日本オペレーションズ・リサーチ学会

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2000/4
2007/2
OR学会の国際連合
IFORS関係
APORS関係

日本オペレーションズ・リサーチ学会50年の歩み

bar02

OR学会の国際連合(APORS)

The Association of Asian-Pacific Operational Societies within IFORS (APORS)

APORSの設立とその発展

APORS前史
アジア太平洋地域のOR学会をつくってはどうかという話がチラホラ出始めたのは1970年代の後半のことであった.本学会の国際理事を中心にその可能性をめぐって模索が続けられていた.当時の国際理事横井満氏も何通かの書簡を関係各国に送っておられた.しかし,日本側の態度が具体性を欠いていたせいか話はなかなか進まなかった.既に,ヨーロッパにはEURO,ラテンアメリカ諸国+スペイン語圏によるALIOがOR学会の地域グループとしてIFORSの傘下で活動し,それにアメリカとカナダによる北アメリカ連合体NORAMが準備されているという国際的背景があった.

これがAPORS結成に向かって急速な進展を見せ始めたのは1983年に伊理正夫教授(東京大)がIFORS副会長になられた頃のことであった.IFORS会長のMüller-Melbach教授からの強い奨めもあり,当時のOR学会会長近藤次郎教授のもとにアジア各国とも連絡が進み話は急速に展開した.

1984年のワシントンD.C.におけるIFORSには各国からの代表が集まっていた.IFORSの総会においてIFORS会長からアジア・太平洋地域のOR学会連合体の設立の提案がなされ,この連合体の発足に関する会合が開かれた.出席したIFORSメンバー学会はインド,オーストラリア,韓国,シンガポール,中国,ニュージーランド,香港,それに日本の8学会である.
ここで,Müller-MelbachIFORS会長の提案で連合体の名称は

The Association of Asian-Pacific Operational Research Societies within IFORS (APORS)

と決まり,発足準備委員会を立ち上げることになった.おもしろい話がある.ポルトガルがわれわれも仲間に入れてくれと言ってきたことである.マカオがあるからだということである.これは冗談半分かもしれないが,あちらの人たちはフランクにものを言うものだと思った.

APORS設立第1回理事会
このようにして,1985321日,アジア各国のオペレーションズ・リサーチ学会の代表を筑波に招聘し連合体発会の相談をすることになった.このとき集まったのは,
中国 Hsu Guang-Hui (徐光�W)
韓国 PAK Chae Ha (朴在夏),KANG Suk-Ho (姜錫吴)
シンガポールCHEW Kim Lin (周金麟)
オーストラリアRobert E. Jonston
日本 近藤次郎(日本OR学会長),伊理正夫(IFORS副会長)
国際委員会:高森寛,若山邦紘,伏見正則,柳井浩,浦谷規,高橋誠,吉田敏弘

の面々であった.会議は近藤会長が当時所長を務めておられた筑波の国立公害研究所の会議室を借りて,高森国際委員を仮議長として始められた.
近藤会長の挨拶の後,伊理氏はMüller-Melbach会長の意向,EUROやALIOの活動状況を説明,またアジア太平洋連合体の必要性を説かれた.

それまでの経過では,アジア太平洋地域での連合組織の発足にもっとも熱心で積極的であったのは韓国の学会で,この会議でもPAK Chae Ha, KANG Suk-Ho両氏が定期的な国際会議の開催や連合体独自の会誌の発行を提案するほどであった.これに対して日本側としては,各国,お互いにあまり負担にならないように,まずはゆるやかなAssociationという形で始めてみようという意見であった.会議は大方そういうところに落ち着き,次のようなことが決定した.
�@ APORS : The Association of Asian Pacific Operational Research Societies within IFORS を発足し,伊理氏により準備された定款案を若干修正の上承認した.
�A 発足当初の構成OR学会は
オーストラリアOR学会,ASOR
中国OR学会,ORSC
香港OR学会,ORSHG
インドOR学会,ORSI
ニュージーランドOR学会,ORSNZ
韓国OR学会,KORS
日本OR学会,ORSJ
シンガポールOR学会,ORSS
の8カ国の国内OR学会である.
�B 初代会長は韓国OR学会の会員のどなたかにお願いする
この点に関しては,会議の席上では,韓国から出席のPAK Chae Ha氏にお願いしようという意向が強かったが,同氏は「APORS会長は,構成する各国学会のうちの会長のだれかがこれにあたるのが望ましい」という立場から固辞され,後日,韓国OR学会長RHA Woong Bae(羅雄培)氏が会長に就任されることになった.
�C 副会長には中国から出すよう人選を依頼
その結果,Hsu Guang-Hui氏が就任することとなった.
�D 会計財務担当(Treasurer)には,オーストラリアのRobert E. Johnstonが選出された.
�E 事務局(Secretary)には,日本OR学会の若山邦紘氏が任命された.
�F加盟各国からは代表を1名ずつ出すことを要請する
また,APORSはIFORSの傘下に位置付けられる組織となるのでIFORSとの連絡を密にするためIFORSから代表を1名出してもらうこととし,当時,IFORS副会長であったBob Kavanagh氏(オーストラリア)が推薦されてきた.なお,日本OR学会からは高森 寛氏が代表(Representative)に選出された.
�G APORS国際会議について
韓国代表Pak氏は,第1回APORS会議をソウル市で1988年に開催したい意向を表明した.
�H 次回APORS理事会を1986年ゴールドコーストで開催されるTIMSの期間中に開催することとなった.

当初,初対面のこともあり多少ぎこちなかった各国代表も,会合を重ね筑波に所在する国立研究所を見学した り会食をしているうちに次第にうち解け腹蔵なく話し合えるようになっていた.
ところで,このように各国から人を招聘して会議を開くには,財政的負担が問題となる.今もそうだが,当時のOR学会の財政状態も決して豊かではなかった.その当時まだ存在していなかった組織を発足させる費用は,予算上もなかなか捻出が困難である.これが可能となったのは,実際のところ,故横山勝義会長のご寄付の賜物である.故人は学会の国際活動にと多額の寄付を寄せられていたのである.時代の要請をすでに見通しておられた横山会長に敬意を表しここに銘記したい.

こうしてAPORSが発足したわけだが,前述のごとく発議者の我々日本側としては当面の活動をNewsletterや個人的な交流のバックアップ程度からぼちぼち始めるつもりであった.実際,若山氏は高橋誠,浦谷規氏の協力を得てNewsletterを頻繁に発行,面倒な郵便による情報の交換と人の交流に大きな力を尽くされた.このNewsletterは現在では電子メールの普及により形には変わったが,1993年から韓国のPARK Sung-Joo氏,1997年からは大山達雄氏によって引き継がれている.

1APORS' 88ソウル
一方,韓国は,これより一歩を進めて,APORS独自の大会を開催することを熱望していた.当時,アジアの経済力や,また,そのアンバランスからして,わが国では危惧の念を持つ向きもないわけではなかったが,もちろん「やろう」という韓国の動きに反対する理由はない.こうして,第1回APORS大会のソウル開催が決定されたのである.

韓国OR学会はRha氏の下で大車輪の準備を開始した.1988年にPak氏が渡米の途中わざわざ東京に寄られ,日本から少しでも多くの人々が参加するようにと協力を求められた.日本からは内輪に見積もり25名の参加者を見込んだ程度であったが,日本OR学会の努力もあって,実際に蓋を開けてみると日本から40数名の参加者があり,我々としても安堵の胸を撫でおろした次第である.しかし,これも韓国の熱意を反映したものといえよう.

1回APORS大会は"The New Challenge for OR/MS in the Asian-Pacific Region"のテーマのもとに,ソウル市のSheraton Walker Hill Hotelで,1988月8月24日〜26日の3日間にわたって盛大にかつ華やかに開催された.APORS会長Rha氏は,当時韓国政府官僚(副首相)の要職にあり,開会式でのご挨拶も格調高いものであった.大会の模様は韓国の新聞にRha会長の写真とともに大きく報道され,ORの紹介,産業の発展のためにORに期待される役割と可能性なども紹介されていた.この大会をテコにして,韓国ではORの社会的な認知度は高まり,学会の会員数も増え,OR学会も新しい事務所を購入するまでに至ったと聞いている.丁度,2〜3週間の後にはソウルでのオリンピック大会をひかえて,ソウル市内,郊外での競技場や,いくつかのモダンな建物の建築作業も最終段階にあり,韓国経済の活況ぶり,市民の意気高揚はわれわれも肌に感じられた.

