多彩な音楽の共存―安土桃山時代・江戸時代―
安土桃山時代(1573-1592)にはキリスト教の布教のために宣教師が来日し、キリスト教とともにヨーロッパの文化が伝わり、ルネサンス期の楽器や音楽が日本でも演奏されました。しかし、キリスト教が禁止されたことにより、これらの音楽はその後、演奏されなくなりました。
16世紀の後半には琉球経由で三味線が伝来し、江戸時代(1596-1868)になると三味線を使った音楽ジャンルが数多く生まれました。さらに箏(そう・こと)や尺八(しゃくはち)との合奏や、人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)や歌舞伎(かぶき)など庶民が生み出した芸能でも必須の楽器として三味線が使われるようになりました。そのほかにも薩摩琵琶(さつまびわ)や一絃琴(いちげんきん)
細長い木製の胴に1本の弦を張った琴。須磨琴(すまごと)、独弦琴(どくげんきん)、板琴(いたこと)などともいう。・二絃琴(にげんきん)
細長い木製の胴に2本の弦を張った琴で、2本の弦を同音に調律するのが特徴。江戸時代に神道で用いるために考案された八雲琴(やくもごと)や、明治時代にそれを端唄や俗曲用に改良した東流二絃琴がある。など、三味線音楽だけでなく新しい音楽ジャンルも生まれました。また琉球やアイヌとの交流も生まれ、その音楽が知られるようになりました。
三味線の伝来と三味線音楽の広がり
三味線は日本音楽の歴史の中では、比較的新しい楽器です。15世紀に中国から琉球に伝わった3本の弦をもつ楽器「三弦(さんげん)」が、琉球で改良されて「三線(さんしん)」となり、16世紀後半に琉球との貿易拠点であった大坂の堺に伝来し、琵琶法師が演奏するようになったと考えられています。
三線は指先に爪をはめて弾いていましたが、本土に伝来した楽器は、撥(ばち)を使って弾くようになり、楽器の形や大きさも次第に変化し、三味線とよばれるようになりました。当初は、その頃に流行していた歌などを伴奏していましたが、次第に三味線のための歌曲が作られたり、語りもの音楽の伴奏に使われたりするようになりました。そして、遊里(ゆうり)
遊女屋を集めた幕府公認の地域のこと。江戸時代、芝居と並ぶ娯楽として文化と深い関りを持ち、多くの音楽が演奏され、創作された。や家庭の座敷(ざしき)
畳を敷いた部屋。客を迎え入れて酒宴などを開く部屋も指す。など室内の小規模な空間から、人形芝居や歌舞伎が演じられる劇場のような大きな空間まで、さまざまな場所で演奏される人気の楽器となりました。
作者:菱川師宣
所蔵:東京国立博物館
Image: TNM Image Archives
室内楽としての三味線と箏曲
室内楽としての三味線音楽は地歌(じうた)とよばれます。地歌は江戸時代に京や大坂など上方(かみがた)
江戸時代に、京都やその周辺の大坂などの地域をさして使われるようになった語。を中心に発展しました。当初は短い歌をいくつか組み合わせた「組歌(くみうた)
三味線や箏(そう・こと)で、独立した歌謡の歌詞をいくつか組み合わせて、1曲として歌詞にして作曲したもの。」の演奏が中心でしたが、その後、「長歌物(ながうたもの)」「端歌物(はうたもの)」「浄瑠璃物」「芝居歌物」「作物(さくもの)」「謡い物(うたいもの)」「手事物(てごともの)
地歌(じうた)や箏曲(そうきょく)、胡弓楽(こきゅうがく)において、手事(歌と歌の間で行われる楽器のみの長い演奏)部分をもつ曲。」など、歌詞の形式や内容、曲の形式などの異なる演奏様式が生まれました。
