文献にみる補償の精神【48】
「三十二年間の経済的、精神的な負担に対しての償いを
形として表わしてほしい」
(緒川ダム・茨城県)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。

1. 茨城県のダム

わが国では、現在約2,700基のダムが建設されている。茨城県のダムについては、明治から昭和37年まで建設はみられないが、昭和38年以降、平成17年まで10基に及ぶ。日本ダム協会編・発行「ダム年鑑'07」(平成19年)、「茨城県要覧 平成18年版」により、(1)昭和期(昭和30年〜63年)、(2)平成期(平成元年〜17年)の2期に分けて追ってみる。
【なお、各ダムの表記は河川名、起業者、型式、目的、堤高総貯水容量の順で、E:アースダム、G:重力式コンクリートダム、R:ロックフィルダム、F:洪水調節・農地防災、N:不特定用水河川維持用水、A:かんがい用水、W:水道用水、I:工業用水を表す】

(1)昭和30年〜63年

昭和32年 日本初の原子の火ともる
34年 伊勢湾台風来襲
38年 三野輪池(涸沼前川)の完成(茨城県)
E A 16m 43.2万m3
常陸川逆水門完成
40年 茨城県の人口205.6万人
41年 水沼ダム(花園川)の完成(茨城県)
G FNWI 33.7m 223万m3
42年 日立港開港
水戸線電化
43年 筑波研究学園都市、大学等の移転
44年 鹿島港開港
46年 利根川河口堰の完成
48年 花貫ダム(花貫川)の完成(茨城県)
G FNWI 45.3m 288万m3
筑波大学開学
49年 大利根橋新橋開通
51年 藤井川ダム(藤井川)の完成(茨城県)
G FNAW 37.5m 400万m3
54年 竜神ダム(竜神川)の完成(茨城県)
G FNWI 45m 300万m3
不動谷津池(涸沼前川)の完成(友部町土地改良区)
E A 16.6m 22.2万m3
57年 霞ヶ浦富栄養化防止条例施行
60年 国際科学技術博覧会
大洗鹿島鉄道開通
台風6号で農産物に被害
茨城県の人口272.5万人
61年 台風10号で県下大被害

(2)平成元年〜平成17年

平成元年 首都圏新都市鉄道?M設立
3年 南椎尾調整池(霞ヶ浦)の完成(農林水産省)
R A 27.4m 56万・
4年 飯田ダム(飯田川)の完成(茨城県)
G FNW 33m 244万・
5年 十王ダム(十王川)の完成(茨城県)
G FNWI 48.6m 286万・
6年 竜神大吊橋開通
7年 霞ヶ浦開発事業の竣工
第6回世界湖沼会議霞ヶ浦開催
茨城県の人口295.5万人
10年 常陸那珂港開港
11年 新茨城県庁開庁
東海村のウラン加工施設臨界事故
12年 緒川(おがわ)ダム中止
14年 大谷原川生活貯水池中止
15年 首都圏中央連絡自動車道開通
17年 小山ダム(大北川)の完成(茨城県)
G FNWI 65m 1,660万・
つくばエクスプレス開業
茨城県の人口297.5万人

以上、茨城県におけるダム建設に合わせて、社会資本の形成を追ってみた。茨城県のダム堤高のベスト3は、小山ダム65m、花貫ダム45.3m、竜神ダム45mで、総貯水容量では小山ダム1,660万m3、藤井川ダム400万m3、竜神ダム300万m3であり、ともに小山ダムは茨城県第1位の規模を誇っている。

また、茨城県の主なるダムにおける移転戸数と水没面積は次のとおりである。
十王ダム 25戸 20ha
小山ダム 15戸 87ha
藤井川ダム 12戸 38ha
竜神ダム 3戸 21ha
水沼ダム 1戸 35ha
飯田ダム 0戸 28ha
花貫ダム 0戸 24ha

後述するが、幻のダムに終わった緒川(おがわ)ダムは132戸、68haであった。このようにみてくると、緒川ダムは茨城県のダムにおいて移転戸数が大変多いことが分かる。このことは補償解決への困難性の1つに挙げられる。


2. 中止となった緒川ダム

箕川恒男著『水をめぐって−「緒川ダム」の軌跡』(筑波書林・平成6年)、同著『村は沈まなかった−緒川ダム未完への記録』(那珂書房・平成13年)に、緒川ダム事業の足跡を追ってみたい。

緒川ダムは那珂川水系緒川の茨城県緒川村上小瀬字高館(左岸)、字豆入平(右岸)の地先に、重力式コンクリートダムとして計画された。
その諸元は堤高36m、堤頂長318m、総貯水容量608万・、総事業費253億円であった。ダムは洪水調節、流水の正常な機能、不特定用水としての農水補給、それに都市用水を供給するの4つの目的を持っていた。行政区域はダムサイトにかかる緒川村、水没にかかる美和村の2村であるが、この2村とも高齢化が進んでいる。補償関係では移転家屋132戸、その内訳は水没地70戸、道路関係62戸である。水没面積は、宅地7.1ha、田12.2ha、畑28.8ha、山林原野19.9ha、その他25.0haの計93ha。地権者団体は緒川村の「本郷地区緒川ダム対策協議会」(33名)、一方、美和村では「緒川ダム対策連絡協議会」(82名)、「下郷緒川ダム対策同盟会」(30名)、「宿里地区緒川ダム地権者会」(48名)、「緒川ダム生活再建対策協議会」(13名)の5団体が結成された。