大会開催中に,第4回APORS理事会が開かれた.85年に筑波,86年にゴールドコースト,87年にブエノスアイレスと発足以来毎年理事会を開催してきたので各国代表はすでに知己の友となっており,ついに第1回国際大会を開くことができたことを共に喜んだ.理事会は,Rha会長の司会のもと,次期開催地,次期会長,その他の役員のことなどが主な議題であった.「次回は日本で」という要望がRha議長をはじめとして強く出された.日本OR学会としては,�@物価が高い日本での開催では参加者数に心配があること,さらに日本の経済状態が悪く資金集めに企業の協力を得るのが難しいこと,�Aいろいろな国の学会の対等な役割分担が望ましいこと,などを理由に少なくとも次期は日本以外が望ましいという意見を出した.

シンガーポールと香港に引き受けてもらえないかという話になったが,まだ,双方とも学会が小さいこともあり,国際大会を開催できるような人的,資金的資源に自信がないということで躊躇した.特にソウルでの眼を見張らせるばかりの盛大な第1回大会の開催最中でもあり,われわれ日本代表団もいつの日か日本で開催するにしても,こんなに立派なものはとても無理だと思ったぐらいである.他の国の代表の気後れも無理のないことであった.こうして第1日目は,決定をみないまま,理事会は翌日に持ち越された.

2日目の理事会になって,中国の代表のHsu氏が第2回は中国での開催を引き受けてもよいと申し出た.これは誰も予期していなかったことである.当時,東西は政治的に冷たい疎遠な関係にあり,交流が困難な中国に対しわれわれにはいささか遠慮する面があった.韓国と中国の間には国交がなく飛行機も飛んでいない状況で,この中国の申し出をどう受け止めるかは,韓国の出かたにかかっていた.しかし,これもわれわれの危惧を吹き飛ばすかのように,当初日本での開催を要望していた韓国がKang教授をはじめとして「よし,その話に乗ろう」言いだしたのである.政治的配慮をさておいて,アカデミズムを即座に優先させた韓国のORの同僚に敬意の念を抱いたのは日本代表団だけではなかったであろう.

こうして,第2回APORSの開催場所は北京で,時期は1991年ということに決った.3年に1度というIFORSの大会と周期を同じくし,1年位相をずらしての開催である.第2代APORS会長はHsu教授に決った.また,日本からは若山氏がSecretaryとして引き続き事務局を担当してくれることになった.

また,IFORSの副会長をアジア太平洋地域から,常に一人推薦するようIFORSから要請があり,APORSとしてはAPORS会長の任期を終えた人を推薦するのを慣例としようということになり,Rha氏がIFORSの副会長に推薦されることになった.

大阪における理事会
さて,こうして順調に発展をみせたAPORSであるが,時としていくつかの問題が起こった.これらが集中して起こったのは1989年7月に大阪で開かれたAPORS理事会であった.当時,マレーシアは国内にOR学会を設立すべくIFORSの協力を得て,着々と準備が進められていた.正式にはIFORS加盟を待たなければならないが,APORSはマレーシアの代表をオブザーバーとして招いた.その後,マレーシアはOR学会を立ち上げIFORS加盟国となり自動的にAPORS加盟国ともなった.

この理事会は,丁度このとき大阪で開かれたTIMSの国際会議に時を合わせて開催されたのであるが,これに先立つ1〜2ヶ月の中国は,天安門事件の勃発とその前後の大混乱のさなかにあった.いわゆる西欧型文明国のなかには,これを「人道的」見地から非難して止まぬ人々が少なくなかった.オーストラリアOR学会などの若い層にはこのような人々が多く,北京大会そのものに対するボイコットの動きすらあったと聞く.(実際,北京の大会には,オーストラリアの公式代表は出席しなかった.)

しかし,われわれ日本OR学会国際委員が心配したのは,それよりも,当時の中国における政治的大混乱の最中,北京での開催がそもそも可能なのか,Hsu会長は理事会へやってこれるのかという点であった.それが分からなければあれこれ議論をしてみたところで仕方がない.国際委員会では急遽臨時の会議を開き,PDPCチャートを作成し対策を協議した.

ところが実際の会議のときになってみると,政情不安のため音信もとぎれがちであったHsu会長がひょっこり現れて,北京大会の会場,見学先など周到な計画が着々進められていることを報告された.我々の心配は杞憂に過ぎず,中国がAPORS開催にむしろ力を入れていることが分かった.

このころのもう一つの難しい問題は,APORS Official Journalの件であった.APORSは,すでに述べたように,シンガポール発行のORの論文誌APJORをAPORSの正式の機関誌としてきたが,これはまた,独自のジャーナルを持たないニュージーランドのOR学会のOfficial Journalとしても機能してきた.

