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2004年07月

2004年07月31日

台風影響下の風雨

[画像:三田SATY店内02.jpg] 夜、急激にチョコレート菓子が食べたくなり、台風影響下の小雨の降るなか、マックスバリュまで車を走らせる。午前2時のマックスバリュは、棚補充の嵐。商品満載のカートをすりぬけながら、森永のチョコチップクッキー(×ばつ7袋入り197円)を3箱も購入。あとバナナとカップラーメンと缶コーヒー、そして菓子パンも購入。レジは60代とおぼしきおばさんが担当。コンビニのように、深夜は若者バイトで回してると思っていたのだか意外。
帰ってきてクッキー頬張りながら「朝まで生テレビ」(ABC)。今月のテーマは「激論日本のプロ野球が滅亡する」。録画撮りだったけど、ヤクルトの古田(敦也)とか、livedoorの堀江社長とか出演してて、なかなかの激論ぶり。初っ端から政治評論家の三宅(久之)氏(ナベツネの盟友らしい)が、Tシャツ姿の堀江社長にいきなり「アンタの服装はナンダ!」発言。三宅氏は最後まで社長の服装にこだわり続けて、終いには「渋谷のホームレス」呼ばわりされてた。新宿じゃなく渋谷といっただけ、的を得てるか。
今夜の論議でぼくがわかったことといえば、プロ野球の球団収入ってのは、試合の観客動員よりも、テレビの放映権が何倍も儲けがあり、それをどう分配するのかが、1リーグ制なのか2リーグ制存続なのか、どちらにしても問題になってくるのだナということ。あとは、スポーツ評論家(?)の二宮清純(唇が分厚い人)お得意のJリーグ(あるいは大リーグ)の地域密着型を見習え理論に少々頷いたり。

水曜(28日)、夕刊の朝日新聞文化面に、この間、芥川賞をとったモブ・ノリオの受賞の言葉が。

そういえば、この春に文学界新人賞を受賞した際も、最初に書いた<受賞の言葉>が没になった。今回もまた、<受賞の言葉>で没を喰らった。
(略) さて、この私はいつお払い箱になるのだろうか? <原稿書き一人工場>で、今は芥川賞の発表があった直後だから、新聞各社も、「できる限り早く受賞の言葉を」と書き物の依頼をしてくれるが、こんなの、今だけに決まってる。いわば、特需だ。
(略)私は書きたくないものを書くつもりはない。昆虫図鑑になど載らなくとも、変な虫は変な虫のまま、虫の人生を生きることができる。
今の私は、<受賞の言葉>工場だ。銭勘定をしながらも不良品の製造を楽しんでいる。サーヴィスで、「今更ながら、賞の重みをしみじみと実感しとおります」とでもわざとらしく付け加えておこう。私のは、いつ潰しても構わない工場なのだから。まいど、おおきに。こんなもんでよろしゅうおまっか?


...なんか弱い、弱すぎるし、なんかイタい、イタすぎる。毎日、弱くイタい日手紙書いているぼくが言えた義理ではないけど、芥川賞会見のパフォーマンスでもそうだったけど、そのパフォーマンスが、彼の場合、何か見て(読んで)いる方に悲壮感を与えてしまう気がする。パフォーマンスがパフォーマンス足り得ていないというか、「がらスベリ」というか。悲壮感が伝わってくるから笑うに笑えないというか。でも、「受賞の言葉」が「没」になることなんてあるんだナと知って、それが面白かったので、引用してみました。



2004年07月30日

初ハリポタ体験1(こうさぎ)

きょうすべはりまは、作家みたいなマジカルバナナするつもりだった?
だからといってきのうすべはりまが、NHKは夢とか送球された。
subekarakuは、
今朝、6時過ぎまで寝つかれず。
11時半にCからの電話で起床して、そのままCの車で三田へ。
「ひょうご"本だいすきっ子"プラン」、この間は「ブックトーク」実践講座(@

といってました。

*このエントリは、こうさぎの「すべはりま」が書きました。


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2004年07月29日

初ハリポタ体験2

[画像:三田市立図書館.jpg](下↓のつづき)

