遺稿「親鸞」から三木清を読む 子安宣邦
1 三木との出会い
私はこの10年来、思想史的関心をもっぱら昭和の戦前から戦中期に向けてきた。そして「靖国と国家神道」、昭和の「アジア観」、「近代の超克」、「和辻倫理学」などの主題を構成しながら私の思想史的作業を進めていった。付け加えていえば,それ以降の思想史的作業の主題となったのは近代日本の「中国論」であり、そして「歎異抄の近代」であった。この思想史的作業の過程で私は三木清に出会うことになった。最初は「近代の超克」論で斜めにかするように出会い、「歎異抄の近代」論でまともに彼に出会うことになった。
昭和10年代、中国における〈事変〉という日本の戦争が拡大し続けていった時期、三木は日本の論壇の寵児であった。彼は近衛首相を支えるブレイン集団「昭和研究会」の有力なメンバーとして、蝋山政道とともに〈事変〉の収拾策としての「東亜新秩序」構想の理念的構成者になっていった。この時期の諸雑誌に連続して発表された三木の論説は、ほとんどこの「東亜新秩序」構想の歴史哲学的敷衍、すなわち(世界史的意味づけ)というべきものであった。私たちがいまこれらの三木の論説に見るのは、戦争に突き進む時局の添え物になってしまっている哲学的意義づけの言説の無残ともいうべき姿である。三木の名を近衛の「東亜新秩序」構想とともに知る私は、西田門下の英才三木をそれ以上に知ろうとも、読もうとも思わなかった。私の中にあったのは時流、時局の中であたら才能を使い果たしていく三木という哲学者の無残な姿であった。
私は2012年の10月から近代における『歎異抄』を清沢満之から読み直す作業を始めた。この作業を通じてあらためて三木清にまともに出会うことになったのである。
2 遺稿「親鸞」と三木の死
清沢満之、暁烏敏、倉田百三とたどっていった私の「歎異抄の近代」は昭和に入り、三木清の遺稿「親鸞」を読むことが次の課題となった。私は三木の遺稿「親鸞」とは、彼の死(獄死)後に遺された未完の原稿であるかのように思っていた。だがそれは甘ったるい私の想像であった。三木は日本の終戦の年、昭和20年(1945)の9月26日に東京中野の豊多摩刑務所で獄死した。当時の刑務所は拘留者に執筆を許すような場所ではなかった。遺稿「親鸞」は三木の死後、疎開先の埼玉県鷲宮町の住居から見出されたものであった。三木はその前年の9月に娘洋子を連れてその地に疎開していた。遺稿「親鸞」がいつ書かれたのかは明らかではない。三木は昭和20年3月に検挙されるが、その前年、埼玉の鷲宮に疎開したその年の暮れを三木は「「親鸞」の筆を起して書き進みつつ年を越したように思われる」と『全集』の「年譜」は記している。
三木の遺稿「親鸞」は、終戦と彼の死の翌年昭和21年1月に『展望』創刊号に掲載され、彼の非業の死とともに全国の読者に知らされていった。この遺稿「親鸞」は『全集』などによって読むことはできるが、私は『展望』創刊号に最初に発表された姿で見たいと思った。ちなみに私の思想史作業は、ある言説の成立の現場に立ってみる、あるいは思想の成立をそこで追体験してみるといった現場主義を方法的立場としてもっている。これが対象についての先入見を改めさせ、新たな発見に私を導いているのである。
私は『展望』の創刊号を見に国会図書館に行った。昭和21年1月の創刊号を含む最初期の『展望』誌は国会図書館の憲政資料室が収蔵する占領軍による検閲図書に含まれていた。私はその資料室で敗戦時の日本を追体験するようにマイクロ・フィッシュで読みにくい『展望』創刊号を見ていった。三木の遺稿「親鸞」を『展望』創刊号に載せたのは、京大哲学科の三木の後輩であり、彼を敬慕する唐木順三であった。唐木は「親鸞」を載せ、その後に「遺稿「親鸞」について」という文章を付している。その冒頭で唐木は、「拘置所内では執筆は禁止されていたのであるから、埼玉の疎開先に残されたこの『親鸞』の未定稿が恐らく三木さんの絶筆であろう」といっている。そして遺された原稿の構成を説明し、その最後をこういう言葉で結んでいる。
「私はこの文章を写しているうち、故人の息吹を直々に感ずるようなところ、あの岩乗な姿が眼の前に浮び上って来るような箇所に度々逢着した。そういう点から言っても、この未定稿は単なる研究論文の不完全な一部というに尽きるものではない。故人の体験的なものを多分に含んだ貴重な記録であると思う。」
