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もう10年以上前になるが福島瑞穂さんたちと「リベラル再生会議」という連続イベントを開催していた。当時僕は石破茂さんと対談本を出したばかりだったので節操がない、と怒られたのだが、よいシリーズだったと思う。と、いうかいろいろな立場の人と議論することの何が問題なのか、まったく分からない。 あれから10年以上経って、今僕はリベラルの側から「あいつは敵だ」と言われ、嫌がらせを受けている。僕はマイペースで政治と付き合って、いち市民として考えているだけなのだけどこの10年くらいで、リベラルの側から罵倒されることが本当に増えた。 僕のほうはむしろ、政治的には安倍晋三政権に批判的だったために保守の側を批判するケースが増え、森友問題やアパホテルの歴史修正主義問題を追求したことでテレビの仕事も失ったりもした。しかし、同じくらい、あるいはそれ以上に「リベラル」から疎まれるようになった。 理由は単純で、この10年で
先日、僕の主催しているPLANETS Schoolで、占部まりさんと議論した。テーマは「これからの医療とコミュニティ」だ。占部さんは宇沢弘文の長女であり、宇沢経済学の「社会的共通資本」という観点を交えながら医療とコモンズやウェルビーイングといった概念とのかかわりについての議論を展開してくれた。詳細はPLANETS Schoolの動画アーカイブを確認してほしいが、今日はそこから派生した別の議論について考えてみたい。 会員募集中です!そもそもの問題として、僕は「ウェルビーイング」という発想が実は苦手だ。もっと言ってしまえば、批判的ですらある。というのも、この「ウェルビーイング」という発想自体が、愚行権を軽視しているというか、「幸福」というものについて根本的に取り違えてしまっているところがあるのではないかと、僕にはどうしても気になってしまうからだ。 この「ウェルビーイング」という発想はどこかで、
TVアニメ『弱キャラ友崎くん』が映し出す現代資本主義の袋小路:宇野常寛『ゼロ年代の想像力』と終わらない「自己啓発」を超えて はじめに資本主義の終わりを想像するより世界の終わりを想像する方が簡単だ。 ――フレドリック・ジェイムソン「アメリカのユートピア」 (フレドリック・ジェイムソンほか著、スラヴォイ・ジジェク編(田尻芳樹/小澤央訳)『アメリカのユートピア:二重権力と国民皆兵制』書肆心水、2018年、13頁) 資本主義を飼いならすことはできないし、資本主義の外に出ることも決して容易ではない。2021年3月に放送が終了したTVアニメ『弱キャラ友崎くん』(以下『友崎くん』)は、そんなことを教えてくれる傑作である。 本作の主人公・友崎文也は、友達も彼女もいない「陰キャ」で「ぼっち」の高校生だ。しかし、その裏の顔は家庭用格闘ゲーム「アタックファミリーズ」(通称「アタファミ」)のレート一位、日本最高峰
最近よく考えているのだけど、僕はいま「飲み会」文化に苦しめられている人たちのためにできることを探して、具体的に動き出したいと思っている。 残念なことだけれど、この国にはいまだに職場や、同じ業界のあつまりなどで上下関係に基づいた「飲み会」文化がしつこく生き残っている。「飲み会」は仕事じゃない。しかし「飲み会」に参加しないと、職場の人間関係がうまくいかなくなるのではないか、最悪の場合はイジメられてしまうのではないかという不安から、イヤイヤ「飲み会」に参加してしまう人は少なくない。せっかくの仕事が終わったあとの時間と、自分が一生懸命稼いだお金を他のことに使いたいと思っても、それを半強制的に奪われてしまうのだ。 この「半強制的に」というのがポイントだ。 多くの「飲み会」は表面的には「来たくないなら来なくてよい」とされている。しかし多くの場合、参加しないと共同体の中でも「浮いて」しまうのが分かってい