『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』観終えた感想は、シリーズ前作、前々作ともに観ていないぼくにでも、だいたい筋がわかる単純な構造で、要は、親の仇打ちと自分探しがセットになった古典的物語なんやね、それに魔法という視覚的大サービス(CG)満載の要素が良い感じで醸造して、今日の『ハリー・ポッター』はあるわけか。でも、映画のウケる訳はなんとなくわかったけど、本が売れてるのはよくわからない。余程皆想像力豊かなのだろうか。なぜらなら、ぼくなんて、映像で見ても、人名とか地名とか舞台設定とか、半分ぐらいしか頭に入らなかった。そんなヤヤコシい物語がよく売れるのか。
そういうわけで、今夜はぼくにとって初めてのハリポタ体験だったのだけど、途中少し居眠りもしてて、Cに突き起こされたりしてたにせよ、見ていて不快かと言われればそうでもなく、そういう古典的なのも、たまに昔話聞くのも良いように、なかなか楽しめた。
ただ、悔しかったのは、ぼくがハリポタに折れたにしては、毎週水曜はレディースディだかで、Cはたった1,000円で観れたのに対し、ぼくは『Lmagazine』に付いていた割引券使っても1,600円も支払ったという事実。なんとなく納得いかない。
9時過ぎに映画館出て、そのまま帰る気にもなれず、社のガストでふたりしてドリンクバー。席に常置してある液晶モニタの「カップル診断」したら(105円を精算時に同時に取られる)、ぼくとCはあと270日で破局らしい。それはまだ冗談だと笑い飛ばせるにしても、その後に表示された「ダメ男度診断」で、ぼくは100パーセントだった。納得。ちなみにCの「ダメ女診断」は0パーセント。もし...、もし仮に270日後、ぼくとCが別れるとしたら、きっとぼくはCから見限られるのだろう。
そしてCとともに、家に帰ってきたのは11時を過ぎたころだった。最近のぼくにしては、長い一日だった。



初ハリポタ体験1

[画像:三田市立図書館02.jpg] 今朝、6時過ぎまで寝つかれず。11時半にCからの電話で起床して、急いで支度し、12時すぎに待ち合わせ場所である社のマックスバリュの駐車場着。Cも間もなく来て、そのままCの車で三田へ。「ひょうご"本だいすきっ子"プラン」、この間は「ブックトーク」実践講座(@篠山市立図書館)だったが、今日は「読み聞かせ」実践講座が三田市立図書館であった。
今日の講師は大阪国際児童文学館・主任専門員の土居安子さん。ぼくは、国内外の子どもの本が70万冊も揃っているという、大阪国際児童文学館(吹田市千里万博公園)の存在は以前から気になっており、ぜひ一度訪れたいと思っていたので、そこの現場で働いている人の話が聞ける今回の講座は楽しみにしていた。
講演のまず最初に土井さんの口から出てきたのは「私は、この子どもとの主従関係を連想させる『読み聞かせ』という言い方があまり好きではありません」という話。そのこだわりが象徴するような話が続いたなかで、ぼくの印象に残っているのは、

・物語とは、「生きるとは何か?」「社会とは何か?」を得ることができるものである。
・それが児童文学であるかないかの見極めは、広義にいって、その物語が「生きる」ということを肯定しているかどうかの点にかかってくるということ。
・絵本の特徴は、小説が文章やその段落で、また、マンガが「コマ」で展開していくように、「ページをめくる」ことによって展開していくことである。
・昨今の絵本ブームは、絵本が誰でも楽しめるものだということを証明した反面、それによって見失われた子どもの存在があるということも気に留めておく必要がある。


以上が、ぼくがメモした土居さんのことば。なかなか頷かされることも多くあった。
今日実際に「読み聞かせ」で扱った本は、ハーウィン・オラム/文 きたむらさとし/訳・絵『ぼくはおこった』(評論社・1996年)というイギリスの絵本で、テレビを見ていた「ぼく」は、母親から「早く寝なさい」と言われ、「おこる」のだが、その怒りが家や町や海や、はたまた地球や宇宙まで巻き込んでしまう...、という、なかなか面白い作品で、その作品を例にして、土井さんは、絵本の構造などを具体的に紹介してくれた。
その他、土井さんが「読み聞かせ」するのに良いだろうと推薦してくれた絵本で、ぼくが気になった作品は次の通り。

