帝国と儒教と東アジア—東アジア問題を今どう考えるか・その1 子安宣邦
「帝国は、諸国家がいかに連合していくかという問題に対して、歴史的な教訓を与えるものです。・・・だから、帝国の経験は、マルクス主義であろうとなかろうと、けっして見逃すことのできないものです。」 柄谷行人「帝国・儒教・東アジア」
「さらに今日、グローバリズムが席捲する中で、儒教モデル受容の歴史的経験の不在という条件が日本の進路を大きく制約していると考えられること、云々」
宮嶋博史「日本史認識のパラダイム転換のために」
1 香港の〈帝国〉的再統合
いま中国の津々浦々に次ぎのような12の言葉が流布していると、朝日新聞の論説記者はいっている。それは「富強・民主・文明・和諧・自由・平等・公正・法治・愛国・敬業・誠信・友善」という12の言葉である[1] 。北京の中心部の交差点に立つ巨大な広告塔にも、そして内陸地方都市の銀行や商店の電光掲示板、さらにバスやタクシーの中にまで中国の「社会主義核心的価値観」を表現する12の標語があふれているというのである。この12の標語には中国の党=国家が忌避してきた近代的民主社会の諸価値も含まれている。
中国の党中央は昨年の春、各大学に講義してはならない七つの主題を提示したという。それは「七不講」と呼ばれている。すなわち「(人権などの)普遍的価値」「報道の自由」「市民社会」「共産党の歴史的過ち」「司法の独立」などである[2] 。とすればあの12の標語における「民主」も「自由」も「平等」も、そして「公正」も「法治」も、近代的民主社会における〈普遍的価値〉—中国はこれを近代欧米社会における〈特殊的価値〉とする—とは異なった、まさしく中国のいう〈社会主義的価値〉であることになる。中国の人びとは街に氾濫するこの12の標語を見ても、また例によってお上のキャンペーンだとして気にも留めない風であると記者はいっている。
だが私は中国の街中に氾濫する12の標語の報道を聞いて、「これはすごいことだ!」とあらためて思わざるをえなかった。中国が従来批判し、その受容を拒否してきた欧米的近代社会における〈普遍的価値〉を、おのれの独自的価値系列に組み入れ、「社会主義核心的価値」として再構成し、再提示してしまう中国のふてぶてしい大国性に、私はあらためて「これはすごい」と感嘆せざるをえなかった。しかしこれに感嘆するとともに、私は香港における行政長官選挙をめぐる政治的事態の性格をも理解したのである。
中国の全人代常務委員会が2017年に予定される香港行政長官の選挙をめぐって8月31日にした決定とは、香港市民に許されるのは〈社会主義的価値〉としての「民主」であり、「自由」だけだということである。市民に許されるのは、ただ限定された候補者についての投票行為だけだということである。そのことは「一国二制度」をいわれる自治的行政区香港が、〈社会主義的価値〉の共有体としてあらためて中国に〈一国的〉に、いいかえれば政治的制度、価値観において一多様体としてある香港が中国に〈帝国〉的に再統合されようとしていることを意味している。これは東アジア世界におけるわれわれの存立にかかわる重大な問題だと私は考えている。だが香港の〈帝国〉的再統合に、東アジアにおけるわれわれ日本人の存立にかかわる危機を感じ取っているものはほんの少数でしかない。
2 中国の〈帝国〉的現前とその承認
香港における民主的、市民的権利の行方について強い危機意識をもって見つめている日本人はまことに少数である。香港の問題だけではない、今年の春の台湾における学生らによる立法院占拠という〈民主的台湾〉のための闘争に支援の手を差し伸べ、支援の言葉を届けようとしたものは日本にはほとんどいなかったのである。私が台北に駆けつけても、それはただ例外性を示すことにしかならなかった。
