[大正を読む]
なぜいま大正なのか・2
ー〈大衆社会〉の早期的成立 子安宣邦
1 〈大正〉と〈大衆社会〉の成立
大正7年(1918)7月23日、富山県魚津町などの米価騰貴に苦しむ漁民の妻女たちは米の他県への積み出しを止し、集団をなして役場や詰所に押しかけた。この事件が新聞によって伝えられると、8月10日から15日の間に全国の主要都市で米価値下げ要求の大衆行動や投機的米商人への襲撃などの騒動が発生した。8月中旬以降はさらに農村・地方都市、炭鉱地帯に波及し、各地に労働争議も続発した。南関東から北九州にいたる300カ所以上で騒動が起こり、政府は警察だけではなく軍隊も出動させ、9月17日までにこれを鎮圧した。この騒動への参加者は70万人以上といわれ、25000人以上が検挙され、7786人が起訴された。成田龍一は、逮捕者に「雑業層」の多いことから、「米騒動は、日比谷焼打ち事件以来の都市民衆騒擾の延長としての性格を持つ。あわせて、農村や工場、炭鉱などで、中流以下の階層の人びとの広範な参加があった。米騒動は、「民衆」の力を見せつけることになり、社会運動の局面のみならず、統治のうえでも大きな転機を作り出す。近代日本史上でもっとも大規模な社会運動のひとつ」(『大正デモクラシー』)であったといっている。寺内首相は辞任し、〈大正デモクラシー〉と等置される歴史的事件、すなわち原敬による最初の政党内閣が成立することになるのである。
〈大正デモクラシー〉はその発火点と結節点に大規模な〈民衆騒動〉をもっている。〈大正〉という時代の政治的遂行にも、それがとっていく政治的形態にも、〈騒動〉として時局への抗議を強力に、集団的に表現していく〈大衆〉が存在するのである。私がここでいう〈大衆〉とはまず成田が〈日比谷事件〉の騒動主体としていう都市下層「雑業層」の群衆である。〈米騒動〉ではそれに炭鉱坑夫が加わり、労働者が加わり、小作人が加わり、そして被差別部落の人びとも加わっていくのである。この都市下層の「雑業層」という群衆はもともとのあり方からすれば〈大衆multitude〉である。だがその群衆はいま〈大正〉という歴史的局面で集合し、暴力的な抗議の意志表示をする不特定の社会的集合体〈大衆mass〉となるのである。〈大正〉が〈大正デモクラシー〉と呼ばれる新たな政治的、社会的な特質をもった時代であるのは何よりも、その生存条件にかかわる局面ではいつでも騒擾主体となるような不特定の社会的集合体〈大衆〉の成立によるのではないか。この〈大衆〉の存立から社会問題が生まれ、政治が問われ、政治的遂行とその形態の変容が促されていくのである。〈大衆〉の存立が〈社会〉問題そのものを構成していくような〈大正〉とは、まさしく〈大衆社会〉の成立の時代だというべきだろう。
4 〈大衆社会〉論再考
〈大衆社会〉とは、資本主義の産業的段階から独占的段階への移行によって、構造的、機能的に変質化した資本主義社会の現実状況、たとえば既存の市民社会の外部的存在であった大量の労働者たちの国家社会体制への内部化、そこから起きる社会の大衆的平準化、大量生産と大量消費による生活様式の平均化、情報・交通手段の発達による文化の消費的な大衆的普及などの社会的形態の変化によって、政治学、社会学的概念として構成されたものである。この〈大衆社会〉論は、〈市民社会〉とその観念の崩壊という現実的事態に対応しながら展開される。戦後日本でマルクス主義系社会科学者との激しい論争を伴いながら〈大衆社会〉論を展開した松下圭一はこういっている。
「独占段階は、社会過程の原子化・機械化自体を実現していくことによって、社会形態の変化をもたらしたが、そのとき、自由・平等・独立な個人の原子論的機械論的構成をとっていた市民社会の観念は崩壊しなければならなかったのである。ここに「市民社会」に代わって新たに「大衆社会」の観念形成が日程にのぼってくる。」[1]
ここで松下の〈大衆社会〉論から引用したついでに、私の問題関心を刺激する松下による〈大衆社会〉論的言及を引いておきたい。これによって私の〈大正イデオロギー〉論の射程がどこに及ぶのかを見ていただきたい。
「しかも、テクノロジーの発達と大衆文化の下降定着は、各社会層の意識形態を平準化せしめていくとともに、国民的伝統、国民的利益、国民的使命において国民的公分母を確保し、ここに〈大衆〉の同調性が亢進する。・・・この〈大衆〉的同調性の内部に政党対立自体が吸収され、被支配層政党は急速に体制へと転化していく。」
「このような大衆的熱狂による政治的自由の完全な破壊をもっとも強烈に制度化したのがファシズムであった。ファシズムは政治的自由を完全に弾圧したが、けっして支配者(指導者)と被支配者(民族)の一致という意味でのデモクラシーに対立したのではなかった。むしろ組織され、制度化された大衆的喝采によって、ファシズムは支配を貫徹する。」
