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もう3週間も経ってしまいましたが、3月9日にフィリピン・ダバオから帰国いたしました。
しかし、考えてみれば昨年12月アタマから3月まで、ちょうど3ヶ月間ダバオにいたんですが、その間、まったくフィリピンでのお話を書くことなく過ぎてしまいました。
…ので、これからちょこっとだけフィリピンで起こった出来事などを書いていこうと思います。
というわけで、今回はちょっとした小ネタをひとつ。
思い起こせばかれこれ7年ぐらい海外で働いているんですが、これまで生活していた国々で、
そこに到着してまず最初に買うもの(食べ物以外の生活用品)ってどんなものだろう、と振り返ってみると…
2003年、ウズベキスタンでは
インターネットのプロバイダ加入料。
2004年、フィリピンでは
サンダル。
2006年、ベトナムでは
ホーチミン市の地図。
2007年、モンゴルでは
ケータイのシムカード。
…と、当たり前といえば当たり前なんですが、その土地での仕事や生活に欠くことのできない、とまではいかないけど、
ある程度長い期間を過ごすにあたって活躍するであろう物であり、ないと不便な物たち、みたいなのを真っ先に購入しています。
で、今回、フィリピンで3ヶ月生活するに当たり、私が真っ先に購入したものがコチラ。
「Chalk(チョーク)」これ、チョークはチョークでも
「アリチョーク」という代物。
「アリチョーク」というからには、
アリのためのチョークなんですが、
こんな感じで線を引くと…
アリはこの線の上を通過することができなくなります。
万が一この線の上を通過してしまうと…
そのアリは
悶絶した挙句、死に至る…というもの。
…という感じで、食べ物なんかをアリの脅威から守るためのアリチョーク、一年中常夏のフィリピンでは食べ物を置きっぱなしにしてちょっとでも目を離すとすぐにアリがたかってしまうので、まさにフィリピン生活の必需品といえる一品。
ちなみに
人体に害はないかと問われると、
そこら辺はよくわかりません。
では、実際にこのチョークをどう使うかというと、右写真のように
テーブルのヘリとか足元に線を引けば、アリたちはテーブルの上まで上ることができなくなります。
もちろんこんな回りくどいことをしなくても、テーブルの上なんかに食べ物において、その周りにぐるっと線を引けば、食べ物にアリがたかることはありません。
が、私がダバオで生活するにあたってアリから守ったものは食べ物だけではありません。
パソコンです。
決してふざけているわけではなく、
大真面目です。むしろ食べ物よりこっちを守る方が大事だったと思ってたくらいです。
フィリピンの、それも私が生活していたダバオ界隈のアリたちは、どういうわけか
精密機器が大好物。
なので、ちょっと油断しているとパソコンとか周辺機器の中にアリが入り込んでしまい、時にはパソコンめがけて行列を作っていたり、気づけば女王アリみたいなでっかいアリまで入り込んで巣食ったりすることもあり、こうして
常にパソコン周りにアリチョークを張り巡らしておかなければならないのです。ホントに。
ダバオに精密機器を持っていく人は心得ておいてください。
テーマ:フィリピン - ジャンル:海外情報
2回ぐらいで書ききろうと思っていたのに、思わぬ長編というか冗長気味になってしまった感もありますが、とりあえず今回が
完結編です。
過去、日本人教師を必要としている学生たちを置いて失意の帰国を2度も経験してしまったことから、その紆余曲折の中で青年海外協力隊への受験を決意した私。
昨年11月に受けた1次選考、web試験の結果が発表されたのは試験から1ヶ月ほど経った12月のことでした。
その結果は……
合格。まぁ、自分で言うのもナンですが、この結果に対して思ったのは、
