清朝再評価の先駆けをなすような文章である。現代中国ははっきりと清朝の帝国的な国家版図を継承している。尖閣諸島についての領有意識もそれに基づくものである。この清朝の再評価は〈中華民族主義〉的国家という帝国的な国家の自己認識を導いていく。〈中華民族〉とは種族的な民族概念ではない。中華的世界における漢民族を中心にして周辺・辺境の多様な少数民族を包括していく帝国的な政治的、文化的な民族概念である。この〈中華民族主義〉は現代中国の国家的イデオロギーとして、いまチベット、ウィグルに対する開発的同化という抑圧的暴力として発動されている。そしてこの中華民族主義的世界は文化的には中華文化圏、あるいは中華文明圏といわれる。ただ中華文明圏といえば朝鮮や日本、そしてヴェトナムをも含んだ環中国的な文明的世界が意味される。〈清朝=中華帝国〉は周辺諸国を包括する中華文明圏を構成していたのである。だから清朝の再評価的な想起は、中華文明圏をも想起することになるのだ。溝口はいま環太平洋圏・アメリカ圏・EU圏などと連関をもったものとして中華文明圏を想起すべきことを、日本への警告的意味をもこめながらいっているのである。

「もはや旧時代の遺物と思われてきた中華文明圏としての関係構造が、実はある面では持続していたというのみならず、環中国圏という経済関係構造に再編され、周辺諸国を再び周辺化しはじめているという仮説的事実に留意すべきである。とくに明治以来、中国経済的・軍事的に圧迫し刺激しつづけてきた周辺国・日本──私は敢えて日本を周辺国として位置づけたい──が、今世紀中、早ければ今世紀半ばまでに、これまでの経済面での如意棒の占有権を喪失しようとしており、日本人が明治以来、百数十年にわたって見てきた中国に対する優越の夢が覚めはじめていることに気づくべきである。」(溝口『中国の衝撃』2004)

ここにのべられているのは〈中華帝国〉的な言語による予言的事態である。「周辺国日本」に向けられた〈中華帝国〉の予言的警告が、溝口によって代弁されているのである。「これは不愉快な、しかし不気味な現実性をもった予言である」と、私はあの書の最終章に書いた。溝口が予言していた事態ははるかに早くやってきた。

私はこの溝口による〈中華帝国〉的予言に〈衝撃〉を受けた。溝口は現代中国が〈清朝〉帝国の再来ともいうべき〈中華民族主義的国家・中華帝国〉として存立しようとしていることをいっているのである。これは私にとって〈衝撃〉であった。その〈衝撃〉に、中国における〈尖閣問題〉をめぐって暴発する反日行動がもたらした〈衝撃〉を私は重ねていった。この二重化された〈衝撃〉を通じて、私は中国が本気であることを知ったのである。本気であるとは、ただ〈尖閣諸島/釣魚島〉の領有を中国が本気で主張していることだけをいうのではない。〈中華民族主義的国家〉としての国家的な存立に中国は本気であるということである。中国はチベットをめぐる国際的非難にもかかわらず、チベットの抑圧的同化を妥協することなく押し進めている。そしていま中国は〈大中華主義的国家〉にふさわしい領海と海洋権益とを〈核心的利益〉として主張しているのである。われわれが知らなければならないのはこのことである。チベットでも、ウィグルでも決して退くことのない中国は、ここでも退くことは決してないだろう。

野田前首相による〈尖閣国有化〉の決定を重大な政治的な過誤だと私はいった。彼は何を読み違えたのか。中国が本気であることを。これに本気である中国とは、〈大中華主義的国家〉として世界に、東アジアに存立しようとする中国である。この中国とは1989年6月4日の天安門事件による改革的希望の圧殺の上に築かれた政治的、経済的大国中国である。この大国中国は、いまや本気で、しかしいつでも暴動化する民衆を、あるいは周辺諸民族を抑えこみながら、〈大中華主義的国家〉中国たろうとしているのである。〈尖閣問題〉とは、この中国をわれわれの眼前に〈衝撃〉とともに登場させたのである。

〈領土問題〉は20世紀的な歴史問題の形をとり、その歴史問題の決着としての解決が求められたりしている。だが21世紀的現在のわれわれに突き付けられている日中・日韓の〈領土問題〉とは、決して1945年の問題でも、1970年代の問題でもない。われわれが眼前にする〈領土問題〉とは、21世紀の現代中国・現代韓国との間に生じている問題である。それは21世紀的中国と韓国とわれわれが本気で向かい合いながら、どのようにして東アジア的世界をこの世紀に再構築していくかを追求することの中でしか解決しないと私は考える。私がいま「中国の衝撃」をいうのは、21世紀的中国の存立にわれわれがまず正面することからしか、新たな関係の構築に向けての模索もなにもないからである。

私は以上のような文章を2012年12月の『現代思想』特集号「尖閣・竹島・北方領土─アジアの地図の描き方」に書いた。それは中国、韓国、そして日本でも政権の交代がなされようとする時期であった。この政権交代によって膠着した日中・日韓の政治関係に何らか打開の道がつけられることが期待された。だがそれ以後日中・日韓の国家間関係はむしろいっそう国家主義的、民族主義的対立の度合いを深めていったように思われる。歴史修正主義者である安倍という政治家は、アジアに本質的なシンパシーをもっていないと私は思っている。彼はただ中国に対する日米の政治的・軍事的・経済的同盟を軸にした対抗的〈帝国〉の構築をしか考えようとはしていない。「中国の衝撃」のその後の東アジアは、〈東アジア〉をいうことさえ空々しいような緊張と対立の中にある。

だがこの東アジアにおいて〈もう一つの東アジア〉への可能性をわれわれに開いたのは、昨年の春の台湾における学生・市民による中台服務貿易協定に反対する〈太陽花(ひまわり)運動〉であった。そして同じ昨年の秋には香港で2017年に予定されている行政長官選挙をめぐる中国側が設けた反民主的な規制に抗議する学生らは数万人で香港の中心部を占拠した。この台湾の学生たちもやがて占拠していた立法院から撤退し、香港の学生たちも中心市街の占拠を解いていった。だがそれは決して運動の敗北を意味するものではなかった。台湾市民の、香港市民のほんとうの自立的運動がそこから始まったのであるし、〈もう一つの東アジア〉への可能性がそこから開かれたのである。そしてさらに彼らの運動は日本のわれわれに、沖縄における反基地闘争をただ沖縄県民、現地住民にゆだねていることへの批判を含む大きな問題提起であったと私は思っている。すなわち沖縄の〈民〉の抵抗運動もまた〈もう一つの東アジア〉を開く〈東アジアの民〉の連帯的運動の強い一環をなすものではないのかという問題提起である。

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