大学歯学部学生のHIV感染情報と診療契約上の守秘義務
大学歯学部学生のHIV感染情報と診療契約上の守秘義務
医事法判例百選 第2版 24
損害賠償請求事件
東京地方裁判所判決/平成9年(ワ)第8692号
平成11年2月17日
【判示事項】大学歯学部の学生が同大学医学部付属病院に受診中、右病院の医師が右歯学部教授に対して右学生のHIV感染症に関する情報を開示したことが診療契約上の守秘義務に違反しないとされた事例
【参照条文】民法415
【掲載誌】 判例時報1697号73頁
【評釈論文】判例評論503号22頁
主 文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
理 由
第一 請求
一 被告は、原告に対し、金一〇〇〇万円及びこれに対する平成九年五月一五日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 訴訟費用は被告の負担とする。
三 仮執行宣言。
第二 事案の概要
本件は、国立乙山大学歯学部に在籍中、HIV感染症の診断を受け、同大学医学部附属病院において受診していた原告が、右病院の医師がHIV感染症に係る原告の病状を原告の承諾なくカルテに基づき右歯学部教授に対して漏示したために、原告が医療機関に対する不信を抱き、東京の医療機関に転院せざるを得ず、また、HIV感染症の患者の人権や教育が保障されることは困難であるとして右大学を退学せざるを得なくなり、甚大な精神的損害を被った旨を主張して、右大学の設置者である被告に対し、診療契約上の守秘義務違反及びカルテの保管義務違反に基づく損害賠償として、慰藉料一〇〇〇万円の支払を求めている事案である。
一 争いのない事実等(証拠上明らかに認められる事実も含む。)
1原告は、昭和六二年四月、国立乙山大学(以下「被告大学」という。)の歯学部に入学し、平成八年六月三〇日、同大学を退学した者であり、被告は、被告大学の歯学部、医学部及び同学部附属病院を設置し、これを運営しているものである。
2原告は、平成五年一二月二七日、HIV感染症検査のため被告大学医学部附属病院第三内科(以下「第三内科」という。)において受診し、平成六年一月一〇日、HIV感染症との確定診断を受け、そのころ、被告との間で、HIV感染症の治療等を目的とする診療契約(以下「本件診療契約」という。)を締結した。以後、第三内科は、原告に対し、HIV感染症についての検査、投薬等の治療を行った。なお、原告は、右一月一〇日、被告大学の戊田歯学部長らに対し、HIVに感染しているという事実と学業を継続する意思のあることを伝えた。
3被告大学医学部附属病院検査部長の丙川松夫教授(以下「松夫教授」という。)は、平成七年六月八曰、被告大学歯学部丁原竹夫教授(以下「丁原教授」という。)から電話で原告のHIV感染症に係る症状についての問い合わせを受けた際、原告の承諾を得ることなく、丁原教授に対し、原告のカルテの記載に従って、「病状は全身倦怠感と、ときどき発熱があるようだ。検査データでは血糖値の上昇とリンパ球の軽度の減少がある。CD4とCD8との比は○しろまる・五前後で横這い状態にあり、良くもなく悪くもない。大きな変化はない。」という内容の説明をした(以下、右に係る説明を「本件開示」という。)。
二 主たる争点
1(守秘義務違反及びカルテの保管義務違反とならない理由1として)
本件開示は正当な理由に基づくものといえるか。
2(守秘義務違反及びカルテの保管義務違反とならない理由2として)
本件開示について、原告の黙示的承諾があったといえるか。
3原告主張の損害と本件開示との間に因果関係があるか。
三 争点1(正当理由の有無)に対する当事者の主張
<被告>
1原告は、平成七年六月当時、進級判定にさえ合格すれば臨床実習へ進めるという状況にあった。歯学部学生の臨床実習は、指導教官のもとで実際に患者に接して診察や検査などを行うものであるが、その実習が観血的なものが多いことなどを考慮すると、原告が臨床実習をすることが可能かどうかの判定に当たっては、以下の観点から、歯学部教育担当責任者において原告の健康状態や免疫状態を把握しておく必要性が大きく、そのため、丁原教授は第三内科に対して原告の病状を問い合わせたのである(特に、CD4の値は、HIVキャリアーの免疫状態を知る簡便な指標となるとともに、キャリアーの体中のHIVウイルス量を直接うかがう指標ともなる。)。
