時代と背景 化政時代の文化
錦絵
文化・文政期に続く天保年間(1830年〜1844 年)になると葛飾北斎(かつしかほくさい)、歌川広重(うたがわひろしげ)が、それぞれ『冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)』『東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)』を発表します。有名な景勝地などを描いた、これらの名所絵はたちまち人気となりました。
葛飾北斎(名所絵) 宝暦10年(1760年)〜嘉永2年(1849年)
本所割下水(ほんじょわりげすい:現在の墨田区亀沢1丁目)に生まれた北斎は、幼い頃から絵を描くことが好きで、版木彫りの職人を経て、安永7年(1778年)に19歳で浮世絵師・勝川春章(かつがわしゅんしょう)の弟子となりました。以後、黄表紙(きびょうし)や狂歌絵本(きょうかえほん)、摺物(すりもの)、読本(よみほん)などあらゆる出版物を手がけ、絵師としての研鑽(けんさん)を積んでいきます。文化・文政期には絵の教科書である絵手本(えでほん)まで手がけていて、『北斎漫画(ほくさいまんが)』シリーズはその代表作です。70代となった天保年間には、大胆な構図で描いた富士山を西洋のベロ藍で摺った『冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)』が大評判を呼びました。その後も、90歳で死去するまで絵を描き続けました。
歌川広重(名所絵) 寛政9年(1797年)〜安政5年(1858年)
江戸・八代洲河岸(やよすがし:現在の千代田区丸の内2丁目付近)の幕府の定火消同心(じょうびけしどうしん)の長男として生まれた広重は、文化6年(1809年)に13歳で両親を失い家督(かとく)を継ぎました。当時は武士の暮らしは厳しく、多くが副業を持っていたなかで、広重もまた絵を描くことを学んでいきました。文化8年(1811年)頃に浮世絵師・歌川豊広(うたがわとよひろ)に入門。役者絵や美人画を手がけましたが、本領を発揮するのは天保期に発表し始めた名所絵でした。『東都名所(とうとめいしょ)』(天保初年頃)に続き出版した『東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)』(天保4年[1833年]〜天保7年[1836年])は、西洋の立体的な構成描写を取り入れながら、旅の情感にあふれ、大きな人気を得ることになります。また、花鳥画においても活躍するとともに、名所絵も62歳で没するまで描き続け、100枚以上から成る『名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)』(安政3年[1856年]〜安政5年[1858年])を残しました。