2013年に二度目のオリンピックが東京にやってくると決まったとき、僕はこれをきちんと批判したいと考えた。この二度目のオリンピックには一度目(1964年前のそれ)とは異なり、なんの必然性もコンセプトも存在しないように思えたからだ。1964年の東京オリンピックは敗戦からの復興を象徴することで国威発揚を狙うと同時に、高度成長へ向けた首都東京の大改造を前提としたインフラの整備を「爆速化」するための錦の御旗だった。首都高速道路も東海道新幹線も、オリンピックに合わせて急速に整備されたものだ。この都市改造と国土開発自体の評価はさておき、少なくとも1964年の大会には議論に値する明確な意図が、テーマがあった。 しかし、2020年のそれには「何も」ない。斜陽の日本に明るい話題が欲しいといった類の森喜朗的なぼんやりとした精神論と、関係企業や団体のビジネスチャンスへの即物的な期待があっただけだ。そしてそれ以前に
その一方でリスナーから「友達いなそう」とか「気持ち悪い」とか、たくさん罵詈雑言をいただいた(どうやら僕の早口が嫌われたらしい)。しかし『庭の話』の関係で、この3か月は色々なラジオやYouTubeの番組に出ているのだが、こんな中傷を受けたのはこの番組だけ。TBSラジオが育ててきた「リベラルなリスナー層」ってなんなんだろう......と考えてしまう一件だった。 他にも、この種の罵詈雑言をたくさんいただいた。早口で、聴きづらいと言われるのはまあ、仕方ないが(聞き取れないんじゃなくてあなたの思考が鈍くて追いつかないだけでは?くらいの嫌味は言わせてもらいたいが)、さすがに「気持ち悪い」とか「友達いなさそう」とか「飲みにさそわれないだろう」とか、言われる筋合いはないと思う。特にひどいと思ったのは、この人だ。なんと、僕が一言「正義」という言葉を使っただけで、「偽フェミ男」と罵倒されたのだ。ちなみにジェンダー関係
講談社から、これ以上『庭の話』のプロモーションに労力を割けないというメールが来た。発売から1年弱、事前に決めたプロモーションをほとんど当時の担当がサボタージュしたので、仕方なく僕が自腹でここまで数字をつくってきたのだけど、そろそろ限界なので講談社ももう少し動いて欲しいと連絡したら、「リソースがない」ので協力しない、という返事が戻ってきた。 心が折れた。 僕は会社から年収1000万円以上を保証されている講談社のエリートサラリーマンではなくて、働いた分しか金にならない自営業者だ。その僕が、担当編集がまったく動かない(マジで普通にサボっていた)ので仕方なく自前で膨大な資金と労力を使ってプロモーションをして、自分の取り分は印税10%しかない講談社の本を売って来た。 それは自分の作品が「かわいい」からやって来たのだけど、その僕に自分たちが「忙しい」からプロモーションに協力したくないと平気でメールに書
明日8月1日から新しく本屋を始めることになる。その名も宇野書店。大塚駅北口から歩いて5分のところにあるオフィスビルの2階にオープンする。床面積は150平米で、約6000冊が並ぶ。 きっかけはひょんなことで、僕が1年ほど前にふとFacebookに宇野書店をやりたいと書いたところ、このビルを所有する東邦レオ株式会社の吉川稔社長に「やりませんか」と声をかけてもらったのだ。一瞬何が起こっているのか全くわからなかったが、とりあえず「やります」と返事をした。あれからよく1年、ついに宇野書店が実際にオープンすることになる。 僕が前から本屋をやりたいと思っていたことには、もちろん理由がある。『庭の話』で書いたように、これからは「庭」的な、個人がプロデュースし、管理する場所が「勝手に」公的に開かれている場所が、町の公共空間として重要な役割を果たしていくと僕は考えているからだ。 そして同じく『庭の話』で書いた
今週の木曜日(10月20日)に、僕がこの2年間コツコツ書いてきた本が発売になる。タイトルは『砂漠と異人たち』、これだけ聞いてもサッパリ何の本か、分からないと思う。昨今のトレンドからすると「○しろまる○しろまる日で○しろまる○しろまるが身につく』といった「効用」を主張するタイトルや、あるいはSNSで他人に「これはいかがなものか」と石を投げることで自分を賢く見せたい人の材料になりそうな『(あまり知力のない人でも叩けそうな、いかがなもの)』とかを露悪的にタイトルにするほうがいいのだろうけれど、僕はあまりそういうのは好きじゃないので、このタイトルにした。 では、どんな内容かというと、それは現代の情報技術と人間との付き合い方を考えた本だ。ピーター・ティールという人物を僕はあまり好きになれないのだけど、彼が『空飛ぶクルマがほしかったのに、手にしたのは140文字だ』という言葉で表したかった、この情報技術への「いいんだけど、なんか違う」