くろまるイ・ヨンギョン/文・絵 神谷丹路/訳『あかてぬぐいのおくさんと7人のなかま』(福音館書店)
→裁縫上手なあかてぬぐいのおくさんの裁縫道具たちは、誰が一番大事かを競い合う。

くろまる内田莉莎子/文 ワレンチン・ゴルディチューク/絵『セルコ』(福音館書店)
→飼い主に見捨てられた老いぼれ犬が、オオカミの助けを得て飼い主に存在価値を認めさせ、そのお礼に飼い主の娘の結婚式にオオカミを招待する。ウクライナの民話。絵が秀逸。

くろまるピーター・シス/作 松田素子/訳『マドレンカ』(BL出版)
→歯がグラグラしているマドレンカがそのことを近所のさまざまな文化的背景をもつ人に報告して帰ってくる。これも絵が良かった。

くろまるウィリアム・スタイグ/作 木坂涼/訳『ちいさくなったおにいちゃん』(セーラー出版)
→魔法使いになろうと思っている兄は、いつも弟をバカにしているが、両親が旅行中に薬をのんで小さくなってしまう。

くろまるアメリー・フリート/作 ジャッキー・グライヒ/絵 平野卿子/訳『どこにいるの、おじいちゃん?』(偕成社)
→祖父の死を知り、受け入れるまでの少年の1年を描く。死とは何かについて何度も考える少年のことばがていねいに辿られてある。

くろまるウーリー・オルレブ/文 ジャッキー・グライヒ/絵 もたいなつう/訳『Tシャツのライオン』(講談社)
→誕生日に姉からもらったTシャツの絵のライオンが、シャツから飛び出し、かわいいライオンはいやだと、自己主張を始める。

くろまるローレン・チャイルド/さく なかがわちひろ/やく『いたずらハーブえほんのなかにおっこちる』(フレーベル館)
→絵本を読みながら寝てしまったハーブは、絵本の世界におっこちて、さまざまな騒動を巻き起こす。コラージュ絵本。『こわがりハーブえほんのオオカミにきをつけて』の続編。

4時に講座が終わり、夏休みの子どもたちでごった返すなか、初めて訪れた三田市立図書館を見て廻り、それから車を走らせて、三田市街地から少し離れた「ひまわりロード」という喫茶店でCとお茶。講座の感想や、今週の月曜にCが職場の人たちと訪れたという伊吹山のお土産話などをペラペラ。その後、ぼくらは三田のワーナー・マイカル・シネマズで映画を観る予定にしていたのだけど、Cは『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』が観たいと主張し、ぼくは『スパイダーマン2』が観たいと主張する。お互いがお互いともそれぞれのシリーズの前作を観ていなかったので、交互に説明し合ったり、お互いに公平にしようと『69 sixty nine』にしようかと話し合った末、結局、これほど話題のハリーポッターがどんな作品なのか観てやろう、という気になり、ぼくが折れた。


2004年07月28日

中島らも、死去

[画像:魚風鈴.jpg] さっき「ニュースJAPAN」(関テレ)の関西ローカルニュースのトップで、作家、中島らもさんが、今日午前中、神戸の病院で亡くなったと伝えていた。お酒に酔い、階段から落ちたときに頭を強く打ったことが死因らしい。享年52才。若すぎるなぁ。小説でいえば、『今夜、すべてのバーで』(講談社文庫)ぐらいしか読んだことないけど、数々のエッセイや、朝日新聞で連載していた『明るい相談室』シリーズ(朝日文庫)には連載中毎週ゲラゲラ笑わせてもらったし、彼の持病でもあった鬱病関連のこと、確か本にもなってたけど、もっと読ませて欲しかった。ぼくがらもさんの姿を最後に見たのは、何ヶ月か前のテレビ「爆笑問題のススメ」(よみうりテレビ・月曜深夜放送)で、相変わらずのレロレロした口調で現在の、縛られた言論規制について異論を唱えたり、放送禁止用語スレスレの歌をギターを弾きながら唄っていた。なんだか大きな人を亡くしたんじゃないか、数年後、その失くしたものの大きさがじんわりと重くなってくる、そんな人を亡くした感がある。関西文化にとっても、大きな喪失だと思う。ご冥福をお祈りします。