これは中国本土における民主化運動についてもいえることである。中国の党=国家政府によって規制されることがなくとも、日本の〈進歩的〉知識人たち、ことに中国に関わりの深い学者・知識人・出版人たちはあたかも自主規制しているかのように口を喊すのである。いや彼らは自主規制するというよりも、民主化運動を抑圧し、言論を封殺する中国党政府の側の正当性をむしろ積極的に認めているように私には思われるのだ。中国本土における民主化運動だけではない、香港市民の民主的権利をめぐる抵抗闘争についても、台湾の学生たちによる台湾の民主的自立をかけた闘争についても、〈社会主義的価値〉の共有による〈帝国〉的統合を貫こうとする中国の党政府の側に彼らは正当性を認めているのではないか。これは当てこすりの非難ではない。東アジア市民の民主的自立のための闘争に、終始沈黙をもって対する現代日本の知識人たちの政治的態度から自ずから導かれる結論である。なお自らを〈社会主義〉国とする経済大国中国に常に寄り添うかのごとき日本の〈革新的〉知識人の中国党政府との親和的姿勢は東アジアにおいて、いや世界においても稀れなことだろう。
私は中国の自治的行政区香港における市民の民主的権利を抑圧して行われようとする行政長官選挙は、〈社会主義的〉中国による香港の〈帝国〉的再統合ではないかといった。明・清朝中国の〈帝国〉的領域の正統的継承をいい、〈中華民族〉のより強大な復興をいう現代中国はすでに〈帝国〉を自認しているといえるだろう。香港の行政長官選挙をめぐる事態は、中国の〈帝国〉的現前を香港市民だけではない、東アジアのわれわれにまざまざと見せつける事態である。
この〈帝国〉的に現前する現代中国を日本の知識人たちはいち早く承認しているように私には思われる。さきに『世界史の構造』[3] (岩波書店、2010)で世界史に〈中華帝国〉の正当な位置を回復させた柄谷行人は、中国・清華大学での講義からなる新著『帝国の構造』(青土社、2014)で、〈帝国〉としての統合的支配の経験を中国のために歴史から語り出し、東アジア周辺・亜周辺地域における〈帝国〉体験をコリアと日本のために歴史から語り出している。この『帝国の構造』が東京の書店の店頭に大量に平積みされている光景を見て、「これは一体何なのか?」「何を意味するのか?」といった問いを繰り返し発せざるをえなかった。さらにこの書の翻訳本が、北京で、ソウルで、そして台北でやがて販売され、あるいはすでに販売されていることを思うと、私の疑問と困惑とは東アジアと等身大のものとなる。〈中国=帝国〉は東アジアですでに文書上にはっきりと現前しているのである。
〈中国=帝国〉の歴史的な再帰的意味づけをすでに早くしていったのは日本の中国史・東洋史学者たちであった。彼らは唐宋間の変革に中国近世の始まりを見る内藤湖南の説を継承発展させ、十一世紀の宋朝帝国に政治史、経済史、社会史、思想史、さらに技術史的近世(早期近代)の始まりを論証していった。それは世界史的にずば抜けて早い近世(近代)の始まりであった。この宋朝近世は哲学的に体系化された新儒学(宋学・朱子学)を成立させ、官吏登用試験としての科挙を皇帝国家的制度として確立させた。こうして皇帝に直属する国家官僚・官吏(士大夫)層が儒家的教養をもった読書人階層として成立することになる。貴族の領主的支配に属していた平民は、この貴族を廃絶した宋帝国にあって、官僚的な統治機構に組み入れられながらも人身的に帰属することはなく、むしろ皇帝の直接的な支配体系に帰属する平民になるのである。内藤湖南はこの宋朝的中国社会の成立を近世(近代)と呼んだのである。中国的近世とは「君主専制時代」であるとともに「平民発展時代」であると湖南はいう。
「それで貴族時代が崩れて、そうして君主も貴族から解放されます。平民も貴族から解放される。丁度平民が解放された時代が君主も解放されて、そうして君主が政権を専有して居りましたが、それに支配されるものは平民で、その間の貴族という階級が取れましたから、それで君主専制時代が即ち平民発展時代になります。」[4]
