現在では,環太平洋式の造山帯は深発地震を伴う海洋プレートの沈み込みによって形成されるということは常識になっている.これは,深発地震の存在を初めて確認した和達清夫(Wadati, 1928; Frohlich, 1987; Suzuki, 2001; 鈴木, 2004a)と,深発地震帯は大陸/大洋境界の逆断層であり海溝はこの断層の運動によってできると喝破したベニオフ(Benioff, 1949; 1954)の貢献とされ,深発地震帯は和達−ベニオフ帯(Wadati-Benioff zone)と呼ばれる(菊地, 1996; 上田・杉村, 1970, p. 36).Benioff (1949)はトンガ・ケルマデック弧とアンデス弧のデータに基づくが,日本を含む他の深発地震帯にも言及している.なお,深発地震の発震機構はHonda (1934)や本多・正務(1940)が解明した.(江原, 1942; 上田・杉村, 1970; Suzuki, 2001; 鈴木, 2004b).
一方,深発地震帯を大陸/海洋境界の大規模な逆断層とし,海溝はこの断層運動によって形成されるとする考えは,Benioff(1949)より前に,地震学的・野外地質学的データに基づいて複数の日本人地質学者が既に提唱していた.江原(1942)は太平洋の深海底岩盤の日本列島下への沈み込みを「太平洋運動」と呼び,その冒頭で,『本邦における太平洋運動は小藤(ことう)先生が始唱者であって,これと共に藤原咲平博士があった.小藤(文次郎)先生はその著「The Rocky Mountain Arcs in Eastern Asia, 1931」において,太平洋深海底の玄武岩(sima)がアジア大陸のsialに対してunderthrustをなし,褶曲山脈と断層山脈を起こすと述べられた.藤原博士はその著「地渦地裂及地震, 1932」において南日本の起震力は北西と南東から押し合っているものと見做され,これを太平洋運動の一部とされた』と述べた.そして,江原(1942)は「太平洋運動と深発性地震帯及Nippon Trench Thrusting Province」なる表題の節において,本多・正務(1940)の論説と深発地震分布図を引用して,(深発地震の)「発震機構は西または北西に30°の傾斜角を有する面を考えるときは,その面の下においては,東または東南より衝(つ)き込み(underthrust),反対にその面の上においては西または北西より衝き上げ(overthrust),この両運動のshearing movementによりて地震となる」と深発地震の発震機構に基づく運動像を明確に述べている(衡は誤字と判断し衝に改めた.カッコ内を補い,かなを現代風に改めた.昔は花崗岩質の大陸地殻をsial(Si-Al),玄武岩質海洋地殻とかんらん岩質マントルをsima(Si-Mg)と言った.シアルはシマの上に浮きアイソスタシーが成り立つ.望月(1940)はこれらを珪礬帯,珪苦帯と呼んだ).そして,太平洋運動の考えは早くも江原(1940)及びYehara (1940)で提唱された(今井, 2006).なお,江原(1942)は野外調査に長年協力した助手の沢田俊治に懇切な謝辞を述べている(石渡, 2004参照).
次は槇山次郎である.石渡(2018)は,『1945年の終戦後,日本の太平洋側の堆積盆は「地向斜」ではなく「地単斜」であり,「地単斜帯では地史の上に特別な造山期というものが認められず」,「日本では作用する力は偶力の状で…大陸側から高水準に,太平洋側からは低水準に…反対に押した形である」という考えを述べた日本地質学会会長(槇山, 1947)』に言及した.槇山次郎は1986年に90歳で没し,糸魚川(1987)の追悼文はほとんど槇山の古生物学への貢献のみについて述べているが,神谷・高橋(2017)の列伝はMakiyama (Sagarites) など軟体動物化石の研究,ナウマンゾウの命名などの他に構造地質・資源地質関係の業績も述べている.その中に「岩石変形学」がある.戦時中の1944年初版とのことだが,私が読んだのは戦後の改訂版(槇山, 1949)である.この本では,槇山(1947)の講演内容がGriggs (1939)による粘性体の流動実験(図1)を示して詳しく説明され,(この実験では)「下層を水ガラスとし,表殻は砂を油で練り上げたものにした.(中略)(左側の図では)表殻内に低角上方摺動(衝上断層)ができ,(中略)あたかもコーバー(Kober)のオロゲン(造山帯)の絵にそっくりであるのは驚くべきことである.右側の図では片側の円筒の回転を止め,他の側だけを動かした場合の結果を示す.下向き褶曲は幅が広く,非対称形で,その急な斜面は対流に面している.左の図は両方の円筒を均等に回転し,対称的な構造を得た.右側で示す実験では流速を増すと表殻は動く側では薄くなり,動かぬ側へ押し寄せられてしまう.これは実に環太平洋式過褶曲を暗示するものでなければならず,左図はアルプス式を意味する」.そして,槇山(1949)は次のように結ばれる.「最近,江原眞伍博士は太平洋運動説を数回に及び述べている.また博士は日本海運動も合わせ考えている(江原, 1940, 1942, 1943).望月勝海氏は対流による説明を若干試みている(望月(1940)はシマ(珪苦帯:太平洋底・フィリピン海底の岩盤)の沈み込みに加え,水平方向の回転流動により伊豆弧の成因を論じた.望月の業績と人物は杉村(1992, 2023)と山田ほか(2023)参照).これ等の所説はまだ地殻下の固体流動の理念を基本としていないのであるが,自今は改めて此所に基準して(固体流動の理論に基づいて)発展を期すべきであると信ずる」(かなを現代風に改めカッコ内を補った).
