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子安宣邦のブログ -思想史の仕事場からのメッセージ-

2014年10月

「思想史教室」からのお知らせ—11月の予定 子安宣邦
*だれでも、いつでも聴講できる「思想史の教室」です


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論語塾伊藤仁斎とともに『論語』を読む
11月29日(土)・12時〜15時 1雍也篇2 2顔淵篇3
会場:rengoDMS(連合設計社市谷建築事務所)JR飯田橋駅西口から徒歩5分


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思想史講座—「〈大正〉を読む」
20世紀の〈帝国〉日本は大正に形成されたのです。にもかかわらず大正は明治と昭和との間に陥没させたままです。遅まきながら大正の読み直し、再発見の作業を始めたいと思います。
*大阪教室:懐徳堂研究会 11月22日(土)・13時〜15時
「〈大逆事件〉とは何であったのか」
会場:梅田アプローズタワー・14階1402会議室

*東京教室:昭和思想史研究会
11月15日(土)・13時〜16時
「〈大逆事件〉とは何であったのか」
会場:早稲田大学14号館10階1054教室

*参考文献:田中伸尚『大逆事件—死と生の群像』岩波書店
「自由と抵抗をめぐってー『大逆事件』と現在」
(『わだつみのこえ』133号、10年11月)


*
NHKカルチャー京都教室—「本居宣長とは誰か」


10月18日(土) 第7章 「宣長にとって『古事記』とは何か」
*テキスト:子安宣邦『本居宣長とは誰か』平凡社新書
*会場:京都教室:四条通柳馬場西入ル、四条SETビル3階


*韓国学術協議会(Korea Academic Research Council)の招聘による講演・ゼミナール:ソウル
講演:「東アジアと普遍主義の可能性」 11月7日
ゼミナール:「東アジア問題を今どう考えるか」11月6日


[大正を読む]

なぜいま大正なのか・2

ー〈大衆社会〉の早期的成立 子安宣邦

1 〈大正〉と〈大衆社会〉の成立

大正7年(1918)7月23日、富山県魚津町などの米価騰貴に苦しむ漁民の妻女たちは米の他県への積み出しを止し、集団をなして役場や詰所に押しかけた。この事件が新聞によって伝えられると、8月10日から15日の間に全国の主要都市で米価値下げ要求の大衆行動や投機的米商人への襲撃などの騒動が発生した。8月中旬以降はさらに農村・地方都市、炭鉱地帯に波及し、各地に労働争議も続発した。南関東から北九州にいたる300カ所以上で騒動が起こり、政府は警察だけではなく軍隊も出動させ、9月17日までにこれを鎮圧した。この騒動への参加者は70万人以上といわれ、25000人以上が検挙され、7786人が起訴された。成田龍一は、逮捕者に「雑業層」の多いことから、「米騒動は、日比谷焼打ち事件以来の都市民衆騒擾の延長としての性格を持つ。あわせて、農村や工場、炭鉱などで、中流以下の階層の人びとの広範な参加があった。米騒動は、「民衆」の力を見せつけることになり、社会運動の局面のみならず、統治のうえでも大きな転機を作り出す。近代日本史上でもっとも大規模な社会運動のひとつ」(『大正デモクラシー』)であったといっている。寺内首相は辞任し、〈大正デモクラシー〉と等置される歴史的事件、すなわち原敬による最初の政党内閣が成立することになるのである。

〈大正デモクラシー〉はその発火点と結節点に大規模な〈民衆騒動〉をもっている。〈大正〉という時代の政治的遂行にも、それがとっていく政治的形態にも、〈騒動〉として時局への抗議を強力に、集団的に表現していく〈大衆〉が存在するのである。私がここでいう〈大衆〉とはまず成田が〈日比谷事件〉の騒動主体としていう都市下層「雑業層」の群衆である。〈米騒動〉ではそれに炭鉱坑夫が加わり、労働者が加わり、小作人が加わり、そして被差別部落の人びとも加わっていくのである。この都市下層の「雑業層」という群衆はもともとのあり方からすれば〈大衆multitude〉である。だがその群衆はいま〈大正〉という歴史的局面で集合し、暴力的な抗議の意志表示をする不特定の社会的集合体〈大衆mass〉となるのである。〈大正〉が〈大正デモクラシー〉と呼ばれる新たな政治的、社会的な特質をもった時代であるのは何よりも、その生存条件にかかわる局面ではいつでも騒擾主体となるような不特定の社会的集合体〈大衆〉の成立によるのではないか。この〈大衆〉の存立から社会問題が生まれ、政治が問われ、政治的遂行とその形態の変容が促されていくのである。〈大衆〉の存立が〈社会〉問題そのものを構成していくような〈大正〉とは、まさしく〈大衆社会〉の成立の時代だというべきだろう。

