早わかり歌舞伎と南北
江戸時代の後期、文化・文政期(1804年〜1830年)に活躍した狂言作者、4代目鶴屋南北。経済の中心地となり、さまざまな文化が花ひらいた江戸で、南北は型破りな表現力によって歌舞伎の新しい時代を拓きました。数々の名作を生んだ南北の人生と作品とは、どんなものだったのでしょうか。
鶴屋南北とは?
4代目鶴屋南北は、宝暦5年(1755年)に江戸で生まれました。20代初めに狂言作者を志し、長い下積みの歳月を重ねながら、独自の作風と表現を培っていきます。
そして、南北が50歳となった文化元年(1804年)に初代尾上松助(おのえまつすけ)と組んで上演した『天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)』が、出世作となりました。異国趣味を漂わせるこの作品は、屋体崩し(やたいくずし)や早替り(はやがわり)など「ケレン」と呼ばれる舞台演出で評判を呼び、大当りを取ったのです。
その後も南北は、5代目松本幸四郎(まつもとこうしろう)、5代目岩井半四郎(いわいはんしろう)、3代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)、7代名市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)といった当代の名優たちと組んで数々の名作を世に送り出していきます。
俳優たちそれぞれの持ち味を活かしながら、「悪婆(あくば)」や「色悪(いろあく)」といった新しい役柄を創出するとともに、同時代の風俗や人間像をリアルに取り入れた「生世話物(きぜわもの)」という芝居のジャンルを確立しました。また、それまでは春や秋に演じられることが多かった怪談物を、夏狂言として定着させたのも南北です。代表作である『東海道四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん)』(文政8年[1825年])は、日本の怪談劇の代名詞となりました。
南北は、文政12年(1829年)に75歳で没するまでの間に120以上もの狂言を書き、その作品は現在も繰り返し上演されています。