田原総一朗と谷良一(『M-1はじめました。』著者)が対談!「泣かせたり怒らせたりすること」よりも難しいのは「人を笑わせること」

田原総一朗(ジャーナリスト)×ばつ谷良一(元・吉本興業ホールディングス取締役)

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OGPM-1誕生のきっかけとなった島田紳助氏の一言とは? Photo by Teppei Hori

今や誰もが知る、年に一度の漫才コンテスト「M-1(エムワン)グランプリ」。今年も12月22日(日)に決勝戦・敗者復活戦が行われ、「M-1グランプリ2024」としてテレビ放映される(ABCテレビ・テレビ朝日系)。今回、ジャーナリストの田原総一朗氏が、M-1立ち上げの最重要人物である元・吉本興業ホールディングス取締役の谷良一氏と対談。その立ち上げのストーリーや苦労、今後の漫才について、そしてテレビやメディアへの思いについて語った。(文/長島佳之、編集/ダイヤモンド社 編集委員 長谷川幸光、撮影/堀哲平)

漫才ブームが到来したが
「ブーム」はあっという間に過ぎ去る

田原総一朗(以下、田原) 僕と谷さんは、出身校が一緒なんですよね。

谷良一(以下、谷) 滋賀県の彦根東高校ですね。今年(2024年)の7月に東京で同窓会があり、私の著書『M-1はじめました。』について講演会をしてほしいと依頼がありました。その同窓会に田原さんもご参加されていた。同じ高校出身というのはもちろん存じ上げていましたが、ようやくお会いできました。

田原氏田原総一朗(たはら・そういちろう)
1934年、滋賀県生まれ。ジャーナリスト。早稲田大学卒業後、岩波映画製作所や東京12チャンネル(現・テレビ東京)を経て、1977年からフリー。テレビ朝日系「朝まで生テレビ!」などでテレビジャーナリズムの新しい地平を拓く。1998年、戦後の放送ジャーナリスト1人を選ぶ「ギャラクシー35周年記念賞(城戸又一賞)」受賞。「朝まで生テレビ!」「激論!クロスファイア」の司会をはじめ、テレビ・ラジオの出演多数。近著に『さらば総理』(朝日新聞出版)、『人生は天国か、それとも地獄か』(佐藤優氏との共著、白秋社)、『全身ジャーナリスト』(集英社)など。2023年1月、YouTube「田原総一朗チャンネル」を開設。

田原 谷さんは京都大学を卒業されています。僕たちの高校の大秀才が行くところですよ。そこからなぜ吉本興業に入社したのですか?

当時、漫才ブームの始まりの時でしたし、私自身、もともと漫才が好きだったというのもあります。

就職活動ではテレビ局なども受けていたのですが、生意気にも「スーツを着て、ネクタイを締めて、満員電車に揺られて仕事に行くのは嫌だな......」と思い、吉本興業だったらそのようなことはなく、楽しく仕事ができるのではないかと思ったんです。

田原 その後、漫才ブームが本格的に到来するわけですね。

はい。1980年から1982年がすごいブームでした。

ただ、あまりにもブームに乗って漫才師が露出しすぎたせいで、2〜3年でブームは去ってしまいました。どの番組も芸人ばかりで、そこら中で漫才をしている。それだけでなく、レコードや本まで出している。漫才師がテレビからあふれていたのです。

そうすると、飽きられるのも早いですよね。それからずっと、漫才の人気は下火が続きました。

田原 漫才が下火になったことがきっかけで、『M-1グランプリ』のプロジェクトが動き出したということですか?

そうなんです。2001年、私が44歳の時です。多くの芸人さんのマネージャーを経験した後、「制作営業総務室」という部署で当時、責任者をしていました。その時に「ミスター吉本」と呼ばれていた木村(政雄)常務に呼び出され、「漫才プロジェクト」をつくって漫才を復活させろ、と言われました。

吉本は、漫才、劇場、テレビ、営業といった部門に分かれていて、それぞれが縦割りで仕事をしていました。「それらを横断して、皆で『漫才』をもう一度盛り上げるんだ」と。

木村常務に「部下は誰がいますか?」と尋ねると「お前ひとりや」と。びっくりして「ひとりのプロジェクトなんてあるんですか?」と聞いたら「あるんや」って(笑)。

その後もずっと「誰でもいいから部下をつけてください」と言い続け、ようやくできた部下の橋本卓くんと「漫才大計画」という取り組みを行いました。

田原 どういうことを行ったのですか?

谷さんプロフィール谷 良一(たに・りょういち)
元・吉本興業ホールディングス取締役。1956年滋賀県生まれ。京都大学文学部卒業後、1981年に吉本興業入社。横山やすし・西川きよし、笑福亭仁鶴、間寛平などのマネージャー、「なんばグランド花月」などの劇場プロデューサー/支配人、テレビ番組プロデューサーを経て、2001年に漫才コンテスト「M-1グランプリ」を創設。2010年まで同イベントのプロデューサーを務める。よしもとファンダンゴ社長、よしもとクリエイティブ・エージェンシー専務、よしもとデベロップメンツ社長を経て、2016年、吉本興業ホールディングス取締役。2020年退任。大阪文学学校で小説修業、あやめ池美術研究所で絵の修業を始めるかたわら、奈良市の公益社団法人ソーシャル・サイエンス・ラボで、奈良の観光客誘致に携わる。著書に『M-1はじめました。』(東洋経済新報社)。

吉本興業の中でさえ漫才にそれほど注目をしていないという現実がありました。

そこで私が最初に行ったことは、劇場へ足を運ぶことです。吉本の漫才師がどのような漫才をしているのか、あらためてリサーチしに行ったんですね。

すると、皆、これまでのネタをルーティンワークでやっていて、漫才師なのに漫才に熱を入れているようには見えませんでした。一方で、若手を中心とした劇場へ行くと、新鮮な漫才を一生懸命やっている漫才師が何組かいました。

橋本くんがチームに加わったタイミングで、「芸人と話そう」と、面談していくことにしました。芸人たちに「漫才をどういうふうに考えていますか?」と聞いてみると、ベテランの芸人から中堅、若手にいたる皆が、口をそろえてこう言いました。「漫才だけで食っていけるならそれが一番。漫才が好きやから、漫才師になったんや」と。

やはり彼らは皆、漫才が好きだったんです。

「今の芸人はもう漫才に愛着はないのではないか」「漫才をやりたいというよりも、テレビで自分たちの番組を持つことが夢なんだろうな」と思っていたので、皆が「実は漫才をやりたい」と言ってくれたのは、とてもうれしい気持ちでした。

田原 そこからM-1まで、どのように進めていったのですか?

「漫才大計画」の次の段階として、漫才を盛り上げるためのさまざまなプロモーション施策を行いました。実際、少しずつ盛り上がりはしていたのですが、反応が思ったよりも大きくなく、このまま続けたとしても、以前の漫才ブームのような大きなうねりは起こりそうもないな......ということが、何となくわかってきました。そうした現実を目の当たりにしたことで、急に落ち込んでしまったんです。

そこで、以前、マネージャーを担当させていただいていた、間寛平(はざま・かんぺい)さんに、元気をもらおうと会いに行き、いろいろと相談に乗ってもらったんです。すると、たまたま隣の楽屋に島田紳助(しまだ・しんすけ)さんがいらっしゃいました。

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