4 〈大衆社会〉論再考

〈大衆社会〉とは、資本主義の産業的段階から独占的段階への移行によって、構造的、機能的に変質化した資本主義社会の現実状況、たとえば既存の市民社会の外部的存在であった大量の労働者たちの国家社会体制への内部化、そこから起きる社会の大衆的平準化、大量生産と大量消費による生活様式の平均化、情報・交通手段の発達による文化の消費的な大衆的普及などの社会的形態の変化によって、政治学、社会学的概念として構成されたものである。この〈大衆社会〉論は、〈市民社会〉とその観念の崩壊という現実的事態に対応しながら展開される。戦後日本でマルクス主義系社会科学者との激しい論争を伴いながら〈大衆社会〉論を展開した松下圭一はこういっている。

「独占段階は、社会過程の原子化・機械化自体を実現していくことによって、社会形態の変化をもたらしたが、そのとき、自由・平等・独立な個人の原子論的機械論的構成をとっていた市民社会の観念は崩壊しなければならなかったのである。ここに「市民社会」に代わって新たに「大衆社会」の観念形成が日程にのぼってくる。」[1]

ここで松下の〈大衆社会〉論から引用したついでに、私の問題関心を刺激する松下による〈大衆社会〉論的言及を引いておきたい。これによって私の〈大正イデオロギー〉論の射程がどこに及ぶのかを見ていただきたい。

「しかも、テクノロジーの発達と大衆文化の下降定着は、各社会層の意識形態を平準化せしめていくとともに、国民的伝統、国民的利益、国民的使命において国民的公分母を確保し、ここに〈大衆〉の同調性が亢進する。・・・この〈大衆〉的同調性の内部に政党対立自体が吸収され、被支配層政党は急速に体制へと転化していく。」

「このような大衆的熱狂による政治的自由の完全な破壊をもっとも強烈に制度化したのがファシズムであった。ファシズムは政治的自由を完全に弾圧したが、けっして支配者(指導者)と被支配者(民族)の一致という意味でのデモクラシーに対立したのではなかった。むしろ組織され、制度化された大衆的喝采(アクラマチオン)によって、ファシズムは支配を貫徹する。」

「しかも、国家と〈大衆〉とのデモクラシーを媒介とする意識形態上の接近は、独占段階における帝国主義戦争の危機によって自乗化される。ことに独占段階における戦争が、物的・人的資源を総動員する「全体戦争」として存在する以上、ナショナリズムは国民動員のために、一人一人の胸の奥にまであらゆる心理的コミュニケイション技術を総動員して、刻みこまれなければならない。」[2]

松下はこれを昭和の天皇制的ファシズム国家の成立を念頭にして書いているのか。そうではないヨーロッパの近代国家の〈大衆国家〉への変容と、その〈全体主義的国家〉への変質を書いているのである。われわれがここに昭和国家の〈全体主義的国家〉としての成立を読むことができるのは、1929年生まれの松下における〈全体主義的国家日本〉の体験がその記述に浸透しているからであろう。だが私は松下の「大衆国家論」のこの記述を、むしろ積極的に昭和日本の〈全体主義国家〉化の記述として読むべきだといいたい。ということは、〈大正〉を日本資本主義の独占段階における〈大衆社会・国家〉の成立を見ることによってはじめて、〈昭和〉の〈全体主義的社会・国家〉の成立を理解することができるからである。

しかし松下は〈大衆社会〉への移行の条件を戦前日本はすでに具えていながら、太平洋戦争の遂行がその移行を妨げたという。だがその〈全体戦争〉としての戦時的総動員体制という遺産のうえに戦後日本に〈大衆社会〉が成立することになると松下はいうのである。