そりゃまあ合格するわな…て感じでした。
だってそうでしょ。
6年にもわたる海外での泥にまみれた日本語教師経験に加え、私には並々ならぬjicaに対する意地というものがあるわけですから。ね。
ちなみに今回の選考、日本語教師の1次試験は
45件の派遣要請に対し、応募者119名。
そして1次選考通過者が84名。
…というわけで年明け間もない1月上旬、仕事中のフィリピンから
2次選考の面接を受けるために一時帰国。
これまでの私の協力隊受験経験ではいずれも見事に1次選考で不合格だったので、ここから先は未知の領域です。
とりあえず面接と同時に行われる英語の試験については、10月に受けたTOEICの結果がそんなに悪くなかったからまあ大丈夫だろうという変な自信もあり、面接対策としては志望動機やらいろいろ考えられる質問に対する答えはあらかじめ考えておいたし、日本語教育だとか日本語文法に関する技術面接の対策なんかも
「私には6年にもわたる経験があるから…」などという余裕は見せず、やはり「超本気で挑み、玉砕する」という今回のテーマどおり、文法事項はひと通りおさらいをし、アタマとカラダについても、いつでもパチッと教師モードにスイッチが入るように、自分が作った過去の教案を眺めながら頭の中で日本語の授業のシミュレーションもしたりしました。
が、日本に帰国したあとはあえて頭の中をリセットするためにこれといって何もせず、ボサーッとすごすことに。
以前も書いたとおり、
面接前日には東京の両国国技館で朝から初場所を観戦するという余裕っぷり。
モンゴルパワーを注入。
で、迎えた面接試験当日。
jica東京へ。
この日、午前中はまず
英語の試験が行われましたが、これはわりと簡単でした。
で、そのあと面接が始まるわけですが、私の面接時間は午後2時。というわけで、面接を待つ間は派遣に際しての身分措置やら派遣時期やらのインタビューを受けたり、ブレザーの採寸をしたり、あとは特にすることもないのでボサーッとすごします。
やがて私の受験番号が叫ばれ、面接会場へ。
…と、前の順番の人が面接をしている間、「とある夫婦の会話」みたいな
500字程度の文章が書かれた紙を渡され、そこには
「中級のクラスでこの文章を使う、という前提で、実際にそのクラスで読むように音読してください。また、学習者がこの文章の内容を理解しているかどうかを確認するための質問を2〜3問程度考えてください。」みたいなことが書かれており、私の順番が来るまでの間、それを読んで質問をテキトーに考えておきます。
で、面接。
まずはjicaの担当者と思しき男性2名から志望動機やらこれまでの日本語教師の経験やら、あとは応募時に提出した書類を見ながら、それについてのあれこれを質問され、それがたぶん7〜8分程度。
その後、
日本語教師としての技術面接。
技術面接の担当者は
人がよさそうな年配のおじさんと、これぞ典型的な
「ザ☆日本語教師」って感じの白髪ベリーショートの頭の固そうなおばさんの2人。
面接開始前に渡されたスクリプトを読み、学習者に対する質問としてあらかじめ考えておいたヤツを発表。で、それに対するツッコミとかが入ったりしつつ、それでもまあリラックスムードでその問題はクリア。
そのあともう一問。裏返しにされた数枚の紙から一枚をめくると…
a) 辞書がありませんb) 辞書はありませんこの2文の違いを、実際のクラスで初級学習者に説明するならどう言いますか。…みたいな質問。
この辺もまあ問題なくクリアしました。
何しろ私には6年にもわたる海外での泥にまみれた日本語教師経験に加え、並々ならぬjicaに対する意地というものがあるわけですから、「なめるんじゃない!」と、ね。
そんなこんなで面接は無事終了し、ふたたびフィリピンに戻りました。
…そして去る
2月9日、2次選考の結果発表。その結果は....
