コンテンツにスキップ
Wikipedia

汝州

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
印刷用ページはサポート対象外です。表示エラーが発生する可能性があります。ブラウザーのブックマークを更新し、印刷にはブラウザーの印刷機能を使用してください。
曖昧さ回避 この項目では、中国の歴史的地名の汝州について説明しています。河南省の県級市の汝州については「汝州市」をご覧ください。

汝州(じょしゅう)は、中国にかつて存在した隋代から民国初年にかけて、現在の河南省 汝州市一帯に設置された。

魏晋南北朝時代

東魏により設置された北荊州を前身とする。562年(保定2年)、北周により和州と改称された。

隋代

584年(開皇4年)、隋により和州伊川郡に伊州が設置された。605年(大業元年)、伊州は汝州と改称された。広州が廃止されると、その管轄県が移管されている。607年(大業3年)、郡制施行に伴い、汝州は襄城郡と改称され、下部に8県を管轄した[1] 。隋代の行政区分に関しては下表を参照。

隋代の行政区画変遷
区分 開皇元年 区分 大業3年
和州 許州 広州 襄城郡
伊川郡 陽翟郡 魯陽郡 南陽郡 武山郡 順陽郡 承休県 梁県
陽翟県 魯山県
犨城県 郟城県
汝南県 汝源県
汝原県
梁県
陽翟県
黄台県
魯山県
河山県
南陽県 雉陽県
滍陽県
汝南県

唐代

621年(武徳4年)、により襄城郡は汝州と改められた。742年(天宝元年)、汝州は臨汝郡と改称された。758年(乾元元年)、臨汝郡は汝州の称にもどされた。汝州は河南道に属し、梁・臨汝・郟城・魯山・襄城竜興の7県を管轄した[2]

宋代

北宋のとき、汝州は京西北路に属し、梁・魯山・襄城・葉・宝豊の5県を管轄した[3]

のとき、汝州は南京路に属し、梁・郟城・魯山・宝豊の4県と黄道・汝南の2鎮を管轄した[4]

元代

のとき、汝州は南陽府に属し、梁・魯山・の3県を管轄した[5]

明代以降

1476年(成化12年)、により汝州は直隷州に昇格した。汝州直隷州は河南省に属し、魯山・郟・宝豊・伊陽の4県を管轄した[6]

のとき、汝州直隷州は河南省に属し、魯山・郟・宝豊・伊陽の4県を管轄した[7]

1912年中華民国により汝州直隷州は廃止され、臨汝県と改められた。

脚注

  1. ^ 隋書』地理志中
  2. ^ 旧唐書』地理志一
  3. ^ 宋史』地理志一
  4. ^ 金史』地理志中
  5. ^ 元史』地理志二
  6. ^ 明史』地理志三
  7. ^ 清史稿』地理志九
 
606年(大業2年)以前(州制)
雍州地区
梁州地区
豫州地区
兗州地区
冀州地区
青州地区
徐州地区
揚州地区
荊州地区
 
607年(大業3年)以後(郡制)
雍州地区
梁州地区
豫州地区
兗州地区
冀州地区
青州地区
徐州地区
揚州地区
荊州地区
京畿
関内道
都畿道
河南道
河東道
河北道
山南西道
山南東道
淮南道
江南東道
江南西道
隴右道
河西道
剣南道
黔中道
嶺南道
 
北宋
京畿路
京東東路
京東西路
京西南路
京西北路
河北東路
河北西路
河東路
永興軍路
秦鳳路
両浙路
淮南東路
淮南西路
江南東路
江南西路
荊湖北路
荊湖南路
福建路
成都府路
梓州路
利州路
夔州路
広南東路
広南西路
 
南宋
両浙西路
両浙東路
江南東路
江南西路
淮南東路
淮南西路
荊湖南路
荊湖北路
京西南路
福建路
成都府路
潼川府路
夔州路
利州路
広南東路
広南西路
金朝の行政区分
上京路
軍司
  • 烏古敵烈統軍司
中都路
東京路
北京路
西京路
部族節度使
  • 烏昆神魯
  • 烏古里
  • 石塁
  • 助魯
  • 孛特本
  • 計魯
  • 部羅火札石合
  • 土魯渾札石合
詳穏
  • 咩乣
  • 木典乣
  • 骨典乣
  • 唐古乣
  • 耶剌都乣
  • 移典乣
  • 蘇木典乣
  • 胡都乣
  • 霞馬乣
南京路
河北東路
河北西路
山東東路
山東西路
大名府路
河東北路
河東南路
京兆府路
咸平路
鳳翔路
鄜延路
慶原路
臨洮路

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /