水郷(すいきょう)に注目する
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(吉田初三郎画『近畿東海大圖繪』大阪毎日新聞社、昭和二年、染谷蔵、この絵図の脇に「要塞司令部認可」の印がある。初三郎の絵は戦争の時代になると、軍事機密が漏れるとして軍部から目をつけられ、初三郎も不遇な時代を送ることになる。なお、この絵図には「大正十六年元旦付録」とあるが、十五年の十二月二十五日に大正天皇が崩御して昭和天皇が即位した関係で、その十二月二十五日が昭和元年となった。)
「水郷」は「すいごう」とも「すいきょう」とも呼びます。河川や湖沼の多くある景勝地のことです。私(染谷)は出来れば「すいきょう」と読ませたいですね。
理由は「郷」は「ごう」より「きょう」と読む場合が多く、「山郷」は「さんきょう」、「山水郷」は「さんすいきょう」ですし、故郷の「きょう」、桃源郷の「きょう」とも深く繋がる気がするからです。「酔狂」とも響き合うのがいいですね(笑)。
最初に掲出した絵地図は、明治末から昭和にかけて活躍した、鳥瞰図画家・吉田初三郎(1884〜1955)の大図絵の一部です。川瀬巴水が1883〜1957ですから、ほぼ重なる同時代人ですね。ご存知のように、巴水は昭和の広重と呼ばれましたが、吉田は大正の広重と呼ばれました。両者、ともに意識する存在だったと思われます。
初三郎は、様々な鳥瞰図を書いていて、その数3000以上とも言われます。明治末から大正へかけての観光ブームに乗り、鉄道省から地方旅館まで、多方面からの注文をうけて書き続けました。また、そうした関係から政治的な動きもあって、関東大震災の被災図や、第二次大戦後の広島を描いた「原爆八連図」のような作品もあります。
巴水は、観光といった表立った世界を出来るだけ避け、芸術性を追究しましたが、また政治的な世界からも遠い場所にありました。初三郎と巴水は、同じ風景画の道を歩みつつ、表と裏、陽と陰という存在だったと考えられます。
それはともかく、絵を見ますと、関東平野が一望できるわけですが、この関東における「水郷」地帯が大きく描かれていることがすぐに分かります。この絵図をさらに拡大してみます。
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潮来を中心に十二橋、香取神社・鹿島神社と、この地の有名な場所が船の航路とともに書き込まれています。
この絵図からすれば、明治末から大正時代にかけての関東の観光において、水郷の占める位置というのは非常に高かったことが想像されます。それは、この明治末から大正にかけて、文人墨客が多く、この水郷地域を訪れていることからわかります。巴水もその一人だったわけです。
ところが現代はどうでしょう。東京やその近郊に住む人たちが、今週末は天気がよさそうだから、横浜や湘南まで足をのばすか、週末は箱根あたりで一泊してみようか、は話としてあるでしょうが、霞ケ浦へ、潮来・浮島へ、というような話を聞いたことがありません。水郷の観光はすっかり忘れ去られたようです。
もちろん、そうなる原因は、霞ケ浦の水質低下や交通の不便など、いくつもあるのですが、しかし勿体ないと言いますか、不思議と言いますか、変な話です。この初三郎の鳥瞰図を取り出すまでもなく、普通に日本地図を広げてみれば、日本で最も広い平野が関東平野で、その中に大きく広がる水郷地域が、霞ケ浦を中心とした湖沼・河川です。明治末から大正・昭和にかけてそうだったように、関東の人間が、まず最初に、自然に接しながら憩う場所はここであるはずです。
巴水の感じた世界を求めて、浮島などの水郷地域を訪ねてみると、ここには日本のどこにでも見られる、山と海が迫りくる急峻な世界とは違った、山も海もない、湖沼と川と低い陸地がただ茫漠と続いている、なだらかな世界があることに気付きます。天気の良い日は、遠方には筑波山が幽かに見えるだけの、空と湖沼の青が接する地平に囲まれます。
こうした景色を独り占めにしていると、何だか嬉しいような悲しいような不思議な感慨に襲われます。
いま、コロナの終息を見据えて、従来の観光地が賑わいを取り戻しています。京都の渡月橋あたりでは休日は人が溢れかえっているとも。ところが、霞ケ浦の水郷地域では、コロナ以前も以後も人で賑わった話を聞いたことがありません。
もちろん、やたらに観光客が増えても困るのですが、いまの状況は明らかに不自然です。
環境問題やSDGsを考える時に、健全な観光というのは外せない問題です。巴水の絵、とくに風景画とそこに描かれている人物の姿を見ていると、そのことを考えてしまいます。 染谷智幸(巴水の会代表)