合格してました。合格したから言うわけではありませんが、また自分で言うのもナンですが、
何しろ私には6年にもわたる海外での泥にまみれた日本語教師経験に加え、並々ならぬjicaに対する意地というものがあるわけですから、そりゃ合格しますよ。ねぇ。
ちなみに最終結果はこんな感じでした。
で、こうなると問題は
どこに派遣されるか、ていうのと、
いつ派遣されるか、というところです。
応募時点で希望として出していたのは、
第一希望・中国(ハルビン)、第二希望・中国(四川省)、第三希望・タイ、で、
それ以外の国でもまあいいですよ、…て感じ。
派遣時期については、2次面接のときにjicaの人が
「すでに6月に派遣される人は相当数決まっているので、今回の合格者はよっぽどの理由でもない限り9月以降の派遣になるでしょう」みたいなことを言っておられたので、私もすっかりそのつもりで
「それなら6月ぐらいまでフィリピンで働けるな」などとプランニングをしていたんですが、実際はどうなるかわかりません。
ほんでもって結果発表の翌日、日本の実家にjicaから書類が届き、その結果がフィリピンの私のもとに…、
派遣隊次は…
22年度1次隊(6月派遣)何か
「よっぽどの理由」があったようで…
そして派遣国は…
しり…
…シリアてーーーーーっ!…この決定を受け、わたくし、
珍しく2〜3日混乱していました。
つくづく私はjicaに翻弄され、振り回されてしまう星のもとに生まれてしまったようです。…が、とりあえず弔い合戦は終結しました。
しかし私は今後どこへ行ってどうなっていくのか、そして本当にシリアへ発つことになってしまうのか、これからも引き続き温かく見守っていてください。
ひとまず6月までやるつもりだったフィリピンでの仕事は予定を大幅に変更し、
3月9日に帰国することになってしまいました。せっかくこれからおもしろくなっていきそうだったのに、残念です…。
そんなわけで詳細はまた!テーマ:青年海外協力隊(JOCV) - ジャンル:福祉・ボランティア
前回の続きです。
いよいよ私のjicaに対する弔い合戦が始まりました。
…といっても、具体的に言うと
「青年海外協力隊の試験を受ける」という、ただそれだけのこと。
しかし、実を言うと協力隊の試験を受けるのは
今回が3度目で、過去2回は2000年と2001年の春。日本語教師の資格を取ったばかりで教授経験はまったくなかったころに挑戦したことがあります。
が、いずれも
1次選考で箸にも棒にもひっかかることなく不合格。
まあ、当時の私は日本語教師としては未経験者だったし、そのころ、協力隊の日本語教師というのは倍率10倍とか20倍とか、とにかく
狭き門であったわけです。
で、それ以降は協力隊という道はあきらめ、フィリピン、ウズベク、ベトナム、モンゴルでのお仕事はいずれも民間のボランティア団体やNGOからの派遣であったり、現地採用みたいなカタチで日本語教師の職に就いていました。
…が、海外で働いたりしていると、やはりjicaなどからの派遣で活動している日本語教師の方々に会う機会もあり、そんな中で話を聞いていると、
日本語教師としてはまったく未経験、しかもこれといった日本語教師の資格があるというわけでもなく、前職も日本語教育とはまったく無関係だったなんて人がその「狭き門」を通過して政府の傘下で日本語教師として派遣されていたりすることもあるという事実に直面。
要は、
協力隊の選考を通過するには資格や経験というものはさして重要ではない、ということです。
そしてもうひとつ、協力隊の選考といえば「健康診断」がかなり厳しいとも言われています。しかし、わたくし
かれこれ10年以上も健康状態は極めて安定してるし、体重が大きく増えたり減ったり、なんていうこともまったくありません。
だから、私が過去に協力隊の選考試験を受けた際、健康状態が理由で不合格だった、ということもたぶん考えられません。
というわけで、今の私と2000年当時の私を比較してみると
資格:2000年に養成講座を修了(ひとつめの資格取得)。2001年に検定試験に合格(ふたつめの資格取得)。というわけで、以前の協力隊受験時点で資格は持っていた
経験:以前、協力隊受験をしたときには未経験だったが、2003年以降6年ぐらいにわたって4カ国で経験をつんだ
健康:まったく変わってないし大きな病気もしてない。