オタク批評とロスジェネ批評がともに勃興し、並行・交錯していた2000年代。 あれから四半世紀が過ぎたいま、当時のダイナミズムは失われてしまったのか。 過去と現在、リアルとフィクション、労働とセクシュアリティを再び交差させるべく、批評家の杉田俊介が「ゼロ年代批評」のクリティカル・ポイントへ遡行する。 文:杉田俊介 ──ところが、神々のプロレタリアートであるシーシュポスは、無力でしかも反抗するシーシュポスは、自分の悲惨な在り方をすみずみまで知っている。 まさにこの悲惨な在り方を、かれは下山のあいだ中考えているのだ。 かれを苦しめたにちがいない明徹な視力が、同時に、かれの勝利を完璧なものたらしめる。 侮蔑によって乗り超えられぬ運命はないのである。 アルベール・カミュ(清水徹訳)『シーシュポスの神話』 ゼロ年代批評においては1オタク/ネット的なものと2ロスジェネ/社会運動的なものが交差していた。
『ファスト教養』から考える"迷う"ことの楽しさをいかに伝えるか はこちら 「レジーさんと絶交するのかもしれない」 宇野 この本のタイトルを見た時、「俺、もしかしたらレジーさんと絶交するのかもしれない」と思ったんですよ。 レジー (笑)。 宇野 もちろん、言いたいことはよくわかるんです。自分たちが愛してきた知的な営みが、ビジネスパーソンのためのサプリメントのようなものとして提供されて、いかに「商売の役に立つか」という基準でしか価値がないかのように扱われていたり、そのせいでものすごく雑にまとめられたものが広まってしまうのを見ると、とても悲しくなる。 ただ、その一方でこうした言説は「ビジネス本のファスト教養をありがたがる無教養な人たち」に石を投げて、「知的で文化的な自分たち」を肯定したいという人たちの欲望に応える「投石機」として消費されてしまうことが多いわけです。 実際にこうやって文化系が苦手な
「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」を公開初日に観てきた。以下はその雑感で、僕はこの直後からすぐに「ネタバレ」を、それも決定的なものをものすごくたくさん書くことになるだろう。だからそのつもりで読んで欲しい。 そしてその上で最初から結論を書いてしまうと僕はラストシーンに登場する実写映像を目にしたとき、とんでもなく空回りをしたものを感じた。そしてこのとき感じた空回りが、この映画の、そして2007年からはじまったこの新劇場版シリーズ全体を象徴しているように思う。巨大な空回り。それが僕のこのシリーズに対する結論だ。
この本は僕のこれまでの本の中でもいちばんの難産で、『群像』の連載時から後半はほぼ書き変えています。(この辺の事情は、以下の記事に書いています......。本当にご迷惑をおかけしました。) なので、本当にギリギリまでブラッシュアップしていて、そのせいでプロモーションが十分に準備できなかった......という悲しい事情があります。 そこで、今回はこの本についての自己解説のようなものを書いてみたいと思います。この『庭の話』はここ数年の僕の集大成的な一冊です。なので、この本について解説すると僕のこの数年の仕事が網羅できるようになります。2020年以降の『遅いインターネット』以降の情報社会論的な仕事や、都市開発についての研究会の主催(庭プロジェクト)や、『モノノメ』などの編集者としての仕事で得たものが、この本には集約されています。なので単に内容を紹介するだけではなくて、こうしたさまざまな仕事をどう一冊の本に組み込ん