(一)HIV感染者は感染後次第に免疫機能が低下し、CD4が二〇〇個から三〇〇個以下になると、HIVキャリアーの免疫機能は急激に低下し、日和見感染症など種々の感染に弱くなる。事実、原告は体がきついこと、下痢などの体調不良を主治医や歯学部の教授らに訴えて、度々試験や講義を休んだり、学内で昏迷状態のところを発見されたり(もっとも、これは精神安定剤の飲み過ぎによるものであることが後で判明した。)していた。その上、歯科医療行為にあっては、健康な歯科医であっても肝炎その他の感染の危険が高いので、実習現場における種々の感染症を持った歯科実習患者から、免疫低下状態の原告への感染を予防するために、原告の健康状態、又は免疫機能(CD4値等)を知り、それに応じて教育指導をする必要があった。
(二)肉体的に重労働である歯科実習に対する原告の参加内容を決定するためにも、原告の健康状態を把握する必要があった。
(三)歯科診療では、歯の切除、歯石除去、麻酔注射など観血的な処置が多いため、患者の歯肉、粘膜や歯科医自身の手指を損傷する危険性が常にあり、針刺し事故は熟練した歯科医でも起こりうる事柄であって、絶対に起きないという保証は存しない。特に、平成七年六月当時、米国では、キムバリーバーガリス事件(エイズ発症の歯科医から診療を受けた患者にHIVが感染した事件)が大きな話題となっていた。そのため、歯学部における学生相互実習の相手学生及び歯科実習患者への二次感染のリスクをあらゆる角度から調べておく必要性があった。
2次の四1記載の歯学部三者協議は、本件開示当時、日本においては、歯科医や歯科実習生の臨床歯科治療とHIV感染症との関係について何ら指針やマニュアルのない状態の中で、世界中から情報を集め、原告につき、原告とその両親、主治医団、保健管理センター教授らを交え、定期的に話合いを持ちながら、最良の方法を模索していたのであり、主治医団は歯学部三者協議の右努力を信頼して高く評価していた。そして、本件開示を受けた丁原教授は、歯科医師養成を使命としている教育機関の責任者の一人であり、歯学部における臨床実習を管理する立場にある歯学部感染対策委員長であり、原告の臨床実習の進め方を検討するとともに、原告の学業継続を正しい判断のもとに指導していく立場にある歯学部教育委員長でもあり、かつ、原告との応接にも直接当たる歯学部三者協議の一員であった。
3松夫教授は、本件開示当時、臨床検査医学講座教授及び医学部附属病院検査部長の職にあり、第三内科に所属はしていなかったが、HIV患者については、その疾病の特殊性、同疾病についての松夫教授の研究業績や診療実績等から、従前どおり同教授が引き続き第三内科治療班に加わり、その総元締めとして実際の診療、治療計画、医師に対する指導にも従事してきたものである。そして、原告に対する診療に関しては、松夫教授が開発した治験薬べスナリノンの原告への頻回の投与、検査データの分析による原告の症状観察及び治験薬の効果の判定を行うとともに、第三内科治療班の中心的な立場として、丙川梅夫医師(以下「梅夫医師」という。)からの連絡を受けながらその治療の相談にのるなどのコンサルテーションをし、主治医の一員としての役割を果たしていたものであった。
4以上の事情に照らせば、松夫教授が、丁原教授に対して原告の病状を開示したことには、正当な理由がある。
<原告>
1医師がその診療にかかわる患者がHIVに感染していることを知った場合に、患者の承諾なしに他にその情報を開示することが許されるのは、後天性免疫不全症候群の予防に関する法律(以下「エイズ予防法」という。)の秘密漏示に対する罰則規定(同法律一四条)に定める例外(正当な理由)を除いてはあり得ないところ、厚生省は、右罰則規定を受けて、「正当な理由」の該当事由として、「(一)法廷で証言する場合、(二)法の規定に基づき都道府県知事へ通報する場合、(三)医師が医療従事者の感染防止のため必要な指示を行う場合、(四)医療機関の職員等が診療報酬の請求のため病名を付した関係書類を関係機関に提出する場合、(五)医師が救急隊員等の感染防止のため消防機関に連絡する場合」を例示している。さらに、厚生省は平成三年四月に「HIV医療機関感染予防対策指針」を発表し、その中の「秘密の保持について」という項では、「(1)患者に対する指示、指導、連絡等は医師が直接本人に伝える。(2)患者本人以外の者からの電話等による患者に関する問い合わせには一切対応しない。(3)患者の病状等に係る証明書等の交付は、原則として患者本人以外の者に対しては行わない。」旨を指示している。
