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遼州

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 この項目では、現在の山西省晋中市一帯に設置された遼州について説明しています。現在の遼寧省新民市一帯に設置された遼州については「遼州 (新民市)」をご覧ください。

遼州(りょうしゅう)は、中国にかつて存在した隋代から民国初年にかけて、現在の山西省 晋中市一帯に設置された。

概要

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596年(開皇16年)、により遼州が設置された。605年(大業元年)に廃止され、その管轄区域は并州に移管された[1]

620年(武徳3年)、により并州の楽平和順平城石艾の4県を分割して遼州が設置された。州治は楽平県に置かれた。623年(武徳6年)、遼山県に州治が移された。625年(武徳8年)、遼州は箕州と改称された。712年(先天元年)、儀州と改称された。742年(天宝元年)、儀州は楽平郡と改称された。758年(乾元元年)、楽平郡は再び儀州と改称された。883年(中和3年)、儀州は再び遼州と改称された。遼州は河東道に属し、遼山楡社・和順・平城の4県を管轄した[2]

1074年(熙寧7年)、北宋により遼州は廃止され、和順・平城の2県は鎮に降格し、遼山県は平定軍に編入された。1085年(元豊8年)、再び遼州が置かれた。1086年(元祐元年)、鎮に降格していたところは再び県に昇格した。遼州は河東路に属し、遼山・楡社・和順・平城の4県を管轄した[3]

のとき、遼州は河東南路に属し、遼山・楡社・和順・儀城の4県と平城鎮と黄沢関を管轄した[4]

のとき、遼州は晋寧路に属し、遼山・楡社・和順の3県を管轄した[5]

1369年(洪武2年)、により遼州は山西等処行中書省に属した。1376年(洪武9年)、遼州は山西承宣布政使司に属した。遼州は楡社・和順の2県を管轄した[6]

のとき、遼州は山西省に属し、和順・楡社の2県を管轄した[7]

1912年中華民国により遼州は廃止され、遼県と改められた。

脚注

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  1. ^ 隋書』地理志中
  2. ^ 旧唐書』地理志二
  3. ^ 宋史』地理志二
  4. ^ 金史』地理志下
  5. ^ 元史』地理志一
  6. ^ 明史』地理志二
  7. ^ 清史稿』地理志七
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