「千數百年の歴史の地先祖累代の郷土、一朝にして湖底に影も見ざるに至る。實に斷腸の思ひがある。けれども此の斷腸の思ひも、既に、東京市發展のため其の犠牲となることに覺悟したのである。水没村民の子供たちもまた、故郷を去らねばならない。その心情を本澤貞子(西高二女)の作文をこの書から引用する。
我々の考え方が單に土地や家屋の賣買にあつたのでは、先祖に對して申譯が無い。帝都の御用水の爲めの池となることは、村民千載一遇の機會として、犠牲奉公の實を全ふするにあつたのである。
村民が物の賣買觀にのみ終始するものであつたなら、それは先祖への反逆でありかくては、村民は犬死となるものである。(中略)
顧りみれば、若し、日支事變の問題が起らぬのであつたならば、我等と市との紛爭は容易に解決の機運に逹しなかつたらうと思ふ。
昭和十二年春、東京市が始めて發表した本村の、土地家屋買収價格其の他の問題は、我々日本國民として信ずる一村犠牲の精神と價値と隔たること頗る遠く、到底承服し得られぬ數字であつた。
本村は、粥を啜つても餓死しても水根澤の死線を守つて、權利の爲めに抗爭し、第二の苦難を敢てしやうとした村民であつたが國内摩擦相剋を避けんとする國民總動員運動の折柄に、我等は此の衝突こそ事變下に許すべからずとして、急轉して解決の方針に向つたのである。是れこそ對市問題解決の動機である。今日圓滿な解決を來し當局と提携事業の進行を見るのは同慶の至りである。」
「春の山吹やつゝじ、夏の山百合や秋のもみじ、又幾千年の昔から行はれた車人形、獅子舞など私達にとつて最も樂しく、何時迄も何時迄も心に殘り、夢となる事でせう。もう留浦で多くの人々は家をこはした樣です。農夫の働く有樣を見ても後幾年も居られないのだ、留浦の方では豊岡へ八王子へと行つてしまふのになどと思ひ心細くて耕すのもいやだと言ふ樣な風も見えます。(中略)このように村長は「帝都の御用水の爲め・・・犠牲奉公の實を全ふする」と、また子供も「東京市民六百萬の爲だと考へますれば、しかたがありません」と言明している。戦争という社会背景で、時代の流れがそのまま「補償の精神」を貫いている。
東京市民六百萬の爲だと考へますれば、しかたがありません。私達は喜んで懐しい村を後に致しませうさあ皆さん、一緒に今迄御恩になつた小河内へさよならを云ひませう「小河内よさよなら」小河内の諸神樣よ新しき村に行つてから後も、何時迄も何時迄も私達小河内村民をお守りなさつて下さい。そして立派な國民となれます樣に。・・・・・」