また箏(そう・こと)や胡弓(こきゅう)との合奏も盛んに行われるようになりました。箏曲や胡弓楽は、元来、地歌とは別の独立した音楽でしたが、地歌との合奏が盛んになるにつれて、一人の演奏家が三味線だけではなく箏や胡弓も演奏するようになりました。江戸時代に専門家として地歌を演奏したのは、当道座(とうどうざ)という盲人組織に所属する男性でした。しかし、家庭では習い事や趣味の音楽として、また遊里では座興(ざきょう)の音楽として女性が演奏することも多く、愛好者のために歌詞集や楽譜なども出版されるようになりました。
所蔵:国文学研究資料館
出典:国書データベース(https://doi.org/10.20730/200035052)
劇場での三味線音楽
江戸時代には人形浄瑠璃や歌舞伎といった音楽劇が生まれ、都市部の庶民の娯楽として愛好されるようになりました。室町時代に生まれた語りもの「浄瑠璃」は、当初は琵琶の伴奏や扇で拍子を取って演奏されていましたが、その後、三味線が主要な伴奏楽器となりました。浄瑠璃と人形劇が結びついた人形浄瑠璃では、義太夫節(ぎだゆうぶし)という語りものの三味線音楽が芝居の進行を担当します。一方、歌舞伎は役者による芝居と舞踊を中心とした芸能で、長唄(ながうた)、常磐津節(ときわづぶし)、清元節(きよもとぶし)、竹本(たけもと:歌舞伎で演奏される義太夫節)などさまざまな三味線音楽が用いられます。歌舞伎で演奏されるこれらの三味線音楽は、それぞれに声の出し方や、三味線の音色や演奏法などに違いがあり、豊かな音の世界を作り出しています。
所蔵:国立劇場(NA091420)
劇場から離れた三味線音楽
三味線音楽のジャンルの中には、遊里などの座敷での演奏が中心となったものもあり、その多くは浄瑠璃(語りもの)です。京都で生まれ、その後江戸で流行した一中節(いっちゅうぶし)、江戸で生まれた河東節(かとうぶし)をはじめ、新内節(しんないぶし)や宮薗節(みやぞのぶし)など、それぞれに個性を持った浄瑠璃が生まれました。また歌舞伎音楽の長唄を座敷で演奏することで荻江節(おぎえぶし)も生まれました。さらに歌舞伎で演奏する長唄などの音楽ジャンルも座敷で演奏されるようになり、座敷での演奏のための楽曲も作られるようになりました。幕末には端唄(はうた)・うた沢・小唄などの三味線歌曲が流行しました。
作者:歌川豊国
所蔵:東京国立博物館
Image: TNM Image Archives
宗教音楽としての尺八
竹製の縦笛である尺八は、中世から近世初期にかけて、一節切(ひとよぎり)という竹の節が1つの短いものと、三節切(みよぎり)という竹の節を3つもつものが使われていました。どちらも表に4つ、裏に1つの指孔があり、真竹の中央部分を使って作るため、楽器はまっすぐの形状です。一節切は、17世紀に庶民の間で流行し、箏や三味線との合奏にも使われましたが、18世紀に入って急速に衰退します。一方の三節切は、普化宗(ふけしゅう)の僧侶が演奏するようになり、江戸時代の初期に、根竹の部分を使って作るようになりました。これが現在、普化尺八とよばれるものです。普化宗は、唐の普化禅師(ふけぜんじ[生没年不詳])を祖と仰ぐ禅宗の一派で、普化宗の僧侶である虚無僧(こむそう)は、尺八を吹くことが修行でした。そのため、普化宗では遊芸(ゆうげい)目的での尺八吹奏や他楽器との合奏、一般人の吹奏を禁止していました。18世紀後半には、全国に70以上の虚無僧寺があり、それぞれの虚無僧寺には、独自の尺八の吹き方と固有の旋律がありました。そして、修行で全国を行脚する虚無僧が、各地の寺の旋律を習い覚えるようになりました。
紀州徳川家伝来
所蔵:国立劇場
所蔵:国立歴史民俗博物館
音楽ジャンルの広がり
