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子安宣邦のブログ -思想史の仕事場からのメッセージ-

2018年08月

子安宣邦

*だれでも、いつからでも聴講できる思想史講座です。
*「明治維新150年」がいわれています。「明治維新」と「日本近代」との当たり前のこの結びつきを読み直してみようと思います。この読み直しを私に促したのは津田左右吉の明治維新観です。津田は維新に国民的変革としての正当性あるいは正統性を認めませんでした。この維新観は私に「維新と日本近代」との読み直しの可能性を与えました。この大きな課題に半世

*「明治維新と日本近代」は9月からしばらく「国体」の問題をめぐって考えたいと思っています。まずはじめに「国体」概念の創出をめぐって考えます。

*論語塾は「鬼神論」をテーマにして新しい講座を始めました。「鬼神」とは「祖霊」であり、「霊魂」でもあります。これを「祖霊」といば鬼神論とは祖先祭祀を基礎づける論の性格をもち、これを「霊魂」といえば人の生と死、生前と死後とを包括した宇宙論の性格をもちます。この鬼神論を考える前提として『朱子語類』を読み始めましたが、次第に後者、すなわち『朱子語類』によって朱子の宇宙論的哲学世界を読むことが論語塾の中心的課題になりつつあります。これがどこに導くか講座の成り行きに任せたいと思っています。

*論語塾は上のような趣旨で昨秋以来5回の講座を行ってきました。私は大阪の梅田で、東京の早稲田で日本近代をめぐって今話しております。私はその際、この近代を批判的に読み直す外部として「江戸」を見てきました。「江戸」を方法的視座とすることで私は「日本近代」を読み直してきました。この作業は同時に「江戸」を忘れ去ってはならないものとして再発見させました。仁斎の『論語古義』とはそのようにして再発見されたものです。近代日本人が見出すことの出来ない孔子が仁斎によって見出されています。私は近代日本人が明治維新・文明開化とともに一生懸命に忘れ去ろうとしてきた思想世界とは何かを確かめてみたいのです。前近代の東アジアの思想世界とは朱子学的世界です。この朱子学を江戸時代の先人の跡を践みながら自前で読んで行きたいと思っています。
*会費は実費(会場費・テキスト代)を頂戴します。
*この会には何の入会規定もありません。当日出席した人が会員です。ご自由にご参加下さい。