「(戦前日本に大衆社会への移行の三条件はすでに具えられていたのだが、)天皇制の政治的弾圧によってそれがはらむ問題性を十分展開することができなかったけれども、いわゆる帝国主義戦争たる太平洋戦争をまがりなりにも「全体戦争」として遂行しえたのはこれらの三条件があったからこそである。すなわち生産・消費のマンモスのごとき統制・配給機構の成立、前線・銃後への巨大な大量動員、マス・コミュニケイションの駆使と言論統制を伴った国民精神総動員、翼賛政治動員というかたちで、天皇制ファシズムは、形態学的には天皇制「全体国家」として成立していったのである。この「全体戦争」こそが実に、戦後急速に日本を大衆社会化する諸条件の成熟に拍車を加えていたのであり、この「全体戦争」の遺産のうえに大衆社会は成立する。」[3]

戦後日本における〈大衆社会〉の成熟的な成立過程をいう松下のこの記述は重要である。この記述は私がいうように大正から昭和初期の戦前日本における〈大衆社会〉の早期的成立をむしろ証明しているのである。松下は〈大衆社会〉成立の三条件をいう。1は人口のプロレタリア化の急速な進展(人口構造の大衆化)、2はテクノロジーの発達による交通・情報網の拡大(大衆文化・都市的生活様式の普及)、3は普通選挙(大衆の政治参加・国民的統合)である。松下はこれらの三条件は大正・昭和戦前期にはすでに具えられていたといっている。この三条件を具えながらも〈大衆社会〉は戦前期には成立せず、「全体戦争」を経過してはじめて戦後日本に成立すると松下はいうわけだが、私はむしろこの三条件を具えて〈大衆社会〉は大正・昭和初期に早期的に成立したと見るべきだと考える。戦前日本に〈大衆社会〉が成立していたがゆえに、松下の言葉を借りていえば、日本はまがりにも「全体戦争」を遂行しえたのである。松下が「全体戦争」遂行の三条件としていっているのは、〈大衆社会〉成立の三条件の「全体戦争」遂行条件としての全体化をいっているにすぎない。そしてさらに松下は「全体戦争」による三条件の全体化が、戦後における〈大衆社会〉の成熟した成立をもたらすといっていることからすれば、松下のこれらの記述は、その意図に反して〈大衆社会〉の戦前期日本における早期的成立を証明してしまっているのである。

5 〈大正〉を読むことの意味

私は「東京騒擾」から始まる成田の『大正デモクラシー』を読んで、 〈大正デモクラシー〉論とは〈大正・大衆社会〉論ではないのかと思った。〈民衆騒擾〉から、〈社会問題〉〈社会改造〉〈社会政策〉論の成立、さらに〈大衆文化〉〈都市的生活様式〉の成立などなど。〈大正〉という時代を記述することは、〈大衆社会〉の成立過程を記述することではないのかと思った。だが私が『大正デモクラシー』の〈大正〉論を〈大正・大衆社会〉論として読んでいった、あるいは読もうとしたことの動機に松下の「大衆社会」論があったわけではない。松下の論は私の問題関心を事後的に根拠付け、論証し、〈大衆社会〉論的に整理するものとしてあったのであって、私の問題関心を事前に動機づけるものとしてあったわけではない。私の関心を動機づけたのはアーレントの「全体主義」論である。「全体主義運動は大衆運動であり、それは今日までに現代の大衆が見出し自分たちにふさわしいと考えた唯一の組織形態である」[4]というアーレントの「全体主義」論を読みながら私は、昭和日本の全体主義的ファシズム成立の前提条件をなすような〈大衆〉と〈大衆社会〉とは何だろうと考えてきた。成田の『大正デモクラシー』は最初の答えを私に与えてくれたのである。

〈日比谷事件〉という〈民衆騒擾〉から始められた成田の『大正デモクラシー』は、〈満州事変〉をもって終えている[5]。〈大正デモクラシー〉は〈大衆〉の国家的・国民的統合法(普通選挙法公布・1925年)を反国家的少数の排除法(治安維持法公布・1925年)とともに成立させて、まさしく〈全体戦争〉をなしうる日本の帝国主義的国家体制を整えて終わるのである。

