ユーゴスラビア
ユーゴスラビアとは、西洋諸国の覚え目出度かったはずの消滅せし旧社会主義連邦国家である。
誕生から社会主義まで[編集 ]
ユーゴスラビアは第一次世界大戦の引き金をひいたセルビア王国がコルフ島でゴルフをしながら西洋列強と交渉した結果、1918年12月に生まれた連合王国を基とする。当初の国名は「セルビア人とクロアチア人とスロヴェニア人の王国(セルブ・クロアト・スローザンヌ王国)」だった。
しかし、この王国名は余りにも覚えにくかった。西洋社会からは「どうせならセルビア人とクロアチア人とスロヴェニア人とボスニア人とモンテネグロ人とマケドニア人の国と名乗れ!」というクレームが大量につけられた。スロヴァキア人もまた、「俺らと紛らわしい民族名は要らない!」といって国名の改称を交渉した。その強い拷問的圧力を受け、自分でも正しく国名の並べられなかったアレクサンドル国王は1929年、南スラブ(ユーゴスラビア)王国への改称を決断する。ところが、マケドニア系のVMROという組織はこの国名改称を「珍名だった国を消滅させた最大の売国行為」と呼んでアレクサンドル国王を暗殺した。
その後、ダルマ好きのクロアチア系勢力が台頭して国は混乱に陥る。そこをヒトラーおじさんが聖火リレーのルートを辿って攻めてきた。クロアチア人は自らを黒きアジアの民と呼んで独立国を建国し、ヒトラーの指令を受けた民兵達がウスタシャ―と他民族を討伐した。セルビア系の王国軍団も対抗してエクストリーム・大虐殺を働く。国内の既得権勢力は民族の特権をかけて勇午的拷問作戦を展開し、国を内乱に導いた。
ティトーの智慧[編集 ]
そこにやってきたのがクロアチア系のティトーである。ティトーの口癖は「ちっと〜待った。社会主義の大義と契約して、単一ユーゴ人になろうよ」だった。そして、パルチザン闘争を山中で展開し、ボスニアのヤイツェの街で反ファシスト会議アヴノジュを開催し、チェトニクやウスタシャの悪兵たちを追い払った。旧勢力の拷問作戦が余りに目を伏せるべきものだったので、旧勢力がパルチザン闘争内での残虐行為を指摘しても、「お前らよりはまし」と言われるばかりだった。
ところが、戦後も社会主義界のツァーリとなったスターリンはティトーのユーゴ軍が赤軍の支援なしで勝利したことに多大な危機感を抱き、「貴様ら、よくも勝手に関税同盟を結んでくれたな」といちゃもんをつけてユーゴを共産主義陣営コミンフォルムから除名する。ティトーもまた、スターリンの家臣達に攻撃されたが、「ちっと〜待った。熱い君たちはアドリア海の裸島で遊んでいろ」と述べて国家主権を維持した。
ティトーがいくら民族問題の不在を唱えても、クロアチア人等との民族問題は列記として存在した。そこでティトーは「ちっと〜待った。セルビア語もクロアチア語も同じじゃないか」と述べて言語そのものの統一を試みる。これがユーゴ内の2大言語を融合させたセルボ・クロアチア語だ。「セルビア人とクロアチア人の違いは反動要素たる宗派の違いしかない」と主張した。
しかし、民族上の違いを消し去ることには限界があった。そこで自主管理型の社会主義が代わりに志向された。民族共和国単位で、自主管理原理による発展を目指したのだ。この原理はそれなりに機能し、「七国境、六共和国、五民族、四言語、三宗教、二文字、一国」という民族統合が志向された。ティトーはこの自主管理方式の将来を知らぬまま1980年他界した。西洋メディアは、「ユーゴスラビアは、社会主義の中で最もましな国家だ」と伝えていた。
戦争するほど仲が良い[編集 ]
ティトーがいなくなると、マケドニア系のコリシェフスキーが後を継いだ。すると、ティトーがいなけりゃ怖くないとばかりにコソボ自治州でアルバニア人も民族に加えろと求める暴動が発生した。アルバニア人はホッジャのような無神論共産主義を求めて暴動を起こしたのだが、これを機に連邦の分裂が始まった。
