潮来の文化史、水辺の文化史を考える

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(牛堀に架かる北利根橋からの夕景。完全に晴れていれば筑波山を望むことができる)

前回のブログでお話ししたように、5月28日(日)の潮来での講演会+シンポジウムは、手前味噌ですが、充実したものになったと思います。
ただ、大事なのは、こうした成果をどう「多様に」「共有していくか」でしょう。

シンポジウムで、潮来周辺の水辺の水質が問題になりましたが、こうしたシンポジウムでの話から、一足飛びに浄化運動に進めようとするのはいささか危険だと思います。水質浄化はデリケートな問題ですし、霞ケ浦を含む水郷は大きく、多くの自治体や住民の方々を巻き込む問題ですから、慎重にすすめる必要があります。水質の問題だけを深堀りすると、それぞれの利益がぶつかるだけの結果に終わりかねません。

私がもっとも大事だと思うのは「多様性」「共有」だと思います。

その一例になるかどうか分かりませんが、北利根橋からの景観、の問題を挙げてみます。
牛堀の北に、北利根橋が架かっています。昔は牛堀橋とも言いました。北利根橋が架かったのは、昭和7年(1932)で、その後昭和45年(1970)に現在の新しい橋に架け替えられました。最初の北利根橋は今の位置より、もう少し南に架かっていました。

この北利根橋について、小説家の犬田卯(しげる)さん(住井すゑさんのご主人)が、『水郷秋色』(1942年)の中で次のように言っています。

「牛堀に新たに架けられた北利根橋から霞ケ浦を眺めるのは天下の大観だ。潮来の稲荷山から水郷一帯を俯瞰するのと好一対である」

確かに、この橋から霞ケ浦を眺め、筑波山を遠望する、この美しさは絶品です。私も何度も訪れて眺めました。特に、晩秋から冬の時期、空気の澄んだ中に浮かび上がる筑波山の美しさは格別ですね。

ところが、最初の写真を見てください。これは今の北利根橋から霞ケ浦方面を撮った写真です。橋の歩道から撮ったのですが、北利根橋の歩道橋は南側にあって、車の通行があるために極めて見にくい状況にあります。つまり、下の図のような形になっています。

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なぜこのような状況になったのかというと、今は相互交通の2車線ですが、将来はこれが上下2車線ずつになって、北側にも歩道橋ができる予定だということです。じゃ、いつ上下2車線になるのか。。。これがどうもはっきりしないようなのです。地元の方に少し話を聴きましたが、今の交通量ではどうしても上下2車線にしないといけない状況でもなく、当分このままじゃないか、ということみたいです(実際、片方の2車線ができてから、もう50年以上が経っていますから、そうなのでしょう)。

それにしても、じつに勿体ないですね。「天下の大観」が望める条件がありながら、それを生かせていない・・・。

ここからは、私の想像、いや妄想ですが、この橋を以下のように出来たら素敵じゃないでしょうか。

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せっかく歩道を作るなら、すこし膨らませてベンチを置き、じっくり眺めることができるようにする・・・。

私は茨城のほとんどを尋ね歩きましたが、この北利根橋の絶景は、確実に茨城の景観ベスト3に入ると思います。もし、茨城県で茨城八景を決めて、ここがその一つということにでもなれば、きっと観光客が多く訪れるようになるでしょう(ただし、オーバーツーリズムになってはいけませんが)。

単純には言えませんが、この牛堀に観光客が増えれば、市の経済や、市政にとって良いことも増えるでしょう。と同時に、潮来市民が自分たちの町を見直す、また茨城県民が茨城を見直して郷土への理解を深める、そうした機会が増えることが何よりも重要です。

恐らく、昭和45年に北利根橋を架ける時、この景観について、ほとんど意識されなかったのだと思います。もし、犬田卯さんの文章を知っていれば、違った動きになったはずです。むろん、当時には当時の事情があったのでしょうが、道路をつくる、橋を架ける、電線を張る、こうしたことを行う時に、その土地の環境調査も大事なのですが、それと同じくらいに文化・歴史の調査も必要だということですね。

文化・歴史というとすぐに考古学的な発想が浮かびます。土器が出てきた、骨が出てきた云々です。もちろん、それも大事ですが、それだけでなく「景観」の歴史も踏まえることも大切です。この「景観」の歴史を考える際に、その土地を取り上げた風景画をはじめとする芸術や文学が重要な意味を持ってきます。

5月28日の講演会で、潮来を描いた8枚の巴水画を取り上げました。巴水の木版画を大切にする意味はここにあります。

つまり、橋を架ける、これは一見すれば、土木・建築・交通の問題に思われるのですが、環境や景観そして芸術・文学の問題でもあるのです。そうした「多様」な視点にたって橋を架ける、これが多くの人に、橋が愛され続けることに繋がります。

巴水の潮来を描いた八枚の絵には、様々な謎が隠されています。その謎を一つ一つ解明することで、潮来の隠された歴史が分かると思います。その作業は始まったばかりです。

ちなみに巴水は、犬田さんのいう「大観」は描いていません。理由は、巴水が訪れた当時、まだ北利根橋が無かったからです。
次は巴水の「牛堀の夕暮」(初摺・林望氏蔵)です。

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この絵は昭和5年(1930)制作です。このポプラに左側に、2年後の昭和7年に橋が架かります。この橋が架かるまで、このポプラは、この一帯のランドマークのような役割を果たしたことが、当時の写真類からわかります。

橋が架かった後、巴水がこの地を描くとすれば、どのようなアングルになったのでしょうか。有名な「清洲橋」の絵のようになったかも知れません。

染谷智幸(茨城キリスト教大学・巴水の会代表)

追伸:5月28日(日)の講演会+シンポジウムの来客数は200を越えたそうです。多くの方にご来場いただき、心より感謝もうしあげます。






























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