私がこれからやろうとする「大正を読む」という思想史作業は、〈大正〉から早期的〈大衆社会〉の成立とその特質を読み出すことを課題とすることになる。だが〈大正〉を早期的〈大衆社会〉として見ることの意味とは何か。それが〈昭和〉の全体主義的国家と戦争とにもつ関係についてはすでにのべた。そしてそれが私の〈大正〉への関心をもっとも強く動機づけるものとなるだろう。

もし〈大正〉に〈大衆社会〉の早期的成立を認めるならば、日本の近代社会は〈市民社会〉の成立をみないうちに、あるいは未成熟なままに〈大衆社会〉化していったということになる。これは後進資本主義国が多かれ少なかれもたざるをえない近代化の特質である。もし〈大正デモクラシー〉をいうのなら、それは〈大衆社会的デモクラシー〉であり、近代化は〈大衆社会〉的近代化として遂行されていったことになる。そしてその結果を〈昭和近代〉として、〈昭和の全体戦争〉としてわれわれは受け取ったのである。〈昭和近代〉を問うてきたわれわれはもう一度〈大正〉から、あるいは〈大正〉を読まれなければならない。

松下は昭和戦後における〈大衆社会〉の成立を、大正・昭和初期に備えられる〈大衆社会〉的諸条件が〈全体戦争〉を経由して成熟した結果としてとらえていた。だが〈大正・大衆社会〉の早期的成立をいうならば、昭和戦後の〈大衆社会〉は大正とは違った歴史的、政治的条件におけるもう一度の、あるいは松下的にいえば成熟的再生としての成立だということになる。この二つの差異する歴史的、政治的条件に成立する二つの〈大衆社会〉を見ることは、〈大正デモクラシー〉と〈昭和戦後デモクラシー〉を連続としてではなく、その差異を見ることにかかわってくる。私が松尾らの〈大正デモクラシー〉を斥けるのは、彼らの見方はこの二つの〈デモクラシー〉の連続性に基本的に立っているからである。それは〈大正デモクラシー〉を正しく見ることができないだけでなく、〈昭和戦後デモクラシー〉をも見誤ることになるだろう。

〈大正デモクラシー〉は昭和の「全体戦争」を可能にする国民統合的国家を創り出すことをもって終わったのである。では〈大正・大衆社会〉とともに成立した社会救済・社会改革・社会運動の教説や思想(民本主義、社会主義、マルクス主義などなど)はこの〈大衆社会〉の帰結にどのような思想的関わりと思想的責任とをもつのか。〈昭和戦後デモクラシー〉を〈大正デモクラシー〉との連続性で見ることは、〈大衆社会〉的近代という日本近代の特質を見誤ったままに〈大正〉的社会運動、政治運動を、冷戦的な戦後世界の構造の中で再生、あるいは復興させてしまったことにかかわるだろう。

〈大正〉を読み直すこととは、〈昭和戦後〉をその反体制的思想と運動のあり方を含めて読み直すことでもあるのだ。なぜ現在の日本において社会主義も社会主義的政党も溶解してしまったのか。この21世紀のデモクラシーとは何であるべきなのか。私はこれらを問い詰める形で〈大正〉を読み直してみたい。



[1] 松下圭一「大衆国家の成立とその問題性」『現代政治の条件』中央公論社、1959。

[2] 引用は前掲松下「大衆国家の成立とその問題性」より。

[3] 松下「日本における大衆社会論の意義」『現代政治の条件』所収。

[4] ハナ・アーレント「全体主義」『全体主義の起源』3、みすず書房、1974.

[5] ただ成田は〈満州事変〉を新たな〈大衆〉的統合からなる帝国日本の行き着くところとして〈大正デモクラシー〉の終焉をいうのではなく、〈満州事変〉は〈大正デモクラシー〉の転換を促し、全体主義的な論調を作り上げてしまうものとしてその終焉をいうのである。成田は〈大正デモクラシー〉論を〈大正・大衆社会〉論として書きながら、〈大衆社会〉が〈全体主義国家〉形成にとってもつ意味を理解していない。

[大正を読む]