書店で目当ての本を買うには、店内をうろうろする必要がある。これはムダな時間なのだろうか。評論家の宇野常寛さんは、新しい雑誌『モノノメ』の創刊にあたり、「アマゾンでは売らない」というテーマを掲げた。宇野さんは「アマゾンを否定するわけではないが、『本屋で時間をかけて本を選ぶ』ということの豊かさを手放すのはまずい。だからモノノメを創刊した」という――。 [紀行文]10年目の東北道を、走る:あの震災から10年、そろそろ次のステージへと考えたくなるタイミングだからこそ、もう一度しっかりとあの土地たちを歩いてみたい。そんな視点から綴られたかつての「被災地」の旅の記録が、本誌の巻頭を飾っている。 批評家と編集者は「車輪の両輪」 ——宇野さんは、評論家としての活動のほか、批評誌『PLANETS』の編集長としても著名です。そもそもなぜ雑誌を創刊しようと思い立ったのですか。 【宇野】僕はもともと会社員サラリー
その名も「宇野書店」。 東京・大塚駅近く、オフィスビル2階に書店を開く。150平方メートルの店内に、独断と偏見で選んだ5千〜6千冊を取りそろえる。「本の販売で利益を出すのが目的ではないんです。ビルの...
宇野常寛さんの『庭の話』を読んだ。宇野さんの問題意識と、核となるアイデアにはほとんど同意なのだが、「庭」を社会に実装するための具体策がもう少しほしかった。 宇野さんは、SNSの「相互評価ゲーム」が、民主主義や政治に深刻な影響を与えていると指摘している。右でも左でも、SNS上で政治的に過激なポストをすれば、簡単に「いいね」やリポストといった反応が得られる。しかも、応援する勢力の当選という形で、現実に影響を与えている(ような実感を得る)ことができてしまう。 どこにでも行ける人エリート層=Anywhereな人たちと違って、そこにしかいられない=Somewhereな人たちは、自分の力が世の中に影響を与えていると実感しにくい。その中で、政治がもっともコスパのいい手段になってしまっていると宇野さんは言う。 この状況を打開するためのコンセプトとして、宇野さんが提示しているのが「庭」だ。 「庭」は、もちろ
▼出演者 pha(作家) 箕輪厚介(幻冬舎 編集者) 宇野常寛(評論家・PLANETS編集長) 感想やゲストのご希望などは、下記のメールアドレス宛にご連絡ください! uno.slowinternet@gmail.com 宇野常寛の私塾コミュニティ「PLANETS CLUB」へのご参加はこちらから! https://community.camp-fire.jp/projects/view/65828 提供:オクトパスエナジー https://octopusenergy.co.jp/ 【この動画にはメンバーシップ限定の[延長戦]があります】 [延長戦]を追加で視聴する方法 Youtubeメンバーシップ ・【スタンダードコース】990/月 参加はこちらから︎ https://bit.ly/3uahEU4 ※(注記)入会期間中に配信された動画を、配信日から30日間視聴できます。 •
村上春樹の新作長編『街とその不確かな壁』を、発売当日に電子書籍で購入してKindleで一気に読み通した。結論から述べるとこの作品は近年の、というか『1Q84』の〈BOOK3〉以降の自己模倣と内容の希薄化の延長にある作品で、彼の長編の中でももっとも記憶に残らない薄弱な作品の一つになってしまっていると言わざるを得ないだろう。 僕は半年前に出版した『砂漠と異人たち』で、この村上春樹について20世紀後半を代表するパーソナリティとして扱い総括的な批評を試みた。そしてこの『街とその不確かな壁』という小説は僕の『砂漠と異人たち』での村上についての総括から、半歩も踏み出していないように思う。それは、とても残念なことだ。 FacebookやTwitterで実績はないけれど自分を知的に見せたくて仕方がない人たちとは異なり、批評家とは天の邪鬼な生き物で常に作家に、正確には作品に「敗北」したがる生き物だ(そもそも
評論家の宇野常寛さん(43)は、本や雑誌の編集者やネット番組のMCとして、各界の人たちと様々なテーマに取り組んできました。一方でここ10年、いわゆる「業界のつき合い」を絶っているそうです。職業的には...