昨日の午前、赤羽目医院に薬をもらいに行った帰りに寄ったカナート西脇内のアミーゴ書店で買った『Lmagazine』(京阪神エルマガジン社)の特集は「できれば月に『もう1本』観たいアナタのための、映画大特集@京阪神」で、「cinema discover Kansai!」と表し、話題の夏映画の紹介はもちろん、関西各地の映画ネタを、作品から映画館、ロケ地、食べ処までいろいろあって読んでて満腹になった。
井筒(和幸)監督が、'68年の京都を舞台に朝鮮高校と府立高校生の恋とケンカを描く『パッチギ〜We shall overcome someday〜』(主演・塩谷瞬/2005年1月公開)を今撮っているらしく、これは『ガキ帝国』や『岸和田少年愚連隊』に継ぐ「関西男子の熱き青春」の再来だということを予感させるし、上戸彩主演の『あずみ2』(監督・金子修介)の決闘シーンが神戸市内の山中で撮られていたことも知ったし、神戸ってあまり単館系映画館がないと思ってたんだけど、パルシネマ(@新開地)という名画座で良い映画を何本立てだかで安く観られるという情報も得られたし、すっかり東京での映画の観方に慣れてしまっていて、いまいちこっちでの映画の観方の開拓に心がすぼんでいたぼくに、今月の『Lmagazine』は喝を入れてくれた。関西でも映画は元気だ!(いかんせん、ハリマだと少し淋しいけど)。
それにしても『Lmagazine』でも、この間買った『TVBros.』(東京ニュース通信社)でも特集されていたアニメ映画『マインド・ゲーム』(監督脚本・湯浅政明/原作・ロビン西/声・今田耕司、藤井隆、山口智充、坂田利夫、島木譲二ほか)って、どんな映画なのだろう?この吉本勢の声優からして関西弁が飛び交う、画期的な作品らしいのだけど、映画評を読んでいると、画期的なのは、どうやらその部分だけでもなさそうだ(「本作は実写とかアニメとかドキュメンタリーとか、もちろん外国映画日本映画ひっくるめて、僕の本年ベスト作品にほぼ決定のスンゲエヤツである」ミルクマン斉藤評@『Lmagazine』)。監督の湯浅政明という人も、制作のSTUDIO4°Cという「先鋭的」アニメプロダクションの噂やインタビューも両誌に載ってて、「業界」では相当ウケが良いらしいこの映画、なんやらそこに「たくらみ」を感じないこともないけれど観たくなった。公開は、奇しくも『誰も知らない』と同じ8/7(土)。もちろんどちらも神戸まで行かなきゃ観れないので、これは半日潰してハシゴするしかないかも。
ちなみに、ロビン西の原作本(飛鳥新社)をこの両誌の特集を読む前に、アミーゴ書店で見かけたぼくは、面白そうだと思って買おうとしたが、普通のA5版の3冊分をまとめたらしいのだけど、定価が2,200円ぐらいしたので手が出なかった。




2004年07月27日

サヨナラ負け

[画像:ヤモリ(裏側).jpg] NHKとサンテレビで高校野球、社(やしろ)×ばつ市立尼崎戦(兵庫県大会準々決勝)×ばつで社高校のサヨナラ負け。1アウト1塁2塁で三振をとった後、サードへの悪送球で、2塁ランナーが3塁を蹴ってそのままホームへ。いい投手戦だったが、社高校、春夏甲子園連続出場ならず。