ここで唐木がこの遺稿が「故人の体験的なもの」を含むといっていることは大事な指摘である。三木は遺稿「親鸞」の「一 人間性の自覚」の冒頭で、「親鸞の思想は深い体験によって滲透されている。これは彼のすべての著作について、『正信偈』や『和讃』の如き一種の韻文、また仮名で書かれたもろもろの散文のみでなく、特に彼の主著『教行信証』についても言われうることである」といっている。三木が親鸞の思想を「体験的」というその語を、唐木は三木自体の思想についていうのである。
ところで遺稿「親鸞」を戦後におけるその最初の発表時の姿で見ることは、三木の獄中における死と残された「親鸞」とを、戦後にそれを知り、それを受け取った人びとの「体験」において見ることでもある。唐木はこの「親鸞」を「三木さんの絶筆」として受け取り、これを『展望』の創刊号に載せたのである。そしてその第二号に「三木清といふひと」という唐木におけるまさしく「体験」としての「三木清」について書くのである。『展望』創刊号の誌上の「親鸞」を「具体的」に見ることは、三木と遺稿「親鸞」とを昭和20〜21年の人びとの体験において見ることである。ちなみに「体験的」「現実的」「具体的」であることは三木において「人間的」であることのシノニムである。唐木は「三木といふひと」を三木の獄死の知らせを受け取ったものの収めようのない憤りの体験として書き始めている。「終戦後四十日もたつて、・・・三木さんの獄死が報ぜられた。これはまさにあつけにとられた形で、言ひやうのない憤りを吐き散らさねばおさまらないものがあった。」その憤激は、「拘置所で疥癬といふ野蛮な皮膚病をうつされ、それが昂じて急性腎臓炎をよびおこし」て、現代日本の稀にみる知識人のいのちを奪った「戦争下の日本の異常な馬鹿らしさ」に向けられるものであった。唐木が憤りとともに、三木の最後の様子を伝える言葉をここに引いておこう。遺稿「親鸞」を体験的に読むことは、三木の惨酷な死を追体験的に知ることと切り離せないと思うからである。
「九月二十六日の朝は食欲がないといふので食事をとらなかつた由、獄医は一応は診たが危険はないと言つて外出してしまつたといふ。そしてその日の午後三時に死んでしまったのである。臨終には誰も居合はせず、ベッドから降りて床に倒れたままこときれてゐたさうで、その倒れ方から察するに、尿意でも催ふして、静かにベッドを離れて、歩いてゐる途中で倒れたといふのではなく、恐らく苦しさの余りベッドに立上り、そのままガックリと床にころがりおちて、そのままになつたらしいといふ話であつた。」
三木の死の惨さは唐木の憤りとともに伝えられる。三木の遺稿「親鸞」は、終戦40日後の三木の無残な獄死とともに人びとに伝えられ、受け取られたのである。
2 パスカルと親鸞
私はとりあえず遺稿「親鸞」を『全集』本によって読んでいった。私は親鸞の末法論をめぐる三木の力のこもった独自の歴史論的読み方に感銘を受けた。とともにこれは三木自身のための「親鸞論」であるように思われた。「親鸞論」を「宗教的人間論」といいかえてもよい。私がここで「三木自身のための」というのは、昭和の知識的世界の読者人に向けての旺盛な教養主義的な哲学的論説家という側面でしか三木を私は見ていなかったからである。私はこの遺稿「親鸞」を読んで、私はすぐに彼の処女作品である『パスカルに於ける人間の研究』を思い起こした。三木について読むことも、知ることも少ない私ではあるが、しかしこの作品が彼において特異な位置を占めるものであることは知っていた。それは著者の愛着する作品でありながら、著者の著述の主流からはずれた作品とみなされてきた。これは〈私的〉な性格をもった著作とみなされてきたのである。〈私的〉とは、これが自己の人間と生のあり方への反省に立つものであることを意味している。これを〈人生論〉的といってもいい著作である。三木は己れの処女作として哲学的な〈人生論〉的著作をもっているのだ。三木は自分自身のために「パスカル論」を書いたのである。私が遺稿「親鸞」を読んですぐに彼の『パスカルに於ける人間の研究』を思い起こしたのは、両著作がもつこの性格によっている。