そこで編集の中心になって精力的な努力を続けてこられたのが,シンガポールのChew Kim Lin氏とニュージーランドOR学会であった.しかしながら,購読者数の伸び悩み,人手や資金的な困難など,同教授のご心労は大変なものであったとお察しする.

丁度,そのころ,欧州のある大手出版社からの申し出があった.編集長はAPORS各国の人々を回り持ちとし,これにかなり多額の報酬を提供し発行販売を引き受けようというものである.

ニュージーランドOR学会はこれに反対した.雑誌が商業出版者の手にわたれば,販路拡大のためアメリカ流アカデミズムの悪しき影響を受けるのは必至である.発展するアジア太平洋地域のものであるこの雑誌の本質を失うことになるという理由である.日本OR学会もこの意見を強く支持した.

「多額の報酬」はいくつかの国の人々には魅力であったとも思われるが,日本側は,あるいは資本主義の本質を説き,あるいは過去の事例をあげ,結局のところこの雑誌がわれわれの手から離れていくことの危険に対する注意を喚起した.

さらに,購読者数の増加の積極的努力と,日本OR学会からとりあえず年間S1,500ドルの醵金をすることを約して,これまで通りChew教授のご尽力をお願いすることに成功した.こうして,APORS Official Journalの発行は今日も従来通り続行されているが,これが同教授の並々ならぬ努力の賜物であることを銘記しなければならない.

ギリシャ・アテネでの理事会
1990年ギリシャのアテネでIFORS大会が開催された.日本からは,もちろん,アジア太平洋地域からの参加者も少なくなかった.例によって,この折りにもAPORS理事会が開かれた.新顔として,フィリピンのEllis del Rosario女史が同国のOR学会の代表としてオブザーバーの資格で出席した.この会議を経てフィリピンのOR学会のAPORS加盟が決った.

理事会の中心的議題は,しかし,第3回APORSの大会の開催地の問題である.日本としては,それまでの2回が北半球で行われたのであるから,バランス上も南半球,すなわち,オーストラリアあるいはニュージーランドでの開催を希望した.しかし両国とも,まだ,そこまでの考えはまとまっていなかったようであった.

それに対し,出席の諸国には日本での開催を希望する向きが多かった.日本としては,日本での物価の高さからアジア諸国からの出席者が少なくなることを懸念しており,むしろ別の面から貢献したいという考えを基本にしていた.それにもかかわらず,各国の希望は日本に集まっており,どうしてもといわれれば逃げるつもりもないので,とりあえず帰国後の検討を約して会議を終わった.

代表が帰国してからも,日本OR学会内での議論が続いた.焦点はやはり,日本の物価高である.諸外国からの参加者に対し,できるだけのサービスをしたいのは山々であるが,日本社会のシステムからして,個人に対する援助金という形の支出はほとんど例外的である.日本の経済力という面から,このような期待をされても対応できない.日本OR学会は,所詮,私立の任意団体に過ぎない.

また,ビザの問題もある.外国人労働者問題は日に日に深刻化している.日本外務省が,この点に関して神経質になるのは当然だが,アジア諸国からの入国に際しては日本OR学会の会長が個人的に責任を負わなければビザがおりない.それやこれやの問題があるにせよ,結局いつかは引き受けなければならないという考えから,第3回APORS大会の日本での開催を引き受けざるを得ない可能性を踏まえて,1991年のAPORS理事会にのぞむということに学会内の意見はまとまった.

第2回APORS' 91北京
第2回のAPORS大会は「運籌帷幄 決勝千里 "OR:Making Decisions for Making Victory"」のテーマのもとに,北京の中苑寶館において8月27日〜30日の4日間にわたって開催された.

このときの理事会では,やはり次期の開催地を決めるのが中心的議題であったが,日本OR学会としては,第3回大会はオーストラリアでという意見で臨んだ.しかし,オーストラリアの代表はこの北京大会は欠席しその案はお話しにならず,結局,第3回の日本での開催に関しては,帰国後日本OR学会の理事会にはかることを約するところとなった.