日曜の朝日新聞朝刊に、天童荒太『家族狩り』(新調文庫)の書評が(書評者・中条省平)。

改稿版では副次的な登場人物の数もふえ、人間的な温かみに力点がおかれ、小説全体がふくよかな印象になった。(略)
だが、最大の変化は、新版では家族の問題と並んで、阪神大震災や9・11など世界の悲惨な事件への言及が多くなったことだ。家庭内の悲劇と世界の悲劇が無媒介に等価なできごととして比較されているのだが、その点には疑問を感じる。
村上春樹の『神のこどもたちはみな踊る』や、片山恭一の『雨の日のイルカたちは』にも通じる傾向であり、外の世界の悲劇と自分の内面の苦しみを重ねあわせることで、世界の悲惨に傷つく良心の証しにしようとするのだ。しかし、それは無根拠な自己満足にすぎない。そうした感傷をこえて、この有能な作者が世界の実像を見すえる時を待ちたいと思う。


確かに、ぼくも作品を読んだとき、それらの出来事が出てきた突拍子のなさに、「これはちょっと『自己満足』だナ」とは思ったけど、それを「無媒介」や「無根拠」、そして「感傷」だとは思わなかった。登場人物の内面的な切実さは、その切実さが深ければ深いほど、ときに彼らから一番遠い世界の悲惨な出来事に目を向かわせることだってある。この世が360度の世界ならば一番遠いものが一番近くなる可能性は高い。

同じく新聞の記事でいえば、昨日の夕刊(朝日新聞)に「子役の自然な演技 切なく温かく〜話題作『誰も知らない』是枝監督に聞く」という見出しで、映画『誰も知らない』に関する記事が載っていた。

(略)ライトは使わず、基本的に自然光のみ。アパート室内は子どもたちに実際に散らかさせた。こうしと日常をそのまま切り取ったドキュメンタリーのような映像空間を作り出した。(略)
来春には京都で時代劇「花よりもなほ」(仮題)の撮影に入る。「貧乏裏長屋モノで、貧しく清くない人間がたくさん出てくるような話」。今までと正反対にすべてを作りこむ時代劇で、今度はどんな物語をつくるのか。42歳の是枝監督の挑戦は続く。


「アパート室内は子どもたちに実際に散らかさせた」というエピソードがいい。でも、批評や記事ばかり多く目にしすぎていて、実際の作品見る前にだんだんお腹いっぱいになってきた。もうすでに次回作の話まで出てきてるし(『花よりもなほ』、楽しみなのには変わりないのだけど)。

昨日は幾分陽が陰って、ほんの少しだけ過ごしやすかったのだけど、今日はまた燦々とした陽射しで、暑い。もう上半身あるいは下半身、どちらか裸じゃないといられないぐらい(ちなみに今は上半身裸)。台所のガラス戸にへばり付くヤモリも、この暑さで干からびそうだった。




2004年07月26日

4通の郵便物、2つの『誰も知らない』

[画像:上高地からの葉書.jpg] 昨日、4通の郵便物が届く。一通は、N市役所企画総務部税務課収税担当から、第1期分の国民健康保険税の督促状。6月に支払っておかなければならなかった分だから通常の税金に、督促手数料70円が付け加えられていた。悔し。もう一通は、我が母校・W大学からの卒業生向けの通信。2005年版の大学パンフレットも同封されており、眺めていて卒業からの4年という月日を痛感する。さらにもう一通は、Cからの上高地からの絵葉書。大正池の図柄。消印マニアのぼくとしては、上高地の消印が何よりものお土産。嬉し。最後の一通は、以前から購読している『図書新聞』。今週の特集は「2004年上半期読書アンケート」。中井久夫や野上暁、小泉義之、そして荒川洋治の回答が目を引く。そして10面には、小野沢稔彦による、是枝裕和監督の映画『誰も知らない』評が。

(略)かつて大島渚は『少年』において家族という関係性が、内なる制度制[ママ]であり、そのことを問い直すことは身体を動員した具体的な行為を通してしかないことを示した。しかし、三しろまる年後に生まれた『誰も知らない』は、自らが生み出す制度性を前提として、私たちの現在を描き出しているのではなかろうか。少なくとも、二一世紀の小さな大人たちは、自らの身体を動員することをやめてしまっており、監督の手のうちでもてあそばれているのであった。その限りで、この作品は実は、現実を糊塗し現実を問うことをしない映画となったのである。裏目読みすれば、極めて良心的なこの作品は私たちの現在をよく逆照射した作品なのかもしれない。