このように、厚生省は、HIV感染症の登場以来、繰り返し医療機関のHIV感染者のプライバシーの保護・守秘義務の徹底について指導してきた。被告大学医学部附属病院は、乙山県における指導的な医療機関であり、HIVの診療を実施してきたのであるから、厚生省の右指導内容については十分熟知していたものと思われる。しかるに、松夫教授が丁原教授からの電話での問い合わせに対して電話で本件開示をした行為は、厚生省の右指導に明白違反しており、形式上ですら正当な理由の要件を満たすものではない。
2(一)被告は、丁原教授が松夫教授に問い合わせた動機について、検査の結果次第では、原告が臨床実習に入ることになるので、その適否の参考資料とするために、原告がどの程度の健康状態にあるか知りたかった旨主張する。しかし、右問い合わせについて、他の教授、とりわけ歯学部三者協議のメンバーと事前に協議した形跡がないこと、したがって、右問い合わせは丁原教授の個人的行為として行われたこと、原告の実習への参加については厚生省から実施させるべきとの指導を受けていたことからすると、原告の参加を検討するに当たって原告の症状や通院状況の把握が必要とは考えられないことから、被告の右主張は合理性がない。またHIV感染症については、ごく初期にマスコミ等で感染力が過大に評価され、いたずらに恐れられたが、B型肝炎の二次感染防止の方法をとれば、その感染防止は十二分であることは、昭和五八年には世界的に知られていた。「キムバリーバーガリス事件」については、本件が問題となった平成七年当時、歯科医の故意によって引き起こされた犯罪ともいうべきものであることが既に解明され、通常の歯科治療からHIV感染が起こり得るものではないとするのが一般的見解であった。その意味でも原告の病状を把握する必要性は乏しかった。
(二)むしろ、実際は、厚生省や文部省、あるいは学会としてHIV感染をした学生を実習から排除すべき理由がないことは自明のこととされていたが、被告大学歯学部では、一部の教授の反対もあり、その方針を教授会で確認することに困難があったことから、反対する教授の説得のために、丁原教授としては個人的に原告の症状や通院状況を知る必要性を感じ、問い合わせをしたものと思われる。仮に、教授会や歯学部三者協議が必要としていたならば、正式に原告の承諾を得て行えば足りたのであり、そのことに格別困難はなかったはずである。しかし当時、原告の臨床実習への参加は、マスコミを含めて注目されており、原告自身も度々参加を可能とする旨の正式な表明を要望していた。したがって、歯学部として、原告に症状等の報告を求めるとすれば、その根拠を説明する際、実習を制限する場合のあることを説明しなければならず、そのことを原告に問題とされることを避けるために、あえて原告を通じて情報を入手することを避けたものと考えるほかない。
(三)あるいは、同年五月三一日にテレビ番組「TBSスペースJ」において、原告のことを扱った「実名公表、エイズ(HIV)感染者、ある歯学生の選択」が放映されたので、歯学部に対してマスコミ等の取材が殺到し、このマスコミ対策を進める上で必要と考えられたから、丁原教授は問い合わせを行ったのである。
3松夫教授は、原告の主治医ではなく、原告を診察したことは一度もない。松夫教授は、かつての経緯または原告の主治医である梅夫医師の実兄であったことから、第三内科の原告のカルテを勝手に見ようとすれば見られる立場にあり、本件開示においても、原告のカルテを勝手に持ち出して見たのである。
4以上によれば、原告の承諾なしに松夫教授が原告の病状を開示してよいとする正当な理由はない。
四 争点2(黙示的承諾の有無)に対する当事者の主張
<被告>
1原告からHIV感染症の検査結果が陽性であるとの報告を受けた被告大学歯学部は、戊田歯学部長、丁原教授及び同学部教授甲田春夫(以下「甲田教授」という。)の三名で対策班を組成して原告に対応することとし、右三名による対策班を「歯学部三者協議」と命名した。そして、右歯学部三者協議(以下「歯学部三者協議」という。)が中心となり原告の支援を行っていくこと、今後の原告の学生生活については、原告の両親を交えて協議するほか、第三内科の原告の主治医団とも情報交換等をして連携を図ることを基本とすることを決めた。
2平成六年三月八日、歯学部三者協議と原告及びその両親との面談が実施され、原告の学業継続の意思が確認されるとともに、原告らに対し、第三内科と連携をとることも含めた歯学部王者協議の対応の仕方である前記基本路線についての説明がされた。そして、その面談の場において、原告及びその両親の同意を得て、松夫教授から、原告の発症の時期、最新の検査結果、合併症、生活上の注意等についての説明がされた。