なぜいま大正なのか・1

—〈日比谷焼打ち事件〉という始まり 子安宣邦

1 〈大正デモクラシー〉論
大正天皇の在位期間、すなわち1912年(明治45年/大正元年)7月30日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までを大正時代というが、〈大正〉という時代の歴史記述はこの王朝史的時代区分にしたがってするわけではない。〈大正〉を〈大正デモクラシー〉の時代とするのは、もちろん戦後に始まった見方であろうが、〈大正デモクラシー〉をもって〈大正〉をいうならば、その始まりとして何を見るかによって〈大正〉の始まりも決まってくる。ところで〈大正デモクラシー〉とはいつだれによっていい始められたのか。中央公論社が26巻の構成をもって神話的古代から現代にいたる日本歴史を一般読者向けの読み物として編集し、出版した『日本の歴史』は、『大正デモクラシー』
[1] のタイトルをもった大正史の巻をもっている。これは今井清一によって書かれ、1966年に出版された。恐らくこれが「大正デモクラシー」の名をもった大正時代史の初めてのものではないだろうか。だが「大正デモクラシー」が大正時代史への基本的視角をなすものになるのは、松尾尊兊(たかよし)の同名の著書[2] が出版されるにいたってではないだろうか。松尾の『大正デモクラシー』が出版されたのは1974年であるが、ほとんど同時期に鹿野政直の『大正デモクラシーの底流』(1973年)が、また三谷太一郎の『大正デモクラシー論』(1974年)も出版されている。松尾は自分の著書を含めてこの三書を大正期研究の必読の基本文献といっているが[3]、大正期への〈大正デモクラシー〉という視角を決定づけたのは松尾の『大正デモクラシー』であったであろう。

だが1970年代に成立してくるこうした〈大正デモクラシー〉論が人びとを引きつけ、大正期の再考に向かわせるような何かをもっていたのかといえば、少なくとも私については(ノン)であった。60年という戦後日本と戦後的社会運動の転換期ーこの転換期は私にとって敗北的な挫折からのやり直しを意味したー日本の〈近代〉と〈近代化〉を相対化しうる視点と方法とを私は求めていた。68年の大学紛争はこの転換の本質的な意味を暴力的な形で表現した。70年とはこの暴力的な転換の揺曳のなかに大学がなおあった時期である。そのような時期に、「(大正デモクラシーとは)広汎な勤労民衆の自覚に支えられた運動であった。それゆえに、大正期は、たんなる過渡期ではなく一つの歴史的個性をもつ時代でありえた。その生み出した最良の思想的達成は、日本国憲法の基本精神に直結しており、戦後民主主義の日本社会への定着は大正デモクラシーを前提にしてはじめて可能であったといえよう」[4]といった、その可能性を戦後民主主義の社会的定着に見るような〈大正デモクラシー〉論に私は白々しい視線をしか向けなかった。

70年代の日本史の世界における〈大正デモクラシー〉論の登場は〈大正〉の読み直しを私に促すようなことはなかった。〈大正〉とは私にとってただ昭和に先立つ時代でしかなかった。〈大正〉という時代に対する消極的な関心は私だけのものではない。どんな大きな書店を訪ねても、歴史関係の書棚にある〈大正時代〉の関係書は寥々たるものでしかない。だが私の〈大正〉へのこの消極的な関心は、昭和戦前・戦中期の読み直しを通じて変化していった。

私はこの世紀の始めの時期から、近現代日本、ことに昭和の戦前・戦中期の日本への関心を深めていった。その関心は「近代の超克」論や「和辻倫理学」論、そして日中戦争から戦後にかけての「中国」論などの形をなして、市民講座で語られていった[5]。この昭和戦前・戦中期をめぐる講座の中で、私はこの昭和とは大正がまさしく作り出したのではないか、昭和一桁生まれの私は大正が作り出した昭和という時代の中に生まれ落とされたのではないかと思うようになった。まことに明治末年生まれの私の両親は大正に成人し、昭和に一家を構え、家族をも設けていったのである。そしてさらに戦後の社会主義と社会運動の挫折ないし溶解的喪失を見ながら、松尾とは反対に、この敗北の原因ははるかに大正に生起した社会主義・マルクス主義や社会運動にあるのではないかと考えたりするようになった[6]。そのようなときに成田龍一の『大正デモクラシー』を読んだのである。

成田の『大正デモクラシー』は私が予想したものとは違っていた。明治38年(1905)9月の〈日比谷焼打ち事件〉から始まる『大正デモクラシー』によって私は〈大正〉も〈大正デモクラシー〉も見直した。この書によって〈大正〉が見えてきたのである。

