時代と背景 化政時代の文化
狂歌・俳諧・川柳
江戸時代の後期には、狂歌や俳諧、川柳といった詩歌が流行しました。
狂歌は、和歌のなかに滑稽(こっけい)や諧謔(かいぎゃく)の精神を盛り込もうとする戯れ歌(ざれうた)です。江戸では明和年間(1764年〜1772年)に始まり天明年間(1781年〜1789年)に完成しました。その頂点に君臨したのは四方赤良(よものあから)こと大田南畝(おおたなんぼ)でした。
初めは、江戸の限られた知識階級の文芸でしたが、文化・文政期になると地方へと広がっていきます。鹿都部真顔(しかつべのまがお)の「四方側(よもがわ)」と宿屋飯盛(やどやのめしもり)こと石川雅望(いしかわまさもち)の「五側(ごがわ)」のふたつの狂歌のグループが競い合って隆盛を見ることになりました。
一方、江戸の俳諧は、宗匠(そうしょう)と呼ばれるリーダーが中心になってグループを形成しました。「江戸座」と呼ばれる江戸の俳諧は全国的に展開し、文化・文政期には俳諧人口が増加しました。そのようななかで注目されたのが、漂泊(ひょうはく)の俳人・小林一茶(こばやしいっさ)でした。
また、江戸の俳諧をより庶民的に発展させたのは、柄井川柳(からいせんりゅう)でした。それまで俳諧に親しみのなかった庶民までが、気楽に詩歌を詠む時代になったのです。
[画像:おもな人物]
大田南畝(おおたなんぼ)[四方赤良](よものあから)
四方赤良の名で狂歌を詠み、江戸の狂歌流行の基礎を作った文人です。晩年は蜀山人(しょくさんじん)と名乗りました。
小林一茶(こばやしいっさ)
旅をしながら俳諧を詠み、滑稽な表現のなかに人の情趣を織り込んだ作品を数多く残しました。
柄井川柳(からいせんりゅう)
宝暦期から寛政期にかけて活躍した俳諧の宗匠です。川柳という新しい形式の詩歌の世界を切り開きました。