3原告は、その後、歯学部三者協議に自らの悩みごとの相談をしたり、歯学部三者協議、カウンセラー、主治医団との面談にも応じており、歯学部三者協議が原告を支援していくことには異存がなかった。
4同年一〇月二七日、歯学部三者協議と原告及びその両親との面談が再度実施され、歯学部三者協議の教授らから、原告の臨床実習の内容、方法について限定されることがあり得ることや、臨床実習の際に、病院の実習関係者及び患者の理解を得る必要があることなどが原告らに説明された。その際、原告の父親は、臨床実習でどうしてもできないことがあればやむを得ないが、できるところまで実習を受けさせて欲しい旨の要望を示した。また、原告も、臨床実習に進み、何とか卒業し、将来はカウンセラーとして活動したい旨の希望を述べた。
5このような原告やその両親の言動に照らせば、原告は、歯学部三者協議が各種関係者の協力のもとに原告を支援していく上で、また、歯学部として諸対策を検討していく上で、歯学部が原告の病状についての情報を医学部に対して求めることについて包括的に承諾していたというべきである。
<原告>
1被告の主張1の事実は否認する。第三内科が原告の歯学部での教育支援のために具体的に動いた事実はない。また、第三内科における原告の主治医は、第三内科の乙原教授及び梅夫医師であって、松夫教授は第三内科のメンバーではなく、原告を診療したことは一度もない。
2仮に、被告主張の「歯学部三者協議」なるものが存在し、原告の歯学部における教育を支援する意図があったとしても、その事実をもって、原告の包括的承諾を認める前提事実とすることはできない。
平成六年当時、HIV感染症に関する医学上、疫学上の知見は確立されており、その感染予防については、B型肝炎の感染予防に関するマニュアルを実践すれば足りることが、既に医学、歯学関係者だけではなく広く一般的にも知られていたものである。したがって、そもそも歯学部でのHIV感染学生の臨床実習を含む教育に当たって、本人の病状に関する情報は必要とざれないのであるから、原告において、「歯学部三者協議」が原告の病状について第三内科に問い合わせをすることを包括的に承諾していたということはあり得ない。
3原告(及びその両親)が、被告大学に対し、「学業の継続や臨床実習への参加」を希ったという事実はない。むしろ、被告大学や歯学部のHIV感染症に対する無知、偏見から、原告がHIV感染症であることが学業の継続に障害が生ずるおそれがあるのではないかと心配していたのであり、原告は、そのようなことにならぬよう自ら戊田教授らにHIV感染症であることを告知し、適切な対応を求めたのである。
五 争点3(損害及び因果関係の有無)に対する当事者の主張
<原告>
1平成七年ころ、歯学部教授会では、原告の学業の継続を肯定する見解と、これを疑問視する見解との対立があり、原告の学生としての地位は微妙な状況にあった。学業の継続を疑問視する見解は、原告の健康状態を不安とし、暗に自主退学を勧めるものであり、その意味で、原告の症状がどのようなものであるかは重要な意味を持っていた。また、歯学部の学生の間でも、原告について興味本位の噂が飛び交っていた。第三内科が原告の病状を説明した結果、原告は、歯学部内の教授から、「一度退学して、治ってから復学したらいいのではないか。」「学業より体調を心配しないといけない時期なのではないか。」などと言われ、半ばノイローゼ状態となり、やむなく被告大学を退学するに至った。
2原告は、松夫教授による本件開示の結果、被告大学附属病院に対する不信を抱き、乙山県内の医療機関におけるHIVの診療を断念して東京の医療機関に転院せざるを得なかった。また、原告は、被告大学歯学部においては、プライバシーの保護とHIV感染患者の人権や教育が保障されることは困難であるとして、被告大学を退学せざるを得なくなった。
3 1又は2の事実による原告の精神的被害は甚大であり、これを金銭によって慰謝するには少なくとも一〇〇〇万円は下らない。
<被告>
1原告主張の1及び2の各事実は否認する。
2歯学部教授会では、原告のHIV感染による学業継続の問題を審議したことはなく、ましてや、原告に対し暗に自主退学を勧めるのが相当であるというような話合いをしたこともない。原告が学業を継続するに当たり微妙な立場にあったのは、原告が五年次前期までに終了すべき授業科目について不合格であり、平成三年以降平成七年の時点でもなお不合格科目があって留年を重ねていたことによるものである。
3本件開示に係る原告の病状等の情報は、歯学部が原告を支援していく際に検討する基礎資料とされたものであって、それ以外の目的には使用されていない。