ところで世界史的にずば抜けて早く成立する宋朝近世(近代)の国家社会体制を「儒教モデル」と呼びながら、東アジアの近代史の根本的な読み直し、とらえ直しを朝鮮史の宮嶋博史がいっている。宮嶋がいう「儒教モデル」とは、「儒教=朱子学を理念として掲げ、その理念の実現を目指す国家、社会体制のことである。その核心は、儒教に関する深い知識を有する者を科挙によって選抜し、彼らが国家統治を担当すること、および、統治のもっとも重要な方法として「礼」が位置づけられ、「礼治」の徹底をはかることの二点にある」[5] という儒教的統治システムである。これだけでは「儒教モデル」の理念型的構成としては不完全ではあるが、宋朝近世社会の世界史的な早期の成立を、普遍的哲学、知識、道徳体系としての新儒学(宋学・朱子学)の成立との強い関係性の上に宋朝近世の国家社会を「儒教モデル」という普遍的な類型をもって再提示しようとした意図は理解される[6] 。宮嶋はこの「儒教モデル」を構成することによって、この「儒教モデル」との関係の中で日本近代史を、すなわち日本近代のいち早い成立も、また東アジアの現在における日本の孤立をも読み解いていくのである。
「一九世紀なかばまでの日本が東アジアで周辺的な地位にあったというとき、その最大の根拠は、日本における儒教モデルの拒否にあったこと、そして一九世紀後半以降日本が東アジアの中心に駆けあがることができたのも儒教モデルから日本が相対的に自由であったことが決定的に作用したこと、さらに今日、グローバリズムが席捲する中で、儒教モデル受容の歴史的経験の不在という条件が日本の進路を大きく制約していると考えられること・・・。」
宮嶋は「儒教モデル」による日本史認識のパラダイム転換をこのようにいうのである。このパラダイム転換は日本史についてだけいうのではない。これはもともと世界史認識におけるパラダイム転換である。すなわち〈ヨーロッパ的近代〉から〈宋朝的近代〉への世界史認識における〈近代〉の範型的転換である。この歴史認識のパラダイム転換の要求には、〈ヨーロッパ的近代〉の行き詰まり、あるいはその終焉の認識が前提されている。それゆえこのパラダイム転換の主張は、アジアにおける〈近代の超克〉の21世紀的な表現でもあるだろう。20世紀の〈近代の超克〉論は、その論の構成基盤に皇国的中心・日本と八紘一宇の帝国的周辺とをすでにもっていた。21世紀の〈近代の超克〉論が暗黙に前提しているのは、〈宋朝的近代〉を21世紀的現代に実現する東アジアの〈社会主義〉的な中心—周辺的関係を備えた〈帝国〉=中国である。たしかにそうだ、「日本史認識におけるパラダイム転換」論は21世紀中国の〈帝国〉的現前と、成立の時期をともにしているのである。
最後に宮嶋の「パラダイム転換」の問題提起は与那覇潤の『中国化する日本一日中「文明の衝突」一千年史』[7] といういっそう過剰な「パラダイム転換」による文明論的な歴史裁断の言説を成立させていることをいって、私の〈東アジア〉論への長すぎた現状認識的序論を終えよう。
[1] 朝日新聞「社説余滴」(2014年9月2日)。記者は国際社説担当の村上太輝夫。
[2] 朝日新聞「学問の自由縛る七不講」(消される言葉・天安門事件から25年3、2014年6月1日)。
[3] 『世界史の構造』については私のブログ「子安宣邦のブログ -思想史の仕事場からのメッセージ- : 中国と〈帝国〉の経験 ―柄谷『世界史の構造』を読む http://t.co/7JsTEfcZ0u 」を参照されたい。
[4] 内藤湖南「近代支那の文化生活」『支那論』所収、創元社、1938。
[5] 宮嶋博史「日本史認識のパラダイム転換のために一「韓国併合」100年にあたって」『思想』2010年1月、岩波書店。
[6] 宮嶋の「儒教モデル」を補強するものとして、伊東貴之のいうところを引いておこう。「宋「近世」説における、世界史的に見た、中国の政治社会の相対的な「先進性」への評価のひとつの眼目が、開かれた社会的な流動性を担保する、科挙官僚体制の充実にあることは、見易い道理であろう。」(伊東「伝統中国をどう捉えるか?」『現代思想』2014年3月号。)
[7] 与那覇潤『中国化する日本一日中「文明の衝突」一千年史』文藝春秋、2011。
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