もう一人,青山信雄(1948)は全3巻の著書「構造地質学」の第1巻最終節「深発地震」のp. 134で,「1922年Turnerが数100kmの深さの所に震源が存することを発表した時にも,一般にはこれを信じなかった.然るに,この深所震源の存在は1928年和達博士により確証されるに至ったのである」と書き,末尾のp. 137では,「東北地方の東方沖合から日本の下を通ってアジア大陸側へ向かって30〜40°傾斜する一つの面を考えると,この斜面に沿って地震が最も多く起こっていることとなる.あるいは実際かくの如き大規模の断層が生じていて,大陸側の地塊は海洋側の地塊の上に押し上がらんとし,海洋側の地塊は大陸側の地塊の下に潜り込まんとする様な剪断応力が働いているとも想像される」(かなを現代風に改めた)と書いて,次ページに日本付近の浅発地震と深発地震の分布図を掲げた.本書はBenioff (1949)の前年に出版された.翌年の第2巻(p. 236)ではグリッグスの実験(図1)を引用し,左側の図は「Koberの両面性のオロゲン型(Alpsなど)に似ている」,右側の図については「環太平洋山脈の構成はある点までかくの如き見解が適用さるべきものとGriggsは唱えている」と述べた(石渡の卑見では,この実験で(一方を止めずに)両方の軸を同じ向き(左図は反対向き)に回転すれば,島弧と縁海の形成を説明できる).青山はその後,鉱物趣味の会から全4巻の「岩石学」を出版したが,その第3巻(変成岩)の序文(木下亀城筆)は,『(青山が)「輓近鉱物学」,「一般地質学」,「構造地質学」,「地球発達史」を著し,地質学の各部門に広く精通している稀にみる博学多才な地質学者である』と述べている(「構造地質学」の著者肩書は佐賀高等学校教授・九州大学講師).
まとめると,Benioff (1949)より早く,後のプレートテクトニクスにつながる深発地震帯逆断層説を,複数の日本人が公表し,しかも地震学者ではなく地質学者が,深発地震の分布や震源メカニズムの解析,今で言う付加体の褶曲や断層の野外調査データ等に基づいて議論していたことは注目に値する.特に江原の論文は長期の野外調査及び広汎な文献調査と熟慮に基づき独自性が高く,Benioff (1949)以前に深発地震帯逆断層説を明確に論じた.和達−ベニオフ帯は,和達−江原帯と称すべきなのだと思う.
青山(1948/49)の書籍をご恵与いただいた故山崎正男先生と,拙稿を読んで改善意見をいただいた池田保夫・平田大二両会員に感謝する.
「日本の地質学100年」(日本地質学会, 1993年)に,ベニオフと江原について,杉村と山下による次のコメントがあるので追記する.(石渡 明; 2025年02月28日)
(1)杉村 新(11. 島弧論 (5), p. 122)
なお,深発地震帯を和達ベニオフ帯*と呼ぶことが多いが,Frohlich (1987)も指摘しているように,ベニオフ(H. Benioff)の名を用いるのは不適当である.筆者は未だかつてこう呼んだことはない.日本の深発地震帯を明らかにしたのは,何人もの日本の研究者であり,これを世界の深発地震帯に拡げたのはGutenberg and Richter (1938; 1949) である.
