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九江郡

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九江郡(きゅうこう-ぐん)は、中国にかつて存在した秦代に現在の安徽省中部に設置されたが、三国時代に廃止され、隋代に現在の江西省北部に再設置された。

概要

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秦のとき九江郡が立てられた。

紀元前203年(高帝4年)、英布が淮南王に封じられ、九江郡・衡山郡廬江郡豫章郡を管轄する淮南国が置かれた。紀元前122年(元狩元年)、淮南王劉安が自殺すると、再び九江郡が置かれた。前漢の九江郡は揚州に属し、寿春逡遒成徳橐皋陰陵歴陽当塗鍾離合肥東城博郷曲陽建陽全椒阜陵の15県を管轄した。王莽のとき、延平郡と改称された[1]

後漢が建てられると、九江郡の称にもどされた。九江郡は陰陵・寿春・逡遒・成徳・西曲陽・合肥・歴陽・当塗・全椒・鍾離・阜陵・下蔡・平阿・義成の14県を管轄した[2]

221年(黄初2年)、曹邕が淮南公に封じられ、九江郡を管轄する淮南国が置かれた。223年(黄初4年)、曹邕が陳王に改封されると、九江郡にもどされた。232年(太和6年)、曹彪が楚王に封じられ、九江郡を管轄する楚国が置かれた。251年(嘉平3年)、曹彪が自殺すると、楚国は廃止され、淮南郡と改められた[3]

607年(大業3年)に隋により州が廃止されて郡が置かれると、江州が九江郡と改称された。隋の九江郡は湓城彭沢の2県を管轄した[4]

621年(武徳4年)、林士弘を平定すると、九江郡は江州と改められ、九江郡の呼称は姿を消した[5]

脚注

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  1. ^ 漢書』地理志上
  2. ^ 後漢書』郡国志四
  3. ^ 三国志』武文世王公伝
  4. ^ 隋書』地理志下
  5. ^ 旧唐書』地理志三
 
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