また,もうひとつの決定事項は,第3回大会を日本でとなるとAPORSの第3期の会長は日本OR学会からということになるので,その場合にはSecretaryは韓国学会から出すということが決まった.後日,PARK Sung-Joo教授がSecretaryの任にあたることになったという連絡が入った.しかし,Park氏が1年間滞米するため若山氏はもう1年間ピンチヒッターとして事務局を引き受けた.若山氏のこれまでの献身的努力と,明るくわけへだてをしない社交的な人柄がAPORSの発展に大きな力となったことは言うをまたない.特記して称賛されるべきであろう.

第3回APORS' 94福岡
さて,日本OR学会の理事会の雰囲気も,どうせいつかはやらなければならないのなら,これ以上逃げ回らずに引き受けた方がよいということになった.ここに1994年7月九州福岡における第3回APORS大会の開催が決定された.

こうして,日本OR学会会長伊理正夫教授がAPORS会長に就任,そのもとに準備が始められた.かつてAPORSの発足のために奔走され,ご苦労された伊理教授の会長就任は各国のOR学会からも喜ばれた.

周知のように,第3回大会は,"Development in Diversity and Harmony"をテーマとして,福岡リーセントホテルで,7月26日〜29日の4日間にわたり開催された.総参加者数は336名で,海外からの参加者数は,90名であった.また,このときのAPORS理事会では,第4回APORS’97はオーストラリアで開催されることが決まった.後日,新会長にSantosh Kumar氏(ASOR)が推挙された.

第4回APORS' 97メルボルン
APORSは北半球と南半球にまたがり,人種的にも,政治体制的にも,宗教的にも,言語の上でも,地理的にもダイバージした地域グループといわなければならない.このような組織であるにもかかわらずORという共通のつながりからいい関係を保ってきた.第4回のAPORSが南半球で開催されたのには舞台裏の苦労話がある.伊理正夫氏が会長に就任して間もない頃である.これまで,オーストラリアとニュージーランドは他のアジア諸国とは少しばかり様子がちがい,APORSの活動に対してやや消極的な面が隠せなかったといえる.伊理氏は単身でオーストラリアとニュージーランドの要人に会い今後の積極的な協力要請の旅に出かけたのである. これによりAPORS'97はASORとORSNZの共催で開催する運びになったものである.テーマは"Coexisting between Human, Natural and Technological Resources"であった.

さて,北半球では国際会議の時期は夏休みの時期に行われるのが通常となっているが,その時期はメルボルンでは真冬になる.そこで11月30日〜12月4日という時期が選ばれた.真夏とはいえメルボルンは最南に近く,そのためさわやかな気候に恵まれる.事実,カンガルー島への遠足は夜間のことでもあり毛布が欲しくなるような寒さであった.

こうして,メルボルンでのAPORSは大成功裡のうちに終ったのであるが,次回の開催国はシンガポールということになり,APORS発足時からAPORSの運営に携わってきたChew Kim Lin氏が第5代APORS会長に選出された.また,5年間事務局を務めた韓国のPark Sung-Joo氏に代わり,日本OR学会の大山達雄氏がAPORS Secretaryに決定した.

第5回APORS' 2000シンガポール
第5回APORSは,2000年7月5〜7日の日程でシンガポール国立大学(National University of Singapore, NUS)にて開催された.今回の会場はホテルではなく大学で行われたため,参加者は宿泊先のホテル(Orchard Hotel, Traders' Hotel, Asia Hotelなど)からNUSの工学部へ通った.このときのAPORS PresidentはProf. Kim Lin CHEW(ORSS, NUS)で,学会チェアはProf. Lui Pao Chuen,プログラムチェアはProf. Phua Kang Hohがそれぞれ務めた.

また,茨木俊秀先生(京大)をはじめ,John R.Birge (University of Michigan), Horst W. Hamacher (Universitaet Kaiserlautern), M.J.D. Powell (University of Cambridge), H. Donald. Ratliff (Georgia Institute of Technology), Slavros A. Zenios (University of Cyprus), Rick Rosenthal (Naval Postgraduate School, USA)の各氏が招待講演を行った.

第6回APORS' 2003ニューデリー
第6回APORSは,2003年12月8〜10日の日程でインドのニューデリーで開催された.年末という時期の制約やSARSの影響などもあり,インド国外からの参加者は日本から10数名,米国,英国など数カ国からそれぞれ数名程度に留まったが,インド国内からの参加者が多く全体では約500名が参加し,Grand Intercontinental New Delhi内の3つの会場で開かれた60余のセッションではいずれも活発な意見交換が行われた.また,開会式典の荘厳さ,招待講演とセッションチェアへの感謝状と記念品の贈呈など,インドOR学会のホスピタリティー溢れる歓待ぶりが強く印象に残った.