だが奇妙なことに三木自身の強い愛着にもかかわらず『パスカルに於ける人間の研究』に対する戦後の論者たちの評価は低い。三木のパスカルへの執着は彼の人生論的な感傷主義に由来するとされたり、彼のハイデッガーや親鸞への執着とともに三木における不可解な暗部をなすとされたりしてきた。そしてこの否定的評価は、ドイツ留学中のリッケルトのゼミナールにおける三木の報告テーマまで記載する詳細な「三木清年譜」(久野収編『三木清』現代日本思想大系33)が、彼のパスカルをめぐる論文名も、その発表時も、さらに『パスカルに於ける人間の研究』の刊行をも記載しないことに行き着くことになるのだろう。この「年譜」はしたがって『人生論ノート』の刊行をも記載しないことになるのだ。だがこのことは逆に戦後の論者たちによって消されようとした「パスカル論」から「親鸞論」にいたる三木の「自分自身のため」にする自己反省的著述の重要性を教えるものだろう。もし三木を読み直すなら、そこからなされねばならないことを教えているのである。
『展望』創刊号に三木の遺稿「親鸞」を載せた唐木順三が第二号に「三木清といふひと」という文章を書いていた。この文章は三木の獄死の実際だけではない、遺稿「親鸞」を三木に位置づける上で貴重ないくつものことを教えてくれた。三木における「パスカル論」と「親鸞論」との結びつきを私に確信させたのもこの文章である。唐木は三木の「我が青春」(『読書と人生』所載)から次の文章を引いていた。
「京都へ行ったのは、西田幾多郎先生に就いて学ぶためであつた。高等学校時代に最も深い影響を受けたのは、先生の『善の研究』であり、この書物がまだ何かやらうかと迷つてゐた私に哲学をやることを決心させたのである。もう一つは『歎異抄』であつて、今も私の枕頭の書となってゐる。最近の禅の流行にも拘らず、私にはやはりこの平民的な浄土真宗がありがたい。恐らく私はその信仰によつて死んでゆくのではないかと思ふ。後年パリの下宿で――それは二十九の年のことである――『パスカルに於ける人間の研究』を書いた時分からいつも私の念頭を去らないのは、同じやうな方法で親鸞の宗教について書いてみることである。」
パスカルを書いたと同じ方法で親鸞を書いてみることは、パスカルを書いた29歳の時から今にいたるまで彼の念頭をいつも去らない強い思いであるというのである。「同じ方法」でというのは、人間学的解釈学的方法でということであろうか。だが親鸞を三木が持ち続けているのは、ただ方法論的関心からすることではない。『歎異抄』が彼の枕頭の書であるというのは、親鸞という信仰者が三木という人間の根底的な関心としてあり続けていたということである。それを〈宗教的関心〉としていうならば、三木とは根底に〈宗教的関心〉を持ち続けた哲学者であり、昭和前期の一時代を風靡した論説家でもあったということである。そしてこの三木によって、彼以外のだれもいうことのないような言葉がいわれるのである。「恐らく私はその信仰によつて死んでゆくのではないかと思ふ」という言葉である。「その信仰」とは親鸞の絶対他力の信仰である。唐木の文章によって三木の獄死の実際をたどっていた私は、唐木が引く三木の回想的読書論中のこの言葉に接して衝撃を受けた。この文章は彼の獄中の死の四年前のものである。これはあたかも四年後の、「親鸞」を書き遺すようにして強いられた獄中における己れの死を予想していたかのようである。遺稿「親鸞」は彼の死と分かちがたいと私は思った。
三木が親鸞の信仰による己れの死について書いたのは44歳の時である。肉体的に健全である人間がこの年齢で自分の死について書くのは、いまの高齢社会からすれば異様であるだろう。だがすでに十代で死の決意を余儀なくされた昭和戦時期においてこのことは少しも異様ではない。むしろこれを異様ではないとした昭和戦前ー戦中期という時代こそが根本的に異様なのであろう。この異様な昭和という時代の中に三木は、人間が「慈悲(宗教)の秩序」に至るべきことの必然をパスカルによる人間存在の解釈学的分析によって導きながら帰ってきたのである。昭和戦前ー戦時期という時代を風靡するような三木の社会的な言論的活動が始まっていく。だがその三木の心底にあのパスカルとともに親鸞を同じ方法をもって書きたいという願いはいつも持ち続けられていたのである。それは己れの死についての思いをいつも持ち続けていたことでもある。三木清とは死についての思いを生涯持ち続けていた哲学者であったと私は考えるのである。彼は自らいうように宗教的人間なのである。
3 私は宗教的人間である