3. 緒川ダムの経過

前掲書『水をめぐって』、『村は沈まなかった』の2書により、昭和42年緒川ダムの計画発表から平成12年ダム中止に至るまでの経過をみてみる。

昭和42年 4月 茨城県、緒川ダム建設計画発表
6月 美和村に「緒川ダム建設反対同盟」結成
9月 美和村住民100人、むしろ旗かかげ県庁へ抗議
緒川村、「本郷地区緒川ダム対策協議会」結成
45年 10月 県、緒川ダム計画凍結を解除
50年 9月 竹内知事、美和村での現地公聴会で反対住民らにダム建設の協力要請
52年 4月 「檜沢下郷緒川ダム対策委員会」結成
県、緒川流域の航空写真測量開始
53年 8月 「本郷地区緒川ダム対策協議会」、予備調査を了解
12月 美和村の「緒川ダム反対総決起同盟」解散し、美和村ダム対策連絡協議会発足
54年 9月 ダム予定地で縦横断測量開始
61年 1月 美和村で住民意識調査アンケート実施
11月 緒川ダム用地買収杭設置(標高110m)
62年 6月 美和村に「下郷緒川ダム対策同盟会」結成
63年 4月 建設省、緒川ダム事業採択
平成元年 1月 緒川ダムを水特法ダムに指定
11月 緒川村内で、県道下檜沢上小瀬線付替道路測量開始
2年 3月 竹内知事、永年の住民の精神的苦痛を陳謝し、協力要請
7月 美和村の旧反対派住民、「緒川ダム生活再建対策協議会」結成
11月 国土庁、水源地域対策アドバイザー4人派遣
3年 2月 「美和村生活再建対策協議会」、県に対し100haの「希望ヶ丘」代替地要望提出
3月 竹内知事と「美和村ダム対策連絡協議会」、「本郷地区ダム対策協議会」、基本協定書を締結
4年 3月 代替地等取得資金利子補給制度を開始
5年 1月 緒川村、上小瀬本郷地区物件調査開始
8月 県知事選挙、橋本昌氏当選
6年 8月 美和村道野沢線の付替道路測量開始
7年 8月 県那珂水系ダム建設事務所、新築開所式
12月 美和村宿里地権会の物件調査開始
8年 10月 本郷地区ダム対策協議会と美和村の3団体(ダム対策連絡協議会、下郷ダム対策同盟会、宿里地権者会)の計4団体で、補償基準会発会式
10年 2月 ダム補償交渉準備会発足
県とダム補償交渉準備会との協議、物別れ
3月 建設省、公共事業における再評価システム実施要領を決定
5月 「本郷地区ダム対策協議会」の家屋移転者、水戸市、ひたちなか市の住宅展示場視察
11月 県公共事業再評価委員会、緒川ダムを再評価事業にリストアップ
11年 1月 県公共事業再評価委員会、「緒川ダム計画の見直し」を求める
7月 県公共事業再評価委員会、「緒川ダム建設事業の休止が妥当」と提言
8月 県、庁議で緒川ダム建設事業の休止を決定
9月 県、緒川村と美和村へダム休止説明会
12年 7月 緒川村長ら、橋本知事に精神的補償等を求める
8月 県、「緒川ダム関連対策推進本部」を設置


4. 緒川ダムの中止理由

平成に入ると、日本経済のバブルがはじけ、国や地方自治体の税収は極端に減少し、さらに経済の停滞、人口の増加も横ばいとなり、水需要も当初の計画ほど伸びず、また、ダム建設に伴う自然環境に与える影響も強く、このような背景から全国的にダム建設事業の見直しがなされた。この見直しのために、茨城県では公共事業再評価委員会が作られ、平成11年1月28日、第4回再評価委員会が開催され、緒川ダムについて検討された。このことについて、小林茂著『幻のダムものがたり』(文芸社・平成14年)には次のように記されている。

地元の一部に反対があり、長年にわたり事業が停滞している一方、計画時点からの社会情勢が変化していることもあり、再検討することが妥当である。昭和42年に県から地元にダム建設計画が提示され、当初の反対の気運に対し説得がなされた結果、昭和63年度から建設事業に着手されることになった。以後、県において地元交渉が続けられ、了解が得られた地権者に関わる箇所から測量や設計、家屋補償調査などの各種調査が実施されてきた。
この間、移転等に関する地権者の意向調査が数度にわたって行なわれ、その結果を踏まえて代替地造成案が提案されてきたものの、一部地権者の賛同が得られず、いまだに用地交渉の段階に至っていない。このため、当地域の生活基盤の整備がほとんど行なわれない状況にある。計画発表から既に32年が経過している現在、水需要など社会経済情勢等の変化から利水の必要性は依然として認められるものの、その一部に水資源確保に関する緊急性が薄れるなど、現計画の前提条件に大きな変化があることを考慮する必要があると思われる。また治水についても、利水による費用負担が小さくなった場合には、必ずしもダム建設による整備に経済性があるとは言えないと思われる。このようなことから、早急に利水、環境面などの代替案を含め、現計画そのものを再検討する必要があると思われる。

