時代と背景 化政時代の文化

清元節

『復新三組盞』絵本番付
文政7年(1824年)9月市村座
奥の山台の中央に座っているのが、
初代清元延寿太夫です

江戸浄瑠璃(えどじょうるり)の流派のひとつで、常磐津節(ときわずぶし)、富本節(とみもとぶし)に続いて生まれました。富本の一門にいた延寿太夫(えんじゅだゆう)が文化11年(1814年)に創始し、文政期の前半に一世を風靡(ふうび)します。延寿太夫の死後も、時代の嗜好に合わせた曲づくりを行い、人気を得ました。また、4代目は狂言作者の河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)に数多くの曲を提供しました。

清元延寿太夫(きよもとえんじゅだゆう) 安永6年(1777年)〜文政8年(1825年)

江戸・横山町(現在の中央区日本橋横山町)の商人の子として生まれています。初代富本斎宮太夫(とみもといつきだゆう)に入門して大きな人気を集め、2代目斎宮太夫を襲名しました。しかし、家元である2代目富本豊前太夫(とみもとぶぜんだゆう)とは、不和になってしまいます。文化11年(1814年)、清元延寿太夫を名乗り、清元節の流派を創設しました。
天性の美声を持ち、『保名(やすな)』『鳥羽絵(とばえ)』『かさね』『傀儡師(かいらいし)』などの名曲を初演しています。文政7年(1824年)には剃髪(ていはつ)し、延寿斎(えんじゅさい)と名を改めました。文政8年(1825年)、劇場からの帰りに暗殺され、49歳でこの世を去りました。

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