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【内田雅也の追球】甲子園も震災モニュメント 感動とともに、かなしみの記憶が刻まれている

[ 2023年1月17日 08:00 ]

甲子園球場の一塁側内野席ではコンクリートが崩れていた
Photo By スポニチ

今年もまた「1・17」を迎える。毎年午前5時46分に黙とうと祈りをささげた後、散歩に出る。近年は震災ウオークのイベントにも参加している。歩きながら、あの1995年の阪神大震災を思い浮かべる。

野球記者として甲子園球場や阪神、高校野球の関係者に震災の話を聞き、記事にしてきた。

震災から28年を迎えるにあたり、語り継いでいく大切さを思う。たとえば、若返った阪神で、当時の記憶がある選手はいないだろう。

あの日、甲子園球場に一番乗りしたのは阪神球団本部部長(査定担当)の横谷総一だった。岡山南高から内野手で入団し94年に現役を引退。この年元日付で球場職員になったばかりだった。

球場から約200メートルの自宅は大型テレビが倒れ、頭をかすめた。立て直してつけたテレビが球場脇を通る阪神高速神戸線の倒壊を映していた。

「甲子園は大丈夫だろうか」と午前7時、家を出た。「妙に静かでした。あたりはシーンとして人の姿もありません。どの家も中は大変でしたでしょうが、外は静まりかえっていました」

球場の関係者出入り口から中に入った。球場事務所は棚が倒れ、機器が散乱していた。片付けていると事務所の電話が鳴った。球場長の竹田邦夫だった。「どうなっている?」「球場は大丈夫です」。竹田は球場の無事と早朝から駆けつけた元選手の姿勢に感激した。

横谷は「僕は当たり前のことをしただけ」という。「聖地と呼ばれる甲子園は特別な場所。野球人なら誰もが抱く感情で吸い寄せられました」

同じように、自身も被災者だった日本高校野球連盟顧問の田名部和裕(当時事務局長)はバイクを借りて駆けつけた。「球場は立っていた。また大会ができると思ったら涙が出てきた」

実際、球場は一塁側アルプス席などがわずかに損壊しただけだった。選抜大会もプロ野球も懸命に開催にこぎつけた。

1924(大正13)年生まれの甲子園球場は来年8月で100歳を迎える。45年の西宮大空襲や震災にも耐えてきた。改修・補修を重ね、今も堂々と立っている。

阪神間各地に慰霊碑や追悼碑が建つ。甲子園球場にはないが、野球人に夢や希望を与えた場所である。球場自体が震災モニュメントだ。感動とともに、かなしみの記憶が刻まれている。=敬称略=(編集委員)

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