一年を振るかえる時期になっている。だが、順を追っての記憶が怪しくなってきている。走馬灯のように回転しないどころか、回転しない。設置した回想シーンの映像が映れば、何とか思い出せるが、映写機が回らない。
▼「忘却とは忘れ去ることなり。忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ」。の、むかしラジオから聞こえてきた連続ドラマ「君の名は」の、最初のフレーズが脳裏を走った。60数年前の、小学生の頃だった。この時間帯、銭湯の女風呂はガラガラになっていたことも思いだした。
▼同名の、アニメショーン映画「君の名は」が、今年大人気になっているという。激動の戦後時代と異次元の世界設定という内容の違いがあるが、底に流れているテーマーは、いつの世にもある必然的な男女間の出会いのストリーだという。
▼「忘却」とは、個人の長期知識に蓄えられた知識を失うこと。または、「すっかり忘れること」と、辞書にあった。しかし、忘れてはいけないことは、記念日として後世に残す行事として、受け継がれてきた人間の知恵でもある。きょうの「天皇誕生日」。「9・11」のアメリカ同時テロ事件。「3・11」は東日本大震災などである。
▼そして、「冬至」が来ると「糸魚川の大火」も記憶に残る事件として、糸魚川の歴史に書き加えられるだろう。大聖寺には、「9・9・9」という「昭和9年9月9日」の大火を忘れない記念日がいまだに残っている。
▼「エビングハウスの忘却曲線」から、記憶力アップ術」があるという。「暗記しても、復習しなければ70%忘れてしまう」。そして、「復習しなければ1ヶ月後に80%忘れる」という。特別に意識しなければ、「人間は忘れる動物である」。「人間は忘れることで生きていける生き物」というDNAもあるから、200万年前からも地球上で生きてこられた。・・・1年後の12月23日に、きょうのことは多分忘れているだろう。
昨日は朝から晩まで、風のない青空の一日だった。12月下旬の「小春日」だった。人通りの少ない平日の大聖寺駅前通りに、荷台に耐火コンクリート製の「ピザ焼釜」を載せた軽自動車が、1年で昼間が一番少ない「冬至の日」、路上駐車で炭火でピザを焼いていた。
▼「活性化サロン」前の路上で、ピザを焼く体験は初めてだという「出張ピザ屋」の青年は、石焼ピザの本場でもあるイタリアで修行した本格派である。行商タイプでなく、イベント会場などでピザを焼く数量が前もって確保できれば、どこへでも出張するという。
▼予約のない日々の仕事は、東谷重伝建地区の今立町で、古民家に移住して薬草になる「セリ」栽培をしながら、家族と生計を立てているという既婚者である。営業活動は、フェースブックで、営業場所を知らせるから、近くの「お友達」が予約して買いに来る。
▼「石焼きーいも」と、流しの行商する声が聞こえる。そんな声に、タイミング悪く外に出ても、10メートル先を走る車を見送った事もあった。そんな古くからの流し商売が、今でも時折、大聖寺の町中の夕暮れ時に、まだ残っている。
▼「冬至には、カボチャを食べる」から、20人近くのイベント開催の昼食に、「石焼ピザ」を企画した「若手起業家支援センター」は、行政の「定住化促進」に先立って、動き出したNPO団体「歴町センター大聖寺」の「活性化サロン」がスタートして早や6ケ月。
▼集まったメンバーの出身地は、行政の定住者委託会社員は福島県。コンセルジュの女性は東京都。大聖寺でストレッチ教室を開業した青年は、新潟県。瞑想教室を軌道に乗せるために、来聖している小松市出身者。カイロの整体師は、宮崎県。「ふるさと検定」で上位に合格したホテルの社員は、愛知県。他にも欠席した、福井県の接骨整体師や花屋がいる。
▼「ぐるっと巡る歴史勉強会」を4回実施した。歴史講座を現地で学ぶことで、よく理解できた体験だったと参加者全員が、異口同音に評価したスピーチが印象的だった。そして、もっと学びたいと言う。
「暑さ寒さも彼岸まで」という先人たちの言葉があるが、今日は、冬至。一年で一番昼の長さが最も短い日で、「かぼちゃ」を食べる日でもある。「冬至粥(とうじがゆ)」は冬至に食べる小豆粥で、疫鬼を払うという伝えもある。だが、「冬至十日前」から、昼の時間が長くなるとも言われている。今年も意識していると先人の言葉の通り、少しずつ昼間が長くなっている。
▼「白夜」の続く北欧では、冬至を迎える日は、待っていたこれから「春」が始まる日として、古来より盛大に祝う「農耕祭」を行ってきた。諸説はあるが、「冬至祭」に合流して、4世紀頃に始まったイエス・キリストの降誕祭が主流になってきた。「クリスマスツリー」が、イルミネーションの飾りで祝う風習は19世紀にアメリカで始まったという。