文 献(他の文献は本文の文献リスト参照)
*(石渡注)この語を世界に広めたのはSeiya Uyeda (1978; “The New View of the Earth: Moving Continents and Moving Oceans”, Freeman. 217 p. (translated by Masako Onuki) p. 135-137) である.この本は上田誠也(1971; 「新しい地球観」岩波新書779)の英訳であり,多言語に重訳されたが,和文の原本(p. 135)にこの語はない.
(2)山下 昇(「I 古典的日本列島像の形成 1. ナウマンの『構造と起源』から江原の「太平洋運動」まで (5), p. 15-16」)
ところで,江原真伍はこの時代の最初から最後まで,そしてさらに次の時代まで活躍し続けた,稀に見る長距離ランナーであった.最初は日本各地の白亜系の研究から入り,やがて四国の地質構造研究へ進み,この時代の末期には「太平洋運動」(1940)を提唱してフォッサマグナの成因を論じた(1942).江原の研究方法には,ジュースやリヒトホーフェン時代の古めかしい方法と,現代的な斬新な構造地質学の手法とが混在している.だから彼の主張には,ある面では夢物語のような掴みがたい所があるが,同時にまた無視することができない面白い着想が含まれている.活断層(1934)という語を用いたのもおそらく江原が最初であろうし,その他,日本海側から日本列島へ向かう運動(日本海運動)とともに太平洋側から日本列島へ向かってunderthrustする太平洋運動がある,と主張するとき,その根拠の一つは野外で観察される小構造であった.その根底には「小構造は大構造の鍵」というまさに現代的な方法論がある.ただ,おしいことに,そのデータはまだきわめて少なく,それを大構造へつなぐ論理の間隙が大きい.けれどもモデル実験をも参考にしたフォッサマグナ成因論は,太平洋のunderthrust説とともに現代の成因論を思わせるものがある.
文献(他の文献は本文の文献リスト参照)
(石渡注)この活断層の1つが若樫(わかかし)断層(大阪府和泉市)であるが,これについては逸話がある.「それは昭和6(1931)年,地質学会が京都であった時である.江原は演壇に立って,和泉山脈にあるNE-SWの並行断層を弁じた.中村(新太郎)は立って,そういう断層は存在しないと言った.和泉山脈の断層がN-Sであることを歩いて確かめていたからである.その時「江原君,君のクリノメーターは45度狂っている」という有名な言葉が出たのである」(別所文吉1964「江原真伍先生小伝」地学研究, 15, 337-344).しかし,江原(1937「丸山断層と若樫断層」地震, 9, 1-5)でもこの断層はNE-SW走向で図示されており,露頭記載は「この断層は附近に発達する旧洪積期の砂利層の上に花崗岩の衝き上げたものであって,断層面の走向北30度東で傾斜は北西に50度内外である」となっている.若樫断層は地調の1/5万岸和田図幅と説明書(市原実・市川浩一郎・山田直利,1986)にも示されているが,それは何とE-W走向であり,江原とは逆に,南側上がりの衝上断層としている.「新編日本の活断層」(東大出版会, 1991)はこの図幅を引用して若樫断層を確実度I(確実),活動度C,長さ2kmの活断層としている.いずれにしても,1934年に江原が「若樫より父鬼(ちちおに)に向ふ通路の北側を切割りたる際露出せる」活断層を報告したことは動かせない事実であり,いま考えると,江原らが見た北西側から衝き上げる断層は,若樫断層のバックスラストだった可能性がある.
江原(1934)が論じた「活断層二例」は芦屋断層と槇尾(まきお/まきのお)断層であった(【追記】の若樫断層は後者の一部).断層を横切る測線の水準測量による過去40年以上の期間の水準変動(今村, 1931; Imamura, 1933)に基づき,両断層の活動を論じた.神戸―大津測線では芦屋断層の西側が沈降していたが,1927年の丹後地震後は隆起に転じ,紀ノ川測線の槇尾断層延長部付近では最大約80mm隆起したという.つまり,江原(1934)の「活断層」は「測量等により現在の動きが確認できる断層」を意味している.なお,芦屋断層は現在も六甲・淡路活断層系の一部として北の五助橋断層,南の甲陽断層の間に確認されているが,槇尾断層は存在が未確認である.また,芦屋断層の北東延長,宝塚西高校北側の露頭については,地質学雑誌1999年105巻12号誌上で松山紀香ほかと林愛明ほかの間で断層の存否に係る討論があった.
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