【私の考えていることは8000万人もいる日本人の中で、この電発に集まって、同じ目的で、同じ仕事をする事は何かの縁であると思います。総裁とか、副総裁とかその他色々な役職がありますが、仕事の上では共同責任で皆んなボートを漕ぐのと同じです。ボートに乗っている人々は共同責任なのです。日本は国の建て直しに当たっては資源は殆ど有りません。ただ、さいわいに持っているのは多くの優秀な人材と雨量です。日本経済の自立の為には水力電気利用を大いに考えなくてはなりません。】(水野清著『電源開発物語』(時評社・平成17年)昭和27年9月16日電源開発・は発足により、糖平ダム(音更川)、佐久間ダム(天竜川)、そして御母衣ダム(庄川)等の建設がスタートした。御母衣ダムは関西電力・から引き継いだ。
覚 書この覚書は、学校の便箋に書かれたものであった。恐らく、最初から用意された文書ではなかったのであろう。死守会は、覚書の確認によって、その後、紆余曲折はあるもののダム絶対反対の声は消え、60項目の要望を提出し、補償条件闘争に変化していく。藤井副総裁は「貴殿方が現在以上に幸福を考えられる方策を、我社は責任を以って樹立し、之を実行する」と断言した。ここに「補償の精神」をみることができる。
御母衣ダム建設によって立退きの余儀ない状況に相成ったときは、貴殿方が現在以上に幸福と考えられる方策を、我社は責任を以って樹立し、之を実行するものであることを約束する。
昭和31年5月8日
電源開発開発株式会社 副総裁 藤井崇治
御母衣ダム絶対反対死守会 会長 建石福蔵殿
【水没予定地をゆっくりまわってみたが、湖底に近い学校の隣にある光輪寺という古刹のかたわらまで来た時、私はふと歩をとめた。境内の片隅に幹周一丈数尺はあろうと思われる桜の古木がそびえていた。葉はすっかり落ちていたが、それはヒガン桜に違いなかった。私の脳裏にはこの巨木が水を満々とたたえた青い湖底にさみしく揺らいでいる姿がはっきりみえた。この桜を救いたいという気持ちが胸の奥の方から湧き上がってくるのを私は抑えられなかった】高碕の桜を救いたいという優しさは、まさしく藤井副総裁の「幸福の覚書」と同様に「補償の精神」につながっているといえる。
【進歩の名のもとに古き姿は次第にうしなわれていく、だが、人力で救えるかぎりのものはなんとか残していきたい。古きものは古きが故に尊い】と、古きものへの価値観を語る。