「しかも、国家と〈大衆〉とのデモクラシーを媒介とする意識形態上の接近は、独占段階における帝国主義戦争の危機によって自乗化される。ことに独占段階における戦争が、物的・人的資源を総動員する「全体戦争」として存在する以上、ナショナリズムは国民動員のために、一人一人の胸の奥にまであらゆる心理的コミュニケイション技術を総動員して、刻みこまれなければならない。」[2]
松下はこれを昭和の天皇制的ファシズム国家の成立を念頭にして書いているのか。そうではないヨーロッパの近代国家の〈大衆国家〉への変容と、その〈全体主義的国家〉への変質を書いているのである。われわれがここに昭和国家の〈全体主義的国家〉としての成立を読むことができるのは、1929年生まれの松下における〈全体主義的国家日本〉の体験がその記述に浸透しているからであろう。だが私は松下の「大衆国家論」のこの記述を、むしろ積極的に昭和日本の〈全体主義国家〉化の記述として読むべきだといいたい。ということは、〈大正〉を日本資本主義の独占段階における〈大衆社会・国家〉の成立を見ることによってはじめて、〈昭和〉の〈全体主義的社会・国家〉の成立を理解することができるからである。
しかし松下は〈大衆社会〉への移行の条件を戦前日本はすでに具えていながら、太平洋戦争の遂行がその移行を妨げたという。だがその〈全体戦争〉としての戦時的総動員体制という遺産のうえに戦後日本に〈大衆社会〉が成立することになると松下はいうのである。
「(戦前日本に大衆社会への移行の三条件はすでに具えられていたのだが、)天皇制の政治的弾圧によってそれがはらむ問題性を十分展開することができなかったけれども、いわゆる帝国主義戦争たる太平洋戦争をまがりなりにも「全体戦争」として遂行しえたのはこれらの三条件があったからこそである。すなわち生産・消費のマンモスのごとき統制・配給機構の成立、前線・銃後への巨大な大量動員、マス・コミュニケイションの駆使と言論統制を伴った国民精神総動員、翼賛政治動員というかたちで、天皇制ファシズムは、形態学的には天皇制「全体国家」として成立していったのである。この「全体戦争」こそが実に、戦後急速に日本を大衆社会化する諸条件の成熟に拍車を加えていたのであり、この「全体戦争」の遺産のうえに大衆社会は成立する。」[3]
戦後日本における〈大衆社会〉の成熟的な成立過程をいう松下のこの記述は重要である。この記述は私がいうように大正から昭和初期の戦前日本における〈大衆社会〉の早期的成立をむしろ証明しているのである。松下は〈大衆社会〉成立の三条件をいう。1は人口のプロレタリア化の急速な進展(人口構造の大衆化)、2はテクノロジーの発達による交通・情報網の拡大(大衆文化・都市的生活様式の普及)、3は普通選挙(大衆の政治参加・国民的統合)である。松下はこれらの三条件は大正・昭和戦前期にはすでに具えられていたといっている。この三条件を具えながらも〈大衆社会〉は戦前期には成立せず、「全体戦争」を経過してはじめて戦後日本に成立すると松下はいうわけだが、私はむしろこの三条件を具えて〈大衆社会〉は大正・昭和初期に早期的に成立したと見るべきだと考える。戦前日本に〈大衆社会〉が成立していたがゆえに、松下の言葉を借りていえば、日本はまがりにも「全体戦争」を遂行しえたのである。松下が「全体戦争」遂行の三条件としていっているのは、〈大衆社会〉成立の三条件の「全体戦争」遂行条件としての全体化をいっているにすぎない。そしてさらに松下は「全体戦争」による三条件の全体化が、戦後における〈大衆社会〉の成熟した成立をもたらすといっていることからすれば、松下のこれらの記述は、その意図に反して〈大衆社会〉の戦前期日本における早期的成立を証明してしまっているのである。
5 〈大正〉を読むことの意味
私は「東京騒擾」から始まる成田の『大正デモクラシー』を読んで、 〈大正デモクラシー〉論とは〈大正・大衆社会〉論ではないのかと思った。〈民衆騒擾〉から、〈社会問題〉〈社会改造〉〈社会政策〉論の成立、さらに〈大衆文化〉〈都市的生活様式〉の成立などなど。〈大正〉という時代を記述することは、〈大衆社会〉の成立過程を記述することではないのかと思った。だが私が『大正デモクラシー』の〈大正〉論を〈大正・大衆社会〉論として読んでいった、あるいは読もうとしたことの動機に松下の「大衆社会」論があったわけではない。松下の論は私の問題関心を事後的に根拠付け、論証し、〈大衆社会〉論的に整理するものとしてあったのであって、私の問題関心を事前に動機づけるものとしてあったわけではない。私の関心を動機づけたのはアーレントの「全体主義」論である。「全体主義運動は大衆運動であり、それは今日までに現代の大衆が見出し自分たちにふさわしいと考えた唯一の組織形態である」[4]というアーレントの「全体主義」論を読みながら私は、昭和日本の全体主義的ファシズム成立の前提条件をなすような〈大衆〉と〈大衆社会〉とは何だろうと考えてきた。成田の『大正デモクラシー』は最初の答えを私に与えてくれたのである。
