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'''永州路'''(えいしゅうろ)は、[[中国]]にかつて存在した[[路]]。[[大元ウルス]]の時代に現在の[[湖南省]][[永州市]]一帯に設置された。治所は[[零陵区|零陵県]]で、大元ウルスの行政上は[[湖広等処行中書省]]に属した。
'''永州路'''(えいしゅうろ)は、[[中国]]にかつて存在した[[路]]。[[大元ウルス]]の時代に現在の[[湖南省]][[永州市]]一帯に設置された。治所は[[零陵区|零陵県]]で、大元ウルスの行政上は[[湖広等処行中書省]]に属した。
[[華北]]の[[平陽路]](晋寧路)とともに、[[チンギス・カン]]の長男の[[ジョチ]]を始祖とする[[ジョチ・ウルス]]の[[投下 (モンゴル帝国)|投下領]]であった(削除) <ref> (削除ここまで)植松1997(削除) , (削除ここまで)101(削除) / (削除ここまで)110(削除) 頁</ref> (削除ここまで)。
[[華北]]の[[平陽路]](晋寧路)とともに、[[チンギス・カン]]の長男の[[ジョチ]]を始祖とする[[ジョチ・ウルス]]の[[投下 (モンゴル帝国)|投下領]]であった(追記) {{sfn| (追記ここまで)植松1997(追記) |p= (追記ここまで)101(追記) , (追記ここまで)110(追記) }} (追記ここまで)。
[[唐代]]の[[永州 (古代)|永州]]を前身とする。モンゴル帝国第5代皇帝[[クビライ|セチェン・カアン(クビライ)]]によって[[南宋]]が平定されると、[[1276年]]([[至元 (元世祖)|至元]]13年)に安撫司が置かれ、更に[[1277年]](至元14年)に永州路総管府が置かれた<ref>『元史』巻62志14地理志5,「永州路、下。唐改零陵郡為永州、宋因之。元至元十三年、置安撫司。十四年、改永州路総管府。戸五万五千六百六十六、口一十万五千八百六十四。領司一・県三。本路屯田一百三頃」</ref>。
[[唐代]]の[[永州 (古代)|永州]]を前身とする。モンゴル帝国第5代皇帝[[クビライ|セチェン・カアン(クビライ)]]によって[[南宋]]が平定されると、[[1276年]]([[至元 (元世祖)|至元]]13年)に安撫司が置かれ、更に[[1277年]](至元14年)に永州路総管府が置かれた<ref>『元史』巻62志14地理志5,「永州路、下。唐改零陵郡為永州、宋因之。元至元十三年、置安撫司。十四年、改永州路総管府。戸五万五千六百六十六、口一十万五千八百六十四。領司一・県三。本路屯田一百三頃」</ref>。
南宋の平定が完了するのと時を同じくして、北方では反クビライ派の王族が叛旗を翻し、クビライの子の[[ノムガン]]を捕虜にするという事件が起こった([[シリギの乱]])。この頃、ジョチ・ウルスとクビライ家(大元ウルス)は関係が悪化しており、叛乱を起こした[[シリギ]]らは捕虜としたノムガンをジョチ・ウルスの下に送り、ノムガンは数年にわたって虜囚の身となった。「シリギの乱」自体はクビライの迅速な対応によって鎮圧されたものの、その残党が中央アジアの[[カイドゥ]]の下に逃れ、カイドゥの勢力(カイドゥ・ウルス)は更に大規模なものとなった。それまでカイドゥ・ウルスと協力関係にあったジョチ・ウルスはその急速な拡大に危機感を覚え、方針を変更してノムガンをクビライの下に送り返し、大元ウルスとの友好関係を復活させた。そしてその直後、[[1281年]](至元18年)にジョチ・ウルスは江南投下領として永州の6万戸を与えられた<ref>『元史』巻95志44食貨志3,「太祖長子朮赤大王位......江南戸鈔、至元十八年、分撥永州六万戸、計鈔二千四百錠」</ref>。「シリギの乱」に関わった諸王の多くが江南投下領を与えられていないのに対し、ジョチ・ウルスが永州を与えられたのは、ノムガンを送り返したことで大元ウルスとの関係が良好になったためと考えられている(削除) <ref> (削除ここまで)村岡1997(削除) , (削除ここまで)18-19(削除) 頁</ref> (削除ここまで)。
