近代社会の音楽の模索と創造-明治・大正・昭和初期-
明治時代(1868-1912)に日本は西洋の科学や文化を積極的に学び取り入れるようになりました。これを文明開化とよびます。軍楽隊や学校教育で西洋音楽が教えられるようになり、レコードや映画、ラジオなどを通して次第に西洋音楽は人々の生活の中に浸透するようになりました。しかし、江戸時代までに演奏されていた音楽に親しみを感じる人も多く、日本古来の音楽は、新しい社会に適した工夫を加えつつ伝承されていきます。古典的なレパートリーを継承するだけでなく、新しい音楽ジャンルや楽曲が多数創作されました。
伝統的な音楽制度の崩壊による新しい音楽活動
近代国家を目指す明治政府は社会制度の変革を行い、その過程で、音楽の伝承も大きな変化を受けました。雅楽(ががく)に関しては、京都や奈良から音楽家たちが東京に移り、雅楽局という官立の機関に所属して雅楽と西洋音楽の両方を伝承するようになりました。江戸時代に幕府の式楽(しきがく)
朝廷や幕府の儀式で用いられる音楽や舞のこと。江戸幕府においては能楽(のうがく)や平家琵琶(へいけびわ)をいう。 であった能楽(のうがく)は、武家社会の崩壊により大きな打撃を受けますが、その後、能の愛好者が皇室や華族に現れたり、趣味で謡(うたい)や仕舞(しまい)を稽古する人々が生まれたりするなど新しい活動の場が生まれました。平家琵琶(へいけびわ)や地歌箏曲(じうたそうきょく)の演奏者が所属していた当道座(とうどうざ)、盲僧琵琶(もうそうびわ)の演奏者が所属していた盲僧座、尺八(しゃくはち)を独占的に演奏していた普化宗(ふけしゅう)が明治政府によって廃止され、女性や晴眼者も箏や地歌の専門家として活躍できるようになり、合奏には尺八が加わることが増えました。箏や尺八に関しては、西洋音楽の要素を積極的に取り入れた新作が多数作られ、オークラウロ(フルートと同様のキーが付いた尺八)や十七絃箏など新しい楽器も開発されました。さらに筑前琵琶や浪曲など、新しいジャンルも生まれました。
所蔵:東京都江戸東京博物館