2 〈日比谷事件〉という始まり

成田のいう〈大正デモクラシー〉は〈日比谷事件〉、すなわち日本で最初の大規模な民衆騒擾という始まりをもっている。ちなみに〈日比谷事件〉という始まりをもつ〈大正デモクラシー〉は成田においては終わりをももっている。満州事変をきっかけとする日本の政治的、社会的事態の全体主義的変容をもって〈大正デモクラシー〉は終わるのである。成田のいう〈大正デモクラシー〉はこの始まりをもち、この終わりをもつのである。まず始まりから見よう。

1905年9月5日、日露戦争の終結についてのポーツマス講和条約の内容に不満な人びとが日比谷公園の封鎖を打ち破って国民大会を開催し、その後、集まった群衆は付近の内務大臣官邸や講和賛成派の国民新聞社を焼き打ちし、阻止する警官隊と衝突した。夕刻になると騒擾は一層激化し、群衆は日本橋大通りを駆け抜け、道路沿いの警察署や交番、派出所を焼打ちしていった。5日の夜半には2つの警察署、6つの警察分署が焼かれ、交番や派出所の被害は203カ所に及んだ。6日も騒擾は続いた。その夜、市電の焼打ちがあり、4台の車両が焼けた。6日の夜、戒厳令が布告された。7日、市内に73カ所の検問所が設けられたが、なお騒擾は続いた。しかしようやくその日に騒擾は鎮静化された。この「東京騒擾」による死者17名、負傷者は無数、逮捕・起訴されたものは311人にのぼった。未曾有の騒擾事件であった。

成田はこの騒擾をなす群衆の階層分析をしている。騒擾の実行者であり、逮捕者である大多数は人足や車夫、職人たち、都市の「雑業層」の人びとであった。もう一つの階層は彼らを雇う親方、中小の商店主・工場主、すなわち「旦那衆」であったと成田はいう。それ以外に軍人の家族をはじめとする戦争によって犠牲を強いられた都市下層のあらゆる人びとが集結し、権力の直接的な出張所に向けて暴力的な抗議の意志表示をしたのである。

日比谷の騒擾をなす群衆は大多数の雑業層の人びとと彼らを雇う旦那衆をも含んだ雑多な都市下層住民であった。日露戦争の勝利の報道には熱狂し、旗を振った彼らは、その戦争の償われざる犠牲者であった。償われざる犠牲を負うことによって彼らは国家権力に直面したのである。犠牲を償うことのない戦争終結に怒り、未曾有の騒擾を起こすことによって彼らははじめて〈国民〉になったというよりは、〈国民〉にならされたのである。成田はこう書いている。「二〇世紀の初頭には、たびたび都市では騒擾が見られ、一九一八年夏の米騒動まで頻繁に起こる。都市空間には、かくして秩序を動かしていくエネルギーが充満しており、この動きが、大正デモクラシーの発火点になっている。」

〈日比谷事件〉という民衆騒擾を発火点として〈大正デモクラシー〉を見るということは、ここで成田がいうように、〈大正デモクラシー〉の結節点として〈米騒動〉を見ることであり、〈大正〉という時代の日本の地理空間には、ことに都市空間には「秩序を動かしていくエネルギーが充満して」いる時代として〈大正〉を見出すことである。私が成田の『大正デモクラシー』を読むことで〈大正〉と〈大正デモクラシー〉とを見直したのは、この〈民衆騒擾〉的始まりの記述によってである。(未完)



[1] 今井清一『大正デモクラシー』(『日本の歴史』第23巻、中央公論社、1966)。なおこの巻に先立つ第22巻は、日清・日露戦から明治の終焉にいたる『大日本帝国の試練』(隅谷三喜男、1966)である。

[2] 松尾尊兊『大正デモクラシー』日本歴史叢書、岩波書店、1974。後に岩波現代文庫に収録、2001。この書は三谷太一郎『大正デモクラシー論』(中央公論社、1974)、鹿野政直『大正デモクラシーの底流』日本放送出版協会、1973)とともに大正期研究の基本文献とされる。

