「開村ここに六百余年幾多の変遷を経て山紫水明な宮ヶ瀬は県民の水確保と流水の安定、エネルギーの有効活用等多目的な宮ヶ瀬ダム建設事業のため、先祖伝来住み馴れた郷土が湖底に沈む少し刻字が薄れつつあるが、この碑には前落合、向落、上村、和田、南、北と各地区の水没者の名が連なる。落合、川瀬、山本、井上、風間、佐藤の姓が圧倒的に多い。水没者は、神奈川県民の生命の水源となるために、止むを得ずに宮ヶ瀬ダムの建設を受容し、「ここに悠久の大義に生きる」という「補償の精神」を選択した。そして 600年の歴史ある先祖伝来のふるさと宮ヶ瀬を離れた。
幾春秋村人の糧と生活を支えた田畑や山林、明治・大正・昭和・国家社会に貢献した多くの人材と文化を育てた学舎、崇高な社、熊野神社のまつり、思い出の多い山川を惜しみ語り尽きないふるさと宮ヶ瀬を後に、厚木市宮の里百九十二戸、宮ヶ瀬地区三十一戸、その他へ四十三戸が移転した。ここに悠久の大義に生き、水没となる二百七十四世帯を添え碑に刻みふるさと宮ヶ瀬をしのび永遠に伝承のためこの碑を建立する」
昭和六十一年四月二十六日建立 清川村建設委員会
【 水没地となる中津川左岸の唐人河原で先月八日、宮ヶ瀬A、B両代替地に移転した住民ら約百人が「望郷の集い」を開いた。キャンプファイアー、ゲーム、投網に興じた。テントで男たちは酒を酌み交わし、故郷の川の名残を惜しんだ。望郷の碑では、「ここに悠久の大義に生き」と記してあったが、水没者の一人である山本良治さんは「ダムが都市住民の水を確保するその大義に生きる満足7割、大自然を失う残念さが3割」と語る。
「ほら、あすこの岩上から少年のころ、よく飛び込んだ。アユ、ヤマメ、ハヤ...。うようよといた。もぐると魚にぶつかるくらいだ」
指をさす山本良治さん(八三)のほおも赤らんだ。A代替地に移り十三年たつ。
取り壊された移転前の家は、河原から数分とかからぬ所にあった。カヤぶきでマサカリ削りの梁のある築二百年以上の家だった。代々、半農半林だったが、山本さんは村議四期、農協の専務なども務めた。「故郷の思い出はあの家に凝縮される。そして、唐人川原にも...」
「今の心境は...」。山本さんはつぶやく。「ダムが都市住民の水を確保する。その大義に生きる満足感が七割、大自然を失う残念さが三割」。しばらくして山本さんは ?訂正 ?した。「厚木市内に移った住民のうち、既に九戸が離散。持ちつけぬ補償のカネが人を変える。ダムには功と罪両面がある。罪を差し引けば、この割合は五対五かな」】