*9月の講座

*
思想史講座―「明治維新と日本近代」

*大阪教室:懐徳堂研究会:9月の会場は梅田のアプローズタワーです。

9月15日(土)・13時00分〜15時10分

「国家」の創出(その一)
ー大熊信行『国家悪』を読む

*資料は当日配布します。

参考文献:大熊信行『国家悪』潮出版社、吉本隆明『高村光太郎』講談社文芸文庫。

会場:アプローズタワー関西学院大学14階1401会議室阪急梅田・茶屋町口下車3分


*東京教室:昭和思想史研究会

9月8日(土)・13時〜15時30分
「国家」の創出(その一)
ー大熊信行『国家悪』を読む

*資料は当日配布します。

参考文献:大熊信行『国家悪』、吉本隆明『高村光太郎』講談社文芸文庫

会場:早稲田奉仕園・スコットホール2F・222号室

早稲田奉仕園はバス「馬場下」下車、穴八幡宮の裏手

*論語塾―「鬼神論」と『朱子語類』を読む

『朱子語類』と荻生徂徠『弁名』の「緒言」「道」「天命帝鬼神」章の講読を行います。

9月22日(土)13時〜15時30分

1 『朱子語類』を読むー巻一「理気・上」
2 荻生徂徠『弁名』「緒言」「道」


資料(テキスト・訓読文・訳文など)は当日配布します。

参考資料:子安『徂徠学講義』岩波書店。三浦国雄『「朱子語類」抄』講談社学術文庫。

会場: rengoDMS(連合設計社市谷建築事務所)JR飯田橋駅西口から徒歩5分


「国家主義の誘惑」を見てー「国体論」の疑問 子安宣邦

映画「国家主義の誘惑」の前宣伝にネット上で一役買いながら、映画そのものを見ることをしないのは無責任だと思い、猛暑の中を上映館「ポレポレ東中野」に行ってきた。もう数日前から上映は始まっていながら、ネット上にこの映画をめぐる反応がないのが気になっていた。それにこの映画の宣伝中に白井聡の名前がやたらにあることも私には気になることであった。月曜の昼下がりにもかかわらず入場者はかなり多かった。
「今日は北朝鮮はミサイルを発射した。こういう報道がありますが、とんでもない話であります」という安倍の街頭演説からこの映画は始まった。これを見て即座に私は自分の思い違いを覚らされた。私はわざわざフランス語版"Japon,La Tentation Nationaliste" として作ったこの映画に、「日本国家主義」へのわれわれが見ることのない新鮮な切り口を期待した。だがこれは全く私の思い違いであった。
一言でいってしまえば、この映画は白井の「菊と星条旗」を映像化したものにすぎない。その結果、「国家主義の誘惑」は下手で安上がりな反安倍的イデオロギー映画になってしまった。こんな映画で安倍はビクともしまい。これはせいぜい白井聡と「菊と星条旗」の宣伝になっただけではないのか。だが「菊と星条旗」の映像化としてのこの映画の失敗は、「菊と星条旗」を副題とした白井の『国体論』そのものの問題をあらわに見せてくれた。
「戦前のレジームの根幹が天皇制であったとすれば、戦後レジームの根幹は、永続敗戦である。永続敗戦とは、「戦後の国体」であると言ってもよい」(『永続敗戦論』)と白井は、戦前的国家・国民的体制も戦後のそれも「菊と星条旗」と指標的中心を異にしながら、顕教・密教的な構造的性格を共にしている「国体」として再構成する。「要するに、天皇にとって安保体制こそが戦後の「国体」として位置づけられたはずなのである」(『昭和天皇・マッカーサー会見』)という豊下楢彦の言葉によって白井は、「永続敗戦は「戦後の国体」そのものになった」ことを理解する。かくて20世紀の超国家主義的「靖国日本」の実現も21世紀の歴史修正主義的「靖国日本」への再生要求もともに「国体」の名をもってとらえられる。かくて戦前・戦後日本の国民国家的構成体はともに「菊と星条旗」の「国体」として解釈的に再構成されるのである。それはまさしく「国体論」という構造主義的な解釈的な再構成作業である。戦後の対米的政治史・外交史についての鋭利な解釈は、ここではすべて「星条旗の国体」論の構成のために費やされることになるのだ。
こうしてベストセラー『国体論ー菊と星条旗』は成立する。そしてこの書とともに「国体」はもう一度時代のタームになったようだ。だがこれが時代のタームになったとき、20世紀の比類無き天皇制的全体主義国家日本の「国体」も21世紀の世界史的な後ろ向き的国家日本の歴史修正主義的「国体」も人びとはともに見失うことになるのではないか。
白井の本は終章にいたって腰砕けする。『永続敗戦論』も『国体論』も終章にいたって何でこんなことをいうのかと訝る文章に出会うことになる。『永続敗戦論』の末尾で白井は、「自国民への責任すら満足に追及できない社会は、共感度が薄くなりがちな他国民への責任の問題に本来的な意味で取り組む能力を持たない。歩くことすらできないのに走ることはできない」といっている。これは一体何だ、ほとんど唖然とする思いでこれを読んだ。さらにもっと驚くのは、『国体論』の末尾で
平成天皇の退位をめぐるお言葉についてのものである。このお言葉によって白井は、「アメリカを事実上の天皇と仰ぐ国体において、日本人は霊的な一体性を本当に保つことができるのか」という問いを自らにつきつけたことをいっている。「霊的な一体性」などという語彙が白井に存在することに私は驚く。これらの言葉はそれに先立つ著者の論述をすべてチャラにしてしまうような代物である。

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