ここでその機を捕えたのがミロシェビッチだった。ミロシェビッチは「我々はセルビア人である。我々はセルビアの勇猛なる伝統を父とし、東方正教の幽香なるイコンを母としてきた。しかし、ユーゴ建国以来他ならぬセルビアの地でセルビアの伝統が否定されてきた」と述べて、「それでも、我々は平和を求めている。異民族よ、喧嘩するほど仲が良いというじゃなイカ?」と挑発した。
すると、民族の自主管理組織が一気に反発を強めた。最西部のスロヴェニア人は「どうせだったら南の貧乏人なんかより西のラテン人とくっついた方が楽しくね?」と考え、クロアチア人は「セルボ・クロアチア語だと?なぜ、セルビアの方が先なんだ!」と辻斬りせんばかりに怒り、ボスニア人(ボスニアーク)は「イスラム主義かましてよかですか?」と叫び始めた。そして、友好のための喧嘩のはずがいつの間にか交渉の余地なき大喧嘩となった。民族意識に沸くセルビアと「黒い山に籠ってる方がいいんだ」と叫ぶ以外芸のなかったモンテネグロ以外で共産党政権が崩壊する。特にボスニアではたいへんな事態が発生した。西洋メディアは「共産政権の中で最も悪かったのはユーゴ」と報道していた。
そして、ユーゴ連邦からの大分離が始まった。スロヴェニアが分かれ、クロアチアが分かれた。セルボ・クロアチア語という概念もやがて消滅し、再分離していった。コリシェフスキーもこそこそとマケドニア共和国を分離してスコピエ〜と引き揚げた。ギリシア共和国はこれに対し、「卑怯だぞ、国家分離の部分だけアレクサンドロス大王の部分を真似るとは。お前らに俺たちの古代王国の後継国を名乗る資格などない」と反発を続けている。
ユーゴ大分離への喧嘩(戦争)を始めた人間は今、「いや、あれは喧嘩のやり方を知らない人間が勝手に始めたことだ。俺たちは程度を知る人間なんだ。俺たちは戦争するほど仲が良いんだ」と反省の色を示そうとしていない。
消滅への道[編集 ]
社会主義体制崩壊後、ユーゴ連邦の大統領となったスロボダン・ミロシェビッチは、相変わらずセルビア人のための示威活動に余念がなかった。実際のところ、セルビア人中心となった分裂後のユーゴ軍の実力は、素ロボ団と呼ばれるほど張り子の虎だった。
それでも、ラドヴァン・カラジッチ将軍は「ヘルツェゴビナをドヴァンとせなあかんッチ!」と述べて強気だった。そして、ボスニアへ出かけていき、自分が呼ぶ「不寛容なイスラム」よりも不寛容な行動に乗り出した。作戦は成就直前だったが、NATO軍が介入した結果、中断した。西洋マスコミは、「これでやっと社会主義時代の美化報道から卒業できる」と大いに安堵した。
すると、ミロシェビッチは南のアルバニア人に向け、「コソコソぼさってるんじゃない!」と述べて機会を伺った。すると、1997年ねずみ講に喰われるアルバニア人が続出した。ミロシェビッチは「ねずみに喰われるアルバニア人など、猫のような俺様の軍隊にかかれば一たまりもあるまい」と考え、討滅作戦に繰り出したが、再度NATOに納豆的空爆を加えられて挫折した。
戦争に負け続けたことで、さしものセルビア国民も「ミロシェビッチよ見ろ、貴様のせいでユーゴがオワタ」と感づいて、ミロシェビッチを国際戦犯法廷に差し出し、コシュトニツァが大統領になった。つまり民主化した訳だが、「もうセルビア人なんか怖くない」という感覚がさらに強まった。そして、「もう南ユーゴ人等という名前なんかいらない」という声が出て、2003年ユーゴは「セルビア・モンテネグロ」と改称した。これで安心かと思いきや、その4年後、永遠の(削除) 脇役 (削除ここまで)同胞のはずのモンテネグロまで「セルビアにはもうぽどぽど懲りっつぁよ」と逃げられた。これがユーゴスラビア連邦の終焉である。
外交[編集 ]
冷戦期は非同盟外交という独自外交の雄だった。先進国にはない対等な多民族国家だった訳で、糸川ロケットの技術をこっそり入手[1]するなど高い交渉能力を持っていたのだが、一民族国家に分解した今日、その名残を探すのは至難の業だという。ボスニア系の某監督はこれについて、「オシムべきことだ」とコメントしている。