学会開催中に行われたAPORS理事会では,次期会長として次回APORS2006の開催国フィリピンのVice Reventar氏を選出し,副会長はSung Joo Park氏(KAIST,韓国),事務局長は引き続き日本OR学会の大山達雄氏が担当することとなった.またインドOR学会のS.P.Mukherjee氏がIFORSへの代表となりIFORS Vice Presidentを担当することを決定した.

第7回APORS' 2006マニラ
APORSはこれまで7月か12月に行われてきたが,第7回APORSは2006年1月16日〜18日にマニラで開催された.テーマは"Operations Research: Optimizing Resources for Outstanding Results"であった.日本の大学関係者にとっては多忙な時期で,また前年7月にハワイで行われたIFORSに多くの日本OR学会メンバーが参加したこともあってか,残念ながら過去のAPORSに比べて日本からの参加者は大幅に減少した.

オープニングでは,経済学博士をもちかつては大学で教鞭をとっていたアロヨ大統領がスピーチを行い,学生時代にはORも学んだ思い出などが語られた.また今回初めての企画として,IFORS Young Scholars Programが実施された.これは,IFORSからの寄付(3000ドル)によりAPORS加盟学会の若手研究者の参加費を免除するというもので,今回は10名が選ばれ特別セッションで研究発表を行った.日本OR学会が創立40周年記念事業として実施したAPORS若手研究者招聘の流れを汲むプログラムで,若手研究者の育成や交流を促進する上で効果が期待される.

本稿は柳井 浩,高森 寛両氏が1994年にまとめた「APORS10年を振り返って」をもとに内容の追加訂正を行って編集したものである.

2000年以降はOR事典改訂の時期に、国際委員会により追加したものである。

APORS加盟学会

学 会 名

略 称

1 Australian Society for Operations Research*
オーストラリアOR学会
2 Operations Research Society of China*
中国運籌学会
3 Operations Research Society of Hong Kong*
香港OR学会
ORSHK
4 Operations Research Society of India*
インドOR学会
ORSI
5 Operations Research Society of Japan*
日本オペレーションズ・リサーチ学会
6 Korean Operations Research and Management Science Society*
韓国OR/MS学会
7 Management Science/Operations Research Society of Malaysia
マレーシアMS/OR学会
8 Operations Research Society of New Zealand*
ニュージーランドOR学会
9 Operations Research Society of Philippines
フィリピンOR学会
10 Operations Research Society of Singapore*
シンガポールOR学会

*) founding member societies

APORS関連組織
略 称 機 関 名 称

APORC

Asian-Pacific Operations Research Center (Beijing,China)

URL http://www.aporc.org/

APORS諸国の研究協力を目的として設立された研究組織で,北京の中国科学院応用数学研究所内に設置されている.その設立は,1994年に福岡で開催された第3回APORS会議の際に,当時の中国OR学会会長のHsu(徐)教授によって発表された.現在のセンター長は,中国OR学会の前会長のZhang(章)教授である.

研究センターの活動目的は,ORの理論および経済・科学・技術への応用研究を発展させることで,国際的なシンポジウムやワークショップの開催,研究者を招いての協同研究などを行っている.中でも,ISORA(International Symposium on Operations Research and Its Applications)は,IFORS,APORSの会議の間をぬって,次のようにほぼ定期的に開催している.

第1回 1995 北京
第2回 1996 桂林
第3回 1998 昆明
第4回 2002 長江(三峡)
第5回 2005 チベット(ラサ他)
第6回 2006 ウルムチ(新疆ウイグル自治区)

毎回の会議録(Proceedings)は、World Publishing CorporationからLecture Notes in Operations Research として刊行されている。日本からは毎回中国に次いで多くのメンバーが参加している。第7回は2008年に開催を予定しているということである。伏見正則(2007/2改訂)

APORS国際会議開催地
回数 年度 開 催 期 間

開 催 地

1 1988 8/24〜8/26 Soul,Korea
2 1991 8/27〜8/30 Beijing,China
3 1994 7/26〜7/29 福岡,日本
4 1997 11/30〜12/4 Melbourne,Australia
5 2000 7/5〜7/7 Singapore,Singapore
6 2003 12/8〜12/10 New Delhi, India
7 2006 1/16〜1/18 Manila,Philippines
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