各種メディアで絶賛中の『誰も知らない』に、あえて批判的な眼を供したこの批評。ぼくはこの小野沢という人(映画プロデューサーの肩書きをもつ人らしい)の勇気をとりあえず買うし、この批評を覚えていながら、ぼくの目にどう映るのかを意識して、映画館に足を運んでみたい。
『誰も知らない』の映画評でいえば、今日久しぶりに買った「TVBros.」(関西版)では、北小路隆志という人が是枝監督にインタビューしていて、この作品が「なぜドキュメンタリーじゃなく、フィクションで撮られなければならなかったのか?」という質問に対して、是枝監督は、このように答えている。

「最初の脚本は長男の一人称で書かれていた。つまり、僕はこの事件を題材に主人公の内面に踏み込んでいこうとした。で、それは僕の考えるドキュメンタリーの倫理に反することなんです。もしもあの事件をドキュメンタリーで撮るとしたら、子供たちが長い時を過ごしたアパートでの生活や、少年の気持ちの中にまでカメラで踏み込むわけにいかない、というのがドキュメンタリーの倫理面での限界だと思うからです。でも、この映画ではその限界をはっきり踏み越える必要があった」


それに続けて、北小路は続ける。

(略)ドキュメンタリー的な倫理を越えて子供たちの世界を劇映画にする決意を固めた是枝は、しかし、そのことで別の厳しい倫理を自らに課したといえる。この映画のカメラは、自由に部屋を飛び出すことを禁じられた子供たちの不自由さや当惑を自らのそれとして引き受ける。われわれは彼らの部屋=内面に踏み込んだ、だとすればそこから簡単に撤退するなんて許されない...と。


一方で「限りなくこの世の自明性を前提とし、糊塗し、この日常を保守しようとし続けている」(小野沢稔彦)と評され、一方でそれを「別の厳しい倫理を自らに課した」(北小路隆志)と評されるこの映画。『図書新聞』は、けっこう左寄りで、小野沢という人も、『誰も知らない』を大島渚作品と比べるような人だから、その種の指向の人かもしれないけど、こうして改めて両者の文を引用してみて今ぼくが言えることは、だぶん、ぼくが映画を観終えた後に支持する評は、後者の北小路の方だろうということ。
なぜなら、もう、そう簡単なやり方で映画に夢(「制度性」の乗り越えみたいなもの)を託す方法に否を突き付け、それは「逆照射」でもなく、「不自由さや当惑」もそのままに<今ここにあるもの>の中から抜け出す方法(や、小さな希望みたいなもの)を見出ださなければならないのではないか?、それがこれまでの是枝作品を観てきて、ぼくが感じとったものであり、それがぼくが是枝作品を好きな理由だから。その方法は、所謂「全共闘世代」から言わせると、日和見であり、ヌルいのかもしれないけど、たぶん、ぼく(ら)がこの日常性から抜け出すためには、ある倫理をもって、この日常に埋没したところから始めるしかない、と、ぼくは思うから。



2004年07月24日

「海燕」のこと

[画像:切れた電球.jpg] いつも寝転びながら本を読むことが多いのだけど、そのとき使っている卓上用電気スタンドの電球が切れた。だからといって、部屋の電灯があるのだし、本を読むにも何をするにもそんなに困ることはないのだけど、いつもあったものがなくなる、というだけでちょっと不安になったりもする。こうして夜中起きていることが多くなった生活で、ぼくは夜中から朝方にかけて、その卓上用スタンドだけで本を読んだり、ゴロゴロとしたりしていたのだけど、そうして部屋の天井からぶら下がっている電灯を使わず、卓上スタンド、それだけ点けていたというのは、どこかこうして仕事にも行かずフラフラしているぼくの、世間(や、ぼくの周りの人々)に対する「申し訳なさ」や「引け目」があったのかもしれない、と、電球が切れて、久しぶりに部屋の電灯だけで夜中を過ごしてみて、そう思った。ちなみに、そのスタンドは、東京・三鷹に住んでいたときに購入したものだから、もう4年も使っていたことになる。電球、よくもった方だと思うべきかも。

