幸町 (徳島市)
幸町 さいわいちょう | |
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徳島市役所 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 徳島県 |
市町村 | 徳島市 |
地区 | 内町地区 |
人口 | |
• 合計 | 460人 |
等時帯 | UTC+9 (JST) |
郵便番号 |
770-0847 |
幸町(さいわいちょう)は、徳島県 徳島市の町名。内町地区に属している。幸町1丁目から幸町3丁目までがある。郵便番号は〒770-0847。
統計
[編集 ]- 人口:460人
- 世帯数:232世帯
地理
[編集 ]徳島市の中心駅徳島駅の南東、内町地区(ひょうたん島)の南部に位置している。
西の富田橋通り(一部は通りの西まで広がる)と東の牟岐線に挟まれた南北に細長い町で、北から1〜3丁目が並ぶ。北は道を挟んで寺島本町東と接し、南は新町川に面している。
1丁目は国道192号が東西に貫いており、オフィス街となっている。2丁目から3丁目北部にかけては、徳島市役所を中心に徳島市民活力開発センターや徳島税務署等の徳島市の公共施設が集中している。3丁目南部の新町川河岸は、中洲総合水産市場や住宅街である。
毎年お盆の阿波踊りの時期には徳島市役所前に「市役所前演舞場」が設営され、多くの観光客でにぎわう。
地形
[編集 ]- 河川:新町川
歴史
[編集 ]江戸時代は武家地で、現1丁目には稲田屋敷、現2丁目と3丁目北部には賀島屋敷があった。その南の3丁目の大半は、新町川の河道だった。
ただし現幸町公園付近の富田橋通り沿いには、助任新軒から移された魚屋が並ぶ町があった。のち(明治)の内魚町(うちうおまち)である。1675年ごろには魚ノ店または魚ノ棚、1810年ごろには魚町と呼ばれた。堺出身の堺屋秦与兵衛の店があったため堺丁、あるいはその他に撞木町、竹屋ノ浜とも呼ばれた。藩から許可を受けた専売商人の町で、武家向けの魚を売っていた。一方、町人向けの魚は新町の新魚町だった。
明治期には
- 稲田屋敷跡 - 現 1丁目。
- 賀島屋敷跡 - 現 2丁目(市役所周辺)・3丁目北部。
- 塀裏町土手外 - 現 3丁目の大半、南内町3丁目・中洲町も含む
- 内魚町 - 現 2〜3丁目の富田橋通り沿い。一部は現在の幸町外に広がる。
となった。
かつては東は寺島川に面していた。稲田屋敷と賀島屋敷の間に架かる渭津橋(のちの徳島橋)は、寺島側両岸を結び、江戸時代には徳島城の鷲の門に通じていた、交通の要所だった。1961年、寺島側は埋め立てられ徳島橋は撤去され、代わって、そのやや北に建設された幸町立体交差(国道192号が牟岐線をアンダーパス)が東西の交通路となった。同年9月の第2室戸台風の水害でこのアンダーパスは水没した。
施設
[編集 ]公共施設
[編集 ]- 徳島市役所(徳島市上下水道局・徳島市教育委員会)
- 徳島市民活力開発センター
- 徳島ホール(徳島新聞放送会館別館)
- 徳島税務署
- 幸町会館
- 徳島県医師会
- 徳島市医師会
公園
[編集 ]教育
[編集 ]企業
[編集 ]その他
[編集 ]- ホテル千秋閣
- 徳島市職員会館
交通
[編集 ]道路
[編集 ]バス
[編集 ]出典
[編集 ]- ^ 内町まちづくり協議会・徳島市内町公民館『写真で見る内町再発見 ひょうたん島今昔』2009年。新蔵町には接していないとする住宅地図があるがおそらく間違い。
外部リンク
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