▼6月にスタートした「若手起業家支援センター」の、通称「活性化サロン」では、冬至の「かぼちゃ」でなく、「ピザ・パイ」を食べることになった。クリスマスツリーやイルミネーションの飾りのある狭い空間に、県内はもとより、日本各地からの出身者が集まる。
▼看板は、民間が進める「Let’s start-together」の名称である。行政の担当者。まちづくり推進員。歴史を伝えるボランティア。若手起業家集団など。そして、この会合に県内で演奏するトリオの音楽メンバーが、花を添える。それに、噂を聞いた県内の「まちづくり」リーダーが、ぜひ、便乗したいという、「呉越同舟」の出航祭でもある。
▼出前でない「出張ピザ」を売りに、「東谷重伝建地区」でスタートした若者も、起業家を目指している。春に企画した、「匠のかくれ里・加賀市」のDVDの完成を兼ねた小さな集まの「お披露目式」。だが、定員オーバーの船出となりそうだ。これには、船頭役の瀬戸達も、うれしい悲鳴を上げているが、沈まない「活性化サロン」だからよかった。
▼「冬至」から、春になる。この先、雪が振る日もあるだろうが、春には必要な農耕用の水源のためでもある。しっかり降ってほしい。
「初雪や被り毛布を下に敷く 五徳庵」。先日、「日本人の3割りしか知らない常識」というテレビ番組から知ったことを試みた。敷き毛布の方が、上掛けより温い効果のあること知った。長いあいだ、そんな常識を知らない雪国育ちだった。
▼1週間ほど前の新聞記事のコラムに、「カニは1杯2杯と数える。そう教えられ店頭表示もそうだった。しかし、もう過去形で言わないといけない時代である。市場のカニは「杯」よりも「匹」や「個」「尾」の値札が目立つ。「杯」と書くと、何それと観光客に聞かれるという。カニやイカが「杯」で呼ばれたのはカゴ(杯)で取引したなごりらしいが、店先で説明するにはややこしくて時間もない」。
▼昭和34年(1959)に、日本特有の尺貫法がメートル法に改定されが、尺貫法が身についている世代には、ややこしくて仕方がない。日常会話には、「寸・尺・坪」の表現は、当然のごとく口から出ている。楽しみの晩酌の量を伝える時には、0.18リットル(一合)とは言ったことがない。
▼だが、自動車には給油が欠かせない。この時期、暖房用の灯油ストーブが必需である。だから、ポリタンクを下げて給油所へ出向く場合、「升・斗・石」では通用しないから、「20リットル」入れてと言う。
▼一石という体積を表す単位がある。当時、人間一人が1年間で食べる玄米の量だという。身近な大聖寺藩の石高は「十万石」である。つまり石高は戦国大名の財力だけでなく兵力の意味もあった。石高1万石あたり約2百人の軍勢を動員する義務があったという。だから、大聖寺藩には500人の兵力があった計算になる。
▼当時の常識には、成人男性は1日玄米5合。年間、玄米約1.8石が標準的な扶持米として支給されていた。戦国時代と違い平和な昨今の小さくなった我が胃袋は、一日玄米1合あれば生きてゆけることが、常識になっている。
「旅に病で夢は枯野をかけめぐる 芭蕉」。滋賀県大津市膳所にある義仲寺の境内にある句碑を思い出した。ちょうど、1週間前に「北ヶ市市太郎」の講演を終えた講師・篠原さんが傍にいて、ロシア帝国皇太子の「ニコライ(後のニコライ2世)」が、義仲寺付近で警備役の警察官に切りつけられた「大津事件」の、現場に建つ石碑があるという。1分足らずの会話からだった。
▼僅か172文字の歴史雑談には、多くのことが隠されている。登場人物は、源義仲、松尾芭蕉、ニコライ2世、北ヶ市市太郎、篠原の5名である。そして、雑談に登場した人物4名の生きた時代背景は違うが、「加賀市」には関わりがあることに気が付いた。
▼源平合戦の折、「篠原の合戦」で、平家の大将斉藤実盛を討ったのは、源氏の義仲軍だった。江戸時代前期の俳人「松尾芭蕉」は、元禄2年7月27日から8月にかけて、山中温泉に8日9泊。大聖寺の全昌寺で一泊し、多くの句を残している。
▼「大津事件」の現場の大津市は、幕末の大聖寺藩士の子だった「石川嶂(あきら)」が、富国強兵論を学び、明治2年に日本で初めて琵琶湖の大津に拠点を置き、蒸気船を出航させている。
▼「北ヶ市市太郎」は加賀市加茂町で安政6年に生まれた。明治24年、ロシア帝国の皇太子「ニコライ2世」の日本訪問の際、一行の人力車夫として従事して、警備役の警察官が皇太子に切りつける事件に遭遇したが、警備役のサーベルを奪い、皇太子を助けた。
▼この功績で、ロシア国から褒美として2500円と終身年金1000円などが支給された。その後、郷里江沼郡に帰った後、郡会議員などを歴任したが、第1次大戦の勃発した年に55歳で没した。賀茂神社には、功績を称えた木製の碑があるというが、石碑でないのが不思議だという会話だった。
▼講師の篠原さんは、教員生活を終え。市の教育委員などを歴任しながら「大聖寺観光案内所長」。歴史を伝えるボランティア活動をしている。