角田光代『幸福な遊戯』(角川文庫)、読了。この文庫の表紙は佐内正史の写真(たぶん東京の国道246号とか、首都高が上に走っている幹線道路脇のマンションから撮ったようなショット)。角田光代という作家は、ぼく自身、ずいぶん前から気になっていて、たぶん新聞のエッセイぐらいは読んだことがあったのだろうけど、こうしたきちんとした小説を読むのは初めてで、この『幸福な遊戯』という文庫には、表題作とあと『無愁天使』、そして『銭湯』という作品が収められており、3作とも都会暮しの若い女性を主人公に、『幸福な遊戯』では共同生活を、『無愁天使』では母の病気(入院)からその在り方が狂ってしまった家族のこと、『銭湯』では、現実と架空の間で揺れ動く自分のことをモチーフに描かれた物語で、だけど3つの作品の底流に流れているのは「家族」というテーマだった。
この文庫の解説は永江朗で、それによると、角田光代はこの『幸福な遊戯』で90年の第9回「海燕」新人文学賞を受賞したとあり、さらに永江さんは「角田光代は一九九しろまる年代をこんなにもよく見通していた、わかっていた」と、本書を「九しろまる年代」のキーワードとしてある「フリーター」と「自分探し」を表している作品たちだと評しているのだけど、やっぱりぼくは「九しろまる年代」を表すキーワードとして、本書のテーマとしてある「家族」も付け加えておいても間違いがないように思う(その「家族」の扱われ方については、いろいろ異論もあって、その異論から、例えば天童荒太『家族狩り』(新潮社)という作品も生まれたのだと、ぼくは記憶している)。
本書の中で、ぼくが最も気になったのは『銭湯』という作品だ。「八重子」という、大学を卒業し、小さな食品会社に勤め出して半年の23才の女性の、主にモノローグで進む物語のなかで、

そういえば自分はこの広い洗い場の中で一度も声を出したことがないと、八重子はふと気が付いた。自分の声は湯気の中、どんなふうに響くのだろうか。


という想像は、ぼくも銭湯通いをしていた名古屋での予備校時代、よくしていたことがあるし、また作中で、会社内の様々な理不尽さの描写には、ぼくの前職での体験が蘇ってきたり、

鍵を回し、ドアを開ける。朝のままの、昨日のままの部屋が八重子を迎える。この部屋には「つづく」マークが満ちているようだと八重子は思う。


という箇所では、おそらくひとり暮らしをした人なら必ず味わいそうな「侘しさ」をうまく表現していて、作者の力量が窺えた。

そういえば、この角田光代が受賞した「海燕」(カイエン、と読む)文学賞、これは記憶に間違いがなければ、かの吉本ばななも『キッチン』で受賞していて、ちょうど角田光代が受賞した'90年前後、10代後半だったぼくは、この文学賞の母体となっている文芸誌「海燕」(当時は福武書店、今はベネッセコーポレーション)をよく図書館に通って読んでおり、角田光代という名前の人が新人文学賞を受賞した、ぐらいのことは知っていた。なぜ「海燕」を読んでいたかというと、他にも「文学界」(文藝春秋)などの、いわゆる純文学系文学誌は多くあったものの、当時のぼくのニーズ<新しいけど軽くない感じ>に合った文学誌は、「すばる」(集英社)でもなく「海燕」だった。今でいうと、「文藝」(河出書房新社)といったところか。なかなかいい文芸誌だったのに、休刊から廃刊になったときは、とてもガッカリしたのを覚えている。

さて、昨夜(ゆうべ)の「探偵ナイトスクープ」(ABC)は、3番目の依頼、片山恭一『世界の中心で、愛を叫ぶ』(小学館)よろしく、「サカイ(大阪・堺市)の中心で、愛を叫ぶ」が面白かった。コンピュータまで使って堺市の中心地点を調べ、依頼者が失恋の痛手を叫ぶ、という内容だったのだけど、堺の中心が、動物病院だったというのも、なんだか和やかで良かった。




