〈大正〉を読む2
啄木の証言—〈大逆事件〉とは何であったのか・その2 子安宣邦
1 啄木の証言的記録
石川啄木に〈大逆事件〉の発端からの経過を当時の新聞記事・論説によって詳細に辿った「日本無政府主義者陰謀事件経過及び附帯現象」という彼以外の誰もしなかったこの事件の証言的記録がある。なぜ啄木によるこの証言があるのかは次の私の課題であるだろう。ここではこの証言的記録によって〈大逆事件〉の経過を見てみたい。明治43年6月5日、この日の諸新聞にはじめて本件(大逆事件)犯罪の種類、性質に関する簡単な記事が出て、国民を震駭させたとして、啄木は東京朝日新聞の記事を要約し紹介している[1]。
「東京朝日新聞の記事は「無政府党の陰謀」と題し、一段半以上に亘るものにして、被検挙者は幸徳の外に管野すが、宮下太吉、新村忠雄、新村善兵衛、新田融、古川力蔵(作)の六名にして、信州明科の山中に於て爆裂弾を密造し、容易ならざる大罪を行はんとしたるものなる旨を記し、更に前々日の記事(幸徳拘引)を補足し、幸徳が昨年の秋以来・・・表面頗る謹慎の状ありしは事実なるも、そは要するに遂に表面に過ぎざりしなるべしと記載し、終りに東京地方裁判所小林検事正の談を掲げたり。」
啄木はここで小林検事正の談話を引いている。これは〈大逆事件〉について検察局の担当者がもった見透しとして重要である。
「今回の陰謀は実に恐るべきものなるが、関係者は只前期七名のみの間に限られたるものにして、他に一切連累者なき事件なるは余の確信する所なり。されば事件の内容及びその目的は未だ一切発表しがたきも、只前期無政府主義者男四名女一名が爆発物を製造し、過激なる行動をなさんとしたる事発覚し、右五名及連累者二名は起訴せられたる趣のみは本日(四日)警視庁の手を経て発表せり。」
啄木がここに小林検事正の談話を記録したことは何を意味するのか。この爆発物の製造・実験をめぐる無政府主義者の未発のテロ事件、検察庁の担当検事が事件関係者は幸徳ら7名を出ないといっていた事件が、東京から信州、大阪、紀州、熊本の社会主義者を包括する反天皇制的国家的事件〈大逆事件〉になっていく過程を啄木は確かにみすえているからである。啄木がこの証言的記録をいつ作成したのか。啄木の「年譜」[2]によれば、明治44年(1911)1月23日に「幸徳事件関係記録の整理に没頭」したとある。大審院が24人に死刑の判決を言い渡したのが1月18日である。その日に先立つ1月3日に啄木は友人である平出修(幸徳の弁護人)から幸徳が弁護人に送った「陳弁書」を借り受けて読んでいる。その数日後(9日)に啄木は旧友瀬川深宛に「自分を社会主義者と呼ぶことを躊躇してゐたが、今ではもう躊躇しない」といっている。啄木は無政府主義的テロリズムが社会主義と等置されながら、あの〈爆弾テロ事件〉が日本における社会主義思想の国家的排除をめざす政治的弾圧事件〈大逆事件〉に転化したことを見ているのである。しかも〈事件〉のこの転化を国家権力とともに推進しているのは〈新聞〉であることを啄木は見抜いているのである。小林検事正の談話を載せた東京朝日の同じ記事中にはこういうことが書かれていると啄木は証言する。
「同人(新村忠雄)は社会主義者中にありても最も熱心且つ過激なる者なるより、自然同地(長野県屋代町)は目下同主義者の一大中心として附近の同志四十名を数へ居る事、及び現在日本に於ける社会主義者中、判然無政府党と目すべき者約五百名ある事を載せたり。」
東京朝日新聞はあたかも検察当局とともに社会主義者捜しをやっていると啄木は証言しているのである。そして同年6月21日、東京朝日新聞は「無政府主義者の全滅」という記事を掲載した。
「和歌山に於ける大石、岡山における森近等の捕縛を最後として、本件の検挙も一段落を告げたるものとなし、斯くて日本に於ける無政府主義者は事実上全く滅亡したるものにして、第二の宮下を出さざる限りは国民は枕を高うして眠るを得ん云々の文を掲げたり。」
これを読めば〈大逆事件〉を作り上げていったのは山県有朋・桂太郎・平沼騏一郎といった国家権力の中枢だけではない、新聞などマス・メディアの側もそれに一役も二役も買っているのである。〈大逆事件〉とは新聞情報が大衆的意見形成に大きな意味をもつ時代の始まりを告げるような国家的な事件であったといえるだろう。啄木は社会主義概念を反国家的、反皇室的な危険思想として大衆に定着せしめた上で新聞が果たした役割の大きいことをいうのである。「無政府主義者の全滅」をいう東京朝日の記事を紹介した後で啄木は「社会主義」概念をめぐっていっている。
「本件は最初社会主義者の陰謀と称せられ、やがて東京朝日新聞、読売新聞等二三の新聞によりて、時にその本来の意味に、時に社会主義と同義に、時に社会主義中の過激なる分子てふ意味に於て無政府主義なる語用ゐらるるに至り、後検事総長の発表したる本件犯罪摘要によりて無政府共産主義の名初めて知られたりと雖も、社会主義・無政府主義の二語の全く没常識的に混用せられ、混用せられたること、延いて本件の最後に至れり。・・・而して其結果として、社会主義とは啻に富豪、官憲に反抗するのみならず、国家を無視し、皇室を倒さんとする恐るべき思想なりとの概念を一般民衆の間に流布せしめたるは、主として其罪無知且つ不謹慎なる新聞紙及び其記者に帰すべし。」
啄木は同年9月23日付け東京朝日の「京都の社会主義者狩」の記事を紹介しいる。その冒頭に「社会主義者に対する現内閣の方針はこれを絶対的に掃蕩し終らずんば止まじとする模様あり」という記者の感想が記されている。この記者の危惧通りに〈事件〉は進行し、社会主義者の息の根を止めるような、社会主義者に〈大逆罪〉という究極的な罪科を負わせるような〈大逆事件〉が作られていったのである。
日本の20世紀的現代は社会主義に〈大逆罪〉という罪科を負わせて始まったのである。われわれはこの始まりを、〈大逆事件〉を歴史の中に置き去るとともに忘れている。田中伸尚の『大逆事件ー死と生の群像』は、われわれの〈事件〉の忘却がなお現代日本社会に〈大逆事件〉を存続せしめている戦後の国家体制を共犯的に作り出しているのではないかという痛切な反省を私にもたらした。〈大逆事件〉は社会主義の〈冬の時代〉を大正にもたらしただけではない。〈大逆罪〉という社会主義に負わせた罪科は日本社会のトラウマとなって、その思想の社会的成立も成熟も内部的に妨げられてきたように思われる。現代日本で社会主義がその政党とともにほぼ溶解してしまった現実を、社会主義に〈大逆罪〉の罪科を負わせて始まった20世紀日本現代史の帰結として見ることもできるのではないか。もしそうであるなら、われわれは田中伸尚の「道行き」に同行して、〈大逆事件〉を持ち続けてきた日本の国家社会が刻んだ無残な傷痕を見つめることから社会的公正と共生の思想・社会主義の再建を考えるしかない。すでに石川啄木は社会主義をその主義者とともに殲滅することをめざした〈大逆事件〉に正面しながら己れの社会主義を問い直し、社会主義者であることの自覚をあえて友に告げようとしたのである。
コメント