南宋の平定が完了するのと時を同じくして、北方では反クビライ派の王族が叛旗を翻し、クビライの子の[[ノムガン]]を捕虜にするという事件が起こった([[シリギの乱]])。この頃、ジョチ・ウルスとクビライ家(大元ウルス)は関係が悪化しており、叛乱を起こした[[シリギ]]らは捕虜としたノムガンをジョチ・ウルスの下に送り、ノムガンは数年にわたって虜囚の身となった。「シリギの乱」自体はクビライの迅速な対応によって鎮圧されたものの、その残党が中央アジアの[[カイドゥ]]の下に逃れ、カイドゥの勢力(カイドゥ・ウルス)は更に大規模なものとなった。それまでカイドゥ・ウルスと協力関係にあったジョチ・ウルスはその急速な拡大に危機感を覚え、方針を変更してノムガンをクビライの下に送り返し、大元ウルスとの友好関係を復活させた。そしてその直後、[[1281年]](至元18年)にジョチ・ウルスは江南投下領として永州の6万戸を与えられた<ref>『元史』巻95志44食貨志3,「太祖長子朮赤大王位......江南戸鈔、至元十八年、分撥永州六万戸、計鈔二千四百錠」</ref>。「シリギの乱」に関わった諸王の多くが江南投下領を与えられていないのに対し、ジョチ・ウルスが永州を与えられたのは、ノムガンを送り返したことで大元ウルスとの関係が良好になったためと考えられている(追記) {{sfn| (追記ここまで)村岡1997(追記) |p= (追記ここまで)18-19(追記) }} (追記ここまで)。
[[1336年]]([[至元 (元順帝)|後至元]]2年)、時のジョチ・ウルス当主[[ウズベク・ハン]]は大元ウルスに使者を派遣し、それまで中止されていたジョチ・ウルス分地(投下領)の歳賜の輸送を再開させるよう要求した。しかし、既にこれを管轄する公的機関がなかったため、[[1337年]](後至元3年)に総管府が設置された。[[1341年]]([[至正]]元年)にウズベク・ハンが亡くなり[[ジャーニー・ベク|ジャーニー・ベク・ハン]]が立つと、晋寧路の平陽・晋州と、永州路分の歳賦2400錠のジョチ・ウルスへの送付が[[1345年]](至正5年)から始められた<ref>『元史』巻117列伝4朮赤伝,「朮赤者、太祖長子也。......至元二年、月即別遣使来求分地歳賜、以賑給軍站、京師元無所領府治。三年、中書請置総管府。給正三品印。至正元年、月即別薨、子札尼別嗣。其位下旧賜平陽・晋州・永州分地、歳賦中統鈔二千四百錠、自至元五年己卯歳始給之」</ref><ref>村岡2002,162-163頁</ref>。
[[1336年]]([[至元 (元順帝)|後至元]]2年)、時のジョチ・ウルス当主[[ウズベク・ハン]]は大元ウルスに使者を派遣し、それまで中止されていたジョチ・ウルス分地(投下領)の歳賜の輸送を再開させるよう要求した。しかし、既にこれを管轄する公的機関がなかったため、[[1337年]](後至元3年)に総管府が設置された。[[1341年]]([[至正]]元年)にウズベク・ハンが亡くなり[[ジャーニー・ベク|ジャーニー・ベク・ハン]]が立つと、晋寧路の平陽・晋州と、永州路分の歳賦2400錠のジョチ・ウルスへの送付が[[1345年]](至正5年)から始められた<ref>『元史』巻117列伝4朮赤伝,「朮赤者、太祖長子也。......至元二年、月即別遣使来求分地歳賜、以賑給軍站、京師元無所領府治。三年、中書請置総管府。給正三品印。至正元年、月即別薨、子札尼別嗣。其位下旧賜平陽・晋州・永州分地、歳賦中統鈔二千四百錠、自至元五年己卯歳始給之」</ref><ref>村岡2002,162-163頁</ref>。
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* 植松正(削除) 『 (削除ここまで)元代江南政(削除) 事 (削除ここまで)社会史研究(削除) 』 (削除ここまで)汲(削除) 戸 (削除ここまで)書院(削除) 、 (削除ここまで)1997(削除) 年 (削除ここまで)
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* 杉山正明(削除) 『 (削除ここまで)モンゴル帝国と大元ウルス(削除) 』 (削除ここまで)京都大学学術出版会(削除) 、 (削除ここまで)2004(削除) 年 (削除ここまで)
* (追記) {{cite book|和書|author= (追記ここまで)杉山正明(追記) |title= (追記ここまで)モンゴル帝国と大元ウルス(追記) |publisher= (追記ここまで)京都大学学術出版会(追記) |year= (追記ここまで)2004(追記) |series=東洋史研究叢刊; 65(新装版3) |ISBN=4876985227 |id={{国立国会図書館書誌ID|000007302776}} |url=https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007302776 |ref={{harvid|杉山2004}}}} (追記ここまで)
* 村岡倫(削除) 「 (削除ここまで)元代江南投下領とモンゴリアの遊牧集団(削除) 」『 (削除ここまで)龍谷紀要(削除) 』 (削除ここまで)18(削除) 、1996年 (削除ここまで)
