「山腹をぶち抜いて大川(銅山川)の水が引けたら」宇摩の人々にとっては、法皇山脈の向こう側を流れる銅山川の分水を図ることが、江戸期からの悲願であった。この願いは、昭和28年柳瀬ダムの完成によってようやく叶った。
「夢みたいな話じゃ、おまえアホじゃないか」
「夢でもええ、宇摩の百姓が生きる道はこれしかない」
(芳水康史著『吉野川・利水の構図』 (芙蓉書房・昭和45年) )
【知事や県当局は果して銅山川住民の切実な問題を本気に心配してくれていたでしょうか。およそその考えは、住民の土地や建物を時価相場で買いとり、お添えものとして立退きに要求する実費補償を少しやれば、喜んで立退くだろう。何を好んで山中の不便な原始生活をするものであろうか。今度こそ浸水地帯の住民は、原始生活から開放されて、町へ引っ越し、文化の風に浴する絶好の機会であり、ダム工事こそ彼らにとっては福の神が舞い込んだようなものだと、寧ろ恩恵を施すが如き口振りさえ洩らすものもないではなかったようです。】一方、山上次郎県会議員は、
【銅山川湖水池のほとりに佇む時、この大事業に長い忍苦と、尊い犠牲と、深い悲しみと、大きい喜びとが秘められている】と述べ、さらに補償交渉の一端を描いている。
【 〔人形が芥と共に流れ来ぬ立ち退き近き村の銅山川に〕この歌は、昭和二十七年、当時県議として金砂村の立ち退き補償のお世話をするために、金砂を訪れた時のものである。路傍には菰巻にした墓石があったりした。暑い日であった。前夜の話合いも効を奏さず、悲痛な思いで見つめる銅山川に棄て雛がごみ、あくたと一緒に流れてゆく。その時ほど立退者の悲壮さが身にこたえた事がなかった。補償の会談の席上、土木部長が、何れ湖水が出来たら、ここはリッパな観光地になって、ボ−トが浮かびにぎやかになる。ここに放流される紅鱒は観光客を慰めるし、このさびしい山奥も一挙ににぎやかになるよ。と一寸口をすべらせると、何を!我々湖底に沈む者にとっては、故郷がなくなるんだぞ。お墓参りさえ出来ねえんだぞ。その我々を前にボ−トとは何ぞ。観光客とは何ぞ。と食ってかかった村人の血相変えた姿と、血を吐くような叫びがいまだに耳に熱いようだ。】この土木部長の悪意のない失言は、水没者の心情を大いに逆なですることになった。郷土を棄てようとする水没者の感情を共有せず、また水没者の生活再建対策を真剣に考えようとせず、その心底には前述の「原始生活から開放されて、町へ引っ越し、文化の風に浴する絶好の機会であり、ダム工事こそ彼らにとっては福の神が舞い込んだようなものだと、寧ろ恩恵を施すが如き口振り」であったのだろうか。