昭和5年(1930)5月、三木は日本共産党に資金を提供したという嫌疑を受けて警視庁に検挙された。いったん釈放されたが、7月に起訴され11月中旬まで豊多摩刑務所に拘留された。判決の結果は執行猶予となった。出所の2ヵ月ほど前に三木は担当の戸沢検事の求めに応じて手記をしたためて提出した。それが遺稿「親鸞」とともに『全集』第18巻に載る「手記」である。「手記」の日付けは昭和5年9月3日となっている。この「手記」は事柄の性格上、三木のマルクス主義に対する自分の立場の弁明という性格をもっている。これを「転向」の文章と見るかどうかは、読者の判断にまかせられることだが、ここにのべられているマルクス主義批判は三木の既存の公表された文章上にすでに見られることである。『全集』の解説者桝田啓三郎は、「手記」において三木は「その根本的な立場をいささかも歪曲したり虚飾したりすることなく、著者の哲学思想とマルクス主義哲学との異なりを率直かつ簡明に述べている」といっている。三木はこの「手記」の冒頭で、自分がマルクス主義者になることを不可能ならしめることの究極的な理由は、彼自身が「元来宗教的傾向をもつた人間」であることにあるというのである。
「先づ最初に云つておかう。私は元来宗教的傾向をもつた人間である。私はこのことを単に断言するのでなく、私の著書『パスカルに於ける人間の研究』がそれに対する立派な証拠を与へてゐる筈である。そこにはパスカルに対する私の解釈を通じて私の宗教的感情が流れてゐる筈だ。そしてこの私の宗教的な気持ちこそが私を究極に於てマルクス主義者たることを不可能たらしめるところのものの一つである。」
三木は己れ自身を宗教的人間だというのである。三木はそのことをこの「手記」では彼がマルクス主義者となることの不可能な理由としていっている。だが彼の愛着する『パスカルに於ける人間の研究』をその明白な証拠としていう宗教的人間であることの自己主張は、世間が彼に着せ、彼もまた被っていったものが仮装にすぎないことをいおうとしているようだ。三木は宗教的人間である己れ自身を内に抑えて生きざるをえなかった。彼が宗教的人間であることをもう一度、そして最終的に証明すべき「親鸞」論を、三木は遺稿として残さざるをえなかったのである。それはなぜか。そう問うことによって三木の読み直しが始まるのである。私はその第一歩を始めたにすぎない。
4 「親鸞」―末法時の歴史的自覚
三木は親鸞には無常感はないといっている。これは親鸞についての重要な指摘である。「無常感はそのものとしては宗教的であるよりも美的である」という三木は「どこまでも宗教的であった」親鸞を見出そうとする。宗教的である親鸞とは無常感よりも罪悪感としての自己意識を強くもつ親鸞である。「自己は単に無常であるのではない、煩悩の具わらざることのない凡夫、あらゆる悪を作りつつある悪人である」という自己意識をもつ親鸞である。この親鸞の自己意識は、現在を末法時とする歴史的自覚に深く結びついている。三木は正像末三法の歴史観と現在を末法時とする歴史意識をめぐって『教行信証』化身土巻によって詳しく説いている。末法をめぐる仏説的解説はすべて遺稿に譲って、ここでは末法を人間における死を譬喩としていう三木の説き方をめぐって見てみたい。
「現在の意識は現在が末法であるという意識である。死を現在に自覚し、いかにこれに処すべきかという自覚が人生の全体を自覚する可能性を与えるごとく、現在は末法であるという自覚が歴史の全体を自覚する可能性を与えるのである。」死は決して継続する生の中間点ではない。それは生の絶対的な終わりであり、終極点である。だが病気とは病みながらも生が継続される中間点を意味している。三木は末法を死を譬喩としていうのである。死を譬喩とする末法とは、したがって病める時代をいうのではない。絶対的な終わりの時代をいうのである。だから三木は、「末法思想は死の思想のごときものである。それは歴史に関する死の思想である」というのである。さらに三木は、「死は主体的に捉えられるとき初めてその問題性を残りなく現すごとく、末法思想も主体的に捉えられるとき初めてその固有の性格を顕わにするのである」という。
これは深刻な言葉である。末法を語ることは死を語ることだ。末法としての現在としての歴史意識を語ること、あるいは末法時における存在の自覚を語ることとは、人間における「死の思想」を語ることだと三木はいうのだ。昭和のこの今を末法時と自覚し、そしてその自覚を「死の思想」として語り出すことは、遺稿という形でのみ可能であったといいうるかもしれない。だが三木清とは死についての思いを生涯持ち続けていた哲学者ではなかったか。三木は彼の「死の思想」をすでに「人生論」として語り出しているのだ。私は三木の『人生論ノート』を彼を読み直す上で最も重要な著述の一つと見ている。『人生論ノート』の第一章は「死について」であるのだ。いまここでの問題にも関連する文章を引いておこう。彼は死の絶対性の譬喩によって「過去」あるいは「伝統」を語ろうとしている。
