2005年03月21日
どん底を経験して
私がかつて滞在したスイスのインターナショナルスクールに日本人生徒を斡旋するという計画は、ひとまず、F社長にお任せする形となりました。今週、一度お会いするので、そのときに詳細を話し合う予定です。
さて、私が日本語を教えるインターン教師としてスイスの寄宿学校へ赴くまでの過程は、お世辞にも将来を見通したものとはいえませんでした。
20歳代も後半にさしかかり、小さな輸出商社のパート事務員だった私は、なんとか現状を打破するために"一度、海外に出てみたい"という願望をもっていたのだと思います。日本でうまくいかないから海外へ、という現実逃避的な発想が私にもあったのだと認めざるをえません。
だから、必ずしもあのとき海外へ出なくても、国内で次の道を模索する・・・例えば、貿易会社での英文事務の経歴を生かして転職の道を探る、ということも可能だったかもしれません。そのほうが、きっと将来に直結する仕事がずっと早く見つかったでしょう。
ですが、あの海外での1年半は、私にとって、その後のキャリアアップの原点ともいえる、忘れがたい財産となったのです。無計画な渡航の結果、現地で苦労を強いられたからこそ、それを乗り越える精神的な強さを得ることができたからです。
スイスでの経験が私にとってつらかったのは、単に言葉や生活習慣が違っていたからではありません。帰国後の進路が決まっていないまま、常に経済的な不安を抱えながら生活せねばならなかったためです。
少ない貯金から、既にインターンプログラムの参加費を100万円以上支払っていた私は、現地での出費をできるだけ抑えようと心に決めていました。そのため、生活費として、スイスフランのトラベラーズチェックを30万円相当しか持って行かなかったのです。
いくら、ホームステイの費用は支払済みで、寄宿学校での食費や住居費はいらなかったとはいえ、1年間の滞在にこれでは少なすぎますよね。
だから、通常の旅行者のように、ちょっと乗り物で遠出して観光地を回るとか、レストランで食事をする、なんてことは気軽にできなかったのです。途中で現金が底をついてしまったら大変ですから。
もちろん、友人と一緒のときはある程度つき合いましたが、なるべく、一番安い買い物をするように気を配っていたと思います。周囲からは、さぞ貧乏でみみっちい日本人に見えていたことでしょう。
収入のない状況では、食事も出されたものをいただくしかなく、空腹をこらえたことが何度もありました。住む場所も、ベビーシッターを条件に無料でおいてもらったホームステイ先では個室という空間がなく、寄宿学校ではアリが中に入りこんでくるような部屋でした。
そのとき強く感じたのは、収入がないため周囲に気を遣わねばならない生活がいかにみじめであるか、ということです。
(もう、こんな情けない思いは二度としたくない) ---どんな形でもいいから、自分自身が稼いだお金で食料を買い、自分の家のキッチンで自由に調理する生活をしたい---そんな、日本ではあたりまえに手に入るだろう生活を渇望しながら日々を送っていたのです。
帰国後、今日に至るまで、私はあのときにまさる苦労を一度も経験していません。転職先での複雑な人間関係も、資格取得に向けた猛勉強も、実家からの経済的独立の過程も、あれに比べれば天国でした。
比較的若いうちに海外で試練を味わったことを、今では逆にありがたいと感謝しています。未然に防げる失敗はしないほうがいいのだろうけれど、失敗を逆に糧とするたくましさも必要なのかもしれませんね。