[3] 松尾は『日本史文献事典』(弘文堂)の自著の解説中でそういっている。

[4] 松尾「はしがき」『大正デモクラシー』。

[5] それらの市民講座における講義は、『日本ナショナリズムの解読』(白澤社、2007)『「近代の超克」とは何か』(青土社、2008)『和辻倫理学を読む』(青土社、2010)『日本人は中国をどう語って来たか』(青土社、2012)にまとめられ、出版されていった。

[6] 社会主義の壊滅ともいうべき日本の現在と『資本論』原理主義的思考のなお存続する現代日本の思想状況を見て、この日本の不幸ともいうべき思想の偏頗は大正における思想と運動の生起にかかわるのではないかと私は思ったりした


『降りられない船—セウォル号沈没事故からみた韓国』を読む
子安宣邦

『降りられない船』(ウ・ソックン著、クオン出版)を読んだ。この書の副題は「セウォル号沈没事故からみた韓国」である。「降りられない船」とはあの悲劇のセウォル号である。それとともにあの悲劇の船を運航させ、予測しうる事故を生じさせ、救助に失敗し、多くの若い生命を海底に船とともに沈ませてしまったその国、国民にとって不幸,不運で役立たずの政治・社会システムをもった韓国をさしている。著者はこれを「降りられない船」という。それは自分もまたこの不幸な船の漕ぎ手であったからである。それゆえこの書はあの大きな不幸な事故の原因をなすこの船と持ち主の、今まで直視しようとしなかった構造的欠陥と嘘と怠りと歪みについての重い内部的な告発の書となる。

なぜ船の専門家ならその事故を予測しうるような貨客船を運航させたのか。なぜこの船に修学旅行の高校生たちは乗らざるをえなかったのか。なぜこの船の沈没事故に当たって、船室に残された生徒たちを救助しえなかったのか、あるいはむしろ救助しなかったのか。なぜ政府は国家の安全システムを全的に作動させることをしなかったのか。そしてなぜこの事故の発生と救助の失敗の理由と責任の追求がなされないのか。この船の運航から事故の発生、そして救助の失敗にいたるこの惨事の究極の責任は政府にあるにもかかわらず、なぜ政府はただ責任回避ばかりをするのか。そして最後に重い問いが残される。沈みゆくセウォル号の船室でなぜ若い高校生たちは「待て」という間違った指示にしたがって、自ら脱出する手立てをとろうとしなかったのか。

だがこの惨事後の時の経過の中で、人びとはあの「船」のことを忘れていった。あの老朽船セウォル号とその運航が惨事の最大の原因であったのにもかかわらず。大統領もその謝罪の演説の中でこの「船」について触れることはなかった。なぜこの「船」を使うことを当局は許したのか。この「船」の問題とは「韓国」の問題である。「だがこのおかしなこと、誰も船の話をしない状況と向きあうことになった。私は自身の無気力さも嫌だったが、この奇異さに耐えていることができなかった。」だから著者は問うていくのだ。なぜこの「船」があり、この「船」が運航され、降りえぬ客として、あるいは漕ぎ手としてこの「船」に乗り合わせているのかと。

著者はこの重い問いに重い答えを記していく。だがこの問いも答えもただ韓国の人びとにとってだけあるのではない。私はこの『降りられない船』を読みながら、たえず「降りられない原発の船・日本」を考えていた。前に挙げた〈セウォル号・韓国〉をめぐる問いはすべて〈フクシマ号・日本〉への問いでもあるのだ。しかし日本のだれがこの書の著者ウ・ソックンのように「降りられない船」の〈降りられぬ漕ぎ手〉の重い答えを記そうとしただろうか。『降りられない船』はわれわれの必読の書である。

最後に「日本の読者のためのあとがき」で著者はこう書いている。

「事件後、韓国社会と政治はさらなる悪化の一途をたどっており、珍島の沖合で沈没したセウォル号、今や韓国全体が巨大なセウォル号のようになった。外国に移住するか悩む人びとが急増しているが、経済状態が芳しくないため移住も簡単ではない。私たちはどうにかしてこの船を修繕し、ここで生きて行くしかない。その手掛かりをどこから解いていくか?」

おたがいに〈降りられない船〉に乗ったもの同士だ。ともに手掛かりを探そうではないか。(2014年10月13日.)

[『降りられない船—セウォル号沈没事故から見た韓国』ウ・ソックン(禹晳熏)著、吉川綾子訳、(株)クオン発行、2014年10月16日。]

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