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藤原娍子

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曖昧さ回避 藤原盛子」とは別人です。
藤原 娍子
第67代天皇后
皇后 長和元年4月27日(1012年 5月20日)
(皇后宮)

誕生 天禄3年(972年)
崩御 万寿2年3月25日(1025年 4月25日)
陵所 宇治陵
娍子
別称 宣耀殿女御
氏族 藤原氏(北家・小一条流)
父親 藤原済時
母親 源延光
配偶者 三条天皇
入内 正暦2年12月1日(992年 1月8日)
子女 敦明親王
敦儀親王
敦平親王
当子内親王
禔子内親王
師明親王
女御宣下 寛弘8年8月23日(1011年 9月23日)
立后前位階 従四位下
宮廷女房 式部宣旨(宣旨)
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藤原 娍子(ふじわら の せいし/すけこ)、天禄3年(972年) - 万寿2年3月25日(1025年 4月25日))は、平安時代中期の人物。第67代三条天皇 皇后。父は 右大臣 藤原済時、母は源延光の娘。

生涯

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当初花山天皇から入内を請われるが、父の済時が固辞[1] 、三条天皇の皇太子時代に東宮妃として入内、宣耀殿 女御と称した。美貌であったといい天皇の寵愛も篤く、敦明親王(小一条院)を始め、敦儀親王敦平親王・師明親王(性信入道親王)・当子内親王(伊勢斎宮)・禔子内親王(藤原教通室)ら四男二女をもうけた。

しかし、父済時の死後は後見も弱く、ことに左大臣藤原道長が娘の妍子後宮に送り込み中宮に立てたため、その権勢に押されがちであった。これに対して三条天皇は、大納言で没した父済時に右大臣を追贈し娍子を皇后に立てたが、立后当日も道長の妨害に遭い、儀式に参列した公卿は弟の通任以外には藤原実資藤原隆家藤原懐平のみの侘しさだった[注釈 1]

その後、三条天皇の譲位に伴い長男・敦明親王が後一条天皇の皇太子となるものの、上皇の没後に敦明親王自ら皇太子を辞去、また前斎宮であった長女・当子内親王が藤原道雅と密通するなど、皇后でありながら不遇な生涯を送った。

父の済時から伝授を受けたの名手であったという[6]

年譜

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関連作品

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テレビドラマ

脚注

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注釈

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  1. ^ 藤原実資は「天に二日なし、土に両主なし」と述べて病身をおして参内した[2] [3] 。懐平は三条天皇の皇太子時代の春宮大夫であると共に実資の実兄でもあり[4] 、隆家は長徳の変以来道長と対立する中関白家の人間であると同時に実資に対して尊敬の念を抱いていた[5] 。もっとも、その実資をしても道長に対する遠慮から予定の時刻よりも遅れて参内している[3]

出典

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  1. ^ 『栄花物語』巻第二,花山たづぬる中納言
  2. ^ 『小右記』長和元年4月27日条
  3. ^ a b 関口力『摂関時代文化史研究』思文閣出版〈思文閣史学叢書〉、2007年、pp. 97-101.
  4. ^ 関口力『摂関時代文化史研究』思文閣出版〈思文閣史学叢書〉、2007年、pp. 95.
  5. ^ 関口力『摂関時代文化史研究』思文閣出版〈思文閣史学叢書〉、2007年、pp. 23-27.
  6. ^ 『栄花物語』巻第四,みはてぬゆめ

参考文献

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  • 倉本一宏『三条天皇―心にもあらでうき世に長らへば―』ミネルヴァ書房、2010年

関連項目

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伝承の時代
|
古墳時代
飛鳥時代
奈良時代
平安時代
鎌倉時代
南北朝時代
南朝
北朝
  • 珣子内親王(1336-1337)
室町時代
  • (立后無し)
安土桃山時代
  • (立后無し)
江戸時代
現代
  • 赤背景は後に即位した女帝
  • 橙色准母立后による尊称皇后
  • 緑色は薨去後の贈皇后
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