■しかくそんなに急いでどこへゆく〜スロー再考1 ネット空間における言論のファスト化が進み、特にSNSでは分断や排外主義が加速している――。評論家で編集者の宇野常寛さんは、そんな問題意識で近年、じっくり思索す...
要するにこれは揚平さんの短・中期的な日本の社会、経済予測をベースにその対策を社会のレベル(日本をどうする)と個人のレベル、つまり現役世代の自己防衛(私たちはどうする)という2つの議論を併置する......という講座で、いままで僕がまったくやってこなかったタイプの講座になると思う。僕は割といい加減に生きてきたところがあり、あまり人生をうまくやる、セーフティにする......といったことに関心をそれほど払ったことがないのだけれど、少し考えるところがあって、実験的にこういったタイプの講座を企画してみることになった。 今日はその理由のようなものを書いてみたいと思う。そして例によって結論から述べると、僕はここ数年でこの国は、(みんなまだ、それほどハッキリと口にしていないが)この国は(少なくとも向こう数十年の間についていえば)「もうダメだ」と感じていて、それぞれがもう社会をどうするかではなく、自己防衛のフェイズに入っ
「戦後最大の思想家」と呼ばれながらも、今日においてはほとんど読み返されることのない吉本隆明──。しかし、その仕事は今日の情報社会でこそ参照されるべきである。 日本思想史が専門の先崎彰容さんと宇野常寛が、吉本隆明の再読を通して現代の個人と資本主義の問題、国家と民主主義の問題、そして土地と身体の問題まで話しました。 『共同幻想論』の可能性の中心 宇野 2020年7月、先崎さんがNHKの「100分de名著」で吉本隆明の『共同幻想論』(1968年)を解説されていたわけですが、ちょうど僕もその数ヶ月前に刊行された『遅いインターネット』でも吉本を取り上げていたので、とても勉強になりました。先崎さんは番組の中で、今日の情報社会における個のあり方と、当時の吉本隆明の問題意識にリンクするものを感じて、その観点から吉本隆明の再読を試みたと述べられていましたが、その視点は僕の『遅いインターネット』での試みと、と
SNS上での承認を求め、タイムラインに流れる「空気」を読み、不確かな情報に踊らされて対立や分断を深めていくーー。私たちはもう、SNS上の「相互承認ゲーム」から逃れられないのでしょうか。 評論家の宇野常寛氏が、混迷を深める情報社会の問題点を分析し、「プラットフォーム資本主義と人間の関係」を問い直すところから「新しい社会像」を考えます。 ※(注記)本記事は、好評発売中の宇野常寛『庭の話』(講談社)から抜粋・編集したものです。 近所の公園や図書館は「パブリック」か?最後の第3の条件についてはまず、かつては現代語でいうところの「場」という意味で用いられていた「庭」という言葉が今日の意味に変化していく過程に注目したい。 かつての「庭」は、前述したとおり仏事、神事をおこなう祭祀の場でもあった。これらの仏神事は共同体の儀式として執りおこなわれるだけではなく、私的に執りおこなわれる場合が存在する。このとき、その私
2023年4月に『ひとりあそびの教科書』を上梓した評論家の宇野常寛さん。10代に向けて、「ひとりあそび」の大切さを説いた本だが、この本は大人にも響く内容だ。 例えば、30代に入り、周囲の多くが結婚・出産し、今まで一緒に遊んでいた友達を誘いづらくなってしまった......。そんな人に向けた「大人のひとりあそび」について記者が聞いた。 自分以外に好きなものを見つけてみよう—— 30代のビジネスパーソンの中には、休日にYouTubeやTikTokをだらだら見て気づいたら1日が終わってしまうなんて人も多いんじゃないかと思うんです。それで満たされているならいいのですが、不満を抱える人も多い。なぜこのようなことが起きていると思いますか? 宇野さん:自分自身の経験も踏まえて言うと、30代って自分が思っていたほど自由じゃないと思うんです。20代で思い描いていた"理想の30代の暮らし"って誰でもあると思いますが、だ