(吉田初三郎画『近畿東海大圖繪』大阪毎日新聞社、昭和二年、染谷蔵、この絵図の脇に「要塞司令部認可」の印がある。初三郎の絵は戦争の時代になると、軍事機密が漏れるとして軍部から目をつけられ、初三郎も不遇な時代を送ることになる。なお、この絵図には「大正十六年元旦付録」とあるが、十五年の十二月二十五日に大正天皇が崩御して昭和天皇が即位した関係で、その十二月二十五日が昭和元年となった。)
「水郷」は「すいごう」とも「すいきょう」とも呼びます。河川や湖沼の多くある景勝地のことです。私(染谷)は出来れば「すいきょう」と読ませたいですね。
理由は「郷」は「ごう」より「きょう」と読む場合が多く、「山郷」は「さんきょう」、「山水郷」は「さんすいきょう」ですし、故郷の「きょう」、桃源郷の「きょう」とも深く繋がる気がするからです。「酔狂」とも響き合うのがいいですね(笑)。
最初に掲出した絵地図は、明治末から昭和にかけて活躍した、鳥瞰図画家・吉田初三郎(1884〜1955)の大図絵の一部です。川瀬巴水が1883〜1957ですから、ほぼ重なる同時代人ですね。ご存知のように、巴水は昭和の広重と呼ばれましたが、吉田は大正の広重と呼ばれました。両者、ともに意識する存在だったと思われます。
初三郎は、様々な鳥瞰図を書いていて、その数3000以上とも言われます。明治末から大正へかけての観光ブームに乗り、鉄道省から地方旅館まで、多方面からの注文をうけて書き続けました。また、そうした関係から政治的な動きもあって、関東大震災の被災図や、第二次大戦後の広島を描いた「原爆八連図」のような作品もあります。
巴水は、観光といった表立った世界を出来るだけ避け、芸術性を追究しましたが、また政治的な世界からも遠い場所にありました。初三郎と巴水は、同じ風景画の道を歩みつつ、表と裏、陽と陰という存在だったと考えられます。
それはともかく、絵を見ますと、関東平野が一望できるわけですが、この関東における「水郷」地帯が大きく描かれていることがすぐに分かります。この絵図をさらに拡大してみます。
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潮来を中心に十二橋、香取神社・鹿島神社と、この地の有名な場所が船の航路とともに書き込まれています。
この絵図からすれば、明治末から大正時代にかけての関東の観光において、水郷の占める位置というのは非常に高かったことが想像されます。それは、この明治末から大正にかけて、文人墨客が多く、この水郷地域を訪れていることからわかります。巴水もその一人だったわけです。
ところが現代はどうでしょう。東京やその近郊に住む人たちが、今週末は天気がよさそうだから、横浜や湘南まで足をのばすか、週末は箱根あたりで一泊してみようか、は話としてあるでしょうが、霞ケ浦へ、潮来・浮島へ、というような話を聞いたことがありません。水郷の観光はすっかり忘れ去られたようです。
もちろん、そうなる原因は、霞ケ浦の水質低下や交通の不便など、いくつもあるのですが、しかし勿体ないと言いますか、不思議と言いますか、変な話です。この初三郎の鳥瞰図を取り出すまでもなく、普通に日本地図を広げてみれば、日本で最も広い平野が関東平野で、その中に大きく広がる水郷地域が、霞ケ浦を中心とした湖沼・河川です。明治末から大正・昭和にかけてそうだったように、関東の人間が、まず最初に、自然に接しながら憩う場所はここであるはずです。
巴水の感じた世界を求めて、浮島などの水郷地域を訪ねてみると、ここには日本のどこにでも見られる、山と海が迫りくる急峻な世界とは違った、山も海もない、湖沼と川と低い陸地がただ茫漠と続いている、なだらかな世界があることに気付きます。天気の良い日は、遠方には筑波山が幽かに見えるだけの、空と湖沼の青が接する地平に囲まれます。
こうした景色を独り占めにしていると、何だか嬉しいような悲しいような不思議な感慨に襲われます。
いま、コロナの終息を見据えて、従来の観光地が賑わいを取り戻しています。京都の渡月橋あたりでは休日は人が溢れかえっているとも。ところが、霞ケ浦の水郷地域では、コロナ以前も以後も人で賑わった話を聞いたことがありません。
もちろん、やたらに観光客が増えても困るのですが、いまの状況は明らかに不自然です。
環境問題やSDGsを考える時に、健全な観光というのは外せない問題です。巴水の絵、とくに風景画とそこに描かれている人物の姿を見ていると、そのことを考えてしまいます。 染谷智幸(巴水の会代表)
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