〈日比谷事件〉という〈民衆騒擾〉から始められた成田の『大正デモクラシー』は、〈満州事変〉をもって終えている[5]。〈大正デモクラシー〉は〈大衆〉の国家的・国民的統合法(普通選挙法公布・1925年)を反国家的少数の排除法(治安維持法公布・1925年)とともに成立させて、まさしく〈全体戦争〉をなしうる日本の帝国主義的国家体制を整えて終わるのである。
私がこれからやろうとする「大正を読む」という思想史作業は、〈大正〉から早期的〈大衆社会〉の成立とその特質を読み出すことを課題とすることになる。だが〈大正〉を早期的〈大衆社会〉として見ることの意味とは何か。それが〈昭和〉の全体主義的国家と戦争とにもつ関係についてはすでにのべた。そしてそれが私の〈大正〉への関心をもっとも強く動機づけるものとなるだろう。
もし〈大正〉に〈大衆社会〉の早期的成立を認めるならば、日本の近代社会は〈市民社会〉の成立をみないうちに、あるいは未成熟なままに〈大衆社会〉化していったということになる。これは後進資本主義国が多かれ少なかれもたざるをえない近代化の特質である。もし〈大正デモクラシー〉をいうのなら、それは〈大衆社会的デモクラシー〉であり、近代化は〈大衆社会〉的近代化として遂行されていったことになる。そしてその結果を〈昭和近代〉として、〈昭和の全体戦争〉としてわれわれは受け取ったのである。〈昭和近代〉を問うてきたわれわれはもう一度〈大正〉から、あるいは〈大正〉を読まれなければならない。
松下は昭和戦後における〈大衆社会〉の成立を、大正・昭和初期に備えられる〈大衆社会〉的諸条件が〈全体戦争〉を経由して成熟した結果としてとらえていた。だが〈大正・大衆社会〉の早期的成立をいうならば、昭和戦後の〈大衆社会〉は大正とは違った歴史的、政治的条件におけるもう一度の、あるいは松下的にいえば成熟的再生としての成立だということになる。この二つの差異する歴史的、政治的条件に成立する二つの〈大衆社会〉を見ることは、〈大正デモクラシー〉と〈昭和戦後デモクラシー〉を連続としてではなく、その差異を見ることにかかわってくる。私が松尾らの〈大正デモクラシー〉を斥けるのは、彼らの見方はこの二つの〈デモクラシー〉の連続性に基本的に立っているからである。それは〈大正デモクラシー〉を正しく見ることができないだけでなく、〈昭和戦後デモクラシー〉をも見誤ることになるだろう。
〈大正デモクラシー〉は昭和の「全体戦争」を可能にする国民統合的国家を創り出すことをもって終わったのである。では〈大正・大衆社会〉とともに成立した社会救済・社会改革・社会運動の教説や思想(民本主義、社会主義、マルクス主義などなど)はこの〈大衆社会〉の帰結にどのような思想的関わりと思想的責任とをもつのか。〈昭和戦後デモクラシー〉を〈大正デモクラシー〉との連続性で見ることは、〈大衆社会〉的近代という日本近代の特質を見誤ったままに〈大正〉的社会運動、政治運動を、冷戦的な戦後世界の構造の中で再生、あるいは復興させてしまったことにかかわるだろう。
〈大正〉を読み直すこととは、〈昭和戦後〉をその反体制的思想と運動のあり方を含めて読み直すことでもあるのだ。なぜ現在の日本において社会主義も社会主義的政党も溶解してしまったのか。この21世紀のデモクラシーとは何であるべきなのか。私はこれらを問い詰める形で〈大正〉を読み直してみたい。
[1] 松下圭一「大衆国家の成立とその問題性」『現代政治の条件』中央公論社、1959。
[2] 引用は前掲松下「大衆国家の成立とその問題性」より。
[3] 松下「日本における大衆社会論の意義」『現代政治の条件』所収。
[4] ハナ・アーレント「全体主義」『全体主義の起源』3、みすず書房、1974.
[5] ただ成田は〈満州事変〉を新たな〈大衆〉的統合からなる帝国日本の行き着くところとして〈大正デモクラシー〉の終焉をいうのではなく、〈満州事変〉は〈大正デモクラシー〉の転換を促し、全体主義的な論調を作り上げてしまうものとしてその終焉をいうのである。成田は〈大正デモクラシー〉論を〈大正・大衆社会〉論として書きながら、〈大衆社会〉が〈全体主義国家〉形成にとってもつ意味を理解していない。