日露戦争で「児玉源太郎の懐刀」だった老人が、戦後「庶民宰相」となる男に与えた贈り物

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小説・昭和の女帝#7Illustration by MIHO YASURAOKA

【前回までのあらすじ】アメリカとの戦争が始まった。世間が日本軍の連戦連勝に沸いているのと対照的に、「政界の黒幕」の老人宅は静かだった。ある日、右翼青年の鬼頭紘太が屋敷を訪れ、ミッドウェー海戦での大敗を報告する。老人と青年は、敗戦を見据え、日本再建のための資金づくりに動き出す。(『小説・昭和の女帝』#7)

陸軍を除隊した加山に与えられた敗者復活のチャンス

商店街で、「月月火水木金金」を暗澹たる気持ちで聞いている若い男がいた。軍人として大陸へ渡ったものの、病を理由に除隊した加山鋭達だった。顔色が悪く、ひげが伸び放題になっている。

神楽坂の坂道を上ると息が切れた。闘病中に体重は減ったが、それでも体が重く感じられた。

病に侵されたのは、入営して二度目の冬を迎えたころだった。陸軍の騎兵第24連隊で、兵隊に食料や酒といった身の回り物を売る店を任されていた。戦いの最前線に立つ任務ではなかったが、加山は仕事に誇りを持っていた。兵隊が喜ぶ品をそろえ、欠品も出さなかったので、隊内では喜ばれていた。

しかし、新潟の雪国育ちの彼にも大陸の冬は応えた。咳が出始め、微熱が続いた。仕事に支障が出るようになると、後方の病院に送られた。医者の反応から、病が深刻なことを悟った。大連から船で内地に送還され、大阪の日赤病院に入院。1カ月ほどの療養で良くなったように見えたが、仙台陸軍病院に送られると再び悪化し、死の淵をさまよった。気が付くと、尻に綿が入っていたこともあった。

除隊になったのは1941年10月だった。解放感と戦地に仲間を残してきたことの自責の念で抜け殻になったようだった。

世間的には、陸軍は憧れの的だった。だが、加山との相性は最悪だった。騎兵上等兵にすぎなかった彼にとって、陸軍の階級主義、学歴志向は唾棄すべきものだった。実際に、権威を笠に着てふんぞり返っているが、統率力に欠ける士官は少なくなかった。

加山は大陸に渡ってすぐ、班長の軍曹から横っ面を張り飛ばされた。これ以上はないというほど本気の平手打ちだった。兵舎にたどり着いた晩の私物検査で、アメリカの女優の写真を見つけられたからだった。その後も上官に敬礼をしなかっただけで殴られたり、くわえたばこをしているだけでビンタされたりと散々だった。「とんでもない組織に入ってしまった」というのが偽らざる感想だった。

とはいえ、階級を問わず、まじめで人間味のあるやつはいた。そうした面々が、戦争が泥沼化する中で危険を顧みず戦い、命を落とすことは不条理以外の何物でもないと思った。

片や、東京に戻り、安穏と味噌汁をすすっている自分には嫌悪感を覚えるばかりだった。どう考えても勝ち目のないアメリカとの戦争に突き進もうとしている指導者たちに怒りを感じていたが、地位はもちろん、仕事さえもない彼には何もできはしないのだった。

しかし、そうした虚脱状態も半月ほどで去った。

内地に戻ったという噂を聞きつけて、友人らが飯田橋の自宅に見舞いに来てくれた。彼らと話していると、入隊前は、「俺みたいな人間は事業でもやらせていたほうが、ずっと国のためになる」と思っていたことを思い出した。

元々陸軍は自分の居場所ではなかった。

二・二六事件のころ、18歳だった加山は、軍隊での栄達について考えたことがあった。その結論は、「海軍兵学校に入ると修学期間は3年半、卒業して少尉に任官すれば月給85円。将来、巡洋艦の艦長ぐらいになれたとしても、苦労して自分を育ててくれた母に報いることはできない」というものだった。もっと早く母に親孝行したいと思い、職業軍人の夢と訣別した。彼にとって軍人としての人生は、海軍兵学校の道を捨てたときに終わっていたともいえる。

かつての取引先も事業の再開を応援すると言ってくれて、資金のめども付いた。「さあ、仕事だ」と思うと不思議なことに食欲も戻って体力も回復してくる。抜け殻になっていた加山に精気がよみがえってきた。

そうこうしているうちに対米戦争が始まり、自分も何かしなければと焦った。だが、入隊前に休眠させた建築会社をそのまま再開する気はなかった。社員は戦争に取られていたし、世間では、砂糖、マッチなどから始まった配給制がほぼすべての生活物資に及んでおり、とても、ビルや家を新築しようという雰囲気ではなかった。

そこで、工場の改築や製造設備の据え付けの仕事を始めた。戦争に対応するための設備投資の需要があったから、それなりに忙しくなった。

新しく始めた仕事には、営内で設計などを学んでいたことが役に立った。軍から教育してもらったのではない。早稲田大学の建築に関する講義録をこっそり持ち込み、夜中に勉強していたのだ。戦争が終わったら、階級や学歴主義とは違う尺度で生き直してやろうと思っていた。そのためには独学が必要だった。

仕事は軌道に乗ったように見えたが、多忙な割にもうからなかった。細かい案件が多い上に、下請けを安く買いたたくことを容認するような風潮があった。とりわけ、戦争に行かず、内地で事業をやっている彼のような実業家は白い目で見られがちだった。

それでも、彼を買ってくれる経営者はいて、次の扉が開いた。鉄道省関連の仕事をしている年配の知人が、真木甚八という人物を紹介してくれたのだ。日露戦争で活躍した児玉源太郎の懐刀だった男で、いまも軍部や財閥に睨みを利かせているという。戦時下で稼ぐには、軍の大きな仕事にありつく以外にない。加山は市ヶ谷の真木邸を訪ねることにした。

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