…そこで導き出されたのは
1)日本語教師としての経験はないが資格はある状態で2度受けて惨敗
2)しかし、無資格で未経験の人でも合格したという実例はいくらでもある
3)ということは、
経験があろうとなかろうと私は合格できない4)ちなみに健康状態はここ十数年まったく変わっていない
5)だから、
健康診断で不合格ならやっぱりいつまでたっても私は合格できない…というわけで、今回、協力隊の選考試験を受けるにあたっての私自身の意気込みは
「いくら頑張っても私は合格できない、という前提条件はあるが、それでも本気で、本気も本気、超本気で、これまでの6年の経験の全てをこの試験にぶつけて、玉砕する覚悟で受験する」という…
…あの、日本語教師に限らず
様々な職種で協力隊の選考には毎回1000人以上の若者が挑戦しているようですが、そのなかにこんな
サムライのような意気込みで受験している人、いったい何人ぐらいいるんでしょうかね。
というわけで昨年10月、jica主催による青年海外協力隊の
説明会に参加。
10年前はたしか200人以上も余裕で収容できるほどの
ホテルの大広間みたいなところで開かれいていた説明会。
今では
ちいこい貸しビルで、せいぜい60〜70人程度入ればいっぱいになってしまいそうな狭い会議室で行われました。
(内容はほぼ変わってなかったけど)さらに10年前と変わった点はこれだけではありません。
1次選考。以前はやはり受験者全員が一堂に集まり、各職種別の試験と英語の試験を受けていたんですが、何年か前から
1次は書類選考のみになってしまいました。
が、日本語教師だけは書類選考に加えて決められた日に
web試験というヤツを受けなければいけない。
…というわけで
2009年11月23日14時、
日本語教師web試験開始。応募後にjicaから送られてきた試験用URLにアクセスしてログインし、1時間以内に問題に答える、という感じの試験なんですが、どんな問題が出題されたかというと…
1.コミュニカティブアプローチが日本の日本語教育に入ったのはいつごろのことか、そしてそれはその後どのような影響を与えたか、具体例をあげながら述べなさい。2.次の中で「〜ている」の用法として他と異なるものが一つある、それを指摘してなぜそれが異質なのか説明しなさい。 a 妹は学校へ行っています。 b 兄は貿易会社で働いています。 c 母はメガネをかけています。 d 彼はもう来ています。3.いわゆる「学校文法」をそのまま日本語教育の現場で使用した場合に起こる不具合について、具体例を挙げて説明しなさい。4.地理的・文化的に日本から遠く、日本語学習が進学や就職に役立たないような環境に日本語教師として派遣された場合の協力活動の意味について述べなさい。5.「知る」と「わかる」の意味・用法の違いを説明しなさい。6.外国人が初級段階で習う日本語の“条件”を表す学習項目を例文とともにあげなさい。7.学歴や職歴に記すもの意外で時間やエネルギーを使った活動をあげ、それが日本語教師をする上でどのように役立つかを述べなさい。
8.「この歌を知っていますか」という質問に対して、初級学習者が「知っていません」と答えた場合、何が問題なのかを説明しなさい。…という、
1時間で以上8問をそれぞれ150文字以内で答えるというもの。
開始前はしおらしくちょっと緊張なんかしてたし、それなりに気合を入れて臨み、いきなり
1番みたいに
記憶の遥か彼方に消え去ってしまっているような問題が飛び出してどぎまぎしてしまったんですが、
全体的には思っていたより簡単な(というか、わりとサクサク答えられるような)問題ばかりだったのでちょっと拍子抜けしてしまったような感じです。
が、何しろ私は
何をどうしても協力隊には選ばれない星の下に生まれているわけですから、とにかく手を抜かず、パソコンのキーボードを叩き割ってやるぐらいの勢いでガンガン答えてやりました。
そしてこの1次選考の結果がでたのが
2009年12月16日。フィリピンでの短期のお仕事が始まって1週間後のことです。
jicaサイトにアクセスすると……
ちょっと長くなってしまったので次回、激動の完結編に続く。
次はなるべく早めに更新します。
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