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山丹州

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

山丹州(さんたんしゅう)は、中国にかつて存在したモンゴル帝国および大元ウルスの時代に現在の甘粛省 山丹県一帯に設置された。

チンギス・カンによる西夏国征服後に次男のチャガタイに与えられており、太原路とともに初期チャガタイ・ウルス投下領であった。

歴史

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唐代刪丹県を前身とする。唐代以後、山丹(刪丹)は長らく西夏国の領土であったが、1227年のチンギス・カンによる西夏国征服によってモンゴル帝国の領土となった。同年、西夏国の領土の内、沙州が長男ジョチ家のバトゥに、山丹が次男チャガタイに、西涼が三男オゴデイに、それぞれチンギス・カンによって分封された。ジョチ・チャガタイ・オゴデイ(西道諸王と総称される)にはこれ以前からモンゴル高原西部一帯、山西地方(平陽路・太原路・西京路)の領民(アイマグ=投下)が均等に分配されており、沙州・山丹・西涼の分配もこれらと同様に「各王家均等」の原則に則って分割相続された領土であった[1] [2] 。チャガタイは1228年に山丹の管理者としてアンチュルを任命し、アンチュルは山丹からチャガタイ・ウルス本拠地のイリ渓谷に至る駅伝(ジャムチ)を整備した[3]

1259年に第4代皇帝モンケが急死すると弟のクビライアリクブケとの間で帝位継承戦争が勃発したが、この時クビライ即位を支持した数少ないチャガタイ系王族がアビシュカアジキの兄弟であった。アビシュカはアリクブケ派によって殺されてしまったが、クビライは生き残ったアジキを対中央アジア方面の司令官に抜擢し、アジキは1269年(至元6年)に始祖チャガタイ以来の領地である山丹城を本拠地とした。また、この時に従来の「刪丹」という表記を「山丹」に改めている[4]

朱元璋による明朝の建国後、山丹州には山丹衛が設置された。

脚注

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  1. ^ 松田1992,70-72頁
  2. ^ 村岡2002,152頁
  3. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「太宗即位、尊察合台為皇兄、以按竺邇為元帥。戊子、鎮刪丹州、自敦煌置駅抵玉関、通西域、従定関隴」
  4. ^ 『元史』巻60志12地理志3,「山丹州、下。唐為刪丹県、隷甘州。宋初為夏国所有、置甘粛軍。元初為阿只吉大王分地。至元六年、行山丹城事、刪訛為山。二十二年、升為州、隷甘粛行省」

参考文献

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  • 赤坂恒明「バイダル裔系譜情報とカラホト漢文文書」『西南アジア研究』66号、2007年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 松田孝一「チャガタイ家千戸の陝西南部駐屯軍団 (上)」『国際研究論叢: 大阪国際大学紀要』第7/8合併号、1992年
  • 村岡倫「モンゴル時代の右翼ウルスと山西地方」『碑刻等史料の総合的分析によるモンゴル帝国・元朝の政治・経済システムの基礎的研究』、2002年
 
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