世の中 ×ばつ政治」で仲良かった人と疎遠になる...宇野常寛さんに相談したら「50年以上前に結論は出ている」と言われました|新R25 Media - シゴトも人生も、もっと楽しもう。
SNS上での承認を求め、タイムラインに流れる「空気」を読み、不確かな情報に踊らされて対立や分断を深めていくーー。私たちはもう、SNS上の「相互承認ゲーム」から逃れられないのでしょうか。 評論家の宇野常寛氏が、混迷を深める情報社会の問題点を分析し、「プラットフォーム資本主義と人間の関係」を問い直すところから「新しい社会像」を考えます。 ※(注記)本記事は、12月11日発売の宇野常寛『庭の話』から抜粋・編集したものです。 21世紀の〈グレート・ゲーム〉 ハンナ・アーレントは1951年に出版した『全体主義の起原』で、19世紀における英露の植民地争奪戦〈グレート・ゲーム〉について考察している。 一般的には、ナショナリズムと植民地からの搾取を前提とした経済構造の結託が、帝国主義の拡大をもたらしたと考えられている。 しかしアーレントはここで、むしろ帝国主義の拡大の原動力として、植民地に移住したヨーロッパ人たち
SNS上での承認を求め、タイムラインに流れる「空気」を読み、不確かな情報に踊らされて対立や分断を深めていくーー。私たちはもう、SNS上の「相互承認ゲーム」から逃れられないのでしょうか。 評論家の宇野常寛氏が、混迷を深める情報社会の問題点を分析し、「プラットフォーム資本主義と人間の関係」を問い直すところから「新しい社会像」を考えます。 ※(注記)本記事は、12月11日発売の宇野常寛『庭の話』から抜粋・編集したものです。 今日においてタイムラインに流れてくる情報の内容そのものが吟味されることはもはや難しく、ほとんどのプレイヤーは他のプレイヤーたちの反応を見て、より多くの評価が得られるリアクションを選択する。 ここではもはや情報の内容ではなく、タイムラインの潮目だけが読まれている。こうして、人間は他の人間の顔色をうかがうだけしかしなくなり、問題そのもの、事物そのものについて考えることを放棄する。 ある問
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先日、吉田尚記さん、石岡良治さん、有田シュンさんと『響け!ユーフォニアム』についての座談会に出席した。これはテレビアニメ版の完結編(『響け!ユーフォニアム3』)の最終回に合わせた企画だったのだけど、この座談会は原作小説も含めたシリーズ全体を語るものになった。今日は、前回この作品を取り上げた記事の続きも兼ねて、改めてこのセッションを通してこの作品について考えたことを書いてみたい。 さて、前回と座談会の議論をざっくりまとめるところから始めよう。この『響け!ユーフォニアム』という作品が、このクオリティで完結したこと、この10年の京都アニメーションの代表作になったことは、結果的にオタク文化史的な「意味」を発生させてしまっている。 『涼宮ハルヒの憂鬱』があの時期にアニメ化され、そしてEDの「ハルヒダンス」が一つの時代を象徴していったことはオタク的な感性の「建前」と「本音」のバランスが一方に崩れていく