江戸時代には、三味線音楽以外にも多くの新しい音楽ジャンルが各地で生まれました。九州の薩摩地方では、元来は盲人の楽器であった琵琶とそれを伴奏にした歌を武士階級の人々も演奏するようになり、多くの薩摩琵琶歌が作られました。また江戸時代後半には須磨琴(すまこと)ともよばれる一絃琴が精神修養の楽器として僧侶や神官、武士などの間で演奏され、八雲琴(やくもごと)ともよばれる二絃琴が神前で演奏する楽器として考案されました。さらに、中国から長崎に新たな音楽が伝来しました。17世紀後半に伝来した明楽(みんがく)はその後京都で文人や儒学者を中心に愛好されました。さらに19世紀前半に伝来した清楽(しんがく)は幕末から明治前半に全国で流行しました。これらを明清楽(みんしんがく)とよんでいます。
所蔵:国立劇場(0011838)
所蔵:国立劇場
古い音楽の継承
江戸時代には、新しい音楽だけでなく、江戸時代以前から演奏されてきた音楽も継承されました。
雅楽(ががく)は応仁・文明の乱(1466-1477)で大きなダメージを受けますが、その後、京都と南都(奈良)と天王寺(大坂)の楽人(がくにん)
雅楽(ががく)を演奏する人やその家柄のこと。特に平安時代中期以後、朝廷の下で雅楽を習得し、宮廷や寺社で専門に雅楽を演奏する人のことをいう。「がくじん」ともよむ。が合同で宮廷儀礼を行う三方楽所(さんぽうがくそ)の制度が生まれ、江戸時代には、それに加えて徳川家の祭祀(さいし)のために江戸にも楽人が住むようになりました。また、雅楽を愛好する大名も増え、藩校で雅楽を学ばせる藩もありました。
室町時代に成立した能楽(のうがく)は、江戸時代になると幕府の式楽(しきがく)
朝廷や幕府の儀式で用いられる音楽や舞のこと。江戸幕府においては能楽(のうがく)や平家琵琶(へいけびわ)をいう。 として、新しい将軍の就任や祖先の法要など儀式の際に演じられる芸能となり、武士にとっての重要な音楽となりました。また、平家琵琶(へいけびわ)も徳川幕府の儀式音楽のひとつとして演奏されるようになり、盲人演奏家が所属する当道座は、平家琵琶に加えて、箏曲・地歌の演奏についても幕府から独占権を与えられました。一方、九州で活動した琵琶法師の音楽は盲僧琵琶と呼ばれ、薩摩地方では18世紀後半になると武士も琵琶を演奏するようになりました。
所蔵:国立劇場(NA080430)
琉球音楽・アイヌ音楽の歴史
江戸時代になると琉球やアイヌの人々との交流も増え、その音楽が本土の人々にも紹介されるようになりました。
東アジアの貿易拠点として繁栄した琉球王国(1429-1879)は、中国に貢物を捧げて君臣関係を結ぶとともに、1609年以降は薩摩藩や江戸幕府からの支配も受けつつ、独自の文化を発展させました。国王の交代時には、新国王の即位を認める中国皇帝からの勅書(ちょくしょ)を届ける冊封使(さくほうし・さっぽうし)が派遣され、江戸幕府にも琉球から使者を送りました。このような外交儀礼においては、御座楽(うざがく)とよばれる中国伝来の音楽が演奏されました。宮廷では、三線(さんしん)や箏(そう・こと)、胡弓(こきゅう)、笛などの楽器も演奏され、「工工四(くんくんしー)」とよばれる楽譜も作られました。18世紀初頭に生まれた歌舞劇の組踊(くみおどり)は、薩摩や江戸を訪れた際に見聞した能や歌舞伎の影響もみられます。
所蔵:国立劇場
アイヌは、現在の北海道とその周辺地域に古くから共住している民族で、日本語とは異なる言語体系や生活文化を持っています。江戸時代になると、松前(現在の北海道松前郡)に松前藩が置かれ、アイヌとの交易を独占的に行うようになりました。異文化への興味から蝦夷地(えぞち)とよばれていたアイヌ居住地で調査を行う人も現れ、アイヌの人々がムックリという口琴(こうきん)
枠に取り付けられた細長い弁を振動させ、口の中で共鳴させる楽器の総称。やトンコリという弦楽器、太鼓などを演奏していたこと、イヨマンテ(熊送り)の儀式では、リㇺセ(踊り)が踊られていたことなどが書物に記されています。
所蔵:函館市中央図書館(be001163-005-0008)