2004年07月23日

頭の中がスパークする

[画像:Cからのお土産・木彫りリンゴ.jpg] ×ばつブラジル戦(関テレ)をテレビでかけながら、一方で東野圭吾『宿命』(講談社文庫)を読み始め、Cの来宅を待つ。彼女から「今から行く」と連絡をもらったのは、9時ごろ、タバコを買いに近くの自販機まで出たときだった。
Cと会うのは1週間ぶりで、1週間前は、ぼくが母宅から帰って来て、久しぶりに自分の素直な感情をCに表せ、なおかつCからも素直さを見せてもらったときだった。たった1週間なのに、もうずいぶん前のことのような気がする。久しぶりに会ったCに、どう受け応えできるか(何せ他人[ひと]とそうしてきちんと向き合うの1週間ぶりであったし)心配だったのだけれど、会ったら会ったで、やっぱりこんなぼくさえを支えてくれているCが愛おしくなり、そのままの感情でCと向き合えた。案ずるより生むが易し。そして、その後は、Cが旅行で撮ってきたデジカメの写真(150枚ぐらいはあった気がする)を1枚1枚ていねいに見せてもらいながら、Cの熱心なお土産話に耳を傾ける。たくさんの花(ニッコウキスゲの季節だったらしい)、たくさんの空(夕焼け)、沢山の緑(高原や湿原)を見せてもらう。Cは、こういう自分がどこかに出かけたり体験したことを話すとき、良く言えばディテールまで詳しく話してくれ、悪く言えば、詳し過ぎて話が極端に長く、でもほんとに楽しそうに、あったことをそのまま順を追って話してくれるから、聞いてるこちらも「長いナ」とは思いつつ、その情景をまるで自分も体験しているかのように思うことができる。そして、お土産は上高地で買ってきてくれた、木製のリンゴのキーホルダー(手彫りで、クローバーとトンボとぼくの名が彫ってある。Cも自分の名を彫ってもらったのを買ってきたよう)と、飛騨高山で買ったらしい駄菓子の詰め合わせ。ありがとう、C。

ひと通り、お土産話を聞いてから、ぼくは風呂に入り、上がってきたら、C、就寝。きっとハードスケジュールな旅に疲れたのだと思う。その横でぼくは座椅子にもたれながら、『宿命』の続きを読み始め、さっき読了。
この間読んだ同じ東野圭吾の『鳥人計画』(角川文庫)とともに「金さえあれば人間の身体でも研究の材料として消費できると思っている、企業の論理に対する怒り」(『宿命』より)を基にする犯罪を描いた作品。文庫の帯に「のちの『秘密』『白夜行』『幻夜』へとつながる重要なテーマを秘めた原点ともいえる小説」とあり、かなり期待して読んだのだけど、『鳥人計画』よりは登場人物の人生の軌跡、そしてそれに起因する犯罪(どうしても逃れようのない動機)が描かれはしていたものの、やはりぼくは『白夜行』(集英社文庫)のような深みを求めていたおり、帯の歌い文句からは内容的に遠く、少し残念。人の「生」に深みを持たせ、殺人トリックに重点を置いていない点では「原点」と言えるのかもしれないけど、残り10数ページでやっと色んな謎や過去が暴かれるというのも、なんだか腑に落ちない。

「もしかすると......」
勇作は布団から起き上がった。それと同時に、頭の中がスパークした。


なんていう、とんでもないフレーズを作中に見つけると、ほんとに読んでるこっちの「頭の中がスパーク」しそう。



2004年07月22日

聡明なレスキュー、存命なプラン(こうさぎ)

きょう、社民の心へ読了したかも。
でもきのう参院の、公民館とかTSUTAYAしなかった。
それからきょうは妻へ解説したの?
subekarakuは、
朝6時過ぎに寝、昼に起床。

顔洗って支度して、母宅へ向かう。
時間があるので今日は高速を使わず下道で行くことに。
県道176号線に入りさらに南東、西宮→宝塚→川西を経て大阪入り。
そこから府道10号線、池田

といってました。

*このエントリは、こうさぎの「すべはりま」が書きました。


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