最近、知識社会の弊害問題についてよく考える。これはマイケル・サンデルやデイビッド・グットハートにより、近年指摘されている問題で、平たくかいつまんで言えば、現代社会は頭脳労働者が優遇されすぎて、感情労働や肉体労働が不当に低く評価されているというのが彼らの問題意識だ。本来は人間の能力の一側面でしかない情報処理や論理能力、知識などが過大評価され、そのことがこれらの能力「ではない」能力が要求される人たちの尊厳を傷つけているというのが彼らの主著だ。 僕の関心の中心が情報社会論にあるので、そこに惹きつけて考えると、たしかにそうかもなと思うことは多い。 論客みたいなキャラに憧れて大して詳しくもない時事問題に、どこかで見かけたプロの意見を丸パクリしてドヤ顔で言及したりする人はたとえばXやソーシャルブックマーク系のサービスではタイムラインの「潮目」や場の空気を形成する層になっている。要するに、今日のアテンシ
ある水曜日の朝、毎週一緒にランニングをしている友だちから、とつぜんこんなことを言われた。 「宇野さん、カブを買いませんか?」 いったい何を言われているのか、分からなかった。僕はそれが原動機付自転車(原チャリ)のホンダ・カブのことを指していることを、まったく想像ができなくて、何かのインサイダー取引のようなものを持ちかけられているのではないかと思ってドン引きしたくらいだった。 きっかけは、放送中のテレビアニメ『スーパーカブ』だった。これは山梨県の片田舎に住む身寄りのない女子高生が、通学用にスーパーカブを買ったことをきっかけに、オートバイの魅力に取り憑かれていくという物語だ。友人はたまたまこのアニメの最初の数話を観てすっかり気に入ったのだという。その日の夜に、僕も第1話と2話を観た。そしてぐっと引き込まれた。僕は40年の人生で、乗り物を運転したいと思ったことがほとんどなくて、運転免許の類をまった
先週末の土曜日、つまり公開翌日に宮崎駿監督の新作『君たちはどう生きるか』を見てきた。今回はその鑑賞直後の雑感をかんたんに(といっても、それなりの分量にはなるだろうが)まとめたい。本作はおそらく宮崎の引退作になる可能性が高く、これまでの作品世界の総括的な内容になっている。したがって、余すところなく批評を試みようとすればそれは「そもそも宮崎駿とは」というところから始めなくてはならず、本一冊分の分量が必要になる。だからこれはあくまで、公開直後の鑑賞の雑感という前提で目を通してもらいたい。 『母性のディストピア』の答え合わせ? ここで僕が指摘したいことは大きく分けて2つだ。それは宮崎駿の作家としての自我の肥大が、彼の作品世界をより深く、広くするのではなくむしろ淡白かつ安易にしてしまっているのではないかということ、そして彼の圧倒的な存在感はそのことを誰も指摘できなくしてしまっているのはないかというこ
実はここ数日、発熱していて騙し騙し仕事をしていて気づくのが遅れたのだが、いまだに「例の件」で罵倒されている。というか、自分が把握しているよりもしつこく罵倒されていたのに気づいた。 「例の件」とは先月末に荻上チキさんの「session」に出演したときのことで、そこで「リベラル」を自認するTBSラジオのリスナーから僕は「気持ち悪い」とか「友達いなそう」とか、どう考えても議論と無関係な中傷を番組ハッシュタグでたくさん書かれた。僕が番組で話した内容に対しての批判的な意見ならいくら書かれても仕方ないと思うが、容姿を貶されたり、「友達いなそう」とか罵倒されたり、言ってもないようなことを捏造されたりする筋合はさすがにないと思う。笑 明らかに当日は「みんながこいつを叩いてOKだから叩いてOK」という「空気」がタイムラインにできていて、自称リベラルなリスナーがこの態度はさすがにないんじゃないのかと苦言を呈し
