サロット・サル
サロット・サル(Saloth Sar、1928年5月19日 - 1998年4月15日)とはカンボジアにネバーランドを興そうとしたピーターパンである。
概要[編集 ]
カンボジア王家と若干つながりのある彼は少年時代はその血の縁からか、エリート街道まっしぐらの人生を歩んでいた。転機になったのはフランス留学時の頃、道ですれ違う度にフランス人から「黄色いサル」と誹謗中傷と暴力を受け続け悲惨な留学生活を送っていた。おまけに試験でも迫害を受けて落第生としてカンボジアに戻される羽目に遭った。もはや黒歴史と言いたくなるような日々を過ごしていた彼だが、留学先の本屋でバイブルと呼べる本、『ピーターパン』と出会ってしまった。そこに描かれたピーターパンの勇敢な物語と理想郷のようなネバーランドという島は彼にとっては大きな衝撃で深く感化されてた。こうしてサロット・サルはフランスに対する憎悪と大人に対する強い不信感を持つことになり、未だフランスに占領されている祖国を解放し、またフランスに毒された大人たちを排して子供たちの楽園を建国するという大きな夢を抱くことになった。
帰国後はカンボジアの首都プノンペンで一般人として生活する反面、水面下では夢の実現のため賛同した仲間たちと活動をしていた。当時のカンボジアの国勢はフランスからの植民地解放の気運が高まっており、同時に政権からの弾圧もされていた。彼もまた弾圧を恐れて首都を脱出し長期間のジャングル生活に突入した[1] 。再び戻ってきたのはベトナム戦争で国内外の情勢が不安定になった頃。そのどさくさに紛れて武装蜂起し、革命に成功してカンボジアのトップに立ち、夢であるネバーランドづくりを始めることになった。サロット・サル既に47歳の時であった。もう立派な大人である[2] 。
しかし、国造りからわずか4年後、ベトナム戦争の勢いのままベトナムがカンボジアに対しが戦争を仕掛け、あっという間にプノンペンにまで到達してしまった。そして、ベトナム軍がプノンペンに足を踏み入れた時、そこには誰もおらず、もぬけの殻だった。サロット・サルもその仲間たちも、そして子供たちもおらず、ベトナムが戦争で手に入れたのは土地と彼と対立した有力者、そして首都から遠く離れた辺境の地にわずかにいた大人たちであった。まるでネバーランドに逃れたかのように人だけがいなくなっていた。
プノンペンのネバーランド計画[編集 ]
大人になっても大人に対する不信感を抱き続けた彼はまず子供たちを大人から解放させることを始めに実施した。自分と同じような境遇を経験した子供たちに銃とナイフを渡して子供たち自身が大人へ引導を渡し その根深いしがらみを絶たせてあげたのであった。曰くたとえ親であっても、社会の毒と思えば微笑んで殺せ。また、子供たちを縛り付けていた様々な制約を撤廃し、子供たちが自由にやりたいこと・なりたい職業への夢を簡単に実現できるように整備していった。例えば飲酒や喫煙の制限、車の運転や医師の資格などの免許制の撤廃である。実際にポル・ポト政権下では少年医師が活動していたとのこと。たった4年しか活動していないから医療器具の使い方や薬の効能はもちろん、字も読めていなかったらしいが。
一方で大人に対する対応は冷酷で残忍であった。まず、プノンペンをネバーランドにするために大人たちは自分の仲間以外は等しく首都から追放させていった。自分たちへの反抗の火種になる可能性を秘めているため私有財産を全て取り上げて、休日の概念を排除し宗教、恋愛も禁止して田舎でただひたすら農作業に勤しむことを命じた。戦争や内乱でで血を流すことは愚の骨頂、血というものはこうやって使うものだと叩き込んだのであった。なお、子供たちはネバーランドへの入国が認められているためプノンペンから追放されず、親元から離れることにはなったが首都での生活が許された[3] 。
また、無駄に知識を持った人たちは毛嫌いしており、変な批評をされる前に適当にスパイ疑惑をでっち上げて処刑していった。これは大人も子供も皆等しく行った。
余談[編集 ]
彼が自らのバイブルとした『ピーターパン』にはこんな記述がある。
子どもたちは大きくなると、それは規則違反なので、 ピーターはできるだけ大急ぎで、子供たちを執念深く殺していきました。
『ピーター・パンとウェンディ』よりたった4年で終了したポルポト政権。長く続いていたらどんな結果になったのだろうか。