時代と背景 化政時代の文化
大田南畝 寛延2年(1749年)〜文政6年(1823年)
幕臣の家に生まれた南畝は漢学者を目指して学んでいた頃に作った狂詩(きょうし:こっけいを主とする漢詩体の詩)が平賀源内(ひらがげんない)に認められ、明和4年(1767年)に19歳で『寝惚先生文集(ねぼけせんせいぶんしゅう)』を発表しました。
深い教養を持ちながらも滑稽(こっけい)に通じた四方赤良(よものあから)こと南畝は、狂歌でもその才能を発揮します。天明3年(1783年)に選者として出版した『万載狂歌集(まんざいきょうかしゅう)』は、江戸に狂歌ブームを巻き起こしました。
しかし、寛政の改革が始まり、文武両道を奨励する幕府の政策を風刺した狂歌の作者であると疑われ、狂歌づくりを止め、文芸界との縁を切りました。その後は、幕臣として職務に励み、寛政8年(1796年)には支配勘定となり、大坂や長崎にも勤務しました。
文化・文政期には江戸の代表的な文人「蜀山人(しょくさんじん)」として知られ、狂歌や漢詩、随筆なども出版され、江戸の文化に影響を与えました。