* (追記) {{Cite journal|和書|author= (追記ここまで)村岡倫(追記) |date=1997-03 |title= (追記ここまで)元代江南投下領とモンゴリアの遊牧集団(追記) |journal= (追記ここまで)龍谷紀要(追記) |ISSN=02890917 |publisher=龍谷大学 |volume= (追記ここまで)18(追記) |issue=2 |pages=13-30 |CRID=1573950401567310720 |ref={{harvid|村岡1997}}}} (追記ここまで)
2024年5月24日 (金) 04:59時点における最新版
永州路(えいしゅうろ)は、中国にかつて存在した路。大元ウルスの時代に現在の湖南省 永州市一帯に設置された。治所は零陵県で、大元ウルスの行政上は湖広等処行中書省に属した。
華北の平陽路(晋寧路)とともに、チンギス・カンの長男のジョチを始祖とするジョチ・ウルスの投下領であった。
唐代の永州を前身とする。モンゴル帝国第5代皇帝セチェン・カアン(クビライ)によって南宋が平定されると、1276年(至元13年)に安撫司が置かれ、更に1277年(至元14年)に永州路総管府が置かれた[2] 。
南宋の平定が完了するのと時を同じくして、北方では反クビライ派の王族が叛旗を翻し、クビライの子のノムガンを捕虜にするという事件が起こった(シリギの乱)。この頃、ジョチ・ウルスとクビライ家(大元ウルス)は関係が悪化しており、叛乱を起こしたシリギらは捕虜としたノムガンをジョチ・ウルスの下に送り、ノムガンは数年にわたって虜囚の身となった。「シリギの乱」自体はクビライの迅速な対応によって鎮圧されたものの、その残党が中央アジアのカイドゥの下に逃れ、カイドゥの勢力(カイドゥ・ウルス)は更に大規模なものとなった。それまでカイドゥ・ウルスと協力関係にあったジョチ・ウルスはその急速な拡大に危機感を覚え、方針を変更してノムガンをクビライの下に送り返し、大元ウルスとの友好関係を復活させた。そしてその直後、1281年(至元18年)にジョチ・ウルスは江南投下領として永州の6万戸を与えられた[3] 。「シリギの乱」に関わった諸王の多くが江南投下領を与えられていないのに対し、ジョチ・ウルスが永州を与えられたのは、ノムガンを送り返したことで大元ウルスとの関係が良好になったためと考えられている。
1336年(後至元2年)、時のジョチ・ウルス当主ウズベク・ハンは大元ウルスに使者を派遣し、それまで中止されていたジョチ・ウルス分地(投下領)の歳賜の輸送を再開させるよう要求した。しかし、既にこれを管轄する公的機関がなかったため、1337年(後至元3年)に総管府が設置された。1341年(至正元年)にウズベク・ハンが亡くなりジャーニー・ベク・ハンが立つと、晋寧路の平陽・晋州と、永州路分の歳賦2400錠のジョチ・ウルスへの送付が1345年(至正5年)から始められた[5] [6] 。
朱元璋が明朝を建国すると、永州路は永州府と改められた。
永州路には録事司、3県が設置されていた。
[7]
- ^ 『元史』巻62志14地理志5,「永州路、下。唐改零陵郡為永州、宋因之。元至元十三年、置安撫司。十四年、改永州路総管府。戸五万五千六百六十六、口一十万五千八百六十四。領司一・県三。本路屯田一百三頃」
- ^ 『元史』巻95志44食貨志3,「太祖長子朮赤大王位......江南戸鈔、至元十八年、分撥永州六万戸、計鈔二千四百錠」
- ^ 『元史』巻117列伝4朮赤伝,「朮赤者、太祖長子也。......至元二年、月即別遣使来求分地歳賜、以賑給軍站、京師元無所領府治。三年、中書請置総管府。給正三品印。至正元年、月即別薨、子札尼別嗣。其位下旧賜平陽・晋州・永州分地、歳賦中統鈔二千四百錠、自至元五年己卯歳始給之」
- ^ 村岡2002,162-163頁
- ^ 『元史』巻62志14地理志5,「永州路......領司一・県三。本路屯田一百三頃。録事司。県三:零陵、上。倚郭。東安、上。祁陽。中」
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雲南行省 | 曲靖宣慰司 | |
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羅羅斯宣慰司 | |
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臨安広西宣慰司 | |
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大理金歯宣慰司 | |
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