そして7月16日、第5回県公共事業再評価委員会が開かれ、「緒川ダム事業を休止することが妥当とすると判断する」との意見が提出され、8月25日に庁議を開き、緒川ダムは休止すると決定された。


5. 休止説明会

平成11年9月1日の緒川ダム休止説明会では、地権者たちの怒りが爆発した。

「待った! 始まる前に謝罪すべきだ」
「確かにご迷惑をおかけして申し訳なかったと思います」
「住民を馬鹿にするな」、「ふざけるのもいい加減にしろ」
「どうして知事が来なんだ、九年前、この同じ会場で竹内知事はダムを造らせて下さいと頭を下げた。だから協力してきた。造らせてもらう時だけ来て、休止だと来ない。都合が悪いと部下をよこすのでは住民は納得しない」
「人の家の押入れから、仏壇の奥、天井裏(うら)まで覗いておいて、今さら休止とはなんだ。ふざけるのではない」
「再評価委員会など他人の手を借りないと、休止も中止も言えないのか。県は今まで何をしていたんだ」
「県のやってきたことは犯罪行為ではないか」
「一番聞きたいことは三十二年間の精神的苦痛に対しての補償、どういう形で償うのか」
「ただ今の精神的な補償について、金銭的な補償ということになりますと、非常に難かしいものがあると考えています。従いまして地域振興の形の中で適切に対応していきたいと考えております。」

前掲書『幻のダムものがたり』の著者小林茂氏は、緒川村本郷地区ダム対策協議会の会長である。昭和42年、この会が結成された時から会長を務めている。その時36歳であったが、現在70歳を越えている。人生の大半を緒川ダム問題に携わってきた。小林氏はこの書の中で、「延々と二時間にわたって休止説明会は終わったが、住民の心は晴れなかった。重い澱(おり)のようなものを心の奥底に沈めたまま、どこにぶつけたらよいか分からない怒りを抱いて家路についた」と記している。


6. マイナスの補償の精神

昭和42年4月、緒川ダム建設計画が発表されて以来、紆余曲折を経て、平成11年8月に中止が決定した。一時は地権者団体の大半がダム建設に向けて、物件調査などに協力し始めた矢先であった。

「三十二年間の経済的、精神的な負担に対しての償いを形として表わしてほしい」というのが、地権者の総意である。これに対し、県の担当者は針の筵に座した心境で「精神的な補償について、金銭的な補償を行うことは非常に難かしい。地域振興で適切に対応したい」と苦渋の回答を行った。

さらに、地権者の1人は「ダム計画は地域の人間的なつながりをバラバラに崩壊させた。人間関係を修復させるような集落の話し合い、そうしたソフト面でつぐない、支援が先だ」と言う。そして美和村長大瀧典夫氏は「うらみ、つらみをのこすことがあってはならない」と指摘する。

ダムにおける補償の精神は、ダムを造る側とダムを造られる側とが、最初はお互いに確執があるにしても、何らかの形で歩み寄り、補償の合意に達することだ。
だが、合意に達する前に確執のみが残り、ダム建設が中止となった。あまりにも32年間という時がかかりすぎたのであろう。


7. おわりに

緒川ダムのように中止となったダムは、新月ダム(宮城県)、中部ダム(鳥取県)、細川内ダム(徳島県)、矢田ダム(大分県)などがみられる。その対応に各県とも苦慮しているが、鳥取県三朝町の「中部ダム」の場合、片山善博知事が現地に入り、「県が悪かった。申し訳なかった。責任は県にある。地元の意見を取り入れながら振興策をつくる」と言明した。早速、土木部内に、知事を会長、三朝町長を副会長として「旧中部ダム予定地地域振興協議会」が設立され、中部ダム中止に対する善後策が検討された。

マイナスの補償の精神をプラスに変えるには、緒川ダム水没者を含めた関係者の生活援助と緒川流域における振興策を確実に実行することだろう。
現在の補償基準要綱では、ダム建設に係わる精神的な補償は適用されていない。人の心は感情と勘定の2つの「カンジョウ」に大きく支配されている。中止となったダムには、何らかの金銭補償の適用が必要ではなかろうか。それは勘定によって、怒った感情もいくらかは和らげ、未来志向を考えることができるからである。また、用地担当者の苦労も考えると、このことを痛切に感じる。

おわりに、帯谷博明著『ダム建設をめぐる環境運動と地域再生−対立と協働のダイナミズム』(昭和堂・平成16年)、旧中部ダム予定地地域振興協議会編『水没から再生へのアプローチ:ダム建設計画の中止で甦る水没予定地地域再生の記録』(鳥取県・平成17年)の2書を挙げる。

(2009年9月作成)
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