「死は観念である。そして観念らしい観念は死の立場から生まれる。現実或いは生に対立して思想といわれるような思想はその立場から出てくるのである。」
「死の問題は伝統の問題につながっている。死者が蘇りまた生きながらえることを信じないで、伝統を信じることができるであろうか。」
「絶対的な伝統主義は、生けるものの生長の論理でなくて死せるものの生命の論理を基礎とするのである。過去は死にきつたものであり、それはすでに死であるという意味において、現在に生きているものにとつて絶対的なものである。半ば生き半ば死んでいるかのように普通に漠然と表象されている過去は、生きているものにとって絶対的なものであり得ない。過去は何よりもまず死せるものとして絶対的なものである。」
これは『人生論ノート』という書名に引きずられて本の頁を開いてみた読者を困惑させるような文章であるだろう。「死について」という第一章の原名は「死と伝統」であった。過去(あるいは伝統)が現在にそのまま生きている至上の国体主義が横溢する時代に、過去は死にきっていることによって絶対的であることをいう三木の反時代的な「死の思想」がもつ根源的な批判性は、「人生論」として許され、「人生論」として読まれることでその意味を失ったのである。三木は「過去」あるいは「伝統」が死にきったものとして、死とともに人間にとって絶対的であることをいう。死は絶対的であり、経験的な人間の生を超越する。死にきった「過去」とは、絶対的な、超越的な「過去」である。病み衰えながら、あるいは姿を変えて現在に生きている過去とは、過去ではないし、過去が今に生きているわけではない。ここには病み衰えた、変質した今があるだけである。では現在に絶対的な意味をもつ「過去」「伝統」とは何か。それは人間における「死」とともに絶対的で超越的な「過去」であり、「伝統」である。もしそれを「釈迦その人とその時代」といい、あるいは「大無量寿経の教法」というならば、『人生論』の人生論的「死の思想」は遺稿「親鸞」の末法論的「死の思想」に直ちに結びついてくるだろう。私は昭和13年(1938)の「死と伝統」という文章は、三木における親鸞的思考の深化の中で書かれたものだと思っている。
正法とは持戒の時代であり、像法は破戒の時代であり、末法とは無戒の時代である。無戒とは破戒以下である。破戒はなお守るべき戒法はある。無戒とはすでに戒法もない。「無戒者は戒法の存在すら意識しない。彼は平然として無慚無愧の生活をしている。無戒者は無自覚者である。」末法無戒の時代にあって、人は無戒であることに無自覚である。無戒の時に無戒に自覚的であることとは何か。それは可能なのか。「無戒は無戒としては無自覚である。かかる無自覚の状態は自覚的にならねばならぬ」という言葉は、親鸞に同一化した三木のものである。「無戒」において「無戒」であることの意味を問うこと、それは三木において「死」の絶対性において絶対的である「死」の意味を問うことであり、死にきった「過去」として「過去」の意味が問われることであった。昭和末法の時代における末法論的「死の思想」というべき三木独自の親鸞論はそこから展開される。
「無戒は持戒とともに破戒でないということにおいて、末法時は正法時に類似している。このことは末法時においては、持戒および破戒の時期である正法像法とは全く異なる他の教法がなければならぬことを意味する。」
この言葉は三木の次のような結論を導いていく。
「聖道門の自力教から絶対他力の浄土教への転換は親鸞によって末法の歴史的自覚に基づいて行われ、これによってこの転換は徹底され純化されたのである。」
三木はこの言葉を残して昭和20年9月に豊多摩刑務所の獄中で、末法の時代を刻印するような無惨な死を遂げた。その死を知ることが、私の三木の遺稿「親鸞」の読み直しをうながした。私は三木の「親鸞」がよみなおされることを願っている。だがそれが本当に読み直され、三木の思念がわれわれに再生するかどうかは、この時代をわれわれの内においても、外においても根源的な転換が遂げられねばならない末法の時代として自覚するかどうかにかかっている。
[本稿は私の『歎異抄の近代』(白澤社、2014)の三木清論を、姫路の山陽教区同朋会館で3月4日に行われた講演のために書き改めたものである。]