一昨日のRONDANFESでは高市早苗総裁誕生の当日だったこともあり、総裁選の結果に発狂というか、これを機会に「俺様の気難しさと深さを若者たちに訴えたい」と考えて大はしゃぎした限界左翼おじさんの(実質的には無内容な)大演説を強制的に聞かされて、心底ウンザリした。 そして昨日は昨日で、高市早苗総裁誕生によっ大はしゃぎでリベラル派SNSアカウントにクソリプを送りにいくネトウヨ&冷笑おじさんたちを複数目にして、やはり心底ウンザリした。 どうもこのタイプの人たちは、自分たちが応援している高市早苗が総裁選に勝利したことで、自分たち自身が勝利したように喜んでいる。まぁ、それは贔屓の野球チームが優勝したようなものなので別に構わないのだけど、それだけではなくなぜか自分がで強く大きくなったような気持ちに浸っている人が多数散見された。 実際、僕もまったく面識のない人から突然、「お前の仕事なんて全然大したことが
僕が江東区の自民(維新)支持者だったら、(いろいろ文句はあるが結局)乙武さんに入れるしかないのではと考えるその理由 さて、今週末には衆議院の補選が3つある。与党自民党の「裏金」問題と、選挙区の情勢を掛け算すると、3選挙区とも立憲民主党が勝つ可能性が高い。それは妥当な結果で、長期的にはこの国の民主主義にプラスの効果をもたらすかもしれない。もちろん、島根のあの人が当選するのはむしろ旧自民党の封建的な土着支配を強化するだけじゃないか、とかいろいろな見方はあるのだと思うけれど、そういったことは僕よりも詳しい人がすればいいと思うので、置いておく。 さて、その上で考えてみたいのが東京15区だ。ここには、僕の友人の乙武洋匡が出馬している。よりにもよって、都民ファーストの副代表に就任して......ということなのだけれど、これについては出馬会見直後の動画で、本人と話したのでそちらを観て欲しい。 そして下馬評を見る
WEB3という言葉で新たなテクノロジーが褒めそやされる今、批評的言説はいかにして可能なのかーー。二人の著作で取り上げられた人物や書籍を起点に、批評やインターネットのこれからの可能性について対談してもらった。(編集部) ロレンスはずっと変身を重ねて、同時に失敗を重ねてきた 宇野常寛『砂漠と異人たち』(朝日新聞出版) 福嶋:『砂漠と異人たち』は面白かったですが、まさかT・E・ロレンス(編注:アラブ民族独立に尽力したイギリス陸軍将校)のことをこんなに熱烈に書いているとは知らず驚愕しました(笑)。考えてみると、デヴィッド・リーン監督の映画『アラビアのロレンス』は最初にロレンスのバイク事故のシーンから始まるけど、いわばロレンスって仮面ライダーみたいな人ですね。ロレンスは変身に変身を重ねてアラブの独立にもコミットするわけだけど、それが同時に失敗の連鎖でもある。失敗が同時に成功であるという逆説の人だと思
この二日間は久しぶりの仕事のない休日だったのだが、自称リベラル?な人に罵倒されていることに気がついた。まあ、年に何度かあるタイプの罵倒なのだけど、要は僕が箕輪厚介さんや音喜多駿さんと仲が良いから、僕が政治的にリベラルな主張をしていても「敵」認定して攻撃してやれ、という例のアレだ。 今回は箕輪さんがどうもコンビニでのトラブルについて、外国人差別を助長する投稿をしたようで、その流れでなぜか僕まで攻撃されることになった。僕はご存知の通り近年の排外主義については問答無用で批判的なのだが、どうやら「宇野は箕輪と仲良しだからこの件も庇うだろう」と思い込んで罵倒されたのだ(ちなみに僕は箕輪さんの事件を自分が罵倒されたことで初めて知った。普段は仕事の告知以外Xをほぼ立ち上げないので......) さすがに愕然とした。実際に僕が箕輪発言を擁護したならともかく、「友人だから庇うに決まっている」という憶測と思い込みに基
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